わたくしは一度、後宮を追放された身ですので。狼陛下、溺愛はお止めください
オオカミ獣人(男) × オオカミ獣人(女)です。お好きな方はどうぞ。
今夜は満月。
狼の力がもっとも強まるこの日、陛下の正妃候補が後宮に集まります。
春に集まった上流階級の女たちは、冬の繁殖期まで後宮にとどまる。選ばれた者のみ陛下と同衾し、正妃となるのです。
わたくしも正妃候補のひとり。でも、わたくしは異例の妃です。
(戻ってきたのね……)
後宮の門をくぐる列の最後尾に並んでいると、他の妃がわたくしを見て、ひそひそ話をします。
「底辺階級が、ここにいるなんて……」
「魔性のフェロモンで、上流階級の官僚を惑わしたって話よ。みさかいなく発情したんじゃないの?」
「まぁ、不潔ね……狼に求められるのは、貞淑さ。他のオスと交わったメスなど、陛下は見向きもしないわよ」
彼女たちの言葉に苦笑します。わたくしもかつては、上流階級であることが誇りでした。
(でも……今は底辺階級よ。あれからもう3年経った……)
薄絹をまとう妃たちが礼をして、後宮の門をくぐっていきます。
門の向こう側には、狼らしい耳を頭にもち、尻尾を警戒するようにぴんと張った狼獣人がいる。
彼らは妃たちに、紋章入りの首輪を付けていきます。陛下が首裏に噛みつき【求愛痕】を付けたものが正妃となるのです。
それまで、妃たちは他の男に噛まれ、番われないようにしなければなりません。
わたくしは頭を下げ、首輪をつけてもらいました。顔をあげて、ほほ笑みます。
「フリティラリア公爵家、長女リリーでございます」
わたくしは軽やかに礼をし、他の妃と共に宮殿へと入りました。
*
わたくしが住む狼獣人の国は、ゴールデン・ストーン大陸にあります。ゴールデン・ストーンには活火山があり、ときおり、水蒸気のような温泉が大地から吹きだす場所。
七色に見える大地には温泉がでていて、獣人たちの憩いの場所となっています。
大陸には草食系、肉食系に関わらず様々な獣人が国を作り暮らしています。肉食動物が肉を食うのは禁止されており、たんぱく質は植物から補っている。
狼国はコヨーテ国、ヘラジカ国と縄張り争いをしていますが、げっし類との関係は友好です。
狼国は血統を重んじており、他種族の交わりはご法度。階級制度も他の種族より、厳しいです。
狼国の階級は、上・中・下。3つのランクに分かれています。
上流階級はアルファと呼ばれ、人型でありながら、もっとも狼らしい容姿をしています。
気高い狼耳に尾。牙も爪も鋭い。体格は逞しく、男性であれば身長は190cmを超えます。
他の階級を支配するフェロモンを放つ彼らは、人口の10%しかいないエリート集団です。
中間階級と呼ばれるのは、ベータ。彼らはアルファよりも、耳も尾も小さめで、爪と牙はありません。
そして、わたくしの階級、底辺と呼ばれるオメガは、人口の5%以下の稀少種。
オメガは子を孕むのに長けた階級。一ヶ月に一度、7日間の発情期を迎え、相手を惑わすフェロモンを放ちます。
オメガの放つフェロモンは魔性のもの。発情期中は、アルファをも屈服させると言われています。
妊娠できるのは年に一回だというのに、発情しやすいせいで、いやらしい存在と言われる。
発情を抑える薬はありますが、体が重くなり、最悪、動けなくなります。そのため、定職につくのが難しい。
誰かに庇護してもらわないと生きていけない、か弱き存在がオメガです。
オメガは狼らしい耳をもたず、人間のような耳があります。おしりから出る細い尾が、かろうじて狼獣人であることを証明している。
わたくしは3年前まで、アルファでした。
それが、陛下――グリード様が、まだ王太子だった頃。初潮をむかえた翌日。
わたくしはアルファからオメガに、突然変異してしまったのです――
「――ねぇ、カミラ。今日は、グリード様と会えるわね」
変異する前、後宮の一室にいたわたくしは上機嫌で侍女のカミラに話かけていました。カミラは中間階級で、わたくしが幼い頃から側にいた姉のような存在です。
「リリーお嬢様、興奮なさっているのですか? 狼耳がピンと立っておりますよ」
「え?……そう、なの?」
「お気づきになられなかったのですね。狼耳がへにゃりと垂れました」
「……耳の動きなんて、自分ではわからないわ」
「ふふっ。グリード様と会えるのが待ち通しいのですね」
3年前、わたくしはグリード様の妃候補として後宮にいました。
財務大臣の父を持ち、公爵家のわたくしは、早くからグリード様と交流していたのです。
まだ未成年のため、グリード様に会える時間は月に一回のお茶会のみです。
一時間も話せませんが、グリード様と一緒にいるのは、飛び上がるほど嬉しかった。
「わたくしは子供っぽいから、早く大人になりたいわ。他のアルファにグリード様を取られでもしたら……」
「グリード様はお嬢様を番にすると思います」
カミラがふんと鼻息を出して言いきります。
「えっ……それは、まだ分からないわよ……」
「グリード様は愉悦のまじった目で、お嬢様を見ています」
「えぇ?!」
「その顔の美しいこと……雄フェロモンが濃厚すぎて、ぞくっとするほどですわ」
「カミラ、目が怖いわ」
「お嬢様は魅力的ですよ」
「そう、かしら……」
「そうですとも! ウエーブのかかった長い黒い髪に、紫水晶のような透明感のある大きな瞳。愛らしい口元に、透き通るほど白い肌。深窓の令嬢を思わせる立ち姿ですが、誰よりも努力され、勉学とマナーに励まれている。
