外伝22話 偽りの天秤
会議室で立てた机上の計画が実際には上手く行かないというのは、非常によくあることである。
今回の東アジアから東南アジアにかけての大規模な飢饉対策もそうであった。私達はすぐさま食糧防衛策に切り替えたし、特段情報封鎖なども行わなかったために即座に周囲に漏れた。
その結果として、まず最初に発生したのが最も食糧があると思われた明商人からの搬入ルートが暴騰したのである。これは明の商人が売り渋りを敢行したのか、明国の沿岸部の地方行政の担い手が自領から食糧が流出しすぎないように何らかの対策を考案したのか、はたまたその底の見えぬ需要に対して市場が不安定になったのか……まあ色々と考えられるが、おそらくはその全部が複合的に絡んでいるのであろう。
つまりは現状従来の数倍というレートで食糧の交換が行われるようになっているのだが、それでも明から購入できると分かるや否や、タウングー、アユタヤの両国はルビーと鉛などの彼等の交易商品に色目を付けず暴利であっても購入していった。
また室町幕府も同様に石見銀を垂れ流すことを最終的には是認。食糧が暴騰しているとはいえ、それまで日本は交易産品として食べ物をそれほど欲していなかったためにルソンにおける暴騰前と後の相場を体感として知らなかったため反感は薄かった。そもそも食糧価格なんて変動するものという認識は私よりも遥かに強いというのもある。
ポルトガル領インドやオスマン帝国からの間接支援については、今のところ不透明だけれども、とりあえずフィリピン伯領としてやれることはやった。そして、不完全ではあっても既に明の食糧が流通経路に乗った以上、後はそれをいかにうまく循環させるかにかかっている。
「その……フィリピン伯様。明の商人からはこのようなものまで入ってきているようで……」
歯切れの悪そうに語るのはイディアケス補佐官。ルソン王国防衛の最高指揮官である彼を、この行政飽和のタイミングに軍事部門に据え置くことが出来なかった。ギド・デ・ラベサレスに軍権を全て代行はさせられないので、イディアケス補佐官がセブにて政務を行うということはスペイン人で組織された軍の兵の半分ほどを撤退させることを意味していた。
それは勿論ルソン王国の防衛能力の低下に繋がるが、そのデメリットを考えても尚、この未曾有の飢饉予測に対応することを私達は優先したのである。
そしてイディアケス補佐官の言葉に耳を傾けながら、出てきたものを見やる。
「……えっと、これは鳥の……燻製でしょうか?」
「『ホイログ』という七面鳥やら鷲の乾燥肉でございます」
補佐官の語ったホイログとは、食肉であると同時に一種の『薬用食料』である。滋養や傷の治療等に効果があるとされている――
――モンゴルにおいて。
つまりはモンゴルの保存食が、フィリピンまで流入してきているのである。マカオ由来の情報では、モンゴルと明は現状和平交渉中であり正式な国交が開かれているわけではないとのこと。にも関わらず、こんなものが遥々フィリピンまで渡ってきているということは、明の商人らも彼等の伝手でかなり強引に食糧をかき集めているのである。
*
結局、斎藤龍興と落ち着いて話が出来たのは、彼がセブにやってきて数ヶ月が経過してからであった。
幕府から食糧供給の使者がやってくること自体もそれなりに不思議なことではあったが、その使者が斎藤龍興であるという点は謎である。
まあ墨俣一夜城から連なる歴史改変の被害者なのだから、最早私の知る歴史から判断するのは難しい。
「……そもそも、何故貴殿が遥々セブまでやってきたのでしょうか?」
挨拶もそこそこに直球勝負で話を切り出してみる。すると斎藤龍興は自嘲するかのような笑みを見せつつこう答えた。
「……長くなりますよ、白雪様」
「ええ、それは覚悟の上です。というか私は貴殿が幕臣に名を連ねているところから疑問に思っているのですから」
「ああ、其処を疑問に思って下さるのであれば、多少話は早いですね。
