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外伝37話 ケリュネイアの鹿


 テルナテ王国に常駐するゴンサロ・ロンキージョからの急報に、セブは騒然となった。


 ――イングランド代表のテルナテ王国接触と、フィリピンへの攻撃意志の表明。


 かの王国のバーブラ王子より直接伝えられたというロンキージョの報告を見れば、そのイングランドの代表――フランシス・ドレークという男が、武力をちらつかせてきたことと、宴の名目で彼等を歓待して5日間テルナテに留まらせたことが記されていた。

 ウィリアム・アダムスとかジョン・セーリスなどのイングランド人が確かに戦国日本まで到達していたから、全くあり得ない話ではないことを私は分かっていたが、でもこの時点でイングランドが東南アジアの外交プレイヤーとして台頭するというのは完全に想定外である。


 そしてその5日間で集められた情報が秘密裡にゴンサロ・ロンキージョへと漏らされて、意図的に私の下に情報が入るように仕向けられていた。

 正直、前に一度だけ出会ったときの印象であるポルトガルに対して好戦的な王子とは思えない程の思慮深い行動であった。そして驚くべきというか豪胆というか、イングランド船員をも含めた大々的な宴を開いたらしく、彼等が連日開かれる宴会において殆どメンバーが変わり映えしないことから、兵員が多くても100名は越えないこと、そしてその間一切連絡を取り合う形跡が見られなかったことから単独艦であること、更にはその船は3本マストの小型ガレオン船であり、積載されている砲門数は15から20程度という目算から艦の簡便なスケッチまで提供してくれている。


 ……流石に、以前ガレオン船をポルトガルから字義通り借りて運用していただけのことはある。


 そして報告の末尾には、バーブラ王子の言葉として、


『この小ガレオン1隻程度ならば、我々独力でもどうとでもなるが、イングランドという国はこの船を一体どれだけ作る能力があり、それをこのように我が国の下まで送ることが出来るのか?』


 という質問が丁寧な言葉で書き記されていた。


 ただ歓迎の宴を開いていただけなのに、そこまで思慮を巡らせているとはイングランド側も思ってもみなかっただろう。よもや東南アジアにおいてガレオン船は見慣れた存在であるどころか、テルナテ王国に限っては使ったことすらある代物だとは想像だにしないはずだ。

 だからこそ現実問題としてテルナテは最早、ガレオンの単独艦など軍事的脅威に値しないのである。


 極端な話をすれば、テルナテ王国側は宴を開いている最中に、兵で囲んでイングランド軍を討つ選択肢もあっただろう。100名足らずではテルナテ王国の近衛兵だけでも対処可能な数である。

 私が一度テルナテ王国へ外交交渉に赴いた際にはその近衛に先導され、その兵の内訳はアルケビューズ銃兵とマスケット銃兵が半々であった。しかし、報告を聞く限りイングランド相手にはテルナテ王国が銃を有していることを秘匿していたらしく、護衛にわざわざ槍を持たせていたらしい。……意図的に、戦力誤認までさせていたのね。


 地の利で負け情報量でも負け、更には技術的にも秘匿されていたことの多いイングランド側は危機的状況であったし、テルナテの圧倒的優位にあったが、それでもバーブラ王子はそれを討つ選択肢を取らなかった。

 1隻の小型ガレオン船の裏にあるイングランドの国力が、彼には推定できなかったためである。だから、友好的な姿勢を崩さずにそのまま逃がした。もしイングランドが強大な大国であっても、恭順できるように。そして、そうでないならば。

 こうして我々に情報を横流しすることで利益を得られるように、というわけである。



 しかし1隻とはいえ、フィリピン伯領への敵意を明らかにしてきた相手である。それを表明した相手が曲がりなりにもヨーロッパ勢であることを踏まえれば、確実にそれを伝えられたセブ政庁舎の面々には動揺の色がみられた。

 この辺りはどうしても歴史的な積み上げが足りない我が領の地力が見えてしまう。スペイン人材の寄せ集めで出来た領だし、そのトップは元神聖ローマ帝国貴族出身の転向カトリックだしで、やっぱり『国家』と比較してしまうと権威的な重みが足りない。だから易々と動揺が見え隠れしてしまう。


