外伝28話 分水嶺
ルイ・ゴメス侍従長が亡くなっていた。
それは想定していなかった。公の職を追放されて、純粋に侍従長という立ち位置に収まったのだから、権力闘争から一線を退いて言わば隠居のような状態になったのだろうと思っていた。
それが死去しているとなると話が異なる。権力を手放した瞬間の死は、まだ何も理由を聞いていないのにも関わらず、どこか作為的な不愉快なものを感じてしまってならない。
私が絶句しているのを尻目にアナはぽつりぽつりと語る。
「……マルガレータさんもお察しの通り、タイミングは確かに奇妙ですわ。ただ……仕事が減ってからは、体調を崩し気味ではありましたの。尤も宮仕えと公職の兼職でしたから、それが片方に落ち着いて張っていた気が抜けた、ということもあったのかもしれません――」
確かルイ・ゴメス侍従長はフェリペ2世の10歳くらい年上であったはず。だからそこから逆算すれば50歳そこそこか。そう考えれば、この時代であれば高齢と言える域ではあって全く早すぎる死、という訳でもない。
とはいえ、ウルダネータ司祭は70歳まで生きていたことを踏まえると個人的にはやっぱり早いと思ってしまうが。
「勿論、宮廷から死因に関する捜査も入りまして『病死』という結果は出ております。……ですが、それであっても毒殺の疑惑は付き纏いましたし、何よりフェリペ陛下は後任の侍従長を設置しておられません」
「それは、何と言いますか……」
毒殺の疑惑とは、政敵や間者によるものもあるだろうが、この場合恐らく妻であるアナも疑われたのであろう。彼女にルイ・ゴメス侍従長を殺す理由は無いとは思うが、宮廷での噂話というのは、理屈ではなく娯楽として消費するために広まることを私やアナはよく知っている。
そしてフェリペ2世が後任の侍従長を置かなかったというのも穿った目で見れば、ルイ・ゴメスの死に対する何らかの抗議メッセージなのではないかとも思える。フェリペ2世がアナを疑っているのか、それとも別の陰謀を感知したのかは分からないが、そうした国王の行動も噂話を助長する結果を生んだのだろう。
私は一度言葉を飲み込んで、別のことを口にした。
「……そのような経緯でフィリピンへ来たということですね……」
「あ、いえ? 当初はカルメル会の女子修道院へ入ったのですが……。実はちょっとそりが合わない相手が居ましてですね……その者の命にて厳しい修道院の独居室に押し込められて――」
カルメル会は聖アウグスチノ修道会と同じく托鉢修道会である。高等学術探求を主として修道士としての義務を最小限に抑えているイエズス会や、教会への奉仕と生涯学習を掲げ日々の祈りを重視する聖アウグスチノ修道会とも異なり、カルメル会が最も重視するのは『厳格な生活』の遵守である。
1日に2時間程度の黙想が義務付けられ修道会での共同生活における信仰の体現には余念がない。平たく言えば大なり小なり信仰の為に日々の営みを制限される修道会の中でも、かなり規律に則った生活を求められる。
そしてアナが対立していた相手というのは、聞けばテレサ・デ・ヘススと言い、何とこのカルメル会の女子修道会の創設者である。いや、敵対しちゃいけないでしょ。
アナは嫌がらせで独居室にぶち込まれたと言っているが、元々厳しい修道会なのであれば案外それが普通と同じ扱いだったかもしれないなと内心思う。口には出せないけれど。
それでアナはこのテレサの所業に反抗して、連れてきたメイドと一緒に勝手に規則を破って庭を散策したり自由に外出していたとのこと。
「……いや、それは流石にアナさんが規則違反しているのが悪いんじゃ」
「確かに悪いかもしれないけれども、それに対してあの女は修道女を全員私の居た修道会から引き上げさせたのですわ! 性根が捻じ曲がっていると思いませんこと?」
……まあ。
アナからすれば、夫が亡くなって沈んでいるタイミングで毒殺の噂という追い打ちが入ってきて俗世から隠遁したいという気持ちから修道会に入ったのだと思う。
しかし、そうして入った修道会で結局は創設者との対立という俗世に触れることになってしまい嫌気が差すというのは分からない話ではない。
