本懐
光が近づいてきたと思った瞬間、狩人が腕を伸ばして私を制止した
『待て』
『集落じゃないのか』
『違う。罠だ』
目を凝らす
光の正体が分かった
青い光だ
さっきの安全地帯と同じ青白い光
だが形が違う
光が揺らめいている
生き物のように蠢いている
『擬態光だ。門番の一種。光に見せかけて獲物を誘い込む。近づいたら終わりだ』
光がゆっくりとこちらに近づいてくる
『どうする』
『迂回する。道を外れるぞ』
『道を外れたら落ちるんじゃないのか』
『落ちる場所と落ちない場所がある。ついて来い。俺の足跡を正確に踏め』
狩人が石畳の縁に立つ
そして闇の中に足を踏み出した
落ちない
見えない足場がある
『この世界はな、見えてるものが全てじゃねぇ。見えてないものの方が多い。目を開けろ。本当に見ろ。そうすりゃ見えてくる』
私は狩人の後に続く
足を踏み出す
闇の中に
足が何かを踏む
石だ
見えないが確かにある
『いいぞ。そのまま来い』
一歩一歩
慎重に
狩人の足跡を追う
背後で擬態光が蠢いている
追ってきている
『急げ。あいつは遅いが諦めねぇ。獲物を追い続ける』
足を速める
見えない足場を踏みながら
時々足が滑る
心臓が跳ねる
でも落ちない
踏み外さない
目を開けていれば見える
そう信じて進む
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どれくらい歩いたか
擬態光は見えなくなった
私たちは別の通路に出ていた
さっきの一本道とは違う
壁がある
天井がある
ピラミッドの内部に戻ったようだ
『ここはどこだ』
『下層部だ。さっきまでいたのは中層。ここから更に下に降りる。集落は最下層にある』
通路は狭い
二人並んで歩けない
壁には文字が刻まれている
象形文字のような
だが読めない
『この文字は何だ』
『記録だ。この世界に来たやつらの名前が刻まれてる。全員分。何千年分か何万年分か知らねぇが、壁が足りなくなったことはねぇらしい』
私は壁に手を触れる
冷たい
文字の溝に指を這わせる
何かを感じる
悲しみ
怒り
後悔
文字に感情が染み込んでいる
『俺の名前もあるのか』
『ある。お前が審判を通った時点で刻まれた。どこにあるかは知らねぇがな』
通路が分岐している
三方向に分かれている
『どっちだ』
狩人が壁を見る
文字を読んでいる
読めるのか
『真ん中だ。左は行き止まり。右は——行くな』
『何がある』
『墓場だ。燃料にもならなかったやつらの残骸が捨てられてる。見たくないもんが山ほどある』
私は右の通路を見る
闇の奥から異臭が漂ってくる
腐敗の匂いだ
『行くぞ』
狩人が真ん中の通路に入る
私は従う
通路は緩やかに下っている
足元が湿っている
水が流れている
『水?』
『この世界にも水はある。どこから来るのか知らねぇ。でも流れてる。下に向かって。俺たちと同じだ』
水の音が大きくなる
通路が開ける
広い空間に出た
地下の川だ
幅は十メートルほど
黒い水が緩やかに流れている
対岸に通路の続きが見える
『渡るのか』
『ああ。でも泳ぐな。この水に浸かったら記憶を持っていかれる。お前が見てきたもの、全部消える。目が軽くなる。審判を通った意味がなくなる』
『じゃあどうやって渡る』
狩人が上を指差す
天井から鎖が垂れている
何本も
等間隔に
『あれを使う。鎖から鎖へ飛び移る。落ちたら終わりだ。いけるか』
私は鎖を見上げる
高い
最初の鎖まで三メートルはある
『やるしかないだろ』
『いい返事だ』
狩人が助走をつけて跳ぶ
鎖を掴む
身体が振り子のように揺れる
そのまま次の鎖へ
軽やかだ
狩人の動きは軽やかだった
鎖から鎖へ
猿のように
いや、違う
山で鍛えた身体だ
岩壁を登り、雪山を駆け、遭難者を背負って下山した身体
二十年分の経験が詰まっている
私はどうだ
会社員だ
デスクワークだ
鎖なんて掴んだこともない
『何してる!早く来い!』
狩人が対岸から叫ぶ
もう渡り切っている
私は鎖を見上げる
三メートル
