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トワイライトと魔法使い  作者: 井ノ下功
第1章 セント・ジェロームの転落
19/38

19 魔法使いは夜へ消え

 二人の姿が完全に見えなくなってしまうと、ウルフが勝ち誇った微笑みを浮かべて頷いた。

「それでは、彼らを鎮めましょうか。あとは私に任せてください」

 不可解そうな顔をする連中を無理矢理部屋へ戻らせてから、ウルフは三階から一階までのすべての廊下をゆっくりと横断していった。何か意味深な言葉を呟いたりとか、そういう類いのことは一切していない。なんなら僕と雑談をしながら歩いていたくらいだ。

「三日前にここへ来たときには、ちょっと変だなと思ったくらいで、よく分からなかったんですよね」

「そんなもんなの?」

「私が鈍感というのもありますが、こういうのは時が経つほど強力になるものですから。あるいは、他に何か活性化のきっかけとなるようなことが起きたのかもしれませんけど」

 そのまま外へ出て、建物の周りをぐるりと一周し、壊れたガーゴイルのある辺りで立ち止まる。

 そのときだ。

 僕の喉の奥が変な音を立てた。

 闇の奥から男の声が聞こえてきたのだ。

 何て言っているかは分からない。ラテン語のようだけれど、意味を聞き取れるほど精通していないし、何よりも怖くて冷静に聞いてなんかいられない。

『―――――……』

『……――――』

『――……――――』

 それらは怒気に満ちた恐ろしい声だった。腹の底がぞくぞくと震え、歯の根が合わなくなる。分からないのに分かる。怒っている。怒っているのだ、この声たちは。

「分かりました、見つけましょう。必ず」

 ウルフの真摯な言葉が夜闇を打ち払うように響いた。

「お眠りください、神聖なる方々よ。あなた方の眠りを妨げたこと、伏してお詫び申し上げ、邪悪なる魂が二度とこの地を踏まぬよう、最善を尽くすとお約束します」

 おぉ、お、お……と不気味なうなりを上げて、その声たちは消え去った。闇が少し薄まったような気がする。外灯の明かりが今さっき点いたばかりのように思えた。

 声が消えていった辺りを見つめたまま振り返らないウルフに、僕は恐る恐る尋ねた。

「今、何て言ってたの?」

「……この地に、罪人が踏み込んだ、と。彼らは、その刺激で活性化していたようです」

 それはつまり――法廷でもミステリー小説でも絶対に使えない証言を得た、ということか。

 ウルフが憂鬱そうな溜め息をついて振り返る。その顔は、夜のせいではっきりとは見えなかったけれど、事故で済まなかったことを心底嘆いているように見えた。

 同時に、ひどく苛立っているようにも見えた。

 僕らはエイト・ブリッジの中に取って返して、坊主頭にすべて済んだことを告げた。ウルフは強い口調で「なるべく早くガーゴイルを直すよう大学に申し出てください。そして、ガーゴイルが直るまでは(できれば直った後も)女性の連れ込みはしないように」と厳命した。それからずるいくらい優しい声音に戻って微笑む。

「また何か不可解なことが起きたら呼んでください。力になれることがあるならなりますので」

「おう、ありがとう。……あの、本当に悪かった。変な噂流して……」

「別に、気にしていませんよ」

 ウルフはそう言ったけれど、百パーセント気にしていないとは言い切れないはずだ。僕はずいと身を乗り出した。

「ねぇ、悪いと思ってるならちょっと協力してくれない?」

 坊主頭は目をぱちくりさせて、けれどすぐに頷いた。

「何が望みだ?」

「ホール教授の件も呪いなんかじゃない。それを証明するために、ホール教授について分かるだけ知りたいんだ。詳しい人を集めてくれないかな」

「分かった。ちょっと中で待ってろ」

 坊主頭がそれなりのリーダー格だと踏んだ僕の目は正しかったらしい。あれよあれよという間に座談会の場が整う。床に直で座るのもたまには悪くない。ウルフは少し身を引いて、事態を静観することにしたらしかった。

