外伝32話 アッシュールの道
ヴェネツィアとオスマン帝国が和平した。なにそれこわい。
まあ思考停止はこれくらいにして真面目に考えると、実際問題としてヴェネツィアとオスマンの間に何らかの形で密約や関わりがずっとあったのは、私がまだヨーロッパに居た頃から確かである。一応私の口からそれをフェリペ2世やスペイン関係者に漏らしてはいないけれども、とはいえ部外者の私であっても勝手に入ってきていた情報なのだから、ある程度は教皇領やスペインも掴んでいるだろう。
また逆に言えばヴェネツィアがカトリックから離反してイスラームに内通している! ……みたいな単純な構図でもない。
何故なら、私がヴェネツィアを追われることとなった要因であった地中海トリポリ西岸沖のジェルバ島にて、ヴェネツィアはオスマンと交戦しているためだ。この時スペインや教皇領とともに大敗して艦艇を失っていることから単なる異教徒の味方と判断してはいけない。
「……イディアケス殿。和平の詳しい内容をお聞かせ願います」
「勿論です――」
そして語られた内容の中には儀礼的側面も見えるが要点だけをまとめていく。
まず、双方はキプロス島におけるカトリックとイスラームの相互不可侵を確約。
多分、根幹はこれなのだろうが私にとって馴染みの無い地域の話なのでいまいちピンとこない。それを分かっていたのだろう、イディアケス補佐官は淀みなく補足を行う。
「キプロス島がヴェネツィア領であるのは、歴史的経緯がございます。彼の地は元々はリュジニャン家が王制を敷く国家でしたが、当時猛威を振るっておりましたエジプトのマムルーク朝の圧力を躱すためにリュジニャン家はヴェネツィア貴族との婚姻で体制を強化することを図りました」
リュジニャン家という王家が治めた『キプロス王国』の建国から見直すと1192年、十字軍の時代で文字通りの中世の頃まで遡らなくてはならないが、必要なことはこのキプロスという地が海で隔てられているとはいえ、中東に程近くイスラームの影響と脅威を直に受ける地域であったという地理的要因が最も大きい。
その為、15世紀に入った頃合いには既にマムルーク朝の事実上の傘下と言えるほどまでに疲弊しており、その打開のために当時の王家はヴェネツィアとの関係強化を選択した。もっとも王家とヴェネツィア貴族との婚姻が成立する以前からヴェネツィア商人はキプロスに浸透していたらしいが。
しかし正式結婚数ヶ月後になんと国王は急死。しかしその4年前に既に代理人によって結婚そのものは成立していたことで、不幸中の幸いかあるいはそこまで仕組まれていたかは不明だが、この国王夫妻には子供が居た。なので順当にその子に継承権はスライドする。まあ赤ちゃんなのだけど。
しかし更なる悲劇がキプロスを襲う。その『新国王』は1歳で夭折。すると後継者が居ないのでヴェネツィア貴族出身の妻がやむなく当主に就くしかなくなってしまう。その統治下においてヴェネツィア商人の影響力は否応なく上昇していき、1488年にオスマンによるキプロス侵攻の噂が流布されると、ヴェネツィア共和国はキプロス防衛の為に併合を強行。女王となっていた彼女を詫び金を支払う形で強制的に退位させヴェネツィアに送還し、キプロス王国は滅亡した。なおオスマンの侵攻に関する噂は真実で翌年の1489年にはキプロス北東部が一時陥落するものの、オスマンとしては占領地を維持するつもりは無かったらしくそのまま略奪をした上で撤退。以後、オスマンの草刈り場として定期的に略奪を受ける土地となり、ヴェネツィア側もそれに都市要塞化という形で対抗したが、ごく一部の都市圏しかカバーすることは出来ず島の大部分の地域がオスマンに容易に襲われる地域であることには変わりなかった。
そんな感じのヴェネツィア勢力圏ギリギリといった場所なので、ヴェネツィアとしてはキプロス全域の統治権限を有しているつもりではあっても、行使出来ていない状況であり、一方のオスマンも当地においては軍事力では隔絶しているものの略奪して荒らすだけ荒らしているという関係性が今まで続いていたとのこと。
「とはいえ、全くキプロス統治に関心が無かったというわけではないようです。ヨセフ・ナシィというポルトガルを追放されたユダヤ人をオスマンのスルタンは重用しており、彼をキプロス新国王として据える計画があることはスペインとしても把握しておりました」
