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トワイライトと魔法使い  作者: 井ノ下功
第1章 セント・ジェロームの転落
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7 壁の外側で立ち尽くす

 強調して発音された言葉に、息を呑んだのは僕だった。階段から転落して。階段から転落して! その情報は否応なく、僕に先週の事件を思い出させた。ウルフに呪われたと主張して転落したアンドリューズ。あの事件が起きる――そうだ、あの一週間前じゃなかったか? 食堂でホール教授と行き会ったのは!

 ウルフはようやく合点がいったとばかりに二、三度頷いた。動揺した様子はまったくない。

「なるほど、それで私のところへ。私が呪い殺したと疑っていらっしゃるんですね?」

「自白の用意はできているようだな。英国法で裁かれるんだか魔法法で裁かれるんだか知らないが――」

「私ではありません」

 きっぱりとした強い口調がルーサー刑事の言葉を切り裂いた。いつの間にか、ウルフの様子ががらりと変わっている。ブラックホールのような目の奥で、恐ろしく暗い炎が燃えさかっていた。

「断じて違います。ありえません。ありえない。()が魔法で人を傷つけるなんて、そんなこと誰がするものか! そんなことをするぐらいなら死んだほうがマシだ!」

 そこまでを一息に言い放ってしまってから、はたと我に返ったらしい。ほとんど立ち上がっていた彼は、恥じ入るようにゆっくりと座り直した。

 僕は驚きを隠せずに彼を見つめた。今叫んだ彼は誰だったんだろう? 怒りに任せて吠えた声は不安定に振動していて、まだ論理を習得していない幼い子どものようだった。これまで常に保たれ続けていた客観的な視座はかなぐり捨てられ、冷静で大人びた姿はすっかり掻き消えてしまっていた。今のは、誰だ?

「分かってるよ、坊ちゃん」

 へらりとした調子で口を挟んだのはサマーヘイズ刑事だ。

 薄く紅潮していたウルフの頬が元の色に戻り、瞳の位置が定まっていく。最後に一瞬目を瞑って息を吐いて、彼の姿はようやくかつてのものに戻った。

「さっきも言ったろ。これで呪いだなんだって線は消えた、ってさ」

「ですから、どうしてそんなことが言えるんです?」

 ルーサー刑事の矛先は年嵩の同僚へ向いた。

「先週も階段から落ちた学生がいるんだ、魔法使いに呪われたと騒いでいた奴が。それで今回は、魔法使いの入学に反対していた教授が殺されたんですよ。この二件が関連していないとは思えない。呪いが本当に使えるなら、充分実行に足りる動機だ」

 ルーサー刑事の主張はまともだ。魔法使いに必要なのは動機だけ、だとしたらウルフはどこまでも黒い。

「いったい何を根拠にすれば、彼が何もしていないなんて言えるんですか」

「そりゃお前さんが納得するのは難しいだろうな。二年前のあの事件に関わってないから」

「あの事件?」

「知らないはずはないぜ。二〇〇八年の一月に殺された――」

「ミスター。私の潔白を信じてくださるのはたいへんありがたいのですが、もし可能でしたらその話は別の場所でしていただけませんか。それが果たして可能かどうかは存じ上げませんが」

 ウルフはひどく高慢で刺々しい言い回しをした。腕と足を組み顎を上げて、目線は遥か上空から、発音までぐっと上流チックになっている。また違う顔が見えて僕は一層動揺する。

 サマーヘイズ刑事が降参するように両手を挙げた。

「はいはい、坊ちゃん、分かったよ。分かったからちょっと落ち着いてくれ。ひでぇ顔してるぜ」

 指摘された瞬間、彼の顔はふてくされた幼児のものになった。幼い仕草で頬をこする。

「落ち着いたか?」

「ええ、ある程度は」

「じゃあちょっと教えてくれ。何せ俺らは魔法使いのことを何にも知らねぇもんだからさ」

 サマーヘイズ刑事は前屈みになって、真摯に耳を傾ける体勢をとった。だからこんな質問をされても平気だったのだろう。

「仮に、悪い魔法使いが呪いをかけて、ある人を階段から転落死させたとする。仮にな。そうしたら、現場はどうなるもんなんだ?」

 ウルフはちょっとだけ考えて、大人しく答えた。

「呪いをかけた人間の腕にもよりますが……人を殺すほどですから、充分に準備をした状態で臨んだとします。そうすると、現場はただの事故にしか見えないと思います。一般の方が想像するような、いかにも呪いらしい演出は残りません」

