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出口

触手が襲ってくる


私は横に跳んだ


触手が石畳を抉る


砕けた破片が飛び散る


一撃で殺される


そう確信した


今までの門番とは格が違う


速い


強い


そして何より


知性がある


『無駄よ。十二人があなたと同じように抵抗した。全員死んだ』


女が手を振る


触手が四方から迫る


上下左右


逃げ場がない


私は鉈を振る


一本切る


二本切る


でも追いつかない


三本目が腹を掠める


肉が裂ける


血が噴き出す


痛い


でも致命傷じゃない


まだ動ける


『いい動きね。でも無駄よ。私の触手は無限に再生する。あなたの体力は有限。時間の問題』


女の言う通りだ


切っても切っても触手が生えてくる


切断面から新しい触手が伸びる


終わりがない


このままでは負ける


死ぬ


門には届かない


私は懐に手を入れる


狩人にもらった瓶


赤い液体


燃料


最後の手段


飲みすぎると記憶が溶ける


自分が何者か分からなくなる


でも今しかない


私は栓を抜いて一気に飲んだ


喉を焼く熱さ


胃が沸騰する感覚


そして


視界が変わった


世界が変わった


見える


全部見える


触手の動きが遅く見える


女の呼吸が見える


心臓の鼓動が見える


その奥に


核がある


女の胸の奥


青く光る核


あれを壊せば終わる


私は駆けた


触手が迫る


避ける


潜る


跳ぶ


全ての動きが手に取るように分かる


鉈を振る


触手を切る


道を開く


女の目が見開かれる


『速い。なぜ。何を飲んだの』


答えない


答える必要がない


私は女の懐に飛び込んだ


鉈を突き出す


女の胸に向かって


女が腕を交差させて防ぐ


鉈が腕に食い込む


でも止まる


核まで届かない


『惜しかったわね』


女の顔が歪む


笑っている


触手が私の背中に絡みつく


締め上げる


骨が軋む


息ができない


『ここで終わりよ。十三人目』


終わりか


ここで


門の前で


あと少しだったのに


視界が暗くなる


意識が遠のく


その時


映像が流れ込んできた


燃料の副作用か


記憶が溢れ出す


会議室


怒鳴り声


上司の顔


俯く自分


病室


ベッドに横たわる母


見舞いに来た私


でも目を合わせない


何を話していいか分からない


母が手を伸ばす


私の手を握ろうとする


私は立ち上がる


用事があると言って


病室を出る


母の目を見なかった


最後まで


葬式


母の葬式


私は最後列に立っていた


棺を見なかった


母の顔を見なかった


目を逸らしていた


怖かったから


後悔するのが


自分を責めるのが


だから逃げた


屋上に立って


目を閉じて


全部から逃げた


でも


母は何を思っていたのか


あの病室で


手を伸ばした時


何を言いたかったのか


私は知らない


聞かなかったから


見なかったから


今なら分かる


母は許していたのだ


私を


不器用な息子を


仕事ばかりで見舞いにも来ない息子を


それでも


最後に手を伸ばした


私の手を握りたかった


それだけだったのに


私は逃げた


目を逸らした


母の最後の願いすら見なかった


涙が溢れた


止まらない


身体が震えている


苦しいからじゃない


後悔で


悲しみで


『何。泣いているの。今さら』


女の声が遠くに聞こえる


今さらだ


今さら泣いても母は戻らない


でも


私は見た


やっと見た


目を逸らしていたものを


私が本当に逃げていたものを


母の死じゃない


母の愛だ


受け取るのが怖かった


応えられない自分が怖かった


だから逃げた


でも今は違う


私は目を開ける


涙で滲む視界


でもはっきり見える


女の顔が見える


青い目が見える


その奥に


悲しみが見える


孤独が見える


この女も逃げてきたのだ


何かから


誰かから


そしてここで門番になった


永遠に一人で


永遠に逃げ続けて


私は女の目を見つめる


『お前も見ろ』


女の動きが止まる


『何を』


『お前が逃げてきたものを。お前が見なかったものを。私は見た。やっと見た。だからお前も見ろ』


触手の力が緩む


女の目が揺れている


『私は。私は見たくない。見たら壊れる。だからここにいる。だから門番になった。見なくていいように』


『逃げるな』


私は女の手を掴んだ


触手じゃない


女の手


人間の手


冷たい


震えている


『私も怖かった。見るのが怖かった。でも見た。見たら分かった。逃げても終わらない。見ないと終わらない。お前もそうだろう。だからここにいるんだろう。終わらないから。終われないから』