跳べるか
跳ぶしかない
助走をつける
五歩
踏み切る
手を伸ばす
指先が鎖に触れる
掴む
掴めた
身体が振り子のように揺れる
肩が悲鳴を上げる
腕の筋肉が引きちぎれそうだ
『次だ!止まるな!』
次の鎖を見る
二メートル先
揺れを利用して身体を振る
前へ
後ろへ
前へ
タイミングを計る
今だ
手を離す
空中に身体が投げ出される
一瞬の浮遊感
次の鎖を掴む
掴めた
手のひらが擦り剥ける
血が滲む
構わない
次だ
三本目
四本目
五本目
腕が限界だ
でも止まれない
下を見る
黒い水が流れている
あの中に落ちたら記憶が消える
私が見てきたもの
見なかったもの
全部消える
それだけは嫌だ
六本目
七本目
あと少し
『跳べ!』
最後の鎖から対岸まで
距離がある
三メートル以上
鎖を大きく振る
限界まで
身体を前に投げ出す
宙を舞う
永遠のような一瞬
石の床が迫る
着地
転がる
肩を打つ
痛い
でも落ちてない
渡れた
『上出来だ』
狩人が手を差し出す
私はその手を掴んで立ち上がる
手のひらがズタズタだ
血が滴っている
『手当てしろ。そこに苔が生えてる。止血になる』
壁に緑色の苔が張り付いている
私は苔をむしり取って手のひらに押し当てる
ひんやりする
血が止まっていく
『この苔もこの世界の一部か』
『ああ。毒のもんもあれば薬になるもんもある。見分け方を覚えろ。緑は薬。紫は毒だ。単純だろ』
私は周囲を見回す
通路が続いている
だがさっきまでとは雰囲気が違う
壁の文字が増えている
びっしりと
隙間なく
『ここは何だ』
『記憶の回廊だ。この世界に来たやつらの記憶が壁に刻まれてる。名前だけじゃねぇ。何を見てきたか。何から逃げたか。全部だ』
私は壁に近づく
文字に触れる
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映像が流れ込んでくる
知らない男の記憶だ
若い男
スーツを着ている
会議室
怒鳴り声
上司に詰められている
数字が並んだ書類
売上目標
未達成
『お前のせいだ』
『責任を取れ』
男は俯いている
目を逸らしている
映像が切り替わる
男は電車のホームに立っている
黄色い線の向こう側
電車が来る
音が近づく
男は目を閉じる
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私は壁から手を離した
息が荒い
汗が噴き出している
『見たか』
狩人が私を見ている
『ああ。誰かの記憶だ。会社員だった。たぶん俺と同じような——』
『ここには何千何万の記憶がある。触れば見える。でも深入りするな。他人の記憶に呑まれると自分が分からなくなる』
私は壁を見る
無数の文字
無数の記憶
無数の逃げてきた者たち
『全員、ここに来たのか』
『来た。そして大半は燃料になった。使う側になれたのは一握りだ。お前はその一握りに入った。忘れるな』
狩人が歩き出す
私は壁に触れないように注意しながら後を追う
通路が曲がりくねっている
上がったり下がったり
方向感覚がなくなる
『迷わないのか』
『迷わねぇ。何度も通った道だ。それに——』
狩人が壁の一点を指差す
文字の中に印がある
小さな傷だ
鉈でつけたような
『自分で目印をつけてある。最初は俺も迷った。三日くらい彷徨った。死ぬかと思った。それから目印をつけるようになった』
『三日も?』
『この世界じゃ珍しくねぇ。迷って飢えて死んだやつもいる。腹は減らねぇとか言ったやつがいたが、それは砂漠での話だ。ピラミッドの中は違う。飢える。渇く。眠くなる。人間に戻っていく。そして人間として死ぬ』
通路が広がる
部屋に出た
正方形の部屋
中央に石の台座がある
台座の上に何かが置いてある
近づく
本だ
分厚い革表紙の本
『これは何だ』
『記録書だ。この世界のルールが書いてある。読めるか』
私は本を開く
文字が並んでいる
読める
日本語だ
『読める。日本語だ』
『人によって違う言語で見える。俺も日本語だ。たぶんお前と同じ国から来たやつが書いたんだろう』
