外伝29話 公教要理
アナ・デ・メンドサの軍事長官就任は、フィリピン伯の統治機構を急速に安定化させることとなる。
軍事のトップがアナ、内務のトップをイディアケスとして一元化されることとなり、政庁舎の実務はフランシスコ・デ・サンデが統括する体制が整ったことで、ついに組織としての歪さが解消されることとなった。
とはいえ、それだけならばウルダネータ司祭の生前の状態に戻っただけとも言えるが、アナは就任直後より軍制改革に着手する。本来急進的な改革は失敗するのが常であるものの、アナは兵質の最大の問題となっているファンタジー冒険者レベルの練度のアルバイト兵士問題には敢えて切り込みを入れなかった。
代わりにアナが徹底して行ったのが下士官・士官層の再編であった。その為にまず総兵力に関する規定を定めた。スペイン人と現地フィリピン人の部隊を完全に分離させることとして、第一軍・スペイン人部隊は陸上兵数500を上限として、50名程度の下士官・士官層を常設設置することとなる。そのスペイン人部隊の指揮官編成には現時点ではアナが連れてきたカラトラーバ騎士団の人員が使われることになった。兵は従来通りその都度アルバイトを呼ぶことになるが、それでも幾分洗練された形となる。
そしてそれまで陣借りという形で勝手働きをしにきていた現地勢力の援軍も逐次解体し彼等を第二軍として再編することになる。現地住民陸上部隊の定員を2000名として、地元有力者やその子弟を中心にスペイン軍制の教育を施した上で下士官層に配置することとなる。まだ軍事教育の不徹底により現行体制においては、こちらも上層部の指揮権は騎士団の人員とギド・デ・ラベサレスなどの初期入植において軍功を有する者らが差配しているが、ゆくゆくは現地住民指揮官も混成させていく予定である。
最後に、グレイス麾下のアイルランド兵を中心とする現行体制では近衛兵に位置付けられていた彼等は「近衛の独占は望ましくない」とアナが一蹴し、独立水軍という名目を付けた上で独自裁量が与えられた。先の第一軍、第二軍ともに陸上兵力の他に水上部隊を有しており有事の際には水兵も募集することとなるが、基本的にそれらの海軍は平時は海域調査等の探検やブール王国・ルソン王国等の国内外勢力との交易船と護衛船の中間用途で利用される。一方でグレイスの独立水軍は、常設の警備部隊としてそっくり残される形となった。
またそれに伴い解体された近衛兵であるが、以後私の身辺であったり政庁舎の防衛に関してはこれら三軍からの融通という形で混成部隊が配置される。だからグレイスも独立水軍の指揮官という役職を与えられているが、早々とその権限については平時は代官に委譲してこれまで通り私の屋敷内での護衛指揮官として出向することに決まっている。
結構、大規模に刷新を行ったように見えるが、実態としてまずグレイスの独立水軍に関してはほとんど名義替えを行っただけでしかない。また第一軍となるスペイン人部隊も、基本的にはテルシオのスケールを小さくして再現したものだ。数段劣化したテルシオになる予定。
最も制度が変更となったのが現地住民の取扱いであり、正式に軍への組み込みと相成ったためにこちらは反発が予想される。ただ、それでもアナは強行した。
「そもそも本国でモリスコの反乱、ネーデルラントでも南部反乱が発生した以上は、高々1つや2つ反乱が発生したところで宮廷のフィリピン伯領の評価なんて大して変わりませんわよ」
アナはそれまでの反乱からの統治不適格者烙印という私の危惧を一蹴して、更に『それでも不安なら全責任はわたくしに押し付ければ良いのですから。元はその為に軍事代官を欲したのでしょう?』とまで言い放つ始末。だから私はその意志を翻すことは出来なかった。多分、私だったらここまで果断な改革は絶対出来ないし考えもしなかった。
だが、アナが狡猾であったのはこれらの絵図を最初から大々的に明かすのではなく、私やイディアケス補佐官、更にはグレイスと政庁舎のフランシスコ・デ・サンデを含む一部の人員、そしてイエズス会のミケーレ・ルッジェーリというごく限られた面々にしか説明せず、実務においては軍事長官として細切れに指示を出すことで全貌を外から見たときに分かりにくくした。