オスマンの皇帝からしてみれば、自身の寵臣を使って傀儡政権を樹立することくらいは考えていたわけか。……まあ、ほぼ似たような構図で『フィリピン伯』に就任した私があまり物事を言える立場ではないけれども、それはつまりオスマンによるキプロス侵攻、並びにヴェネツィアとの戦争は既定路線であり覚悟していたことを意味する。
しかし今目の前に指し示されている事実は、そこから急転降下で和平へと漕ぎつけたということ。しかも、相互不可侵ということは今オスマンに侵されている地域はオスマン領と是認した上でヴェネツィアが領有権を放棄していることに他ならない。
また、オスマンとしてはおそらく確実に落とせるであろうキプロスのヴェネツィア政権を一部領土を剥ぎ取った上ではあるが尊重している。本来妥協できないように見える条件で両者ともに和平へと進んだのである。
疑問は増えるばかりであった。
しかし、その疑問に対して一端の回答を私は既に有していた。オスマン側の心情は分からない。けれども、ヴェネツィア側が何を考えていたのかは私は朧気ながらも推測することが出来た。
それは――香辛料交易である。
*
マラッカがアチェ王国に攻め落とされたことは、おそらく既にヨーロッパにも入っていることだろう。何よりヴェネツィア相手であれば私と直接やり取りもしている。そして誰にも明かしては居ないが、私とヴェネツィアには香辛料交易に関する密約が存在した。
その存在をおくびも出さずに、あくまで憶測という形で質問を重ねる。
「……もしかして貿易協定か何かがヴェネツィアとオスマンとの間で結ばれましたか?」
これにはアナもイディアケスも面食らった様子であったが、先に気を取り直したアナが話す。
「……流石の洞察ですわマルガレータさん。
ヴェネツィアはオスマン相手にキプロス産のワイン、食糧、砂糖、銀を提供して――その対価として、香辛料を頂くという代物になっておりますの。しかしよく気が付きましたわね?」
知っていたどころか共犯者だ。しかしそれは言えないので更に別のそれらしい理由をでっち上げる。
「私が初めてアナさんに会ったときに、護衛として連れていたのはヴェネツィアの手の者でしたことをお忘れで?」
「……そう言えばマルガレータさんは、パドヴァ大学の卒業生でしたわね。『後々』の印象の方が強く残っておりましたのですっかり失念しておりました」
当時は、今のようにフィリピン・新大陸経由でスペインが香辛料を手に入れられるようになったとして、ヴェネツィアは果たしてどうやって香辛料を輸入するのか皆目見当もついていなかった。しかし、アチェ王国とオスマンの間に航路が開拓されているという事実。これがその不可能と思われた事象を可能にする。
テルナテ王国の産品がアチェ経由で流れ込むのは勿論のこと、そもそもアチェ王国もテルナテ程多種多様ではないが香辛料を生産しているわけで。アチェ産の香辛料については私も独占することは出来ていない。
「……つまりポルトガルが手放した香辛料交易はスペインとヴェネツィアの寡占体制となる訳ですが。その詫びと言いますか手土産としてヴェネツィアは『西地中海におけるスペインの主導的地位』をオスマンに認めさせたということですね……」
「ええ、フィリピン伯様。
ヴェネツィアは新たな香辛料交易参画の対価を。我がスペインの本国としてはモリスコの反乱に際して救援が来ない確約を手に入れ気兼ねなく掃討戦に移れた……という利益が。双方に舞い降りていたということなのでしょう」
そして、この『オスマン帝国によるモリスコ救援の阻止』というのは、スペインに向けたヴェネツィアの手土産であると同時に、私への謝礼という側面もあるのだろう。そしてヴェネツィアのカトリック世界での孤立化を防ぐ策でもある。
だからこそモリスコの孤立無援は確定。昨年3月の段階でその掃討戦すら終えて勝利宣言が出され、スペインを襲っていたネーデルラント並びに本国グラナダ地域での反乱はいずれも終結した。
そして、オスマン・ヴェネツィア・スペインそれらの地中海艦隊が完全に保全された状態で勢力圏を確定して一時的な休戦協定がヴェネツィア・オスマン間で結ばれた。
……あれ?