――お嬢様に堕ちないオスなど、いません」
「カミラ、目が怖いわ」
カミラがベタぼめするのはいつものこと。少々、気恥ずかしくなりながらも、素直にドレスに着替えます。
(グリード様に会える。ドキドキしてきた……)
雪を連想させるシルバーの髪に、雄々しい狼耳。威圧感のある切れ長の瞳が、わたくしを見る時は優しくなる。初めて会った時から、ひかれてやまない方。
あの当時、わたくしの心の中はグリード様でいっぱいでした。5歳年上で、成人しているあの方に追い付きたくて、背伸びをしていた。
そんな初恋は、欲情へと塗り変えられたのです。
お茶会の席でそわそわしながら、グリード様を待っていた時です。
部屋に入ってきたグリード様と目があった瞬間、雷に撃たれたような衝撃をおぼえました。
(なに、これ、)
どくどくと心臓が高鳴り、体が火照りだします。悪寒に似た震えが全身を駆け巡り、喉が渇く。
ほ し い。
彼 が ほ し い。
――首の裏を噛んで、あなたの番にして……
「グリード……さ、ま……っ」
「っ!!!」
震える声で名前を呼ぶと、グリード様は強いフェロモンを放ちます。猛然と歩みよられ、乱暴に椅子から立たされる。そして、噛みつくようなキスを、わたくしに。
たくましい胸板に押し付けられ、息ができない。呼吸が、グリード様の匂いに変わっていく。
(キスされている。ダメ……なのに……)
唾液の交換は、成人してから。というのを閨教育で教わっています。わたくしはまだ未成年。
(でも……グリード様がほしい……もっと)
わたくしは無意識のうちに首裏をさしだしました。正気を失ったグリード様は、わたくしの首輪に噛みつき、引きちぎってしまいます。首裏を噛まれたら、グリード様の番となれる。
とても、幸せなことのように感じました。
「お嬢様!」
カミラが悲鳴のような声をあげ、わたくしを背後から抱きしめます。衛兵と医師にも。
「いやっ! グリード様! グリード様!」
「お嬢様、落ち着いてください!」
「いやぁぁぁ!」
錯乱しながら前を向くと、グリード様も数人の衛兵に押さえつけられていました。
腹心であるローガン様の制止もきかず、彼がかけていた眼鏡が、グリード様に吹き飛ばされます。
「グリード様――!」
手を伸ばした時、わたくしの視界は暗転しました。
わたくしとグリード様は鎮静剤をうたれ、眠らされたのです。
*
目が覚めたとき、カミラの泣き腫らした顔が見えました。医務室にいるようです。
「お嬢様……ご気分はいかがですか……?」
「だるいわ……」
体は鉛のように重く、鈍痛がお腹からします。熱っぽく、はふはふ息が出てしまう。起き上がろうとして、ふと違和感に気づきました。
(尻尾……こんなに細かったかしら?)
手足のように動かせた尻尾が、だらんと下がっていました。
「カミラ、わたくし……」
涙をこらえるカミラに問いかけようとした時、部屋の扉が開きました。入ってきたのは、後宮の医師。
「リリー様、お話があります」
医師は沈痛な声で、わたくしがオメガに変異したことを伝える。とうてい信じられるものではありません。
「嘘、ですよね……?」
医師は無言でした。それは、現実であるという何よりの証明。
「オメガとなったリリー様は、オメガ保護法に基づき、後宮を退去。保護施設にいくことになります」
「後宮を追放……ということ、ですか……」
「施設にはオメガに詳しいシスター・マルアがいます。その方に指導を受ければ――」
「――嫌! いやあ!」
目の前が真っ暗になり、叫んでいました。
「くっ! 鎮静剤を!」
「いや! いや! グリード様っ!」
強烈な慕情が、胸に広がる。グリード様と引き離されるのが苦痛でした。取り押さえられ、鎮静剤をうたれた時、願ったのはひとつだけ。
(グリード様のそばにいたいの……いたい、だけなの……)
叶わぬ願いを抱きました。
鎮静剤をうった数日後、鉄格子で隔離された部屋で、お父様と面会しました。
発情期が不安定なオメガは、アルファと抱擁することを禁じられています。たとえ、家族でも。
「辛かったな……本当なら、今すぐリリーを抱きしめてあげたいよ」
毅然と公務をされていたお父様の涙声を、その時、初めて聞きました。
後宮を去る日、カミラがわたくしを支え、門をくぐりました。わたくしは泣いていて、カミラにお礼のひとつも言えない。
「何があろうと、私はお嬢様の味方です。オメガになろうと、変わらず可愛くて美しい、私のお嬢様です」
カミラが居なかったら、わたくしの心はすり切れていたでしょう。施設に行くまでの間、安定しない発情で正気を失うわたくしをカミラは支えてくれていました。
*
オメガ保護法。
子を産む道具として扱われやすいオメガの権利を守る法律です。オメガが一匹狼とならないように。
保護施設には、未成年のオメガがいます。男女別の全寮制の学校があり、成人すれば仕事を斡旋してくれる。場所は辺境にあります。
黄色いむき出しの崖を横目に、運河を船でくだっていきます。
切り立った崖が要塞のようになった場所に、施設が見えた時。
船員のひとりが転がるようにわたくしの部屋に入ってきました。
「コヨーテ盗賊団の来襲です! リリー様とカミラさんは部屋から出ないでください!」
船員は、それだけ言うと、扉をしめてロックをかけます。
「コヨーテ……盗賊が……」
「お嬢様、大丈夫ですよ。船には護衛がいますし」
「そう……ね……」
――ガウンッ!