 しかし、アナはそれを一刀両断するように私に語った。


「所詮は単独艦の私掠船ですわ。出来ることはそう多くないはず。こちらに攻撃を仕掛けるといっても、本拠である此処――セブ東岸まで至るのは不可能と言って良いでしょうね」


 そう断言したアナは、グレイスの代理が指揮する独立水軍も含めた海軍戦力をセブ中部の海峡などの要衝へと集中させた。そして狙われるのは交易船か、こちらの哨戒網にかからないであろう遠くの村落だと推察し、多少荒らす程度で『通商破壊』任務の達成と喧伝するつもりであると、フランシス・ドレークの行動を見通し予見していた。


 確かに、セブ島東岸で対岸にマクタン島があるこの本拠地は外洋から直接アタックするのは難しい。真南にはブール王国本拠のボホール島があり、その南部に面する海はブール王国のテリトリーであるボホール海がある。ボホール海に侵入するためには、西部にはスールー・スルタン国という私達でも苦戦する海賊国家があり東部からはレイテ島とミンダナオ島のスリガオの間にある狭い海域を突破する必要がある。

 その哨戒網を考えれば北部から襲撃を仕掛ける方が現実的であるが、テルナテ王国を出立して西部から襲撃を仕掛けるのであれば、やはりその間にはスールー・スルタン国が立ち塞がるし、東部からセブ北部のビサヤ海に侵入する経路は、ルソン島とボホール島に挟まれたサン・ベルナルディノ海峡しか存在しない。

 つまるところ西部にはスールー・スルタン国という中立国の防壁があって、東部からの侵入経路は2ヶ所しか存在しない。これがセブの地理的な優位点である。


 それを理解した上で、私は敢えて疑問を口にする。


「……でもアナさん。本当にその通りになるでしょうか? 戦力を過小評価していないですかね?」


「マルガレータさん。分かっております? そのフランシス・ドレークなどという海賊紛いの私掠団がイングランドからどこを通って(・・・・・・)やってきたのですかね」


 ……確かに、彼等はイングランドからテルナテ王国までどうやってやってきたんだ。アフリカ南端を経由してインド洋ルート?

 いや、それならテルナテ王国よりも先にアチェ王国と接触するはず。というか、マラッカで分断されているにせよポルトガル側の通報が先に来ないとおかしい。


 では私がフィリピンまで至ったスペイン航路を使って来ている?

 それもおかしい。私だってヌエバ・エスパーニャにて一旦陸路で縦断しているのだ。大西洋から艦隊を太平洋へと持っていくことは出来ないはず……あ。


 そこで1つの可能性に気付いた。


「……まさか、マゼラン艦隊ルートですか?」


 ――南米南端、マゼラン海峡を踏破するルート。あそこなら確かにスペイン・ポルトガル双方の影響圏を避けて太平洋入りすることは出来る。

 いや、自分で考えたけど正直半信半疑だ。そのルートを普通選択するだろうか。


「実はですね、マルガレータさん。ペルー副王領のチリ沿岸において海賊被害が悪化していたという報告が届いておりましたの。太平洋を挟んだ向こうの話でしたから特段影響は無いだろうと留め置いてありましたが、今思えばそれがイングランドの私掠船であったのかもしれませんわ」


 チリの海賊被害。それがテルナテ王国を訪問したフランシス・ドレークの船の仕業である可能性。確かにそれらが関係しているのであれば、マゼラン海峡踏破という可能性があり得る。


 アナは続ける。


「私の考えの通りであれば、彼等はまともに補給することなく新大陸で略奪を行うことで物資を補填しつつ太平洋横断に乗り出したということになりますわ。

 なれば物資は略奪できても、兵員の損耗を補充するのは難しいでしょうね。如何に捕虜を強制的に使役とするとしても、忠誠心のある部下が減っていくことは間違いありません。

 ……テルナテ王国で見受けられた兵員の規模が100と見間違うくらいであったことを踏まえれば、損耗した小ガレオン船の兵力としては幾分過大ですわ。……十中八九、落伍艦が出た結果単独になったかと思われます。そのように兵力が漸減した状態で我が方に決戦を仕掛けてくることはないでしょう」