でも、これって。
「――オスマン帝国にとって、この和平は一体何の益が……」
「……」
「……」
私の呟きには補佐官もアナもどちらも沈黙であった。オスマンにとってこの和平はキプロス奪還という旗頭まで用意した戦を放棄し、しかも同胞であるモリスコを見捨てている。
確かにワインなどの交易品を得ているわけだが、交易の利で考えても香辛料を手に入れるヴェネツィアの方が遥かに優位なのだ。それ相応の献金を積んでいるのかもしれないが、金では手に入らない名声を損なっている以上は、その失った名声以上のものを手に入れる必要があるはず。
オスマン帝国は大国である。神聖ローマ帝国相手に完封勝利した上で賠償金をせしめる程には。金が必要なのであればヴェネツィアの献金に頼らずとも、キプロスを攻め落とし講和によって引き出すことも出来たはずだ。
それにも関わらず、オスマン帝国は和平を選択した。その理由を、私達一同――いや、下手をすれば本国ですらこの報告を送った時点では掴みかねている。
一体オスマン帝国の中で何があったのか……それに対して推察を巡らせている最中、部屋をノックする音が聞こえた。
イディアケス補佐官が、扉を開けずにまず応対をする。
「……どなたでしょうか? 今の時間は面会はお断りしていたはずですが」
「申し訳ございません、フランシスコ・デ・サンデですイディアケス様。
たった今テルナテからの定期船にてゴンサロ・ロンキージョさんからの密書が届きまして、我々では開封できかねましたのでお持ちいたしましたが――」
その言葉を聞いたイディアケス補佐官は私に視線を向ける。私自身も心当たりは無かったので小さく首を振ると、イディアケス補佐官は扉の外へ一度出た。
「ゴンサロ・ロンキージョ殿とはどなたかしら、マルガレータさん?」
「……そっか、アナさんは知らないですもんね。
テルナテ王国に常駐させている政庁舎の職員です。以前、あちらの宮殿に訪問した際に交易の差配と情報収集の為に置いて行った人員ですよ。定期連絡の報は既に頂いていたはずなのですが――」
「――とすると、テルナテ王国にて可及的速やかに知らせねばならないことが手に入った、ということではないかしら?」
そんなことを話していれば、イディアケス補佐官は手紙を持って戻ってきた。未だ、未開封である。
「……どうしましょうか? 私が先に拝見しても?」
そう彼は告げたので私は頷くと部屋に置いてあったペーパーナイフにて器用に開け中を確認する。
――その瞬間。
イディアケス補佐官の顔が凍り付いた。
その様子を見たアナが尋常ではないことが書かれていると判断したのか、補佐官から手紙を奪い取り中身を読む。そのアナですらも呆然とした表情を隠しもせずに次のように呟いた。
「……テルナテ王国宮殿にてカイシリ・バーブラ王子が、オスマン帝国のクルトゥオウル・ヒズル・レイスの密使と接触。
その会談の中で、オスマン大宰相――ソコルル・メフメト・パシャが『ファラオの運河』の再興に着手することを宣言した……ですって!?」
『ファラオの運河』――それを補佐官とアナの2人に聞けば、エジプトがファラオによって統治されていた時代に作られていたとされる伝説上の運河のことを指すようである。
伝承によればワジ・トゥミラットを掘削してナイル川のペルシアック支流からグレートビター湖、そしてグレートビター湖から紅海までを接続していた。それをオスマン帝国の大宰相の名の下で再興に着手することが発表され、イスラーム諸国に周知されている。
ナイル川と紅海が結ばれることが何を意味しているか? それはオスマン帝国の地中海艦隊を紅海――さらにはその先のインド洋に展開できることを意味しており、インド洋に面する南アジア、そして東端となる東南アジアにそれらの艦隊を派兵できるようになることを意味する。
オスマンにとって最も軍事的に脅威であったのは首都・イスタンブールを地中海より肉薄されることで、必然地中海艦隊はオスマンにとっての最先鋭である。つまりこれまでポルトガルとインド洋・紅海地域にて制海権を争っていたオスマン艦隊は二線級以下であった。
もし、この『ファラオの運河』という名のスエズ運河が開通すれば――その軍事的な拮抗が崩れ去る。オスマンは最有力の戦力を首都防衛に割くか南アジアに振り分けるかを選択することが可能となるのだから。
その伝説上の運河再構築にかかるであろう莫大な予算がどこから出るのかと言えば。
ヴェネツィアへと売り流す香辛料交易が生み出す利益とキプロス侵攻にかかるはずだった費用、そして――モリスコの反乱へ介入する際にかかったであっただろう軍事費が浮いた分なのである。