外伝26話 ペリペテイア
1571年の年始は、普段と異なっていた。
毎年この時期に定期でやってくる新大陸からの太平洋横断連絡船団。年を経るごとにその規模は逐次拡大していたが、例年の増加ペースよりも更に多い。
その最大の理由はフィリピン伯領側から食糧の緊急輸入を提案していたためである。通常の貿易決済用の船団の積み荷を変えるのではなく、そもそもの船の隻数を増やすことで対応してきた。
とはいえ、此方が求めた要求量には足りない。何故かと言えば、本国で反乱が発生しているので安全圏である新大陸はそちらにも兵糧を送っていたためである。
その代わりなのだろうが、銀インゴットの積載量が増やされていた。多分、これで買えってことなのだろう。周辺で余剰穀物がありそうなの明しか無いんだけど。
既に日本、アユタヤ、タウングー王朝が大々的に石見銀・鉛・ルビーを垂れ流して買っている明から更に購入するとなると、相当なぼったくり価格と修羅場が待ち受けている。
ただし、そんなことは吹き飛ぶ程の『積み荷』を此度のガレオン船団は抱えていた。
「――新たに軍事顧問として着任いたしましたアナ・デ・メンドサですわ」
そこに居たのは沢山のメイドと兵士を引き連れてガレオン船から降り立った隻眼の麗人であった。略装のドレスを身に纏い右目に眼帯を付け、腰にサーベルを装備した彼女の姿は、領主である私よりも貴族として映えるものであった。いや、実家の太さで言えばアナの方が断然上だから、立ち振る舞いが洗練されているのは当然なのだけれどさ。
「まさか……アナさんが来るとは……」
「ふふ、他ならぬマルガレータさんが手紙の中で来ても良いと言ったのではないですか。それに宮廷雀らの囀りを聞く限り、マルガレータさんは軍務の代官をお求めになっているらしいじゃないですか」
どちらも事実ではあった。でもそれは良くない出来事が重なって不安がってたアナを慰めるための冗談みたいなもので、まさか本当にお役目まで貰ってやって来るとは思わないじゃん!
隣で控えていたイディアケス補佐官が白けた目つきで私のことを見る。大方、いくら宮中とかけあって呼び寄せたとて、流石にアナは大物すぎるということなのだろう。大貴族の分家出身であり、同時に侍従長という側近衆トップの妻。既に故人ではあるがフェリペ2世の正妃とすらお友達だったのだから、スペインから見たときに最西端であるフィリピンにまで来る人間ではない。……それを言ったら多分イディアケス補佐官もなのだろうけれども。
ともかく、このアナがフィリピンにまでやってきたことを強引に比喩するのであれば、物凄い僻地を治める将軍と仲が良いだけの小領主が『寄騎ください』と言ったら細川藤孝を送られた……それくらいとんでもない人選なのである。この喩えが適切なのかは分からない。
イディアケス補佐官が警戒を通り越して呆れるのも無理はない。ぶっちゃけ領主の座を明け渡したとてアナの身代では正しい意味で役不足なのだから。
「マルガレータさんと募る話はありますけれども、それより先に役目を済ませてしまいましょう。報告では海賊に隣国領土が侵されているのでいましたわね?」
「あっ、はい。倭寇の林鳳率いる軍勢がもう……3年になりますね」
「年月はあまり重要ではないですわ。敵方の兵数はどれくらいでして?」
確か……あれ? いくつくらいだっけ。
前に聞いた時は確か――
「3000は越えないくらいでしたっけ? イディアケス補佐官」
流石に補佐官は数字は覚えていたようで「千から二千程度と確か記録には残されていますね」と答える。
しかし、アナは気になったことがあったらしい。
「……記録、とは? 一体何時のものでしょうか?」
「敵戦力の推定値については『アタギ』殿が算出していただいたものですので――」
「ああ、アナさん。安宅神太郎殿は一時期客将として私達のサポートをしてくれていた友好国の海軍指揮官です。
確か、彼が帰国したのは1年半前でしたね」
「……マルガレータさんの麾下のグレイス・オマリー殿を呼んで下さる?」
完全に呆れ果てた声色でそう言われた。そして私が連れてくるまでもなくグレイスはアナの眼前に姿を現し頭を下げている。
「――貴殿の立場は分かっているつもりですが……。アイルランド勢には、もう少し給与分以上の働きをして貰っても構わなかったですのよ?」
「はっ、申し訳ございません。マルガレータ様は無用な軋轢を好みませんので、それに我々はあくまで軍ではなく私兵という立ち位置を望まれておりましたが故に」
「……やっぱり貴方、問題を分かっていて放置していたわね」
涼しい顔でアナの追及を受け流すグレイス。そして、長く溜め息をついたのちに改めてアナはグレイスにこう尋ねた。
「……で、グレイス・オマリー殿。貴方の見立てでは、賊の数は如何ほどかしら?」
グレイスは逡巡、言いよどむ仕草を見せたが、次のように答えた。
「――残存兵力であれば多く見積もって八百といったところでしょうか。ただ元が海賊ですので飛び道具の装備率が高く、反面防備に関してはやや軽装です。
接近戦も得手とする一部部隊については既に、マルガレータ様の策略にて離反させております。反面、それは賊軍の均質化を招いておりますが――」
「……待って、グレイス。その報告、私聞いてない……」