 それは私に欠落していた視点であった。今、見えている情報では単独艦であるものの、それが本当にイングランド出航時から単独航海であったのかという疑念――私には存在しなかったものである。通過しているのがマゼラン海峡の可能性が高いことも踏まえれば、そこまでの道中において艦の喪失を経ているというのは確かに納得のいく言説である。しかも物資を襲撃で賄っているとすれば余計に。

 今でこそ定期航路となっているフィリピンとヌエバ・エスパーニャ間の太平洋横断連絡航路であれど、あれの初年度復路においては2隻のガレオン船喪失を私達も経験しているし、往復する隻数が増大している今はその頃よりも難破の割合は下がっているものの、難破船の数自体は増え続けている。航路が確立している海域であってもこれなのだから、イングランド船にとって未知の海である太平洋はそれこそマゼラン艦隊レベルの知見しか有していないと言っても過言ではない。


 だからこそ、アナの判断としてはフランシス・ドレークの艦は疲弊しているという結論になるのだ。たとえテルナテ王国で数日上陸して歓待を受けただけでは不十分なほどには。……あるいは、フランシス・ドレークはテルナテ王国側に兵数が露見する可能性に思い至っても、なお休息を取る必要性から兵を陸に降ろさざるを得なかったのかもしれない。

 となれば決戦を挑むことはなく、精々お茶を濁すような襲撃を戦果として喧伝するくらいしか出来ない。そう判断するアナの考えには、確かに私も納得するだけの合理性があった。



 そして、そのようなやり取りをした1週間後。

 殆ど接点が無かったはずのミンダナオ島南部にあるマギンダナオ王国から使者がやってきて、イディアケス補佐官が話を聞いたら『スペインの旗を掲げる船に襲われた村がある』として私達に釈明と損害賠償を要求してきた。

 アナやイディアケスとも協議した結果、そのタイミングでミンダナオ島方面まで行っていたガレオン船はうちの所属ではない新大陸交易船も含めて居なかった。


 マギンダナオ王国側にもテルナテ王国より入手したイングランド私掠船の存在を開示することになってしまったが、その齎された『スペインの旗を掲げる船』こそが、フランシス・ドレークの偽装艦であると状況証拠が雄弁に語っていた。


 ついに、私達はその足跡を掴んだのである。




 *


 マギンダナオ王国はフィリピン伯領の影響圏ではない。だが、フィリピンではある。


 『スペイン植民地のフィリピン』を攻撃した名分にするのであれば十分だ。だからこそ、アナはこれ以上の攻撃は無く既にフィリピン近海から離脱しているだろうという目算は立てているものの、そうは言ってもそれは警戒を怠る理由にはならない。マギンダナオ王国の使者が知らせてくれた場所はミンダナオ島東岸であったからこそ、東部の侵入経路となり得る2海峡を通過するスペインの旗を掲げたガレオン船は、全て臨検する判断となった。


 ガレオン船は臨検と哨戒任務に振り分けることとなり、これには報奨金を出すことでフィリピン伯領所属でないヌエバ・エスパーニャ商人のガレオン船も参加してもらうこととした。次いで臨検とその対象海域についても周知していたために、やましいことのある船は事前に離脱してもらうように仕向けた。今はイングランド船籍の船を見つけることこそが重要で、違法交易船を取り締まるという二兎を追うつもりはない。


 そして今まで外交的な関係の乏しかったマギンダナオ王国とは、このスペイン偽装船の捜索の一点で、とりあえず共同することとなる。そうして判明した攻撃を受けた村落の被害状況は、数隻の手漕ぎ船の喪失と砲撃による家屋の破壊、数名の怪我人といった規模であった。死者は出ていないらしい。

 しかもマギンダナオ王国の域内にある集落ではなく、付き合いがある別の部族のものだということ。それで此方に使者を送る辺りは、マギンダナオ王国も律儀というかなんというか。


 しかし、フランシス・ドレークの手の内も分かった。スペイン船籍に偽装するというのは確かに有効的な手法だろう。しかし知ってしまった以上は臨検で発見できるだろう。相手が一枚上手なら既にフィリピンに居ないが、それならそれで解決である。何も不都合はない。



