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トワイライトと魔法使い  作者: 井ノ下功
血飛沫婦人の粉飾
26/38

1 On the night of the hidden moon, she will appear.

 寮の西側の古いブナを根元から折った嵐が過ぎ去って、クリスマスホリデーが近付いてくると、みんなの足元が浮き始めた。そりゃそうだ、なんていったってクリスマスだもの。体がふわふわするこの感覚は、小さな頃からおなじみのやつ。

 そう、そこまではいいんだ。そこまではいいんだけどね。

 雰囲気に引きずられて頭の中までふわふわし始める輩には閉口する。たとえばコイツのように。

血飛沫(レディ・ブラッド・)婦人(スプラッター)に会いに行こうぜ!」

 リトルは飛び込んでくるなりそう言った。

 僕は「絶対にヤダ!」と即答した。が、彼はまったくめげずに詰め寄ってくる。油ぎったニキビ面はあまり近づけないでほしいものだけれど、ひょろ長い腕に絡め取られて脱け出せない。

「そう言うなって。月が隠れてる夜なら絶対に会えるって噂なんだ。気になるだろ?」

「全然、まったく気にならない」

「よし、そうと決まれば行くぞ! みんな待ってるんだからな、急げ急げ!」

「ヤダってば、ねぇ! ねぇーっ!」

 ずるずると引きずられて、部屋の外へ連れ出される。僕の悲鳴なんてすっぱり無視だ。こういうときに限ってウルフはシャワー中(いないのを見計らって来たのだろうけど)。ああ、もう、汚い言葉を許してね――

 ――畜生!


 重たい雲が月をすっかり隠している。

 夜の校舎はひっそりと静まり返り、冷たい空気に満ちていた。寒さだけじゃないような気がして、僕はコートの襟に顎まで埋まる。

 リトルは何が面白いのかげらげら笑いながら懐中電灯を振り回していた。笑い声が回廊の丸い天井に反響して、変な響きになって戻ってくる。気味が悪い。爪先と背筋がひどく冷たくて、奥歯がかつかつと鳴る。懐中電灯の灯りは心強いんだけど、同時にそのせいで出来上がる影が怖い。ゆらゆら揺れるし、変な風に伸び上がったり縮んだりするし。

 石の廊下をカツンカツンと靴底が蹴る。僕は最後尾をのろのろと付いていく。目の端を何かが横切ったような気がするたびに、僕は慌ててそちらに光を向けて、何もない壁を見た。はぁ、もう嫌だ……。唯一の救いは、危害を加えられた、って人がいないことかな。噂はどれも「深夜にドレス姿の女性を見かけた」というところで終わっている(僕にとっては見かけるだけで充分な“危害”なんだけどさ)。

 カッ、カツッ、カカカッ。リトルが妙なステップを踏んでからくるりと振り返った。

「東の大教室に出るって話だぜ」

 あとの二人、ジョンソンとバーナムが「本当かよ」「早く行ってみようぜ」なんて言うのを尻目に、僕は懐中電灯をぎゅっと握りしめた。あー、もう本当に嫌だ、帰りたい!