でも、これってそのテレサ・デ・ヘスス側の立場から見れば……うん。カルメル会に元々存在しない女子の修道会を樹立したということは彼女も対抗宗教改革を志すカトリックの内部改革派の1人であろう。
その過程でわざわざ厳しいカルメル会に修道会入りしたいと、国王側近の妻で王妃とも友人であった上位の人物であるアナが言ってきたのだから、信仰に専念できる場を特別に用意したとかそんなところなのだろう。にも関わらずアナは早々と根を上げたとなれば、見捨てるという結果になるのもまた分かってしまう。
……というか信仰生活の場にメイドを一緒に連れてくるのも、そもそもおかしい気がするし。フィリピンにも連れて来ている上に、戦場後方司令部にまでメイドを詰めていたのだから私としては既に諦めの境地なのだけれどもテレサ・デ・ヘススからすればたまったものではなかっただろう。
それで生返事を続けていれば、アナは修道女が居なくなってしまったので修道院では生活出来ないと逃亡してマドリードへと帰ったとのこと。これはひどい。
「――ですが、マドリードに戻ってみれば、件のポルトガルとの関係調査が激化しておりました。わたくしも連座する恐れがありましたので、マルガレータさんのお話と合わせてフェリペ陛下に直談判して此方へ赴くことを認めて頂きましたの」
行動力の化け物か。でも気になった言葉があった。
「……連座? おかしくないですか、侍従長の一件は裁かれて公職剥奪で決着したのでは」
「実は……夫がポルトガル貴族と交渉している間に、ネーデルラントと渡りを付けていたのが、わたくしでして……」
あっ。それは確かにヤバい。アナがネーデルラントに窓口を持とうとした理由は、話を聞く限り亡くなった王妃のエリザベート・ド・ヴァロワからの依頼でフランスのカトリック勢力の支援の為とのこと。それ自体は至極全うな理由である。
しかしネーデルラントはカルロス王太子の独立によって着火した。そしてよりにもよって叛乱を起こしたのは南部ネーデルラント――カトリック勢力であり同時にフランス国境側だ。あれだけプロテスタントの処遇に悩まされていたネーデルラントにおいてよもやカトリックが寝返るというのも読めない。……ってことは、多分結果的に見てしまうとアナは叛乱軍に参加した貴族と関わりがあっても全然不思議ではない。そりゃウチに逃げもするわ。
「でも、よく実家がそれを許しましたね?」
「大貴族のメンドサ家とは言っても分家のメリト伯ですからね、わたくしの実家は。夫の公職解任辺りからメンドサ家との関わりは希薄になっておりますし、更に主人が亡くなった後からは実家すらも疎遠になっております。
あとは夫の遺領ですが、これは我が子に任せてきましたので本当に身軽にはなりましたよ」
切り捨てが早い。だけどそうでもなければフィリピンまで来ることはないよなあ。しかし『希薄』で『疎遠』ということは絶縁まではされていない。最低限のセーフティネットを残していて万が一のアナ大逆転にも備えているところは流石貴族だなあと。それでアナが致命的なことをしたら貴族家自体にもダメージがいくのでリスクはあるけれども、この両天秤のやり口は正直私は嫌いではない。
「――それで、折角フィリピンまで来たのですから。マルガレータさんに伺いたいことがあったのですけれども」
「え、改まって何でしょうかアナさん」
一通りアナがヨーロッパを後にするまでの情勢を聞いた私に質問があると急に言い出す。心当たりが無いので聞くしかない。
「……結局、マルガレータさんは夫――ルイ・ゴメスに一体何をさせていたのでしょうか? いえ、メキシコシティのアウディエンシア長官と夫がしきりにやり取りをしていたことは知っておりますし、長官との夫の接点はマルガレータさんくらいですので。
長官からポルトガル工作の依願があったことまでは掴めているのですが、肝心の目的については夫も口を割らずに亡くなってしまいましたわ。もしかしたら夫も知らなかったからかもしれませんけれど。
