内部にて、
自由落下、それは学校の授業で板書に記され教師から発されるだけの概念だった。
それまでの人生において馴染みのない観念。
しかし、今私が属している状態を指し示す唯一の状態。
風が私を受け入れ続け、ただひたすらに重力の奴隷と化していく感覚が私の全てを支配する。
『あ、、あぁぁ、あぁ、あぁぁぁぁぁぁ!!』
ブフォンサファ
落ちた
確実に
床に
しかし、奇妙だ。全く痛みがない。
どころか母に優しく包まれている感覚すら覚える。
見渡す。
藁。
あぁなるほど。
とりあえず生き延びだようだ。
男の野太い声が上から轟く
『てめぇ、バカ丸出しだな!!まぁ待っとけ、都合良ければ行って助けてやるよ!』
藁といえども落ちた感覚は残る
腑に落ちない安堵が心から離れない
ワサァワサァ
藁を触りながら
前進し巨大な藁のベッドから降りる
奇妙な部屋に囲まれていることに気づく
ピタンピタン
コロコロ
水滴の音が規則的に響いている
コロコロという音は石が転がるそれではない
もっと有機的で不快なそれだ
部屋は薄暗いが目が慣れてきた
壁一面に棚が並んでいる
棚には瓶が所狭しと詰め込まれている
瓶の中身は液体だ
その液体の中に何かが浮いている
目を凝らす
目だ
目玉が浮いている
ひとつひとつの瓶に目玉がひとつずつ
数えきれない
百や二百ではない
この部屋全体が目玉の保管庫だ
コロコロ
音の正体を探る
足元に転がってきたのは瓶から零れ落ちたのであろう目玉だった
私の足に当たって止まる
『うわっ』
反射的に蹴飛ばしてしまった
目玉は闘牛の再生を掲げる愚者の如く壁にぶつかり弾け飛ぶ
ピチャァン
嫌な音だ
『おーい!下に何かあったか!』
男の声が遥か上から降ってくる
どれほど落ちたのだろう
『目玉だ!瓶に入った目玉が大量にある!』
『目玉?色は?色はなんだ!』
『色?そんなもん知るか!気持ち悪いんだよ!早く降りてこい!』
『色を見ろ!赤か青か!それによって変わるんだよ!』
男の切迫した声が私を急かす
改めて棚を見る
確かに液体の色が違う
赤い液体に浸かった目玉
青い液体に浸かった目玉
比率で言えば赤が圧倒的だ
青は一割もないだろう
『赤がほとんどだ!青は少ない!』
『そこ動くなよ!絶対に動くな!青を踏んだら終わりだ!』
終わり
終わりとは何だ
ここに来てから何度その言葉を聞いたか
世界が終わった
青を踏んだら終わり
終わりの安売りにも程がある
ガサゴソ
上の方で男が動いている気配がする
待つしかないのか
私は藁のベッドに腰を下ろす
瓶詰めの目玉たちが私を見ている気がする
いや
見ている
確実に私を追っている
瓶の中で目玉がゆっくりと動き、私の方を向いている
『おい、目玉が動いてる!こっち見てる!』
『当たり前だろ!生きてんだから!』
生きている
この目玉が
誰の目だ
何の目だ
ピタンピタン
水滴の音が止まらない
天井を見上げる
天井から液体が滴っている
赤い液体だ
その源を辿ると亀裂がある
亀裂から赤い液体が染み出している
『なぁ、この目玉は誰のものなんだ』
男からの返答はない
『おい!聞こえてるか!』
静寂
男の気配が消えた
見捨てられたか
やはり信用ならない男だった
私は立ち上がる
この部屋から出口を探さなければ
棚と棚の間を慎重に進む
足元には砕けた瓶の破片と零れ落ちた目玉が散乱している
青を踏むな
男の言葉を反芻する
床に転がる目玉を避けながら歩く
赤か青か
暗くて判別がつかない