ふいに、外から銃声が聞こえました。はっとして窓の外を見ると、甲板に乗り込むコヨーテの姿が。
コヨーテは舌なめずりしながら、狼の護衛と対峙しています。戦闘が始まっている。ひっと、喉をならして後ずさると、カミラが窓のカーテンをしめてくれました。
「お嬢様が見てよいものではありません。さあ、あたたかい飲み物でも淹れましょう」
カミラは部屋に備え付けてある小さなキッチンに向かいます。
「――アタシの娘に手を出してんじゃないよッ! コヨーテども! 去ね!」
唐突に、怒りの遠吠えが聞こえました。
けたたましい銃声が鳴り響き、船が揺れ、わたくしは座っていた椅子にしがみつく。
「なに……?」
状況がわからなくて、視線をさ迷わせます。カミラも顔を青くしている。
やがて銃声は静まり、つかつかとこちらへ向かってくる足音がしました。ドアを開けたのは、さきほどの船員。
「リリー様、コヨーテの襲撃は去りまし――」
「――ちょっと、失礼するよ」
船員を押しのけてシスターが入ってきました。
硝煙の匂いを体にまとわせ、片手に猟銃を持っています。黒を基調としたお仕着せには、血痕がついていて、争いの渦中にいたことが伺えました。年齢は六十歳ぐらい。
「初めまして、リリー。アタシは、シスター・マルアだよ」
聖母のように微笑まれ、わたくしは目をぱちくりさせました。
*
「すまないねえ。最近、ビーバーを狙ってコヨーテどもが、うろついていてね。警戒していたんだけど、護衛船に近づけちまった」
「はぁ……」
シスターに案内されて、わたくしとカミラは施設内を歩いています。カミラはぽかーんとしていて、シスターは上機嫌です。
「あの、シスター・マルア……」
「なんだい?」
「その銃は」
「ああ、これかい? コヨーテ用の猟銃さ。王都じゃないものだろう。ここは辺境だからねえ。自分の身は自分で守るのがてっとり早いのさ」
シスターの頭を見ると、あるべき狼の耳がない。つまり――
「アタシはリリーと同じオメガだよ」
飄々と言われ、絶句します。
シスターの体からは、生命力があふれだしています。とても、か弱い存在とは思えない。
「オメガだって銃はうてるし、自分の身ぐらい守れる。ここにきたリリーは、アタシの娘も同然だ。歓迎するよ」
そう言って、シスターは聖母のように眩しい笑顔になりました。
「オメガに必要なのは、発情のコントロールだ。抑制剤を少量ですむように、体と心を整えるんだよ。ま。一番いいのは、何でも笑い飛ばすことだねえ。笑っていれば、嫌なことは忘れる」
からっと笑ったシスターは、本当に常に笑顔の方でした。
保護されたオメガの少女は、シスターに笑顔をむけていて、オメガであることへの劣等感はないよう。
保護施設では、掃除も洗濯も食事も、自分でやるしかない。考える暇なく動きます。すると、半年後には、発情に悩まされることが、少なくなりました。
「お嬢様! 部屋の掃除は、わたしがやりますから!」
「平気よ、カミラ。他のみんなもやっていることだし」
「でも、お嬢様……」
「ねぇ、カミラ。わたくし、オメガでいることに絶望したわ。どうして、こんなことになったんだろうって……ずっと、考えていた」
「お嬢様……」
「でも、そんな風にしか考えられない自分を恥じたの」
「えっ……」
「施設にいるオメガは、みんな生き生きとしている。わたくしも、みんなやシスターのようになりたい」
オメガになって初めて心から笑いました。
雑巾を縦にしぼり、床を磨いていると、カミラが手伝ってくれます。
「床の木目にそって拭くと、きれいになりますよ」
「カミラ……」
「お嬢様はオメガになってから、より美しくなられましたね」
「そうかしら……」
「お嬢様、尻尾がピンと立っていますよ?」
「え?! 嘘っ」
「ふふ。お嬢様は分かりやすいですね」
「もう、カミラ。からかわないで」
頬をふくらませて横をむくと、カミラはクスクス笑いました。
シスターの指導を受け、一年が過ぎました。
快適に過ごしていた日々は、ビーバーたちの悲痛な声で、一変しました。
施設に流れこむように、大勢のビーバー獣人が来たのです。怪我をしている者もいました。
「族長! 何があったんだい!」
「ああ、シスター・マルア……実はコヨーテが村を襲って」
「あのクズどもッ!」
「……コヨーテの大群に、我々は成す術はなかった」
「あんたらは森の建築家。あんたらがいないと、カワウソやげっし類が棲みかを作れなくて、こまっちまう。――任せておきな!」
シスターは施設の中で一番高い建物の屋上に行くと、遠吠えをしました。
要塞のような崖に声は響き、こだましながら、王都へ向かっていく。
声が静まると、返事の遠吠えが、かすかに聞こえました。シスターはわたくしたちの元にやってきて、胸を張ります。
「軍に伝えたよ。援軍がくるはずさ!」
シスターの明るい声にビーバーが「くーくー」と鳴きます。
「……ありがとう、シスター・マルア」
「礼をするのは、村を取り戻してからにしておくれ。今はたっぷり休む! ここにいれば、安全さ」
シスターは希望の光のようでした。
(わたくしも、できうることを)
ビーバーの手当てに料理づくり。眠れないと言う彼らに、あれこれ合う布を探す。フリース素材の生地は好みだったようで、ビーバーはぐっすり寝てくれました。
必死で体を動かし、二日後。
王都から狼軍がやってきました。
アルファ率いる狼軍は精鋭部隊です。きっと、ビーバーの村を取り戻してくれるでしょう。
期待の眼差しで、男性寮に入る軍を待っていると、懐かしい匂いがしました。
(えっ……う、そ……)
軍隊長は、グリード様でした。前より顔立ちが精悍になり、体つきも雄々しい。彼から放たれるフェロモンは強烈で、媚薬のよう。
わたくしは、体を硬直させました。グリード様はふと立ち止まり、鼻をひくつかせます。彼の金色の瞳が、わたくしの方に向く。
(ダメっ……また、狂ってしまうっ……!)