 そう思っていた。




 *


「――グレイス!? 状況は?」


「……これは、駄目ですね。情報が錯綜としています。ある程度信頼の高い報告はもう少し待たねばならないでしょう」


 その日、私は就寝後に起こされることとなる。

 起こされた時点で、分かっていることは多くなかった。


 確実なのは、セブが襲撃を受けている。

 そして――港のある方角が、深夜にも関わらずぼんやりと明るいということ。


 それ以上のことは、もう何も分からないと言って良い。

 イングランドの大艦隊が来たとか、スールー・スルタン国が攻めてきたとか、ポルトガルの寝返りとか、ブール王国の謀叛、アナ率いる軍部がクーデターを企て挙兵だとか、どうしようもないほどに流言が拡大しており収拾が全くついていない。


 真偽不確かな情報が飛び交う中、政庁舎に対策本部が設置されイディアケス補佐官と政庁舎高官が緊急登庁しているのでフィリピン伯も来られたし、という報告と、政庁舎が軍部との対決を決断し旗頭である私を取り合っていて『私が死亡した』という報告が同時に入ってきた時点で色々と考えることはやめた。

 何故、私の下に自分自身の死亡報告が入るのか。


「……とりあえず政庁舎に集まっているには違いないようですが、グレイス? 私もそちらに移動した方がいいですかね?」


「いえ……。政庁舎が怪しいという訳ではありませんが、本邸宅から政庁舎までの道中の安全が確保されておりません。移動は悪手かと」


 ここに至ってもグレイスは冷静であった。だからこそ私も確度の低い虚報に一喜一憂することなく、何も考えないことに努めることが出来た。



 しかし。

 ――無常にも、その無心は静寂を破壊する小さな『破砕音』によって破られた。


「……え、今の音ってなに?」


「――複数、着弾していますね。方角は政庁舎ですね……灯りがあるところを艦砲の斉射で狙いでもしましたか。

 大分海岸線まで近づいているようですが、次弾を撃つ余裕は逃亡を考えているならばありますかね……? 一応、この邸宅のかがり火は消しますが、よろしいですかマルガレータ様?」


「灯りを付けてたら狙われ殺されるってことだよね!? だったら消して! 今すぐに!」


「……まあ、此処を狙ったとしてもこの部屋をピンポイントで射抜かれない限りは死ぬことは無いと思いますけど……」


 灯りを消し沈黙を選択した私の邸宅には、その後も虚報入り乱れた真偽不確かな情報を持った伝令は往復し続け、そのあと私は一睡することもできずに翌朝を迎えることとなる。


 その朝になるまでの間、あの『破砕音』は一度として再起することはなかった。




 *


 朝になり、ようやく全貌が明らかとなる。

 政庁舎には砲弾が直撃していたらしい。しかし、外壁にヒビが入ったくらいで弾自体は屋外の地面に鎮座していたようである。その砲弾による死者や怪我人は居ないと報告にはあった。有効射程外から撃ったのかな。


 ――けれども。

 未だに港の方は火が燻っていて消火活動が続いているようだ。

 ただ陸上の建屋や倉庫が燃えているわけではなく、停泊中であった手漕ぎ船が燃やされたとのこと。海水をぶっかけたり、燃えた残骸の船は一度沈めることで鎮火しているらしいが、それらの船の残骸をどうにかさえすれば港湾機能自体には大きな損害は出ていないという報告がなされた。


 そしてこの報告が入ってきた段階でも私は現状邸宅での待機であったが、ここまで状況が確定すれば、流石の私にも何が起きたのか理解することが出来た。



「グレイス。……これは、フランシス・ドレークにしてやられた……その理解で良いですよね?」


「確実なことは軍部から報告があるでしょうが、ほぼ間違いないでしょうね」



 その時、私はグレイスとともに苦笑いを浮かべていたと思うが、心中としては『生き残った』という安堵の方が大きかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] こうしてみると、つくづくこの地球は東南アジアとヨーロッパを隔てるように出来てますね…… 陸路はタクラマカン砂漠にヒマラヤ山脈が塞ぎ、唯一の近道はイスラム勢力が握り、海路はスエズ地峡にアフリ…
[一言] 流石、世界一周を成し遂げてイギリスの債権完済出来るほどの稼ぎを上げた男、油断してるとフィリピン陥落しますな。
[一言] このぐらいなら許されるわってラインのギリギリを攻めてくるなこの海賊w で、一夜でもう追いかけても無理な距離に逃げてるんでしょ?高笑いが止まらんやろうな うーんさすが後世に名が残る偉人さん…
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