私はページをめくる
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第一条:目を閉じる者は闇に還る
第二条:目を逸らす者は燃料となる
第三条:目を開く者は使う側となる
第四条:この世界は縮み続ける。端から消え、中心に向かう。中心には門がある
第五条:門を開く者は——
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ページが破れている
第五条の続きがない
『誰が破ったんだ』
『知らねぇ。俺が初めてここに来た時にはもう破れてた。たぶん門を開く方法が書いてあったんだろう。誰かが独り占めしようとしたか、誰にも知られたくなかったか』
『門を開く方法——元の世界に戻る方法か』
『そう言われてる。噂だがな。でもこの記録書は本物だ。第一条から第四条までは正しい。俺はこの目で確認した』
私は本を閉じる
元の世界に戻る方法
あるのか
本当に
『行くぞ。ここで立ち止まっても何も見つからねぇ』
狩人が部屋の奥の扉に向かう
私は本を台座に戻して後を追う
扉は重い
石でできている
二人で押してようやく開く
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扉の向こうは巨大な空間だった
ピラミッドの内部とは思えない広さだ
天井は遥か上方
見えない
そして中央に
塔が立っている
螺旋状の塔
下から上へ
延々と続いている
『何だこれは』
『螺旋塔だ。この世界の中心に向かう道。上に行けば行くほど中心に近づく。そして一番上に——』
『門がある?』
『あるらしい。でも誰も辿り着いたことがねぇ。塔を登るやつは何人もいた。でも全員消えた。戻ってこなかった』
私は塔を見上げる
遠い
果てしなく遠い
『俺たちは登らないのか』
『今はな。集落に行く。仲間と合流する。準備もなしに登ったら死ぬだけだ。俺は何度もそういうやつを見てきた。焦って死んだやつを』
狩人が塔から目を離す
『行くぞ。集落は塔の根元にある。もう少しだ』
私たちは螺旋塔に向かって歩く
塔の根元が見えてくる
そして、その周りに
建物が並んでいる
石造りの建物
煙が上がっている
人の気配がする
集落だ
『着いたぞ』
狩人が足を止める
『ここからはお前自身の足で入れ。俺は案内しただけだ。仲間として認められるかどうかはお前次第だ』
私は集落を見る
人影が動いている
何人かがこちらを見ている
新入りを値踏みする目だ
『一つだけ聞いていいか』
『なんだ』
『アンタは、なぜ俺を助けた。本当の理由を』
狩人が黙る
長い沈黙
『……お前の目だ』
『俺の目?』
『審判の時、お前は逃げなかった。誰かを犠牲にすることを拒んだ。そういう目を俺は久しぶりに見た。八年前、俺が殺した女も同じ目をしてた。最後まで生きようとしてた。諦めてなかった。俺がそれを奪った』
狩人が私を見る
『お前には生きてほしい。あの時俺が救えなかった分まで。それだけだ。勝手な理由だが、文句あるか』
私は首を横に振る
『ない。ありがとう、狩人』
『礼なんかいらねぇ。さっさと行け。俺も後から行く』
私は集落に向かって歩き出す
振り返らない
でも狩人の視線を背中に感じる
重い視線だ
期待と
後悔と
祈りが混ざった視線だ
私は歩く
新しい場所へ
新しい仲間のもとへ
目を開けたまま
逃げないと決めて
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集落の入り口に立つ
門番が二人
鉄パイプのような武器を持っている
『新入りか』
『ああ。狩人に連れられてきた』
門番たちが顔を見合わせる
『狩人が連れてきたなら本物か。名前は』
私は答える
『鳥居だ。鳥居——』
続きが出てこない
忘れている
狩人と同じだ
『鳥居。それだけでいい。ここではそれで十分だ。入れ』
門が開く
私は集落に足を踏み入れた