「ホール教授ってさ、どんな人だったの?」

 尋ねると、みんな口々に話し出した。

「普通に厳しい教授だった」

「融通が全然きかなくてさ。困ったよな」

「印象派の絵が好きで、一度語り出すと止まらなかったよ」

「アンドリューズとは案外仲良かったんだよな」

「意外だよな、あんなクズのくせに」

「大方、自分の悪事がばれないように胡麻擦ってたんだろ」

 云々。大体聞いたことのあるような話ばかりだった。十三日の金曜日に夜通しこもる話も、全員が知っていた。

「そうそう、信心深いって言うか何て言うか」

「一番死に近付く日だ、って言ってたよな。だから十三日の金曜日が来るたびに、遺言状を見直すんだって」

「ご家族は?」とウルフ。

「奥さんとは死に別れたんじゃないっけ」

「子どもはいないって聞いたことある」

「私はもう一人きりだ、だからこそ先の見えない思索に躊躇なく没頭できる、っていつだったか言ってたぜ」

「コレクションどうすんだろうな」

「コレクション?」

 聞き返したのは僕だ。訳知り顔の丸顔が二重顎をふるりと揺らす。

「ほら、ホール教授は近代絵画の蒐集家だったろ。一回だけ見せてもらったことあるんだけど、すごい数あってさ。でも天涯孤独ってことは相続者がいないってことだろ。そういう場合ってどうなるんだろうな」

「おいおい、ここを法学部と間違えてないか?」

 小さな笑いが起きた。僕はさりげなく話の筋を戻す。

「ホール教授が亡くなった日の朝に、仮校舎のキッチンが荒らされてたって話、知ってる?」

「ああ、知ってる知ってる。俺それの片付けやらされたんだよ」と一人がポップコーンを口に放り込みながら言った。「結構ひどく汚されててさ、掃除が大変だったんだ」

「その場には他に誰がいましたか?」

 ウルフが聞いた。

「ホール教授とタイナー准教授と、後は俺みたいにちょうど居合わせてたせいで捕まった学生が三人かな。ひどかったよ、汚い水がぶちまけられててさ」

 彼は弾け損ねたトウモロコシの種を噛んだかのように顔をしかめた。

「裏口の鍵も壊されてたんだって?」

「そうそう。無理矢理こじ開けでもしたんだろうな、鍵が掛からなくなってて。修理屋もすぐには来られないってタイナーが言うし、仕方ないから代わりにワイヤーロックをぶら下げておいたんだけど――」

「えっ? ワイヤーロック?」

 そんなの初耳だ。ウルフも目を剥いて身を乗り出している。

「そう。だって、いくら研究にしか使ってないとはいえ、開けっぱなしってのは不用心だろ? 気休めだけどさ。その辺のショップで、ほら、自転車に付けるようなやつあるだろ? 鍵で開けるやつ。あれの安いの買ってきて掛けといたんだ」

「でも――」

 言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。でも警察はそんなこと言っていなかった。ワイヤーロックが掛かっていた、なんてことはおろか、壊されたワイヤーロックが見つかった、とも。

「何?」

「いや、なんでもない」

 適当にはぐらかす。ホール教授が殺害されたとは明言したくなかった。今のところ、幽霊の証言しかないんだし。

「君が錠を掛けたのは何時頃ですか?」とウルフが口を挟んだ。

「七時くらいだったかな。夜のね。朝は時間がなくて、授業が終わってから行ったから」

「誰かの指示で掛けたんですか?」

「いや、俺の独断で」

「それの鍵は誰に?」

「そりゃ、ホール教授に渡したけど」

「ありがとうございます」

 それから僕らは他の先生たちやジュールの評判を聞いた。オブライエン先生が夜道でうっかり警官を投げ飛ばした話(目が悪いうえにせっかちで、頭でっかちだからだろう、ってみんなが笑った)。タイナー准教授が不眠症に悩まされている話(完璧主義者で潔癖症のきらいがあるから、眠れなくて当然じゃないか、というのがおおよその見解だった)。ジュールがラグビー部の優秀なアタッカーだという話(“諸刃の剣”と呼ばれるゆえんは、よく反則をもらって退場させられているからだそうだ)。