「呪いらしい演出、っていうと?」

「異様に血まみれになっているとか、変なところを骨折しているとか、そういうことは起きません。きちんと準備さえしていれば」

「準備をしていなかったらそういうことも起きうるのか?」

「呪いというものは――いえ、呪いに限らず魔法というものはすべて、結果を想像する力が重要なんです。……基本的なことからお話ししてもよろしいですか?」

「もちろん」

「呪文を唱えたり魔法陣を描いたりするのは、イメージをより鮮明にして、脳内に固定するためです。空想が現実に起こりうる、と脳に思い込ませるための儀式ですね。もちろん、発動させるのに必要なエネルギーを補充する、という意味もありますが。呪いの場合、結果を他人へ押しつけることになるので、より綿密な準備が必要になります。無関係の人を魔法に巻き込むと、その人に対して自分が抱いているイメージを反映させたり、その人が持っているイメージを魔法が受け取ってしまったりして、結果に揺らぎが生じるので。そのため、呪いの成功率は非常に低くなり、さらに返される(・・・・)可能性も出てきます」

「あー、もうちょっと具体的にできるかね?」

「たとえば、仮に私がサマーヘイズ刑事を呪ったとします」

「おう。仮でも良い気はしねぇな」

「お互い様です。我慢してください。そのときに私が“サマーヘイズ刑事は階段から落ちた程度じゃ死にそうにないな”と思っていた場合、致死率はかなり下がります。また、私が“階段から落ちた人間は必ず首の骨を折る”とか“全身血まみれになる”などと思い込んでいた場合、必ずそうなります。その一方で、刑事自身が常に“呪いなんて俺にはかからねぇ”」

 ウルフは器用にサマーヘイズ刑事の声音を真似てみせた。

「と、強く思い込んでいた場合、それが影響して呪いが跳ね返ってくることがあります。そうなったら、転落死するのは私です。呪いは(Curses,)鶏の(Like)ように(Chickens,)ねぐらに(Come Home)帰る(to Roost)、というわけですね」

 サマーヘイズ刑事がふんふんと相槌を打つ。ルーサー刑事は胡散臭そうな目つきで黙り込んでいた。

「準備をきちんとすれば、揺らぎや反発をぎりぎりまで抑え込めます。ですから、本気で誰かを呪い殺そうと思った場合、準備を怠る魔法使いはいないのです。手を抜けば失敗するか、最悪自分が殺される。そしてきちんと準備をした場合、それが事件だと判定されることはまずないのです」

「なるほどな。それで、その準備っていうのは簡単にできるもんなのか?」

「いいえ、非常に煩雑で複雑で面倒です。本気で行おうと思ったら何ヶ月もかかるでしょう。最も手軽な靴紐解きの呪いでも、確実にかけるなら半月は必要ですね。材料は古い鋏の破片、病気になった犬の奥歯、それに魔性(ませい)の植物を三種ほど。それらを適切に混ぜた液体を相手の靴にかける必要があります」

「へぇ。ちなみに、そいつの効果は?」

「ランダムなタイミングで靴紐が解けます」

「……それから?」

「それだけです。解けるタイミングによっては致命的になり得ますが、タイミングの指定はできないので、費用対効果が悪すぎます。もっぱら悪戯用の呪いですね。――魔法は決して万能でも簡便でもない、とご理解いただけましたか?」

 それは主にルーサー刑事に向けられた言葉だった。向けられた当の本人は納得するのを拒むようにぐっと腕を組んでいる。

 ウルフの溜め息。

「だいたい、あなたがたが事故ではなく事件だと判断した時点で、魔法でないことは半分証明されたようなものなんです」

「これが事件だなんていつ言った?」

 ルーサー刑事の反駁に、ウルフは冷たい目を向けた。

「先ほどあなたが、魔法使いの入学に反対していた教授が“殺された”とおっしゃったので。亡くなった、ではなく、殺された、と。殺害されたと考えるだけの根拠がなければ、そのようにはおっしゃらないでしょう。違いましたか」

「その通りだよ、坊ちゃん」

 サマーヘイズ刑事があっけらかんと肯定した。非難するような目を向けたルーサー刑事も丸っと無視だ。

「これはおそらく殺人事件だ。ま、事故として処理されるだろうけどな。あんまりにも証拠が少なくてよ」

「サマーヘイズさん」

「しゃべりすぎんなって? いやいや、しゃべるべきだろうよ。これが事故として処理されちまったら、一番害をこうむるのはこの坊ちゃんだろうからな」

 言いながら剃り残しの髭を撫でる。

「もちろん、詳細は言えねぇけど。ほら、昨日は雨だったろ?」

 うん、昨日は確かに雨が降っていた。僕が寮に着いたときには膝から下がびしょ濡れになっていたから、そこそこ強めの雨。風はなかったからまだマシだったけど。

「教授は十時頃に散歩か何か、とにかく外出している。十時半頃に帰ってきたんだが、ま、それで足を滑らせたんじゃないか、っていうのが妥当な説明だな。何の変哲もない、ただの事故だ」