「私の麾下部隊を使って個人的に調べていたことでしたから。我々は軍の権限に口出しする気は一切ありませんでしたし、何よりマルガレータ様の有する軍事権は開戦と終戦に関する判断だけでしょう? 同盟国領の賊の討伐など講和する気は毛頭ないじゃないですか」
私の統治システムの基本は、『分からないことはとりあえず全面的に誰かに任せる』という丸投げスタイルである。だから各人・各組織に高い独自裁量権を与えている。
政庁舎はグレイスの指揮部隊が曖昧だったのでその役割を私の親衛隊組織のように再編することを企図して、グレイスもその政治的な動きを容認した。まあ彼女、そういう政治の側面でも普通に優秀だし。
その結果、リスク回避のためにグレイスは軍事事項から離れることとなった訳だが、それはこうして情報の分断を産み出す。とはいえその情報の分断が個々人の高い秘匿性に繋がり、私が何時誰にどのような指示を出しているのか曖昧なことが、戦国知識の打ち手を怪しまれないという思わぬ恩恵をも生じさせているのだから何がメリットに繋がるのか分かったものではない。
しかし、グレイスを軍から切り離したことが今回は悪く作用した。
とはいえ多分軍組織の内部にあったとしてもグレイスがその立場の不安定さから、今出てきたような報告を伝えたかどうかは微妙だが。
そしてアナはそのグレイスの態度を指して疑問にも思わずに、まるで想定内であったかのように質問を重ねる。
「飛び道具は砲、ないしは鉄砲もあるのかしら?」
「現状確認出来たのは、鉄砲のみです。……ただスペインやポルトガルの機構のものとは異なるので恐らくオスマンの技術を東南アジアにて改修したものになるかと。
また賊が砲を使っている姿を目撃していないとはいえ、在地勢力のルソン王国において前装砲製造技術は確認しております。これもオスマン由来ですね」
「分かりましたわ。砲の有無については私も探ってみます。では、さっくり片付けて参りますね」
そう言い終わるや否や、アナは乗っていた船に戻ろうとする。
まさか、本当に今から行くのか――?
「アナさん……今、食糧問題から多くの兵を戻しておりまして……。兵を募るのには多少時間を頂かないと……」
これに対するアナの答えは明瞭だった。
「――不要ですよ。練度の異なる兵の指揮は、如何に大兵であってもその恩恵を消し飛ばすだけのリスクが御座います。確実な勝利の為にはリスクを削ることこそ肝要です。
……ああ、でも。グレイス・オマリー殿とその軍勢はお借りしてもいいですかね? どのくらいおります?」
「はっ、アナ様。即応可能なのは170名程度ですね」
「それだけあれば出来ることが増えますわ! では、マルガレータ様。よろしいですね?」
「ああ……うん……大丈夫なら良いけれども……」
思わず驚きの言葉が続いて素で答えてしまった。確かに、兵質不均衡については安宅神太郎も私にかつて進言していたことではある。臨時アルバイトとして兵を雇い、ルソンに送って、しかもルソン王国の同盟国軍勢に、臣従勢力の勝手働きの陣借り。これらをまとめて兵力で隔絶していたが、結局頭となるべきウルダネータの死去に伴い統率者不在に陥り攻勢に出ることはずっと断念していた。
だからこそ、ここでイディアケス補佐官が口を挟むのは必然であったかもしれない。
「恐れながら! 軍勢を如何ほど出すかについては臣従諸勢力との折衝が必要な事柄でございます。それを不要とおっしゃることがかのメンドサ家の一族の者ならば重々承知していると――」
「――ねえ」
イディアケス補佐官が言葉を思わず止める程に、底冷えのするアナの声が異様に響いた。
「……貴殿のことは知っておりますよフアン・デ・イディアケス殿。しかしらしくありませんわ、随分とフィリピンにかぶれたようですこと。
マテオ・バスケス秘書官の下で薫陶を受けた貴殿に改めてお伺いする方が失礼かと思い差し控えておりましたが、貴方の有する軍事代官職はそこのマルガレータさんから得たものなのに対して、私の任命はフェリペ陛下の御裁可も得ているものですよ。
……どちらが優先されるべきか、まさか宮仕えであった貴方がご存知ないとは言わせませんわよ」
まさしく一蹴であった。
アナとイディアケス補佐官は、後から知ったが実は同い年である。にも関わらずここまで貫禄に違いが出てしまうのは、大貴族の縁者であり侍従長の妻という立場で、ずっと陰口を叩かれながらも宮中メンバーに限りなく近い場所でやりあってきただけの蓄積が垣間見えた瞬間だった。
確かにイディアケスもまた、同じく宮中の意向を受けた人員である。しかし、彼はこちらに異動してしまったことで殺伐とした環境下から解き放たれていた。私が独自裁量権を与えるために、彼にとっては政庁舎内部での派閥抗争はまさしく無双状態であったのも良くなかったのかもしれない。
そしてアナは乗ってきたガレオン船のうち、2隻を率いて出撃しグレイスは幕下の兵をまとめた後に、後追いする形でセブを離れた。
アナは自身の『さっくり片付けてくる』という言葉の通り1ヶ月程度で、倭寇の軍勢を撃破し、そのままパンガシナンに築き上げられた倭寇の拠点を占領。なりふり構わず逃亡をしようとしていた倭寇水軍を海上にて捕捉・殲滅し、首謀者の林鳳の戦死も確認。
文字通り全てをたった1ヶ月で解決した上で翌月には、セブへと凱旋してきたのである。
……え? マジで何をしたんだ……。