こういう政治的な搦め手は指示が不明瞭となるために、実務者からの受けは悪いものの、アナは3年にわたって燻っていた林鳳率いる倭寇を僅か1ヶ月で倒した作戦の立案者であり総司令官でもある。その実績が今のフィリピン伯領内に居る者を黙らせた。
これほどまでに隔絶した軍功を最初に魅せられてしまったら、立場が下の人間からすれば反対の声を挙げることすら難しい。これは、私がセブ攻略作戦を成功に導いた後に意見の通りやすさが格段に変わったことと似ているね。
だからアナ就任後の最初の半年くらいはカラトラーバ騎士団の面々がフィリピン伯領内の目ぼしい若手の人材に下士官教育を施すところからスタートして、それが修了した者は下士官教育者側に回るか、士官教育課程へと昇る……そうした伝言ゲーム的な教育法によって、とりあえず最低限度の第一軍に必要な人員を揃えることに尽力することとなった。ぶっちゃけ構想に反してやっていることは凄く地味である。
そして、その軍と内務の双方から同時に提出された1つの計画があった。
「……コレジオの設立ですか? 確かに教育機関は必要ですが、まさか高等教育機関から先に来るとは……」
コレジオ。神学校における最高学府である。
大学を意味する『college』と語源的には同じくしながら、私がこの学校の存在を知っていたのは、戦国日本サイドの知識からである。
日本におけるコレジオは大友家のお膝元である府内に設置されていたが、島津による府内侵攻後は山口や島原・天草、長崎など各地カトリックに所縁のある土地を転々としていった。それ以前にも宣教師による教育組織というものは日本国内にいくつか存在しているが『授業』を行うコレジオが府内にて登場したのはおおよそ1580年頃で、その時点の授業内容は日本語とラテン語で修学生として日本人2名ポルトガル人5名が所属していたと把握している。そこから逐次拡大していくが、この初年度修学生のポルトガル人5名はその年の末には日本語で説教出来るほどには劇的な成長をみせている。一方で、ラテン語に関する授業は初年度には文法事項のみであったものが1582年にはラテン語の古典の購読や修辞学にまで話が進み、1584年においては古典と修辞学修了者に神学と哲学の概論に関する講義が行われている。
イディアケス補佐官は答える。
「名は『サン・イルデフォンソ』とする予定で、イエズス会側からも諒解は取り付けてあります。学長にはクリストファー・クラヴィウス殿が就く予定です」
そして同時にアナも続ける。
「基本は聖職者の養成コースを主といたしますが、一般教養課程も併設しますわ。運営の母体はイエズス会となりますが、一種のフィリピン伯領の高官育成の為の組織と考えて頂ければ」
ちらりと設置される授業科目を見る。
まずは一にも二にもラテン語。マカオのイエズス会コレジオを参考にしたというその授業科目は文法規則を教えるラテン語二級と、古典文学の読解に比重を置き各時代ごとのラテン語の変遷を学ぶラテン語一級とに分かれている。聖職者ルートならラテン語教養は必須だ。
またスペイン語圏でのやり取りはスペイン語で良いのだけれども、ヨーロッパ圏での外交文書はラテン語で行き来させるのが無難なのでマカオとのやり取りを行う今ではフィリピンでもスキルとしてあって得するのがラテン語の読解だ。
更にイエズス会の十八番である修辞学も設置。そういう意味ではイエズス会の本領発揮ってこの高等教育機関の設置からだよなあ、今までのイエズス会の活躍は実は主武装なしでのハンデ戦であったことを考えると中々にヤバい。
そして折角クラヴィウスが学長ということで、天文学と数学の授業も設置され、ジョゼ・デ・アンシエタの存在から医学も選択科目として存在し、聖職者ルートには地味に医療従事者という展望も開けている。なお医学の知見にはこれまで集積してきたフィリピン在地の民間療法や祈祷師の呪術・治療法なども研究されて編纂してある。そんな怪しいもの……と思われるかもしれないが、インド方面やイスラーム系の医療技術が土着化したものもその中に含まれているために部分部分ではカトリック側よりも優るものがあったりする。特に熱帯は病気の宝庫でもあるので、ヨーロッパでは未知の病でも、既に民間療法では効力のある治療法が存在したりなどもするから案外馬鹿にしてはいけないのだ。まあ16世紀だしね。