 だが、とその壮年の刑事は青みがかったグレーの瞳を尖らせた。

「どうも不自然なんだよなぁ。もちろん、あんたがやったとは思ってねぇよ。他の誰かが、あんたを隠れ蓑にした奴がいるんじゃないかって感じるんだが……」

 感じるってだけじゃあ動けねぇからなぁ、と彼は鼻の辺りにぎゅうとしわを寄せた。

「事故だと思っていらっしゃらない、その根拠をうかがっても?」

「そいつは話せねぇ“詳細”に当たるな。まさか打撲痕が普通よりも多かったなんて」

「サマーヘイズさん!」

「ん? どしたよ、ルーサー。幽霊(ゴースト)でも見えたか?」

 ルーサー刑事の非難なんてどこ吹く風とばかりに、サマーヘイズ刑事は平然と続けた。

「まるで二度落とされたみたいになってたんだよな。おかしな話だろ? ついでに言うと、血痕も一部引きずられたようになってた。無理に説明するなら、一度落ちたがまだ意識があって、這いずってもう一回階段を上って、そんでまた落ちた、ってことになるだろうが……」

 ありえるかね? と彼は首を傾げた。

「誰かが侵入して、念のために二回落とした、って言われたほうがまだ納得いくぜ」

「サマーヘイズさん」もう我慢ならない、って調子のルーサー刑事。「いい加減にしてくれますか。彼が防犯カメラをいじって侵入した可能性もあるでしょう」

「ああ、そうそう、そうだった。カメラの件を忘れてたな」

 まるで子どものわがままを聞き流すみたいに、サマーヘイズ刑事はひらひらと手を振った。

「隣のセント・ジェローム・カレッジの東門についてる防犯カメラがな、現場になったホール教授の仮校舎を入り口まで写してたんだが、死亡推定時刻周辺に入ってったやつも出ていったやつもいなかった。教授が出入りしたくらいだな。なぁ坊ちゃん、カメラの記録って魔法でいじれるもんか?」

「無理ですね」

「できたとして素直に言うわけがないでしょう!」

「私は嘘をつきません」

 ウルフは当然の疑いをばっさり一蹴した。

「すべての記録を消すことなら可能ですが、カメラに写らないように通り抜けることはもちろん、通った後にカメラの記録を書き換えることもできません。魔法と電子機器はお互いに干渉し合えないんです。エネルギーの系統が違うので。パソコンの画面を消しゴムでこすっても何も起きないでしょう? そういう感じです」

「よく分かったよ。まぁ魔法だ何だってぇより、カメラに写らねぇところから侵入するほうがよっぽど早くて現実的だからな。ともあれありがとよ、坊ちゃん」

 そう言うが早いかサマーヘイズ刑事は腰を上げた。まだ不満げなルーサー刑事の肩を叩き、無理矢理立ち上がらせ、扉のほうに押しやっていく。

「また何か聞きに来るかもしれねぇけど、そのときはよろしくな」

「いつでもお越しください。私はたいがい、ここか図書館にいますので」

「二年前のこと、進展がなくて悪ぃな」

「……いえ」

「大学、楽しめよ」

「皮肉ならもう少し笑えるものにしてください」

「はっは、確かに。じゃあな」

 そう笑って、サマーヘイズ刑事は扉を閉めた。

 ばたん、という音を最後に、部屋から生命の気配が消え去る。その瞬間僕はひどく後悔した。どうして適当なタイミングで出ていっておかなかったんだろう? こんな沈黙が待っているって、どうして予期できなかったんだろう?

 息が苦しい。僕はうつむいたまま微動だにできないでいた。真夜中にうっかり目を覚ましてしまったときの気分だった。寝返りを打ったらそこに何かいるかもしれない、と嫌な想像ばかり膨らめて、心臓に早鐘を打たせるあのときの感覚。

 何秒後か分からない。おもむろにウルフが立ち上がった。

「昼を食べてきます。それでは」

 その堅い口調にはっとして顔を上げたときには、彼の姿はすでに扉の向こうに消えていた。

 声音には含まれていた――嫌いなやつにそうするときの刺々しさが。

 僕は壁の外に弾き出されたのだ。

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