「ほんっとお前ってば怖がりだよなぁ、ロドニー」

 ひょいとリトルが肩を組んできた。

「分かってるなら連れてこないでくれよ」

「いやいや、それが面白いんだから仕方ないだろ?」

「うっわ、最低だ」

 言いながら、内心で舌を打つ。このままそうっと帰ってしまおうかな、なんて考えたのを見透かされたみたいだ。くそう……。

「魔法使い様と同室でも変わらなかったみたいだな」

「怖がりを治す魔法は無いと思うけど」

「そうじゃなくって。習うより慣れろって言うだろ?」

 僕はようやく言葉の意味を察した。

「別に、ウルフは怖い奴じゃないよ」

 リトルが眉を大げさに持ち上げて僕を見た。まったく信用していない目付き。それに少し腹が立ったけど、それから話は血飛沫婦人のことに変わったから、僕は口をつぐんだ。

 東の大教室は、同じ学寮の生徒が全員集まってもまだ余裕があるくらいの大きな教室だ。いっそ“講堂”とかって呼んだ方が正確かもしれない。黒板の前は広く開き、そこからイスとテーブルが放射状に並んでいる。高低差がばっちりあるおかげで、最後列に座っても居眠りはすぐばれるってわけ。特にヴァヴジーコナー教授の授業の時は駄目だ。あの人はめちゃくちゃ厳しいからね。いつかもちょっと舟を漕いだだけの生徒を目ざとく見つけたと思ったらものすごく冷淡かつ論理的な口調で散々に糾弾し、教室中を震え上がらせるという事件があって、その時ほど――

「いかにも出そうって感じだな、ロドニー!」

 ――僕の思考の逃避行はあっけなく終わりを告げた。現実に引き戻される。

 ぐいぐいと腕を引かれて、仕方なく両開きの扉をくぐる。ああ、嫌だ、見たくない。でも暗闇に沈んでいる部分があるのが怖くて、せわしなく懐中電灯を動かしてしまう。他の三人も同じようにしていた。丸い光が教室のあちこちを切り抜く。

 教室には何の影もなかった。気配すらない。窓にはカーテンがきっちりと引かれ、飛び出たイスとかも存在しない。整然とした、普通の教室。

「んだよ、何もねぇじゃん」

 リトルの残念そうな声。反対に僕は飛び上がりそうになった。良かった、何もいなかった! ここまで来たのだから三人は満足しただろうし、僕は怖い目に遭わずに済んだ。これでまったく、めでたしめでたし、だ!

「しょせん噂は噂ってわけだな。これで満足しただろ? 早く帰ろう」

「ちえっ、あーあ、無駄足踏んだなぁ」

 リトルの良いところは諦めもまた早いところだ。教室の半ばほどまで行っていたが、すぐに踵を返した。

 ――その瞬間の彼の顔と言ったら!

 元々ぎょろりとしている目がさらにひんむかれて、出目金みたいになっている。半分開かれた口は間抜けなトロールみたい。懐中電灯のせいか、ニキビ面が青白くなっていた。

 そして、

「ひっ、うわあああああああああっ!」

「リトル?!」

 悲鳴を上げたと思ったら階段状の通路を後ろ向きに転がり落ちていった。

「ひいっ!」

「ぎゃあっ!」

 続けざまにジョンソンとバーナムも悲鳴を上げて、懐中電灯がパーッと黒板の方へ走っていった。

 ああ……最悪の事態になったのだ。そう理解したのに、なぜだか僕は動けなかった。まずい。やばい。怖い。心臓がばくばくと奇妙に弾んでいる。BB弾をゼロ距離で撃ち込まれているような感じ。バツンッ、バツンッ、と断続的な鈍い痛みが体内に響く。手足が一気に冷え込んだ。やばい、駄目だ、凍ってしまう。

『こんばんは、悪い子ちゃんたち』

 高い声がすぐ耳元で聞こえて、僕は息を呑んだ。喉の奥が絞め殺されたカエルみたいな変な音を立てた。奥歯が神経質にカチカチと鳴る。

 僕は意思に反してゆっくりと振り返っていた。

『今度は何を盗みに来たのかしら?』

 ドレスの女性が立っていた。古くさい形の豪奢なドレス。レースのベールに覆われていて、顔は見えない。ドレスもベールも闇に沈むような黒だ。ちらりと覗く肌だけが、目を奪われるほど真っ白い。