更に言語教育としてスペイン人向けに設置されている。主要なものとして、セブ周辺の現地住民とブール王国などで通用するセブアノ語、サマール島において通用するウィラナイ語、セブの西にあるネグロス島の西部領域で通用するイロンゴ語の3つの土着言語である。フィリピン伯領の中枢においての土着言語はセブアノ語圏に集中しているので非母国語話者からすると重要度合いが一番高く見えるのがセブアノ語だ。……私はどれも話せないが。
またその他に、ブール王国の先、スールー・スルタン国において通用するタウスグ語、同盟国・ルソン王国において基本的に通用するのはタガログ語、既に中国における布教政策で解析が進められている官話、そしてテルナテ語と日本語といった諸言語の選択授業もある。これは現在の東アジア・東南アジア領域においてフィリピン・日本準管区のイエズス会所属宣教師が布教へ赴く可能性がある地域の諸語である。
……いや、めちゃくちゃ多いじゃん。これでも交易用途であったりで比較的広い地域に分布する共通語を取捨選択しているから最低限なのだろうけれども、成程確かに実際にこうした量をまじまじと見せつけられると、現地語による布教というのが如何に困難なことで、それを実現するためのリソースが莫大であることが理解させられる。と同時に、人身売買などで強制的に住民の移動を伴う政策で言語圏が様変わりすることも、強制労働などで折角改宗させた現地信徒が亡くなることにも強く反対するイエズス会の姿勢も納得がいく。
新大陸で既に話として聞いてはいたことではあるけれども、列挙されるとやっぱり違う。
後は、建築系や芸術、スペイン文学とフィリピンの土着文学に関する授業なども後々取り入れたい希望リストに入っていた。言語偏重ではあるものの、理数系も一応あって目指すところが完全に総合大学である。
一通り設置予定の授業を見て、気になったことを問う。
「……スペイン語に関する授業は無いのですね」
「ええ、フィリピン伯様。コレジオでの教育は基本的にはスペイン語、部分部分でラテン語で行いますので、スペイン語が使えることは大前提となります」
あー……最高学府だもんね、そりゃそうなるか。スペイン語自体の教育はもっと初期段階で行うものであり、現状では聖アウグスチノ修道会の布教とともに初等教育として施されているとのこと。最高学府がイエズス会で基礎教育が聖アウグスチノ修道会が担うことで役割が分化しているのね、なるほど。
そして一応イエズス会の私学という扱いにはなるけれども、私はそのイエズス会の信徒団体である『コングレガティオ・マリアナ』の所属である体裁があるので、イエズス会が優位となる取り決めをしたところで商売敵である聖アウグスチノ修道会の面々ですらそこまで疑問には思っていないどころか、むしろ棲み分けを徹底してくれているという判断になるらしい。私のその初期の信徒団体を装った方便ってまだ効力があるのね。
その代償として多少予算に関して補助する必要があるけれども、以後の政庁舎スタッフと下士官・士官層の拡充に直結する予算だから、そこをケチる理由はない。それに国際経済ネットワークが機能しはじめて、兵糧関連でインドシナ半島領域にも関係が出来ているから、資金面の余裕は生まれてきている。
だから特段反対する理由も無いので、認可。そのまま『コレジオ・デ・サン・イルデフォンソ』の設立を行うこととする。……名前が分かりにくいから、ゆくゆくは変えたいなこれ。
そして。
そうした経緯で設立されたコレジオに着目したダトゥ・シカツナは、自身の王権の対抗馬として声の挙がりかねない存在であったペドロ・マヌークを本校に通わせることを発表。すると、現地住民の有力者の子息が続々と進学を希望するようになり、更には同盟国であるルソン王国からもトンド代表ラカンドゥラの子息であるマガット・サラマトや、マニラ代表の1人であるラジャ・ソリマンの後継者と目されている彼の甥にあたる洗礼済みのカトリック信徒であるアウグスティンといった次世代を担う者らが集まった。
それは、フィリピン伯領が以後の統治において現地勢力の有力者子息を行政官として招くこと――即ち、私の死後も現地勢力との協調路線が明らかにされた瞬間であった。
結果的に出来上がったものは、領内の有力者から臣従国の王子までが通うというファンタジー世界の学園物の舞台のような存在。
そして同時に全く意図していなかったが、疑似的には有力者の嫡子の人質を取っているのと同義となったのである。