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トワイライトと魔法使い  作者: 井ノ下功
第1章 セント・ジェロームの転落
22/38

22 狼にララバイ

 僕はまっすぐ病院に連れていかれて、手当てを受けた。軽い打撲と擦り傷で済んだのは日頃の行いが良かったからだ、ということにしておく。飲まされたのは不眠症の治療用の薬だということで、特に心配はいらないらしい。その後に警察の事情聴取を受けて(もちろん軽い食事をしながらね)、夜明け頃ようやく解放された。

 病室に泊まっていくといい、と言われたのを断って病院を出る。疲れてはいたけれど、眠気はまったくなかった。まぁ昼間にあれだけ寝たんだから当然だ。

 病院の裏口を出たところで、僕は遠目にもよく目立つ赤いコートを見つけた。少し離れたところに所在なさげな様子で立っている。白々と明けていく空を背景にすると、その赤色もわずかにくすんで見えた。

 駆け寄るほどの元気はさすがに無かったから、僕はゆっくり歩いていって、彼の隣に並んだ。どちらからともなく寮に向かって歩き出す。彼の足取りはいつもより数段ゆっくりで、僕に気を遣っているのがよく分かった。

「助けてくれてありがとう、ウルフ」

 そう言うと、彼はひどく驚いたようにこちらを見た。何度か瞬きをする中で、すっかりしょげかえったブラックホールが情けなく右往左往する。

「いえ……お礼を言われるようなことではありません。むしろ、私は責められるべきです」

「え? どうして?」

 ウルフは深くうつむいた。

「ヒントは揃っていたんです。もっと早くに気づくべきでした。あるいは、君と一緒に行動するべきだった。そうすればこんなことにはならなかったのに」

「そういえば、どうして君はタイナー准教授が犯人だって分かったの?」

 僕は半ば話をそらすようなつもりで尋ねた。ウルフは居心地悪そうにこちらを一瞥してから答えた。

「鍵の件で」

「ワイヤーロックのこと?」

「いえ、鍵の修理を誰が頼んだか、という話です。サマーヘイズ刑事は『ホール教授が』と言い、エイト・ブリッジの学生は『タイナー准教授が』と言いました」

「え、そうだったっけ」

「はい。サマーヘイズ刑事に確認したところ、彼は確かに『ホール教授が修理を手配した』とタイナー准教授から聞いたそうです。そのせいでどこの業者に頼んだのか分からず、本当にその日のうちに修理できなかったのか確認が取れなかった、と」

「そっか、タイナー准教授からすると、修理されてしまったら困るから」

 自分で電話を掛けて、あるいは掛けるふりをして、今日中には出来ないと偽ったのだろう。

「そのことに気が付いたのが今朝……いえ、もう昨日ですね。昨日、起きたときなので」

 十二時を過ぎてたかな、と彼は小さな声で恥ずかしげに言った。そうすると、あの時寮に戻らなかった僕の判断は、ある一面では正しかったと言えるようだ。

「昨日、じゃないや、一昨日は結局何時に戻ってきたの?」

「昨日で正解ですよ。明るくなり始める直前だったと思います。正確な時間までは」

「それでよくお昼に起きられたね。その間、何してたの?」

「特に何も。ただその辺を歩いていただけです」

 平気な調子でそう言った彼だったが、しかし次の瞬間苦しげに口角を下げた。

「時々、よくない夢を見て……それで、どうしても眠れなくなるときがあって。そういうときは起きているしかないんですが、でも、じっとしているわけにもいかなくて」

 彼の手は落ち着きなく動き回った。口元を拭うようにして、首筋をさすって、それから眼鏡を押し上げるようにしつつ目を擦る。そうしながら、時折朝日のほうを見やっては顔を背ける仕草など、まるで朝の光に対するアレルギーがあるかのようだ。

「もう二年も経っているのに……」

 ぽつりとこぼされた言葉で、はたと気が付いた。彼が本当は何から逃げているのか、ってことに。それは正確に言うと、魔法や魔法使いじゃないのだ。魔法とかそういうものはあくまで一つの構成要素に過ぎなくて、全貌はもっと違う形をしているのだ。

 そのことに思い至ったら急に胸が苦しくなった。でも僕にはどうしようもなくて、その場しのぎに話をそらす。

「僕の居場所、よく分かったね」

「サマーヘイズ刑事に連絡を取ったときに、君からのメールに気が付いたんです。そのおかげですね」

と、ウルフは携帯を操作して、僕に画面を見せてくれた。そこには送った覚えの無い文面が、いかにも僕っぽい書き方で綴られていた。

「『旧友と偶然再会した。帰りは遅くなるけれど気にしないで』――いくら旧友と再会したからといって、君が午後の講義を丸々さぼることには少々違和感がありました。それで、ハームズワースさんを訪ねて、こういうことがあり得るかどうか聞きました」