 そんな話でひとしきり盛り上がると、場は急に静まりかえった。ポップコーンを咀嚼する音までも徐々にフェードアウトしていく。

 やがて完全な沈黙が下り立ってしまうと、

「死とは何か」

誰かがぽつりと呟いた。

「魂と肉体の分離」

「プラトンかよ」

「魂は不死だ。そう考えればさっき見た幽霊だって説明がつく」

「あれは殉教者だろ。殉教とはいえ自殺なんだから、例外だと考えるべきじゃないか」

「殉教と自殺を一緒くたにするなよ。意味合いが全然違うんだから」

「魂がイデアで永続するものだとしたら、魂の状態である幽霊が目に映るのはおかしくないか。イデアは捉えることのできない本質だろ」

「そもそも幽霊と魂は同一視していいものなのか?」

「死後に何かが残ると考えるほうが問題じゃないか。何も残らないだろ」

「じゃあ幽霊の存在はどう説明するんだよ」

「死した人間とはまた別の現象。そう考えないと、この世は幽霊だらけになるぜ」

「見えていないだけで可能性はある」

「ホール教授はさ」

 ふいに、張り上げたわけでもない一人の声で、ぷつりと議論が途切れた。

「誰もが到達する場所へ、少し駆け足で行ってしまったんだな」

 全員の背中に湿った空気がのしかかってきたような気がした。エイト・ブリッジの八人はそれを大切に抱え込んで、ぽつぽつと静かな雨を降らすように、ゆっくりと話を再開させる。追悼会の様相を呈してきた場を、僕らは慎ましやかに辞した。

 雨が近いのか、それともさっき背負った空気のせいか分からない。湿った夜風が全身にまとわりついてくるようで、ひどく歩きにくかった。

 僕らはしばらくの間、黙って坂を下った。

 キャンデラ・ストリートを半分ほどいった辺りで、自分が話せるのだということを思い出したかのように、ウルフが口火を切った。

「誰もが至るべき場所へ、無理矢理背中を押して追いやった人間がいるわけですよね」

「うん」

「野放しにはできません」

「うん」

 僕は心から頷いた。

 暗闇の中でもそうと分かるほど、ウルフの瞳は色濃く黒く、そして燃えたぎっていた。

「改めて情報を整理して、犯人となり得る人間を洗い出しましょう」

「オーケー」

「ワイヤーロックの情報から、侵入者の存在は明らかになりました。警察は錠の話をしていなかった。つまり、侵入者が持ち去ったということになります」

「そうだね」

「おそらく、二階の窓から侵入して犯行に及び、ホール教授から鍵を奪って勝手口から出ていった、という流れでしょう。持ち去った、ということは、錠が掛けられているということ自体を知らなかったうえ、ホール教授が掛けたと思い込んだのだと考えられます」

 僕はちょっと考えて、彼がその解に至った過程を理解した。

「そっか、生徒が掛けたって知っていたら、それを残しておかないと侵入の痕跡になってしまうから」

 その通り、とウルフが頷く。

「侵入のタイミングは教授が散歩に出たときでしょうね。犯人は、教授は雨で足を滑らせた、というシナリオにしたいはずですから。散歩から戻ってきたところを狙ったと考えるのが自然です」

