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外伝33話 ファラオの運河


「……あっ」


 古代エジプトのスエズ運河再興という壮大でかつ雄大なオスマンの構想は、インド洋のパワーバランスの変化と東南アジアにおけるイスラーム諸国の伸張という形で私達に降り注ぐ。

 そして、その恩恵を受ける代表国であるアチェ王国とオスマン帝国の関係がより緊密になるというところで私は1つの事実に気が付いた。


「……はあ。一体何に気が付いたのでしょうか、マルガレータさん?」


 短く溜め息をつき、こちらをジト目で見つめてくるのはアナ。彼女からしてみれば私はポルトガル併合という構想をぶち立てただけに、今回の一件にも何かしら絡んでいるのでは? と訝しんでいる訳だ。……まあ、香辛料交易部分においては正解なのだけど。


 ただし気が付いたことは、元々知っていたことではない。


「いえ。その……ヴェネツィアの輸出品目に『食糧』がありましたよね?

 もしかして。これってオスマンによる東南アジア支援策なのでは無いでしょうか……?」


 『ファラオの運河』の工事はナイル川からも推し進められるが、当然紅海側からも行われる。中間地点のグレートビター湖も含めてだけど。となるとまずその工事の為に紅海側も隆盛するはず。運河の完成に至る前に、大規模な公共事業による地域振興という形で恩恵を与えられるとみて良いはず。

 であれば、運河が完成するまでの間は荷物の輸送の為に紅海・インド洋の造船業は活気づくであろう。運河完成後は一転して二線級艦しか作れない造船所は不況に陥りそうだが、そうなれば旧式の艦艇はアチェ王国などの親オスマン・反ポルトガルの諸国に売りさばいてしまえばいいと私なら考える。


 まあ先のことはともかく、造船ブームが到来するはず。としたときに船舶余剰プールをアチェ王国の定期便として増便することは可能かもしれない。

 ここに1570年の食糧危機の余波が未だに燻り大規模な軍事行動が執り行われていない東南アジア諸国の動静に意識が向く。確かにあの食糧危機の勃発時に、私はアチェ王国を介してオスマンに食糧援助を申し出るように提案した。その後、必要充分ではないものの支援は為されていた。そこに更にテルナテ王国からの救援やらで何とかうまいこと食いつないでいた。


 しかしこの時重要なのは、カトリック勢力側はポルトガルのインド・東アフリカ植民地より食糧支援を受ける為、アチェ王国側はオスマンから同じ援助を受ける為に、食糧交易船団に限り妨害工作を執り行わない交渉をフィリピン伯領主導で行っている点である。だからオスマンが本腰を入れてアチェを救うというのであれば、それが完遂できる土壌を用意していた……って、もしかして私のせいなのか、これ?


「ということはオスマン帝国の大宰相は、戦略方針を変更したということかしら、マルガレータさん? キプロス侵攻やモリスコ救援ではなく、手を差し伸べる相手にアチェ王国を選択した、と――そういうことかしらね」


「……アナ・デ・メンドサ様の言う通りであれば、十中八九……奴等が矛先を変えた理由は、フィリピン伯様が関係しているでしょう」



 これらの追及に私は咄嗟には何も答えることができなかった。

 それが示すことは予想でしか無いがおそらく1つ。オスマンの大宰相ソコルル・メフメト・パシャは、私がこのフィリピンにて組み上げた複数宗教勢力に跨る国際経済ネットワークの有効性を把握していることに他ならないのだから。


 だからこそこの方面では言い返さずに、別の疑問点をでっち上げることとした。


「……ですが、そのような大運河の建設などという工事が一朝一夕で完成するものなのでしょうか。そもそもそれだけの掘削技術と指導体制は生半可なものではないのでは――」


 私が言い切る前に、この言葉にはイディアケスが答える。


「勿論、フィリピン伯様のお考えの通り数十年はかかる事業かと思われます。予算に遅滞が無くとも彼の大宰相の命の灯火が尽きる方が先であるでしょう。

 ……ですが。大運河建設に関してのノウハウは実はありまして――」


 そんな言葉を皮切りに説明されたのが『ヴォルガ・ドン運河』というこれまた別の運河計画。既に1569年から工事が開始されている本計画はその名の通りヴォルガ川とドン川を結ぶ運河である。コーカサス地方の北部、私の認識では完全にロシアという場所であるが、現状ではオスマン帝国との係争地に近い地域らしい。そして東側にあるヴォルガ川は下流で大きく西に湾曲し、同様にドン川も似たような地域で大きく東に湾曲するために、2つの川が近付く地点がありそこを運河を通すことで結節させてしまおうというのがこの『ヴォルガ・ドン運河』の要旨である。