「トムに?」

 驚いた。ウルフが僕の同郷の先輩のことを知っていたなんて。彼はいたずらっぽく笑って「私だって少しくらいは小鳥のおしゃべりを聞くんですよ」と言った。

「そうしたら彼は一言『あり得ない』と」

「まぁ、そうだね。あり得ないよ」

「なので、最悪の事態を想定して動きました。一つ前のメールから、君がタイナー准教授の家の周辺に行っただろうことを推測して、あちこち聞いて回ったり……途中でサマーヘイズ刑事が合流してくださって、防犯カメラを見て、君がタイナー准教授の車でどこかに連れていかれたのを知りました。ところが、その後の足取りが掴めなくて」

 ウルフは足下をじっと見つめながら続ける。

「恐ろしい計画性と度胸でした。準教授は、君を屋上に放置して平然と講義をしていたんです。そのうえで、私や警察の目を盗んで出ていって、完全に撒かれてしまって」

 顎の辺りにぐっと力がこもった。

「彼が君を手に掛けるとしたら、絶対に階段から落とすだろうと思っていました。それも遠い場所ではなく、大学周辺の建物で。酔っ払って入り込んで転落した、という言い訳が出来そうで、防犯カメラが無く、さらに確実に殺せる場所でないといけない。それらの条件に合った場所を何カ所かピックアップして、しらみつぶしに回ったんです」

「箒に乗って?」

 からかうつもりで言ってみたのに、彼はにこりともしないでただ頷いた。それから「間に合って良かった」と呟いた。

 しばらくの間、僕らはお互いの足音だけを聞いていた。ウルフの足取りは重く、一歩進むごとに地面に沈んでいくかのような憂鬱さを纏っている。鳥のさえずりが遠く上空で響く。

「私がこの大学に来なければ良かったんです」

 ぽつりと彼が言った。

「魔法使いなんていうものが都合良く近くにいて、呪いだという言い訳が成り立つ状況になったことが、事件のトリガーになった。私がこちらに逃げてきたせいで、君まで危険な目に遭わせてしまった」

 僕はようやく彼の表情の理由を理解した。

「本当に、すみませんでした、ロドニー。全部私のせいなんです」

 ついでに、ウルフも時には間違うのだ、ということも。

 明らかに間違った主張であるなら、それは彼の頑なさに真正面から挑んででも正さなくては。

「違うよ。僕は、君がいてもいなくても変わらず、この事件は起きたと思う。もちろん、呪いだとは言われなかっただろうけど」

「呪いだと言われなければ、捜査もすぐに済んだでしょう」

「うん、そうだろうね。捜査はずっとスムーズに進んで、ジュールかオブライエン先生が逮捕されていただろう。あるいは全部が事故として処理されたか。ほら、アンドリューズの件を証明できなくてさ」

「それは……」

「君は確かに火種になったかもしれない。けれど、君はそれを自力で消したんだ。だからいいんじゃないかな」

 ウルフは目を伏せたまま「とんだ傍迷惑なマッチポンプですね」と自嘲するように笑った。

 僕は立ち止まった。今は挑むべき時だ。声に力を込める。頼むから届け、打ち砕いてくれ、彼の頑なさを。

「君じゃなくたって、誰だって火種になる可能性はある。望むと望まざるとにかかわらず、すべての人間がマッチになれるんだよ。でも、ポンプになれる人間はそうはいない。どんな推理小説でも、犯人は話ごとに変わっていくのに、名探偵は一人だけなのがそれを証明している」

 数歩先で振り返ったウルフのことを真っ直ぐに見る。明け方の、それも迷子のように萎縮したブラックホールなんて、これっぽっちも怖くない。

「君は誇るべきだ、自分がポンプになれたことを。ついてしまった火から逃げずに、真実を暴き出したことを」

 彼は褒められ慣れていない子どものような顔で立ち竦んでいた。僕の言葉を受け入れていいのか迷っているようだ。本当に真面目で負けず嫌いで、いびつな利己主義者。

「自分の失敗を責めるばかりで自分の成功を認めないなんて、そんなのは筋が通らない話だよ、ウルフ。何にせよ、僕が君に助けられた事実は変わらないし、君が犯人を捕まえた事実も変わらないんだからさ」

 半分叱るようなつもりで言いながら、僕は彼の腕の辺りを軽く叩いて、再び歩き出した。

 ウルフは一歩遅れて僕の横に並んだ。

「名探偵がシリーズを通して変わらないのは、創作上の都合では?」

「そういうのを野暮って言うんだぜ」

「失礼しました」

 僕が軽く睨むと、彼はわざとらしく肩をすくめてみせた。それから僕らの顔は、ほとんど同じタイミングで笑顔になった。

 十月の早朝の、まだ優しさがある寒さの中を、僕らはゆっくりと帰っていく。彼の足はきちんと地面の上を歩いていた。沈まず、かといって浮かびもせず。真っ赤なコートの裾が彼の足取りを支えるかのようにひるがえった。けれど彼はそれに気づいていない様子で、明け方の薄明かり(トワイライト)に目を細めていた。

 そしてぽつりと。

「……これで終わってくれたら良かったんですが」

「……え?」

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