「同感。でもそれじゃあ、教授が散歩に出るのを見張ってないとまずいんじゃない?」

「十時頃、警備員が赤い服の人物とすれ違った、という話を覚えていますか」

「あ」

 そういえばそんなことをサマーヘイズ刑事が言っていた。

「それじゃあ、その人が」

「おそらくは。といっても、顔も年齢も分からない情報ですから、犯人を絞る役にはほとんど立たないのですが」

「ちょっとは役立つ?」

「関係する人物がその時間に出歩いていたことが分かれば」

「結局アリバイの話になるのか」

「ええ。ですが、アンドリューズの件とは切り離して考えられるようになりましたので」

 それはそうだ。アンドリューズの転落は事故だったと証明されたために、連続性はないとはっきりした。ということはつまり、と考えを進めて、すぐに首を傾げる。

「でも、あんまし変わってないんじゃない?」

 ウルフは意外そうな顔になった。

「かなり変わったと思いますが」

「マジで? だって、連続事件じゃないって分かっただけで、容疑者は減ってないんだよ」

「確かに減っていません。むしろ増えました」

「増えた?」

「はい。ホール教授を害する理由だけがあればよくなったんですから。アンドリューズとは関係ない人間でいいんです」

「そっか」

「むしろ犯人は、アンドリューズの転落事故を利用して、関連性があると見せかけることで自分の犯行を隠そうとしたのでしょう。呪いだと判断されれば最も都合が良かった。仮にそれが上手くいかなかった場合は連続事件だと判断されるようにして、間違っても自分に容疑を掛けられることがないようにしたかったのだと思われます」

「なるほど。それじゃあ」

 僕は先を促したつもりだったのだが、彼は考え込むように黙りこんでいる。なんとなく顔色が悪いように見えたから、僕もそれ以上追及しようとはしなかった。

 寮の鍵が閉まる時間はとっくに過ぎている。けれど、一階の談話室の窓の鍵が壊れていることを知っている僕らは何の問題もなく部屋に戻った。

 ウルフは、僕がシャワーから出てきたときにはもう寝ていた。かすかな寝息が耳に届く。一方、僕はなんとなく寝付けなくて、小さな明かりを灯して本を手にした。ずっと読んできた『ほんものの魔法使』もそろそろおしまい。気弱な手品師がアダムのことをぺらぺらとしゃべってしまい、相棒の犬は捕まって閉じ込められて、さぁいよいよ悪党たちの計画は実行される――いや、

(悪党? アダムと敵対している彼らって、別に悪党ってわけじゃないんじゃないか?)

 本物の魔法使いが台頭してしまったら、自分たちが食い扶持を稼げなくなる。その恐怖に突き動かされて、自分と家族の生活を守るために行動したのだ。誇張した噂を流し、人々を煽り、自分の手だけは汚れないように万全を期しながら。

(やり方は小狡いし、汚いし、最低だけど。動機は充分理解できる――)

 ――理解できる動機があるなら、殺人だって許されるのか?

(まさか)

 僕は僕の思考を振り飛ばした。

(動機が何であれ、やり方を間違えちゃいけないんだ。自分の生活を守るために、他人の生活を奪っちゃいけない。当たり前のことだろ?)

 やっぱりこいつらは悪党だ、と考え直して、本に向き直る。

 ちょうどそのときにウルフが毛布をはね除けるようにして飛び起きたから、僕は危うく本を取り落とすところだった。

「何、どうしたの?」

 返事はない。ただ荒い呼吸が返ってくる。僕の手元の小さな明かりでは彼の姿を映すどころか、むしろ彼の周りの闇をより深く、黒々と見せていた。まるで、彼の瞳が膨張して外界を浸食し始めたかのような、黒――。

 急に僕の喉の奥が乾きを訴えてきた。音を立てないようにそっと唾を飲み込む。

「ちょっと、出てきます」

 その声はひどく小さく、掠れていた。それからごそごそと靴を履く音がして、やがてドアが静かに開閉し、後はすっかり静寂に沈んだ。

 僕は本を閉じた。文明の光を消す。世界を包む魔法のような闇の中で、根も葉もない噂というやつについて考えながら、ぎゅっと目を瞑った。

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