わたくしは咄嗟に駆け出し、部屋に引きこもりました。付き添ってくれていたカミラが、そっと声をかけてくれます。
「お嬢様……グリード様に会わなくてよろしいのですか……? こんな機会、もう二度とないかもしれませんのに……」
「会ってはダメよ。……だって、だって!」
彼はもう、手の届かない人だから。
「……忘れた方がいいのよ」
「お嬢様……」
カミラが痛々しい目で、わたくしを見ます。その視線から逃れたくて、わたくしは目を伏せました。
*
ビーバーの村、奪還作戦は成功しました。狼軍がコヨーテを蹴散らす様は、肉食獣らしかったそうです。
「くーくー! グリード殿下、まことにありがとうございます!」
ビーバーたちの称賛の声を遠くで聞きながら、わたくしは調理場にいました。戦勝記念に、ビーバーと狼軍がテーブルを囲むそうです。大量の料理を盛り付けていると、シスターに呼び出されました。
「グリード殿下が、リリーに会いたいってさ」
わたくしは動揺のあまり、持っていた皿を落としてしまいます。石の床で白い皿が叩き割られる音を聞いて、我に返る。
「申し訳ありません……すぐに、片付けを……」
「危なっかしい手つきだね。怪我はないかい?」
「はい……ケガは……ないです……」
シスターは割れた皿の破片を拾いながら、小声で話します。
「グリード殿下は、リリーのことを【魂の番】だと言っていたよ」
――魂の番。オメガとアルファのペアにあらわれ、運命の恋をすると言われています。
ロマンチックなおとぎ話の題材となるような、あるかどうかも分からないもの。
「魂の番なんて、おとぎ話の中の話です……殿下には立場がありますから……」
「そうだね。グリード殿下は、王太子。妃選びは慎重になるね。……でも、リリーの気持ちはまだ、殿下にあるんじゃないかい?」
シスターに言われ、胸の奥が痛みます。
「……もう、忘れたいのです」
「なら、会って、グリード殿下に言ってやるんだね。――魂の番だと思っているのは、あなただけですって」
「そ、れは……」
「アタシは優しくないからねえ。娘がうじうじしてたら、お節介を焼きたくなるのさ」
シスターが皿の破片をすべて拾いあげます。箒で床を掃除すると、床は元通り。
「皿をゴムの樹液でくっつければ、また使えるだろ。さ、リリー、行くよ」
「えっ」
シスターはわたくしの腕を掴むと、引きずるように歩きだしました。
連れてこられたのは、鉄格子で隔たれた面会室。
部屋の扉を開けたとき、グリード様の香りがしました。
匂いに反応して、体が熱を帯びる。
グリード様はわたくしの姿を見ると、鬼気迫る勢いで、鉄格子まで近づきます。
がっ、と。鈍い音を立てて、鉄格子が悲鳴をあげます。グリード様は鉄格子を強く掴んでいました。金色の瞳はわたくしを捕らえ、離さないとでも言いたげです。
「グリード殿下、リリーが怯えています」
シスターの言葉にグリード様が、はっとした顔になりました。
「すまない……」
グリード様が鉄格子から一歩、離れます。鋭かった切れ長の瞳は、すっかり弱々しい雰囲気。わたくしは吸い寄せられるように、鉄格子の近くに歩み寄りました。
「リリー……」
泣きそうな声で呼ばれます。
(そんな顔をしないでください……わたくしは、)
訳もなく、瞳から涙がこぼれ落ちました。これ以上、近づいてはいけないと頭ではわかっているのに。
心が、体が。目の前の人を求めてしまう。
「リリー。泣くな! 悪いのは俺だ……!」
グリード様は蒼白し、鉄格子を壊しかねない勢いで近づきます。
「君がオメガに目覚めた時、俺は何もできなかった……あの時、理性を失ったのは俺の方だ。成人前の君に襲いかかるなど……あってはならなかった」
苦しげに呟かれた言葉に、動揺します。
(グリード様が自分を責めている?……そんな。あれは、わたくしが――)
「違います! あの時、はしたなくもグリード様のものになりたいと願いました! グリード様に焦がれて、だからわたくしは……」
(オメガになってしまったの)
突然変異の理由も、そう思えば納得できました。
(わたくしは、グリード様を思いすぎたのよ……だから、もう、)
わたくしは両手をつき、冷たい石の上に頭をさげます。
「再びお会いできて、嬉しゅうございました。最果ての地より、グリード様のご健康をお祈り申し上げております」
「……俺とはもう、会わないということか……」
「っ……会うことは……叶いません……から」
静かに告げて、顔をあげる。グリード様の金色の瞳は仄暗くなっていました。
「なぜだ?」
「えっ」
グリード様のフェロモンが解放されます。アルファの匂いを浴びて、理性がどろどろに溶かされる。支配されそう。
「会いたくないのなら、このまま鉄格子をへし折って、拐ってしまおうか。俺の匂いをまとわせておけば、リリーは従順になりそうだな……」
「グリー……ド、さ……っ」
フェロモンの支配力に耐えきれずに、ふらりと横に倒れる。
グリード様が鉄格子の隙間から腕をのばし、わたくしを支えてくれました。
ぼんやりとした視界の先で見えたのは、泣きそうな顔。
「リリー。もう君を手放せないんだ。オメガを妃に迎えられる国を作る。君を番にする。今回の出兵だって、俺自ら志願した。国内で力を得るためだ! だから――」
「――口だけなら、なんとでも言えるさ」
シスターが背後からわたくしを抱きしめ、グリード様から引き離します。
「……シスター?」
「かわいそうに。雄フェロモンで腰がくだけちまったね」
よしよしと背中をさすってくれます。
シスターはふんと鼻を鳴らして、グリード様を睨みつけます。
「後宮はオメガを受け入れない。あんたがごねても、変わらないよ」
「元・後宮の妃。だからこその話か」
「昔の話をひっぱり出すんじゃないよ。アタシは現状に満足したババアさ」
「助言、痛み入るが、俺は強欲なんだ。王になって、後宮のルールを変える」
「あんた一人では守りきれないよ。リリーを傾国の悪女にでも、する気かい?」
グリード様は言葉をつまらせました。
(傾国の悪女……? グリード様がオメガを妃に迎えたら、狼国はどうなるの? アルファ信奉が強い国内では、反発が強いはず……そしたら、グリード様のお立場が悪くなる)
それは、わたくしの望む未来ではない。
「グリード……様……」
わたくしはシスターから離れ、ふたたび床に手をつきました。
「わたくしを番に望まれること、嬉しゅうございます。ならば、余計に。溺愛はお止めください」
「リリー……頭をあげてくれ。君とは同じ目線でいたい。対等でありたいんだ」
「それは、無理です」
「っ……」
「あなたは王となる方。わたくしは臣下の娘。あなたはアルファ。わたくしはオメガ」
「リリー……」
「溝は埋められません。ですから王の目で、わたくしを見定めてくださいませ。リリー・フリティラリアは、王妃となれる狼なのか」
声が震えないように、ゆっくりと言葉を紡ぎます。
「あなたはビーバーを助けた。名君になりますわ。曇りなき眼で国を見つめ、番をお決めください」
凛とした声でいうと、グリード様は嘆息した。狼の尻尾がブンブン揺れています。
「そんなこと言われたら、ますます欲しくなるじゃないか……」
「え……?」
「こちらの話だ」
こてんと首をひねると、グリード様は尻尾を激しく振り乱しました。
