第9話 この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ
現在のヴェネツィア共和国元首の兄であるジローラモ・プリウリとの面会を終えた私は、準備期間を終えると彼と交わした約束を履行するために、ヴェネツィアの護衛を含めた人員とともにパドヴァ大学を立った。
行き先は――ローマ。カトリックの総本山たるバチカンである。
ジローラモ・プリウリに私の要求を伝えたとき、彼は驚きはしたが否定の言葉を飲み込み、こう答えている。
「……確かに。今であれば、貴方がローマに行くことは適う。……というか、むしろ今を差し置いて他の機会は恐らく無いですな」
私の目的には触れずに彼は、同意を返している。
今の外交状況として。スペインは同盟国たるイングランドを将来的に喪失することがほぼ確定しており、既にヴェネツィア共和国に渡りをつけている。だが、他にも味方が欲しい所だ。
一方で教皇領。未だに継続中のスペイン・神聖ローマ帝国対フランスのネーデルラントでの戦闘であるが、元々フランス側に付いていたはずの教皇領は、スペインによるローマ進軍が現実味を帯びたことに対して、単独講和を行い既に戦いから足抜けをしている。
これはイタリア方面のスペイン側総指揮官――柴田勝家似のアルバ公の成果だが、フランスにとっては重大な背信行為となってしまった。
いかに離合集散が外交の常とはいえど、またフランスを味方付けるわけにはいかない。現教皇であるパウルス猊下はスペインを快く思っていないことは周知の事実であるが、さりとて教皇領としての選択肢は狭められている状態だ。
――そう。
「今なら、ヴェネツィアの仲介でスペインと教皇領の連帯。
……交渉の価値はあるのではないでしょうか」
同盟相手が180度転換して勢力図が入れ替わるのは戦国日本でも数多の例があるから比較的私の理解も及びやすい。
例えば、今川を滅ぼさんと攻め込んだ武田に対して甲相同盟を破棄した北条が新たなパートナーとして上杉を選び、越相同盟を結んだように。
「つまり、貴方の目的を利用してヴェネツィアの密使を教皇領内の次期教皇候補と接触せよ、ということかな。
……ふむ、面白いですね。一枚噛ませていただきましょうか」
利となるのであれば、オスマン帝国とも手を結ぶヴェネツィアだからこそ、潜在的には敵対しているはずのスペインと教皇領の仲介はお手の物だろう。
それに、カトリックの守護者足らんとするフェリペ2世と、新たな軍事パートナーが必要不可欠なローマ。問題は多々あれど、根本的には利害はそこまで対立していない。
私が軽く頷くと、ジローラモ・プリウリは更に言葉を重ねる。
「――しかし、マルガレータ嬢の意図が掴みかねますな。
確かに著名な人物ではありますが、さしたる実利もなく危険を冒してまで会う相手なのですかね。
……ミケランジェロ・ブオナローティ氏は確かに彫刻の大家でありますけれど。作品を見たいならともかくとしても、実際に会いたいとは物好きなことで……」
私の要求は、ミケランジェロとの面会。
ただ、それだけのために。策を施し、魔女よりも恐ろしい政治的な魑魅魍魎の跋扈するローマへと足を踏み入れるのである。
*
「……ここですか。さて、ミケランジェロ様はいらっしゃるのでしょうか」
ヴェネツィアの護衛しか周囲には居ない為に相槌すら返ってこない。その反応に若干ノリの悪さを感じつつも、『マセル・デ・コルヴィ』と地図には示された街区の建物をなんとなしに見やる。代々の教皇にその才覚を愛され、そしてメディチ家も庇護してこの時点ですらその名声はイタリアに留まらず全ヨーロッパへと轟き響くのが、ミケランジェロである。
ノックをしても返答が無いので、ドアに手を掛ければ鍵は掛かっていない。何と不用心な。
そして中に入ると、そこは作業場のようであった。まるで何が書かれているかは読み取れないが複雑で精微に線が無数に引かれたまだ書きかけの設計図のようなもの、あるいは、途中まで彫られた姿で無造作に置いてある彫刻像、木で作られた建物のモデルに見えるものなど、雑多であれどしかしどれも好事家が見れば値を付けるように思えるものばかりが転がっていた。
「当代のクレオパトラは、老人趣味がおありとは中々高尚なことでありますな。
……このような枯れ木の老人に何用かな。転向者の小娘よ」
その強烈な皮肉を放った相手に向きかえり私は言葉を紡ぐ。
「ミケランジェロ・ブオナローティ様でありますね。
マルガレータ・フォン・ヴァルデックと申し――」
「御託は結構。用件を聞いておる」
――問答無用である。この様子だと門前払いをされなかっただけでも御の字と考えるべきかもしれない。