 しかし、既にこの時点でヴォルガ川についてはロシアが領有しており砦を建築していて防備を整えていたことまではスペインの情報網に引っかかっている。だからこそ運河建設に際して何らかの戦闘が行われただろうというのは確実であるが、その勝敗であったりとかどういった形でオスマンとロシアの間に関係性が変化したのかという具体的な情報はまだイディアケス補佐官の下には入っていない。精々、現地に住むタタール人らはオスマンに味方しているかもしれないという未確定報くらいだ。

 けれども同時期にロシアは西側でポーランド・リトアニアやバルト、北欧諸国の連合軍と戦闘をしている以上、オスマンとの戦役は長期化しないだろうと見通しはスペイン宮廷でも推測されているとのこと。うーん、流石に東欧だし正教会勢力の情報確度は落ちる。


 イディアケス補佐官は『恐らく東欧地域の詳細を知りたければ、イエズス会の面々に伺った方が確実です』とまで言われる始末。イエズス会が高等教育機関の建設に熱心なのは別に新大陸やアジアのような新たな宣教地域だけではなくヨーロッパでもそうだった。そしてそうしたヨーロッパの各国の王家に修辞学を修めた高等文官、法律家という形で浸透しつつある。ポルトガル国王の養育係にもイエズス会士が居たっけ。

 そうした王家との関係を強めている国家の中の1つに、『ポーランド・リトアニア』もあるようだ。……というか、つくづくイエズス会の手広さを実感するわ。


 まあ後々資料としてまとめておくようにこれはルッジェーリ辺りに頼めば良いか。ともかく肝要は『ヴォルガ・ドン運河』の建設の方である。ロシアとの戦役が短期決戦で終わったのであれば、必然運河建設を続行している可能性はあるかも。勿論こちらでのノウハウが『ファラオの運河』に転用されるのも危惧することだが、それ以前に『ヴォルガ・ドン運河』そのものも中々にヤバい代物だ。

 高々2つの川を結ぶだけの運河に、どうしてそこまで恐れるのか?


 ヴォルガ川はカスピ海へと流れ、ドン川は黒海へと流れている。黒海はイスタンブール近郊のボスポラス・ダーダネルスの2海峡にて地中海と接続しているのでオスマン最先鋭の地中海艦隊が進出可能なエリアである。

 つまり、そのヴォルガ川とドン川が接続されることでオスマンはカスピ海沿岸部まで地中海とひと繋ぎにすることが出来るのだ。またヴォルガ川をどこまでオスマン艦艇が遡行出来るかは分からないが、流域だけであればモスクワの北部から湖沼や他の河川を通じてサンクトペテルブルクまで接続自体はしているとのこと。


 これにスエズ運河構想も合わせれば、朧気ながらオスマン帝国の海軍の運用構想が見えてくる。即ち、スペイン・ポルトガルといった他の海上覇権国が志向しているような外洋を利用した交易路の確立ではなく。

 内海・内水面を活用した水上接続路を企図しているのだ。しかもその構想はカスピ海・黒海・地中海・紅海を全て繋いで自らの支配領域として確立するという壮大なスケールで。


 そして内海・内水面である以上、地中海・紅海を除けばキリスト教国の他の海軍列強が関与出来ない土地ばかりである。だからこそ実現すれば、殆どの海域において隔絶的な海軍能力、そして海上輸送能力の差が周辺諸国を襲うこととなるのだ。

 まあそういう運用理念だからこそ喫水の必要なガレオン船ではなくガレー船が主軸の艦隊なのかもしれない。いやガレー船が基幹だからこそ戦略がこうなのかもしれないが。



 このオスマンの動きが史実通りか否かは不明だ。

 ――だが。これを『国際水上ネットワーク』の構築と見るのであれば、私はそれを先駆者として組み上げたように写るかもしれない。そしてそれが完成に至ったのは1569年。オスマンが『ヴォルガ・ドン運河』の建設に着手したのと奇しくも同年の出来事であり、私はそれよりも昔から海上交易路の設立に尽力していた。


 新大陸との往復連絡船が構築されたのが、フィリピン入植2年目の1564年だとすれば。

 ブール王国を介した朝貢交易で、その交易路を日本へと延伸したのが1567年。テルナテ王国との相互不可侵密約込みの貿易協定が1568年。イスラーム勢力自体はルソン王国の内部や、非勢力圏のミンダナオ島やスールー・スルタン国等フィリピン内部にも多数存在しているし、テルナテ王国もボホール海海戦という最初期の段階で接触自体はしているから、オスマンに情報が流出していたとしても全くおかしくはなかった。


 まあ織田信長が私のサン・ペドロ要塞の一夜城の噂話から墨俣一夜城を作り上げたのだから、オスマン帝国の大宰相である人間なら私がフィリピンで構築しようとしていたものに勘付いてもおかしくないか。随分と悲観的だがそれで納得するしかない。