「結論を急ぎすぎたな。出直す」
立ち上がって、わたくしを見下ろしたグリード様はぞっとするほど美しく微笑まれました。
「必ず迎えにくる。俺の番はリリーだ」
ぶわりと、嵐のようなフェロモンに包まれる。火がついたように熱をもった体が恥ずかしくて、口元をおさえます。
強すぎる残り香をおいて、グリード様は退室されました。
「ありゃあ。絶対、リリーを諦めないね」
「シスター……そんな、ことはっ」
「若人の痴話喧嘩を見るのも、たまにはいいねえ」
「……?」
「くくっ。おもしろいね。リリーは後宮に戻りたいかい?」
シスターの言葉にドキリとします。諦めた願いを今なら口にできるでしょうか。
「戻りたいです」
(グリード様の番になりたい)
シスターは不敵に笑いました。
「リリーが妃を目指すなら、アタシが知っている全てのテクニックを教えるよ。官僚の落とし方も、銃の持ち方も」
シスターは聖母ではなく淑女のように、ほほ笑みました。
*
グリード様と再会して数ヵ月後。成人したわたくしは医者の診断を受けました。
「発情のコントロールはできています。外に出ても問題ないでしょう。抑制薬は引き続き、お飲みください」
施設からの出所が認められ、わたくしはカミラと共に家に帰ることになりました。
「シスター・マルア、お世話になりました」
「リリーはもうアタシの娘だよ。困ったことがあったら、いつでも頼りな」
「……シスター……」
「こらこら、泣くんじゃないよ」
こぼれそうになる涙をぐっと飲み干して、ウインクをしたシスターに頭をさげました。
食料を運ぶ定期船に乗り、家へ。二年ぶりに再会したお母様は、わたくしを抱きしめました。顔中にキスをされ、涙声で話しかけてくれます。
「ああ、リリー……リリー。おかえりなさい……」
「お母様……」
「リリー」
「お父様……?」
二年みないうちに、お父様はすっかり痩せていました。顔に疲労が色濃くでて、昔のような凛々しさがない。
「リリー。おかえり。よく、頑張ったね」
お父様が大きな体で、お母様とわたくしをまとめて抱きしめます。ぬくもりに包まれ、ようやく戻ってきたのだと、実感できる。カミラはむせび泣いていました。
夕食をいただき、ほっとするのも束の間。わたくしは社交界への復帰をお父様がたへ伝えました。後宮への道は、長く遠いもの。少しでも近づきたくて、官僚の方々へご挨拶したかったのです。
ところが、それはできないと言葉を濁されました。
お父様はハッキリとは言いませんでしたが、家令が教えてくれました。わたくしがオメガとなって以来、お父様はずいぶんと肩身の狭い思いをされていたようです。
「旦那様は大臣として、実直に財務の仕事をされておりました。グリード殿下の言葉添えもあり、左遷されるようなことはありませんが、奥さまへのお誘いはなくなりました……」
(わたくしがオメガになったばかりに――と思うのはやめるべきね)
オメガであってよいと、施設で学びました。何もいわずに、ただ迎え入れてくれたお父様とお母様。ふたりの気持ちに胸がしめつけられます。影ながら家を守ってくださった、グリード様にも。
「お父様とお母様に感謝しなくては」
そうは思っても、一度、追放された者が這い上がる術はないのでしょうか。途方に暮れ、遅れてしまっていた勉学に励みます。なにかしていないと、心が折れてしまいそうでした。
転機は唐突に訪れました。
グリード様が王となられたのです。
王太子として狼軍を率いたグリード様の功績はめざましいものでした。
確執のあったヘラジカとの和平交渉。ビーバーをはじめ、げっし類たちの保護。同盟の強化。
ヘラジカが国の周辺の森を荒らさなくなったことにより、木々が育ち、大地が息を吹きかえしました。食料の自給率が上がったそうです。
成熟した大人となったグリード様は、王に一対一の決闘を申し込み、勝利。強いものが王となるルールにより、グリード様は新王となりました。
それは白銀の雪が大地をおおう冬の出来事でした。
新王のため、後宮に淑女が集まります。妃候補に、わたくしは選ばれました。
しかし、後宮へ来るように伝えてきた陛下の腹心、ローガン様の様子がおかしい。
鼻にかけた眼鏡を指で持ち上げながら、厳しいことを言います。
「あなたを後宮に連れてこいと陛下に命じられましたが……私はオメガを後宮に入れるのは反対です。陛下は国をよい方向へ動かすお方。わざわざ批判の強いことをしなくてもよいでしょう。
オメガは発情する階級。
オメガが他のアルファに狂わないのか、試させてください」
ローガン様は若いアルファの兵士を連れてきました。番を持たないアルファに、オメガは惹かれやすいからです。
兵士がわたくしを見て熱っぽい視線を送りますが、わたくしの心は動きません。
(わたくし、陛下しか誘惑したくないみたい……)
グリード様を見ると体がすぐ火照ってしまうというのに。欲深い体に憂いをのせて、ため息を吐くと、兵士のフェロモンが強まります。それでも、心は冷めたままでした。
それから、30名ほど。未婚の兵士と会いましたが、わたくしの体は冷えたまま。その代わり、兵士とは仲良くお話ができています。
「リリー様……リリー様を見ると男心が刺激されますッ!」
「リリー様! ファ、ファンです! しゃっす!」
「まぁ、みなさま。ありがとうございます」
にっこりと微笑むと、兵士から歓声があがります。
「……オメガはアルファを惑わすと学びましたが……私の想像とは、だいぶ違う光景ですね」
30名の兵士に囲まれているわたくしを見て、ローガン様が嘆息する。兵士の熱烈な推薦もあり、とうとうローガン様は折れました。
末席の妃として、わたくしはカミラと共に後宮に戻ったのです。
後宮を去ってから、3年目の春でした。
*
後宮のホールに、妃候補が集まります。
満月の夜、月に一度、陛下は添い寝の相手を決めます。体の匂いをテイスティングされ、陛下のお好みなら、妃候補は陛下と同衾する。
一晩、陛下の匂いに包まれることは妃候補にとって、この上ない喜びです。
妃候補たちは自慢の尻尾をみせつけるように、ドレスの色を選んでいます。でも、わたくしは。
「まるで喪服のようなドレスですこと」
「尻尾が細くてひょろっとしているから、目立たないように黒いドレスで誤魔化しているのではなくて?」
くすくす笑う声が前から聞こえてきました。わたくしのドレスは黒を基調としています。
胸元は透けるような素材を使い、近づけば近づくほど、肌が見えるもの。
――殿方は隠されたものほど、暴きたくなるもの。距離感で変化するドレスは、陛下をムラムラさせるに決まっています!
そう、鼻息荒くカミラは言っていました。
末席で静かに待っていると、陛下の登場の合図がでました。妃候補は一斉に頭をたれます。
(グリード様の匂いだわ……)
顔を見なくても香りでわかってしまう。
じわじわと熱くなる体をもて余して、ほぅと息を吐きます。グリード様の足音が近づき、匂いがいっそう強くなる。
「良い香りだ……今夜は、この妃と同衾する」
「あ……」
腕を掴まれ、引き上げられるように立たされます。
「リリー……会いたかった……」
「っっっ……!」
目を見てささやかれ、わたくしは動揺します。
(発情してしまうわ……!)