当代随一の天才であり、おそらく今を生きる人物では世界全ての人間をひっくり返しても元の時代での世界的知名度の高いミケランジェロだからこそ、私はどうしても聞きたいことがあった。
「……遠き東の国には、異教の教えにて『転生』という考え方があります。
カトリックにせよ、プロテスタントにせよいずれの生を受けたとして。異教の教えである異なる肉体への受肉が、果たして信徒の身に現れるのでしょうか」
それは前世と今世の結びつきはキリスト教の教義的にはおそらくあり得ぬはずなのに、マルガレータ・フォン・ヴァルデックというプロテスタントの身体に私という存在が溶け込んだことに対しての疑念。
そんな荒唐無稽な話を目の前の老人は最初切り捨てようとしたが、私が本心から、そしてこの質問を目的として会いに来たことを察したことで、ぶっきらぼうにこう答えた。
「――『イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた』……この一節は流石に知っておるよな、プロテスタントの小娘よ」
「……ヨハネによる福音書、第9章1節」
「如何にも。その先を告げよ」
その先――第9章2節は、こう続く。
『弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」』
――と。
私がそれを暗唱すれば、ミケランジェロはこう返した。
「生まれつきの盲人が、目に光が届かぬ理由が本人の罪であるとするならば。
……この盲人は、生まれる前――即ち『前世』において罪を犯したということになる」
……っ。
私は答えに窮した。キリスト教世界では、『転生』という概念そのものが存在しないと考えていたが、新約聖書の記述の中にそれを示唆する一節があることをミケランジェロは看破していたのである。
そして。『ヨハネによる福音書』はその答えまでも用意していた。
第9章3節――。
「『イエスは答えられた、本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』
――プロテスタントの小娘、自明よな」
イエス・キリストは弟子に問われた前世の罪を否定し、神の御業がその盲人の下に現れるという『現在』に重きを置いているのだ。
福音とは、過去に囚われることではなく、今の状態において神の御業に触れること。過去に何が行われたというところに問題解決の本質はなく、今、この瞬間に盲人は福音を受けて『新たな命』を預かることに比重が割かれている。
過去にプロテスタントを信仰をしていたことも、更にそれ以前の前世の私が如何なる罪を背負っていたとしても、これに沿うのであれば、私は救いを受けることが出来るのだ。
――継母なる神の御業によって。
「……よもや、わしに会い吹っ掛けてきた話が宗教談義とは。
流石にわしも短くない生を送ってきたが、久方ぶりに驚いたぞ」
「やはり彫像などの作品について話しますか」
「今更取り繕うな、プロテスタントの小娘。
そのような取ってつけたような言及よりも、貴殿の話の方が興味あるわい。
――貴殿の目には、この世界がどう映る。天国か、煉獄か、それとも地獄か?」
これに対する私の回答は、あっさりと出てきた。
「――白雪姫。おとぎ話の……物語の世界ですね」
*
私自身、マルガレータ・フォン・ヴァルデックという私が、白雪姫と完全に同一の存在だとは考えていない。
しかし、前世の私と何1つ共通点のないマルガレータという私を繋ぐ架け橋として白雪姫という私の側面を信じている。
と、同時に命の危機は幾度も訪れているにも関わらず、本質的な意味でこの世界に私自身が根付いているという実感が全く湧かない。現実味が無いというか、地に足が付いていないというか……一度確実に私は死していることから、死に対する恐れと忌避は前世よりも強くなっている。だからこそ、白雪姫の3度の臨死体験について私は避けようと考えているし、事実今の私は最早白雪姫のストーリーから逸脱しているという認識もある。
私のことをプロテスタントの娘という理由で毛嫌いしていた継母は既に死して、2度目の再婚を果たした父の新たな妻――継母は、今度はプロテスタント信仰の家から娶っている。
だから、もう白雪姫は破綻している。
しかし、それでも尚、この世界に対しての現実感が全く無い。そういう意味でのおとぎ話であり、物語の世界という認識なのだ。
「つまり貴殿は。
ダンテ・アリギエーリの神聖喜劇の主人公・ダンテが地獄を探訪したように、世界の聴衆として、あるいはただの傍観者として、日々を過ごしているのか。