女の目から涙が溢れる


青い涙だ


『私は。私は娘を死なせた。目を離した隙に。車に轢かれた。私のせいで。私が見ていなかったから。あの子は死んだ。私は見ていなかった。目を逸らしていた。スマホを見ていた。あの子を見ていなかった』


女の身体から力が抜けていく


触手が萎れていく


『見たくない。あの子の顔を見たくない。最後の顔を。私を呼んでいた。ママって。私を見ていた。でも私は見なかった。見れなかった。怖くて』


私は女の手を握り締める


『見ろ。今。お前の娘を。お前を呼んでいた娘を。見てやれ。それがお前にできる最後のことだ』


女が目を閉じる


いや


違う


目を開けている


見ている


何かを


娘の顔を


最後の瞬間を


女の口が動く


声にならない声で


ごめんね


ごめんね


ごめんね


そして


女の身体が崩れ落ちた


私も崩れ落ちる


二人で石畳の上に倒れる


女の身体が光っている


青い光


消えていく


『ありがとう』


女の声だ


穏やかな声


さっきまでの冷たさがない


『やっと見れた。やっと終われる』


『お前の娘は』


『許してくれた。分かったの。あの子は恨んでなんかいなかった。ただ私に会いたかっただけ。私を見てほしかっただけ。私と同じ。あなたのお母さんと同じ』


女の身体が透けていく


消えていく


『門を通りなさい。あなたは通れる。あなたの目は重くも軽くもない。ちょうどいい重さ。見るべきものを見て。逃げることもした。それでいい。それが人間だから』


女が微笑む


穏やかな笑みだ


そして


消えた


-----


私は一人で立ち上がる


傷だらけだ


血まみれだ


でも生きている


門が目の前にある


光が溢れている


眩しい


でも目を閉じない


私は歩く


一歩


また一歩


門に手を触れる


冷たい


そして温かい


矛盾した感覚


でも心地いい


門をくぐる


光に包まれる


全身が溶けていく感覚


怖くない


私は目を開けている


最後まで


-----


目が覚めた


白い天井


蛍光灯の光


消毒液の匂い


知っている匂いだ


病院だ


『気がつきましたか』


声がする


横を見る


看護師が立っている


若い女性だ


『ここは』


『病院です。あなたは屋上から落ちました。でも運良く植木に引っかかって。奇跡的に命は助かりました。三ヶ月間、意識がありませんでした』


三ヶ月


あの世界にいた時間と同じだ


偶然か


必然か


分からない


私は手を見る


自分の手


傷だらけだ


でも生きている


鉈の傷じゃない


枝に引っかかった傷だ


あの世界は夢だったのか


いや


夢じゃない


私は知っている


あの世界は本物だった


そして私は戻ってきた


目を開けたまま


逃げずに


『誰か会いたい人はいますか。連絡しますよ』


看護師が聞く


私は考える


会いたい人


いるのか


いた


母がいた


でも母は死んだ


私が見舞いに行かなかった母


私が手を握らなかった母


私が目を逸らした母


『いません。でも。一つだけ』


『何ですか』


『母の墓参りがしたい』


看護師が微笑む


優しい笑みだ


『回復したらいくらでも行けますよ。まずは身体を治しましょう』


私は頷く


窓の外を見る


青い空が広がっている


雲が流れている


眩しい


でも目を閉じない


私は見る


全部見る


もう逃げない


-----


一ヶ月後


私は母の墓の前に立っていた


花を供える


線香を上げる


手を合わせる


でも目は閉じない


墓石を見る


母の名前を見る


『遅くなった。ごめん』


声に出して言う


『ずっと逃げてた。お母さんの顔を見るのが怖かった。最後に手を伸ばしてくれたのに。俺は逃げた。ごめん』


風が吹く


線香の煙が揺れる


『でももう逃げない。見るよ。全部見る。お母さんが伝えたかったこと。俺が見なかったもの。全部。これから生きて。ちゃんと見て生きる。だから見ててくれ。俺を』


涙が溢れる


止まらない


でも目は開けている


墓石を見ている


母を見ている


やっと


ちゃんと


風が強くなる


まるで返事をするように


私は笑った


泣きながら笑った


三十五年生きてきて


やっと分かった


目を開けるということ


見るということ


逃げないということ


それは怖いことだ


痛いことだ


でも


それでも


生きているということだ


私は立ち上がる


墓を背にして歩き出す


振り返らない


でも逃げているんじゃない


前を見ているのだ


次に見るべきものを


空を見上げる


青い空


あの世界にはなかった空


眩しい


でも目を開けている


私はこれから生きる


目を開けたまま


全部見ながら


もう二度と


逃げない


-----


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