うつむくわたくしを、陛下は大胆にも横抱きにしました。
(えっ……えっ、ま、まってくだ、あの、……えっ! えぇっ?!)
他の妃候補の視線を気にする余裕もなく、わたくしは陛下の寝所に連れていかれました。
ベッドにそっと体を置かれて、わたくしは我に返ります。慌てて、両手をついて頭を下げます。
「陛下と寝屋を共にできること、光栄でございます」
顔をあげると、目と鼻の先に陛下の顔がありました。驚き、目を開くと、鼻同士がこすりあわされます。
(いきなり、鼻キス……!)
くすぐったくて、目をつぶります。
そのうちに、陛下の鼻先が耳に近づきました。耳裏をしつこく嗅がれる。
耳はフェロモンが強くでる箇所。テイスティングされていると分かっていても、首の裏がぞくぞくします。
(へ、変な声がでそう……)
薄く目を開くと、陛下の尻尾はごきげんなようで。パタン、パタンとシーツを叩いていました。
「オメガの耳は小ぶりで可愛らしいな。気に入った――」
「――あ、……や」
頬に手を添えられ、耳の裏をざらりとした舌が通りました。わたくしは耐えきれずに、懇願します。
「陛下……テイスティングは、そのぐらいで……」
「んー」
「耳は、あの……弱いのです」
「んーー」
(聞く気がないわ!)
溺愛は止めてほしいのに。ちょっぴり涙目になって睨むと、陛下はわたくしを抱擁します。
「すまない。浮かれた」
そう言って、わたくしを包み込んだまま、体を横にしました。
とっさに体を丸めると、陛下も体を丸めて、尻尾をわたくしの背に添えます。二重丸のような体勢。
距離が近くなり、わたくしと陛下のフェロモンが混じりあいます。ドキドキしますが、幸せです。
「リリー……リリー……」
陛下の抱擁が強くなります。
「……満月の夜は、リリーの香りに溺れたい」
(それは、他の妃とは同衾しないということ……?)
本当にそうだったら、どれほど良いか。
少しだけ、泣きたい気持ちになりながら、わたくしは目を伏せました。
翌朝、目が覚めると、唇が腫れぼったくなっていました。
(口が痛いのは、なぜかしら……昨日、見た夢みたい)
陛下と何度もキスをする夢でした。わたくしからキスをねだってしまい、恥ずかしいです。
ふわふわする意識の中、陛下は身支度を整えています。その立ち姿に、昨晩の甘さは残っていません。
(王の顔をしていらっしゃる……)
乱れた着衣をさっと整え、お見送りの準備をします。逢瀬はおしまい。
陛下が部屋を出ていく音がして、背中を一目見ようと顔をあげた時です。目が合い、陛下のフェロモンが強く香りました。
「っ……!!!」
くらくらするほどの匂い。溺れそうです。
小刻みに震えるわたくしを置いて、陛下は退室されました。
(悪いお人……残り香が強すぎます)
なんとか背筋を伸ばし、わたくしも部屋を出ました。
回廊にでると、カミラがぱっと近づいてくる。いつから居たのでしょう。
「お嬢様、昨晩はようございましたね」
まるで見ていたかのようにカミラの瞳が、爛々と輝いています。
「わたくしと陛下は別に……」
「お嬢様、尻尾がゆれています」
「えっ……!」
驚いて臀部を見ると、確かに細い尻尾がゆれています。かなり激しく。
「これはっ……そのっ」
「ふふ。陛下との逢瀬が楽しくて喜ばしいことです。私には陛下の気持ちが手に取るようにわかりますわ。私のお嬢様は美しく、聡明で、恥ずかしがりやで、照れが隠せなくて――」
「――カミラ、そのくらいにしてっ」
たった一晩の寵愛で浮かれてはいけない。わたくしは妃候補のひとりですから。
*
陛下のお渡りがない日、妃たちはお茶会を開いたり、ひだまりの下で宴を開きます。
後宮の庭で、おにごっこをしてはしゃぐ他の妃を見かけました。
「あっれー? あなたも遊びたいのぉ?」
赤褐色の耳と黒い尾を持つ狼が、大きな声で話しかけてきました。
「ごきげんよう。あなたは……コーラス様ですか?」
「え! アタシのこと知ってくれてんの? すごいね! さっすが、陛下のお気に入り!」
「えっ……」
「そんなにビックリすることないじゃん! みーんな言っているよ! 陛下の番、最有力候補は、リリーさんだって!」
おにごっこをしていた妃が、わたくしを見ます。嫉妬の視線を感じ、わたくしはほほ笑みで返事をしました。
「あはは! オメガって聞いていたから、弱々しい人と思ったけど、リリーさんはそんなことないね!」
コーラス様は走り去ってしまいます。おにごっこに参加されるようです。キャアキャア言いながら、彼女たちは遊びはじめました。
カミラが嘆息して話しかけてきます。
「コーラス様、最近、アルファが生まれた家でしたね。礼儀作法がなっていないです」
「そう目くじらをたてることもないわ。楽しい方よ」
「お嬢様は甘すぎます」
「そう目くじらを……でも、不思議な匂いがする方ね」
「え? そうですか?」
「……どこかで嗅いだことがある匂いだわ」
そう言っても、答えは見つかりませんでした。
不思議な疑問をいただいていましたが、コーラス様とは、その後、カピバラ使節団のお相手をする時、また話かけらました。
秋が深まった頃です。
「カピバラって、げっし類でしょー? アタシ、苦手」
コーラス様はぶうぶう文句を言っています。
「カピバラ使節団は、鳥類や他の動物と友好関係を築く、森の調停人。もてなすことは、王妃候補の役目でもありますわ」
「知ってるけどさー。嫌なものは嫌!」
コーラス様の言葉に苦笑しました。
穏やかな性格のカピバラは、若い妃がそそうをしても怒ることはありません。そのため、妃候補と交流する場があります。
スイカなどの果物が並んだ席に、もじゃもじゃの体毛に覆われたカピバラがいました。
姿形は、動物そのもので、二足歩行するカピバラ。
カピバラはのっそりと動き、スイカをもしゃもしゃ食べていました。長老と呼ばれる方に妃が次々と挨拶します。わたくしとコーラス様の順番になると、長老は目を見張りました。
「あなたが、リリー様ですね。ビーバーたちから、お噂をきいていますよ」
「ビーバーの方々からですか……」