「……となると、完成までに時間はかかるとしても『ファラオの運河』建設は技術的には可能である、と……」


「そこは断言出来かねますが、オスマンを侮るよりかは過大評価していた方がまだましでしょうね」


 うーん……スエズ運河完成はもう既定路線と考えた方が良いかな。数十年事業になるから、完成後に訪れる関係海域全体の勢力バランスの激変に巻き込まれるときには私も生きているか微妙だし、その前にとっとと隠居すれば良い。うん、後事は全部『フィリピン伯』の地位を王家に返還した後に派遣される代官に任せればいいや。


 影響は大きそうだが、今すぐに出来ることは少なく今後の動静次第で備えて行こうという事実上の何も決まっていない状態で私達3人の密談は終了し、この場は散会となった。宮廷への引継ぎなども考えると最も忙しくなるのはイディアケス補佐官であったので、今まで話した内容のうち開示出来る情報を政庁舎スタッフに共有するためにそそくさと部屋から退出していった。



 そして部屋にはアナとともに残される。しかし、アナは一通りの話し合いは終わったのにも関わらず一向に立ち上がろうとせず、眉間を寄せて厳しい顔で考えっ放しであった。

 そんな状態の彼女をそのまま置いて退席することも出来なかったので私は一声かける。


「……アナさん? 何か、気になることでもあります?」


「……。『ファラオの運河』の開設がアチェ王国の支援だというのは分かりますわ。それによって造船業が活発となることも。

 確かに、それで交易が活性化するとは思いますわ。ですがアチェ王国は今この瞬間……というよりも2年前にその『交易』を欲していたのではなくて?」


 将来的に交易の拡充が見込まれること自体はアチェ王国にとって恩恵であることは間違いないだろう。それによって穀物取引が活性化すれば、アチェはより飢饉に対する耐性が強化されるのは間違いない。だから支援、ということ自体は間違っていないけれども、しかしそのタイミングが今であることに疑問を呈しているようだ。

 そう。アチェを助けるだけならば、スエズ運河の声明は1570年に出せば良かった。それをヴェネツィアとの和平に合わせてきた。理屈は分かる、地中海の勢力圏が確定したことにより、一時とはいえ安寧が訪れたのだから大規模な内政に着手した……そう見える。


 しかし、アナはそのような考えを一蹴する。


「……マルガレータさん、気付いておられませんね。キプロスの件もモリスコの件も――どちらもオスマンにとっては能動的な行動ではないですか。それを取りやめることは国内状況が許せば別に和平など結ばなくとも可能なのですよ」



 ……本当だ。オスマンの戦費予定だった2つの戦はどちらも侵攻作戦である。防衛戦ではない。


「では、どうして……?」


「勿論、表に出ていることは真実でしょうね。ですがそれだけではないですわ、きっと。

 ……例えば、そうですね。アチェ王国と交易路を強めるということは、他ならぬマルガレータさんの作り上げた通商路との緊密化を意味しているようには思えないかしら?」


 アナが考えているのは、私が考えていたものよりももう一手先のことだった。

 オスマン帝国が内水面利用の国際水運ネットワークを構築するだけではなく、フィリピン伯領の貿易システムと接続して連動させることが目的。


「……でも、そんなことをして何の意味が――」


 それをすれば東南アジアの景気変動にダイレクトに巻き込まれる。経済的な介入が目当てか、それとも決定的な敗北を喫したときに引き起こされる大恐慌によって東南アジアからヴェネツィアまでの経済システムごと葬り去るという危機感をヨーロッパ勢に与え、いざというときにオスマンが滅亡しないようにする保険か。



 しかし、アナはそんな私の考えを嘲笑うかのように、全く考慮していない痛撃の一打を放った。



「……フィリピンにずっと逃げ、『フィリピン伯』と呼ばれ慣れたせいで忘れてしまいましたか?


 ――『プロテスタントのクレオパトラ』さん?」



 『クレオパトラ』とはプトレマイオス朝時代の女王――ファラオである。

 ……ああ、そうか。


 そんなことがあっていいのか。



 『ファラオの運河』というオスマン帝国の構想。

 私とカスティリーヤ宮廷。あるいは教皇領。もしくはフェリペ2世との間に亀裂を入れるための離間策。



 アジアとヨーロッパで隔てられていたはずの私の存在が、エジプトによって再び繋がる。

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― 新着の感想 ―
[一言] APP18並みの影響力ですな、クレオパトラの異名は伊達じゃないって事ですね!
[一言] 更新お疲れ様です。 壮大過ぎる構想の裏に潜む離間策・・・・ この物語の始まりの異名がまた彼女に負担を強いるのか? 次回も楽しみにしています。
[一言] 他人に勝手につけられた渾名を離間策に利用するってのは穿ち過ぎなのでは……? いや、これが歴史に残る統治者にデフォルトで備わる能力なのかしらん
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