実に罪深いことであるな。ダンテには先導者が居て案内されていたが、ふむ……貴殿もそうなのかね? 何者かにこの世界を案内されているという自覚があるのか?」
「……いえ」
「では、大勢の地獄の住人と貴殿をどう分ければいいのか。『転生』なる考え方を鑑みるに、前世にて洗礼を受けていないことを理由に『辺獄の住人』でも名乗るのか。それでもダンテとは程遠いがね」
「……では、どうすれば」
その私の勢いこそ殺したものの慟哭の性質を有した呟きに、ミケランジェロは一切の慈悲無く――あるいは慈悲の心からか、こう告げた。
「……貴殿の物語に終止符を打つしかあるまいて。何時までも物語に囚われているからこそ、貴殿は永遠に死しているのよ」
……既に、王子様のキスはもう来ることは……ない。
だからこそ私は自力で目覚め、『白雪姫』という物語を終わらせなければならない。
私が『白雪姫』の物語の主人公だと思っているうちは、自己を確立することができないのだ。どうしても自分という存在に『白雪姫』という側面が入り乱れ、ぼやけるのだ。
私はあくまでも、マルガレータ・フォン・ヴァルデックであり。同時に、――――なのだから。
「……ふむ。目つきが変わったな。
プロテスタントの……いや。マルガレータ嬢よ。今一度、貴殿の話を聞かせて貰えるか」
「……私の名はマルガレータ・フォン・ヴァルデック。
神聖ローマ帝国ヴァルデック伯が娘であり、信徒団体コングレガティオ・マリアナの一員で……スペイン国王であらせられるフェリペ陛下の――友人」
「――して、マルガレータ嬢は、神より賜りし命を賭して何を為す?」
「物語を無かったことにするためでもなく。……スペインのためでも、布教のためでもなく。……あるいは、彼の国をより良くするためでもなく。
私は、彼の国……日本へ――」
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◇ ◇ ◇
スペイン・マドリードに宮殿を建設を指示したフェリペ2世であったが、まだ執務に利用できる状態に無いため、先王――1558年に崩御した先代の神聖ローマ帝国皇帝でありフェリペ2世の父でもあったカール5世も度々利用していたバリャドリッドの宮殿を暫定的に利用していた。
「……ふむ。そういえば昨年認可したフィリピンへの入植計画はどうなった?」
この問いに対して秘書官であるマテオ・バスケスは答える。
「はっ、陛下。艦隊の準備は然りと為されており、かつて香料諸島への渡航を成し遂げた生き残りの航海士を見つけたようです。ただ……」
「……ほう?」
「現地のヌエバ・エスパーニャの副王の状況がいかにも芳しくなく。財政的理由を原因に意図的に計画を遅延させている可能性が――」
「――陛下! 一大事に御座ります!!」
マテオ・バスケスの発言は、突如執務室に入ってきた者の叫びに似た報告によってかき消される。
「どうした? 其方らしくもなく取り乱して。
……ルイ・ゴメス侍従長。落ち着いて用件を伝えよ」
「……はい、陛下っ……。
先程、私も聞いたばかりで、動転しておりました。
――地中海のトリポリ西岸にあるジェルバ島にて、我がスペインの増強された艦隊と、ヴェネツィア・教皇領両国を合わせた3か国連合艦隊が、オスマン帝国艦隊の襲撃を受けました!
我が方、数では数倍の優位を誇り、各国ともに共同して襲撃に対応していたものの敗北し、少なくとも60隻以上が撃沈ないしは拿捕された模様――」
「――なっ。被害は……そして戦果は!?」
「被害は1万を下らず、その中には……その、我がスペインの最精鋭部隊も含まれております。そして戦果なのですが……小型ガレー数隻のみで人員被害も多く見積もって1000人程度かと……。敵方の大型のガレー船の被害は見受けられなかったとのことです」
「――完敗ではないかっ!?」
――1560年5月。
スペイン・ヴェネツィア・教皇領の三国連合艦隊は戦力に劣るオスマン帝国海軍の襲撃を受けて完膚なきまでに敗北を喫した。
これはキリスト教勢力の地中海における制海権の喪失を意味しており、同時に、ローマを守るための最後の海の要塞であるマルタ島が無防備になった瞬間であった。
それは、まるでこの1ヶ月後に極東の島国で起こり『織田信長』という男のその島国での名声を高めることとなる『桶狭間の戦い』を海で行ったかのような大番狂わせの出来事であった。
そしてその後、織田信長に敗れた今川家が徐々に瓦解していくこととなるが、しかしヨーロッパ側ではその今川家のような瓦解は発生しなかった。
――スペイン・ヴェネツィア・教皇領の三国連合を成し遂げた人物に、プロテスタントの影響が強い『異端と強く疑われる女性』の名がローマにて挙がったためである。