「村が襲われた時に、大変、親切にされたとか」
「……わたくしは、できることをしたまでです」
「ほほほ。なんでも、あのシスター・マルアのゴッドフィンガーを受け継いでるとか――温泉に入るのが楽しみです」
長老はそういうと、大きな体を立ち上がらせました。これから長老は、狼国自慢の七色岩の温泉に入ります。
大事なところが隠された姿になった長老は、頭にぽんと柚子をのせて、温泉をたしなんでいます。
(あれが、シスターが言っていた柚子……)
脳裏に教えがよみがえります。
――カピバラ使節団を味方につけると、国外の評価が上がるよ。ターゲットは長老。奴の頭の柚子は、ちょっとやそっとじゃ落ちない。アタシが編み出した【必殺・柚子落とし】を使って悩殺しな。
長老が湯からでました。他の妃は、渋い顔をしてタオルを手渡すだけ。わたくしは長老にほほ笑みかけます。
「お体に、触れてもよろしいでしょうか」
「……ああ、頼むよ」
風呂椅子に腰かけた長老の背に回り、わたくしはマッサージをしました。
「くぅぅ。きくのぉ」
「痛みはありませんか?」
「おお、大丈夫じゃ。もっと強くても」
「まぁ……では――」
わたくしは遠慮なくツボを押しました。長老は声をあげて身もだえます。
「きっくうぅぅぅ!」
「こっておりますね。お疲れですか?」
「ぬおおおお! このツボはたまらん! 柚子がー! 柚子がアアアアア!」
「ここも、ですね」
「効きすぎて、柚子がゆれるぅぅぅぅぅ!!!」
「こちらのツボもお試しを」
「あ……柚子……」
落とさせていただきました。
長老はわたくしのことを【神の手】とお呼びになり、大変、満足されて帰っていきました。
陛下はカピバラ使節団のことを聞いたようです。中秋の満月の日も、わたくしと同衾しました。
「カピバラ使節団から、リリーを正妃にしてくれと言われた」
「もったいないお言葉です」
「リリーが認められると俺も嬉しいが、少々、妬けるな」
「えっ……」
「俺もリリーのゴッドフィンガーを試したい」
「……ち、稚拙なものですからっ、それに陛下の方がよほどテクニシャンですわ……」
「……ほぉ」
「あ、え? 陛下?……手が、」
満月の日は、いまだに陛下に翻弄されます。
(また、腰砕けにされてしまったわ……)
添い寝だけですのに。どうしてこうなるのでしょう。
少々、恨めしい気持ちになりながら、陛下を見上げます。陛下は目を細めて、わたくしの腫れた唇を指でなぞりました。
「もうすぐ冬ごもりの日になる。そうすれば、堂々とリリーを俺のものにできる」
正妃は冬の足音が聞こえる時期に決まります。わたくしからは何も言えません。
(でも、グリード様とお呼びしたい……昔のように)
欲を深めたから、でしょうか。
妙に静かな寒い夜、唐突に事がおこりました。
カミラの叫ぶ声で、目をさまし、わたくしは飛び起きました。妙な匂いがして、顔をしかめます。
「――お嬢様! お逃げくださ……!」
「カミラ!」
目の前でカミラが男に殴られ、倒れました。すぐに駆け寄ろうとしたのに、わたくしに銃口が向けられます。
「騒ぐな。一緒に来い」
「……カミラに乱暴しないと誓うなら」
「いいだろ」
男はひとり。手慣れた様子でわたくしを縛り上げると、わたくしを突き飛ばします。
(男の匂い……どこかで)
「さっさと歩け」
連れていかれたのは、後宮の外。物置小屋のような場所です。声をださずに入ると、キャハハと笑い声が聞こえます。
「やだぁ。リリーさんってば、本当に付いてくるなんて! バカじゃないの?」
黒い尻尾をゆらしながら近づいてきたのは、コーラス様です。さほど、驚きませんでした。だって、彼女と男からは同じ匂いがする。
「……わたくしをどうしたいのですか?」
「簡単なことだよ! ここにいる男たちと交わってもらうの!」
コーラス様の背後から五人の男がでてきます。舌なめずりした口元を見て、ぞっとする。
「アタシの家はさー。コヨーテと狼の亜種なの。ずーっと、アルファが産まれなくて、いっつも苛められていたんだよ! ばっかみたい!」
コーラス様はキャハハと笑い、瞳を凶悪に光らせます。
「こんな国、大嫌い。後宮もつまんないところ。陛下も狼も嫌い。だからさ。めちゃくちゃになればいいんだよ」
コーラス様はくいっと顎で男たちに合図します。飛びかかってきた男の手を振り払うと、銃を持った男がわたくしの行く手を阻む。
逃げだそうと、考える。その時、ふわりと魅惑的な香りが鼻をくすぐりました。
(なに、この……香り……!)
むせ返るような匂いに包まれます。この香りは、悩乱する。
「オメガが発情する香りだよ! アタシの家はねー、闇市で野良オメガを奴隷として買っていたんだ! 保護法なんかできたせいで、よわっちいオメガが買えなくて残念」
「うっ……」
「ほらほら。男が欲しくなるでしょ?」
コーラス様の言う通りです。
身に付けている布が気持ち悪い。服を脱いでしまいたくなります。オメガの本能を無理矢理、引き出され、瞳がうるみました。
男がわたくしを組み敷きます。
肌が熱い。
喉が渇く。
目の前の雄の味を確かめたくなる。
――でも。
それが、何だっていうのでしょう。
わたくしは目を開き、伸ばした男の手に噛みつきました。狼の牙はなくなっても、歯はあります。
「ぐっ……! こいつッ!」
わたくしはシスターに鍛えられたオメガの狼。
シスターは言っていました。
――アタシはね。二代前の王の時、後宮にいたんだよ。ただの侍女だったけどね。オメガでも王は心を寄せてくれた。王のはじめての女は、アタシさ。……でも、愛だけじゃ、後宮は生きていけない。毒を盛られて、アタシは尻尾巻いて後宮から逃げ出したんだ。だからさ。リリーはアタシみたいになっちゃいけないよ。――
銃を持つ男に突進します。男は怯んでいて、動揺していました。だから、あっけなく銃は奪えた。シスターは弱い力でも男を倒せる護身術を教えてくれていたのです。
「わたくしに近づくなッ!」
銃を構え、男たちを牽制します。コーラス様は顔をひきつらせました。
「……お嬢様に銃なんて撃てるの――?」
――ガウンッッ!