 誰に言われたわけでもないのに分かった――彼女が、血飛沫(レディ・ブラッド・)婦人(スプラッター)だ。

 ふ、と膝から力が抜けて、僕はその場にへたりこんだ。

『それとも、盗んだ物を返しに? それなら――それで――いいけれど』

 レースの手袋に覆われた指が僕に向けて伸ばされる。かがみこんだ拍子にベールがわずかに持ち上がって、真っ赤な唇が見えた。

 真っ赤なのは口紅? いや、唇の端がとろりと垂れている。口紅よりももっと粘着性の薄い、けれど水よりは重たい、そういう液体が彼女の唇を彩っているのだ。

 顎先まで線を引いたその液体が、ぽたり、と僕の頬に落ちた。

 どこか生ぬるくて、どろりとした、それは――

 ――血だ。

「うっ、わああああああああっ!」

 僕は咄嗟に手に持っていた物を投げつけていた。懐中電灯は目の前の血飛沫婦人に――いや、婦人の、ちょうど額の辺りを通り抜けて(・・・・・)いった。

 カシャーン、と懐中電灯が床で壊れる音。

 血飛沫婦人はふらりと後ろによろめいた。

『アァ……アァ、なんて酷い人……信じられないわ、アタシにこんな仕打ち……』

 手で顔を覆い、その隙間からか細い声が漏れ出てくる。

 それを聞きながら、僕ははたと冷静になった。血飛沫婦人はぶつぶつ、ぶつぶつと、聞き取れないほどの小さな早口で何かを言っている。どうも恨み言のようだ……待ってこれやばいんじゃないか?

 血の気が引いた。とほぼ同時。ガンッ、と荒々しい音を立てて、血飛沫婦人が仁王立ちになった。

『許さない!』

 一喝。途端に、空気がねじれるように渦巻いたのがはっきりと感じ取れた。カーテンが揺れてざらざらと鳴る。イスががたがたと震え出す。

 僕はイスに負けないほどがたがたと震えながら、必死に後退った。立てないから這いずるほかない。とにかく、とにかく今はこの場を離れなくては、さもなくば――!

『逃がしはしませんわ』

 僕はバーナムの手を借りてようやく立ち上がった。ジョンソンはリトルを担いでいる。みんな真っ青な顔になって、一言も発しなかった。心は一つ、脱出あるのみ。

 だが。

「おい、開かないぞ!」

「えっ」

「はぁっ?! なんでだよ!」

 いきり立ったバーナムが扉を蹴った。が、びくともしない。

『うふふふふふ……』

 血飛沫婦人の甲高い笑い声が、僕らのすぐ後ろから響いた。バーナムが何度も扉を蹴る。ジョンソンは「くそっ、ふざけるな、畜生!」と毒づきながら、懐中電灯をやたらめったらに振り回した。けれど血飛沫婦人の姿はなく、ただ暗闇と声だけが押し寄せてくる。

『いち、にィ、さん、し……四人。どうやって調理したもンかしら。まずはしっかり、血抜きをしないと、ねェ。うっふふふふふっ!』

 僕は扉を背に、再びずるずると座り込んだ。

(だから嫌だって言ったのに……っ!)

 じわりと涙が滲んできた。鼓膜を貫く高笑いが嫌で嫌で仕方なくて耳を塞ぐ。目もつぶった。ああ、僕の人生、もうここでおしまいだ。何にもめでたくない終わり方。せめて別の死因がよかった――

 なんて思っていた、その時。

 バキンッ、と何かを破壊するような音が響いて、あんなに堅く僕らを拒んでいた扉があっさり開いた。

「うわ!」

 それが背中を預けていた方の扉だったから、僕はバランスを崩して後ろにひっくり返った。反射で開けてしまった目に――ああ、昼日中で悪目立ちするその色は、夜闇にあっても驚くほど鮮やかだ――救世主の赤色が飛び込んでくる。

 僕はうっかり涙ぐみそうになった。

「ウルフ……!」

「逃げますよ。立って」

 ウルフは素っ気なく僕の腕を掴んで、外に放り出すようにした。リトルを担いだ二人がそそくさと後に続く。

「走って」

『待ちなさい!』

 血飛沫婦人の金切り声に背を向けて、僕らは走った。

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