……本当に、マルガレータさんは何故ポルトガル貴族に工作を行っていたのかしら?」
――命の危機、分水嶺とは得てして突然やってくるものである。
*
ポルトガル併合のための工作。それが答えである。
起点は『レモネード』。カトリック・プロテスタント双方に悪名含めて知名度があった私を看板にしてヴェネツィアとアントウェルペンの商人がそれを売り出したことがスタートであった。そしてヨーロッパ砂糖需要が高まり、ポルトガルが応える為に黒人奴隷のブラジル移送を増加させて砂糖農場を大拡大しているという話。
これに布教政策上の観点から奴隷的労働酷使と言語圏が滅茶苦茶になる人身売買に反対の立場を取っているイエズス会から苦言を呈され、対応策を練るように言われ極秘で進めていたのがポルトガル王位継承問題にかこつけた併合策である。
全面的にメキシコシティのセイノス長官に頼り切りの話であった。イエズス会としても抜本的な対策を講じることまでは期待されていなかったのと、フィリピン側から出来ることは殆ど無かったからである。
しかしそのポルトガル新王の旗頭となるはずであったのは、血縁関係からカルロス王太子でありネーデルラント問題によって全てはご破算となった。そして恐らくこの動きのせいでルイ・ゴメス侍従長は失脚している。
……正直に話したらまずくない、これ?
ルイ・ゴメスが行っていたのは恐らくポルトガル貴族への資金貸し出しであったはずだ。ポルトガルは植民地の生産力拡大に注力を置く以上はどうしても経済的な不均衡が生じる。それによって没落する本国貴族を狙い撃ちして、資金力で縛り動きを制御するのが目的であった。
しかし、南部ネーデルラントの独立支援にポルトガルの援助があったことを考えると、そうして借金漬けにするための資金で叛乱軍の強化が行われた可能性がある。もしその事実が認められればルイ・ゴメスは下手すりゃ反逆罪で死刑……って、彼の死が病死か否かまで連動しかねないのか、この話は。
ただし目的は別としてポルトガル工作そのものは公職剥奪の時点でバレている。つまりその時点で侍従長が生きていたということは、スペイン王家の捜査では彼の工作資金が叛乱軍支援に転用されたか否かは白……もしくは裏取りを出来なかったかしなかったかのいずれか。
よく考えろ。ここの発言如何で今後の進退が決まりかねない。
セイノス長官はポルトガルの王位に据えるためにカルロス王太子を擁立しようとしていた。しかし結果はポルトガルの支援による南部ネーデルラントの一時的独立。
そして私がネーデルラント政策にはある程度関わっている。
……もしかして、これって。
――カルロス王太子の独立が私とセイノス長官で行おうとしていた、と疑われている?
確かに侍従長経由で資金はカルロス王太子に流れていない。ただ。
私はアントウェルペンと金銭的に繋がっている上に、アントウェルペンは独立騒動で中立を保ったが本来は南部ネーデルラントの所属だ。そちら経由は疑いを持たれる可能性は充分にある。
……これはバラした方がマシだな。でないとより危険な冤罪が待ち構えている。
「……実は過去にポルトガルの人身売買と強制労働への対策をイエズス会より求められておりまして。それの関係でポルトガル王位をスペイン・ハプスブルク家に相続させようと考えていたのです。……まあカルロス王太子の独立によって全てご破算になりましたが」
「……はあ。本当にあなたは。
盤面を壊すと言っても限度がありますわ。まさかポルトガルという国家そのものを壊そうとしていたとは、あまりに想像の埒外で逆に疑えないじゃないですか」
「あの……アナさん。これ本当に機密だから、今になって露見したらマカオとの関係が破談になるから……」
「分かっておりましてよ。何より失敗に終わったことなのでしょう? 告げ口する義理はありませんわ。
……というか、これだけのこと。おそらく夫も知りませんでしたわね……全く……」
アナの完全に呆れた声と、目を放しておくととんでもないことをしでかす奴という烙印を評価の低下を甘んじて受ける必要があったものの、何とか危機は乗り切ったのである。