迷わずコーラス様の右側スレスレに銃を放ちます。ひっと喉を鳴らすコーラス様に、的を定めました。
「オメガでも銃は撃てますわ」
「っ……」
「わたくしの体も心も全て陛下に捧げるもの! あなた方に渡すものはない!」
狼は番を決めたら最愛を捧げ、ファミリーを守る。敵には容赦なく噛みつきます。
腹に怒りをため、遠吠えを。
きっと、最愛の方に届くでしょう。
大地に響く最愛への声。それを合図に、衛兵の足音が聞こえてきます。誰よりも早く、駆けてくる音も。
「ローガンめ! 後でぶっとばしてやる――!」
わたくしの最愛の人が扉を開けてくれました。
グリード様はわたくしを抱きしめると、牙をむき出しにして、咆哮します。すべてねじ伏せるような声に、男たちはキャンッと鳴きました。
(グリード様の匂い……)
彼の香りに包まれたら、もうダメ。発情する。
「グリードさまぁ……」
「ッ……」
グリード様はわたくしを抱き上げます。後から流れ込むようにやってきた衛兵をかき分け走る。
わたくしは熱くて、胸元のリボンをひもといてしまいました。それを見たのか、グリード様ははだけた胸元を隠すように自分の胸にわたくしを押し付けます。
グリード様の部屋につき、ベッドに置かれました。
「医者を呼んでくる」
部屋を出ようとするグリード様の腕を取って、すがりつきます。
「嫌!……どこにも行かないでくださいっ」
「っっ……」
「わたくしは純潔を守りました! グリード様に捧げるためのものです! グリード様、早く早く……っ」
何を口走っているのか、自分でも分かりません。衝動のままに首輪を手に取り、外そうとする。
「首裏を噛んで、番にしてください! あなたに……っ……噛まれたい……」
言葉にすると、なんて浅ましいことでしょう。果てのない欲望は苦しくて、涙がこぼれます。
首輪が外せずもだもだしていると、グリード様の匂いが強くなりました。
「あ、」
びくんと体が震える。征服されそう。なのに心地よい。
乱暴に押し倒され、体が震えます。見上げたグリード様は雄の顔をしていらして、体の芯がさらに火照る。
「リリー」
「グリード様」
「リリー……っ」
「……グリード様」
絡み合うようなキスをして、グリード様の牙がわたくしの首輪にかかります。布製の首輪は引きちぎられ、生の首に彼の唇があたりました。
牙が首にあたる。
これで、ようやく。彼のものに――
鮮烈な痛みを覚悟して、目をつぶりました。
ところが、いつまでも痛みはきません。代わりに血の匂いがしました。うっすら目を開けると、グリード様は自分の腕に噛みついていました。深く牙が食い込み、血が流れています。
「グリード様っ!」
グリード様を止めようとしました。それなのにグリード様は、食いちぎらんばかりに腕を噛んでいます。
「やめっ……やめて!」
彼の首に腕を回すと、背中に手を回されます。
グリード様は額に脂汗をかきながら、牙を腕から外し、ほほ笑みました。
「俺は……俺の過ちを繰り返さない」
「グリード、さま……」
「リリー、愛している。皆に祝福されて番になろう」
鼻と鼻をこすり合わされます。
今は噛まない、という宣言でした。わたくしは泣きながらこくこくと頷きました。
*
医師に診断され、ようやく目覚めたとき、カミラが泣きながら抱きしめてくれました。幸いにも、カミラの怪我は大したことなかったそうです。
コーラス様は投獄された後でした。
――あんなの卑怯だよ。アタシの方がカッコ悪いじゃん。
コーラス様は最後にそう言っていたそうです。コーラス様の家は調べられ、取り潰しになりました。ひとりのオメガが助けられ、シスターが保護しました。彼の未来が明るいことを願っています。
この一件で、わたくしへの、オメガの非難は少なくなりました。尻尾をふりながら、羨望の眼差しで他の妃候補にみられ、苦笑します。
それにメガネが割れた姿で、ローガン様に謝罪もされました。
「警備が甘く、申し訳ありません」
膝まづくローガン様に問いかけます。
「わたくしは最終試験に合格しましたか?」
ローガン様の瞳が大きく開きます。コーラス様の出自は事前に調べられていたはずです。なのに事が起こったということは、わざと警護を手薄にしたのでしょう。わたくしを試すために。
「ローガン。わたくしは傾国の悪女になりたくはありません。わたくしが間違えた時は、牙をむきなさい。おまえは生涯、わたくしを見張りなさい。それで、許します」
ローガン様は頭を深く下げました。
「妃殿下のおおせのままに」
大地が雪化粧をした日。わたくしは王妃になることが認められ、グリード様と共に国民の前に立ちました。カミラはボロ泣きで、お父様は泣くお母様を支えていました。
グリード様が妃を紹介するために遠吠えをします。応じるように国民から遠吠えがでます。
――さすが、アタシの娘だよ!
遠くから祝福の声が聞こえました。シスターです。わたくしは涙をこらえて、返事をしました。恩師に聞こえるように、長く、長く、声をとどろかせます。
冬ごもりの時は、グリード様との蜜月を楽しみ――ませんでした。グリードの甘やかしがひどくて、七日間は発情が止まりませんでした。番う時は、もっと強く噛んでとお願いしましたし、お恥ずかしい話ですわ。
でも、命を授かることができました。
医師からは、グリード様とわたくしは【魂の番】という関係で、妊娠しやすいとのこと。
わたくしの突然変異の理由は、互いの執着心が強すぎたゆえではないかとも。
「伝説だった【魂の番】を体現されるとは、よほど相性がよかったのでしょうな」
穏やかに笑った医師に、わたくしは恥ずかしくなり、グリード様は満足げでした。
日に日に大きくなるお腹。
子の声を聞けた時は、冬は終わっていました。
生まれた子はアルファでもオメガでもなく、ベータ。
イースターフラワーが白い花びらを広げて、ふわふわの黄色い雌しべを見せてくれる。
青い空が美しい、春の出来事でした。
――END
性癖、大・放・出ッ!で「獣人春の恋祭り」に参加させていただきました。「ふむ。悪くない性癖だ」と思った分だけ、★で応援してもらえると、固い握手をしたくなります。
お読みくださって、ありがとうございました!