もう賭けるしかないのか
『動くなって言っただろうが』
振り返ると男がいた
いつの間にか背後に立っている
『アンタ、どうやって』
『裏道だ。お前が落ちた穴とは別にルートがある。こっちの方が早いんだよ』
男は私の肩を掴んで引き戻す
『危なかったな。あと三歩で青踏んでたぞ』
足元を見る
確かに青い液体に浸かった目玉が転がっている
『これを踏むとどうなる』
『持ち主が起きる』
『持ち主?』
『だからこの目玉は誰かのモンだって言ってんだ。青は眠りが浅いやつだ。刺激を与えると起きちまう。赤は深く眠ってる。もう起きねぇ』
男は棚から赤い瓶をひとつ取り出す
液体の中で目玉がゆらゆらと揺れている
『これはウォーカーだったやつの目だ。お前みたいに砂漠を歩いてたやつ。ピラミッドに辿り着けなかったか、辿り着いても潰れたか。どっちにしろ終わったやつだ』
『終わったやつの目を保管してどうする』
『燃料だよ』
男は当然のように言い放つ
『この世界はな、動き続けなきゃ消える。ピラミッドも、砂漠も、俺たちも。動力が必要なんだ。目はその動力になる。特に青は効率がいい。まだ意識が残ってるからな』
私の背筋が凍る
『待ってくれ。ということは、この目玉の持ち主はまだどこかで生きてるのか』
『生きてるっつーか。存在してるっつーか。身体は無いよ。目を取られた時点でな。でも意識だけ残ってんだ。この瓶の中に閉じ込められてな』
男は瓶を棚に戻す
『青いやつは時々騒ぐ。出してくれってな。そういう時に瓶を割っちまうと面倒なことになる。意識が解放されて暴走するんだ。だから踏むな』
私は改めて部屋を見渡す
何千という瓶
何千という目玉
何千という閉じ込められた意識
『なぁ、私の目も、いつかこうなるのか』
男は答えない
代わりに出口らしき扉を指差す
『行くぞ。まだ先は長い』
『答えろよ』
『知りたきゃ貢献しな。さっきも言っただろ』
男は扉を開けて先に進む
私は足元の目玉を慎重に避けながら後を追う
扉の向こうはまた通路だった
暗い
狭い
終わりがない
『なぁ、アンタはどれくらいここにいるんだ』
『数えてない。数えても意味がねぇ』
『外には出られないのか。元の世界には』
男が立ち止まる
振り返る
目が笑っている
口は笑っていない
『外?元の世界?お前まだそんなこと言ってんのか』
男は私の顔を覗き込む
『いいか、よく聞け。お前が元いた世界ってのはな、ここなんだよ。お前が今まで生きてきた人生、記憶、全部ここで作られた夢だ。目覚めたのがあの砂漠なんだよ。分かるか?お前は帰るんじゃない。お前は今やっと、本当の場所にいるんだ』
通路に私の息遣いだけが響く
『嘘だ』
『信じなくていいさ。でもな、ここを出口だと思ってるうちは何も進まねぇぞ。ここが全部だって受け入れろ。そうすりゃ見えてくるもんがある』
男は再び歩き出す
『まぁ、その前に生き延びろ。話はそれからだ』
通路の先に光が見えた
弱々しい光だ
でも確かに何かがある
『あの先に何がある』
『審判だよ』
男の声が低くなる
『お前がどっち側になるか決まる場所だ。燃料になるか、俺みたいに使う側になるか。まぁ大体は燃料だけどな』
ガーンガーンガーンガーン
また鐘の音が聴こえる
今度は近い
すぐそこだ
『来たか』
男が足を速める
『審判が始まる。お前の番だ』
私は光に向かって歩く
足が重い
でも止まれない
止まったら終わりだ
終わりとは何か
それすら分からないまま
私は光の中に飛び込んだ