……そうですね。事の始まりは――将軍家による『若狭武田討伐』からだと言って良いでしょう」
私が日本に居た頃や、安宅神太郎から伝え聞いていた頃の日本情勢にはなかった動き。それがこの将軍家の若狭武田討伐である。
起点は丹後国の守護を務めている一色義道からであった。彼は守護職こそ幕府より頂いていたが、その実情としては若狭武田家によって守護としての機能は大きく制限されてしまっていた。だからこそかつての栄華を取り戻すために、既に幕府の奉公衆として近侍していた弟の一色昭辰を通じて将軍・足利義昭の下に『若狭武田討伐』の陳情が舞い込むこととなる。
その丹後一色家の提案に対して、義昭は乗り気であったようだ。
というのも丹後を侵食していた若狭武田家であったが、彼等は彼等で内情はお寒いものであった。というのも、この若狭武田家の当主である武田元明は足利義昭の甥であると同時に、朝倉家にて軟禁されているためだ。だからこそ、今の若狭武田は朝倉の傀儡というか出先機関と化している。
だからこそ義昭としては一旦現状の若狭武田を整理した上で朝倉の影響力を弱め、改めて甥の武田元明を国主に据える……そういった策を思い付いたらしい。
しかもこれで幕府が若狭に影響力を発揮すれば日本海側の港を確保でき、海路にて越後の上杉家や出雲経由で毛利家とも連絡路が取れるので二重に美味しい。
「この辺りの『海上交易路』の重要性は、白雪様には改めてお話することでもないかと思いますが……」
そう龍興が付け加えたことで気付いたが、今の室町幕府、ひいては足利義昭に『海路』の重要性を教えたのは私――ということになってしまっている。
海を経由すれば陸路では取れない連絡路を確保できるうえに、交易で富を得ることも可能。それらの重要性を理解しているからこそ兵庫津に海軍の操練施設が作られることになったのであり、それを義昭も応用してきたということだ。
そして御前沙汰にこの若狭武田攻めが議題として挙がったときに、次のような動向となった。
「管領代・六角義治殿が賛成、副将軍・織田信長殿が反対、管領・畠山高政殿は中立……ですか……。見事に割れたようですね」
「六角家も内陸国ですからね。幕府が海路を重視している以上は、自らも港が欲しいというのも理解はできます」
龍興がそう語るように、六角賛成の理由の1つとしては、港が欲しかったということだろう。しかも若狭であれば近江と地続きだ。六角義治にとって千載一遇のチャンスであったと言っても決して過言ではない。
そしてもう1つの理由として、どうも六角家は同じ宇多源氏佐々木氏の系譜の誼で、宇喜多謀反により備前から離れざるを得なかった『尼子再興軍』の受け入れを行っているとのこと。若狭を取れば海路で尼子の本貫地であった出雲に直結できるのだ。まさしく一挙両得の策であった。
目の前の斎藤龍興も尼子も本国を追われた身である。だから尼子の話をしているときは何というかシンパシーを感じているかのような面持ちであった。
しかし次の言葉は、言葉尻こそ今までとあまり変わらなかったものの声色に刺々しさが乗っていた。
「……で、副将軍が反対したのは、当時は某が朝倉に籍を置いていたからですね。
彼の者からすれば若狭武田攻めで朝倉が敵に周り、某を『再興軍』として美濃に討ち入られたらたまったものではない、ということであったのでしょう」
朝倉と織田は美濃の山間部において国境を接している。だから攻めようと思えば攻められるのだ。実際に織田信秀の代の頃に発生した加納口の戦いでは信秀は稲葉山城を攻める際に朝倉孝景と協力をしている。
だからこそ織田信長が懸念するのも道理であった。しかも彼は副将軍に就いた結果、京を離れることが出来ていない。
そんな六角と織田の対立を管領の畠山高政は利害が薄い故に、中立を取るというのは必然の流れであろう。
「……というか、貴殿は朝倉に元々所属していたのですか」
確かに私の知る歴史においても斎藤龍興が朝倉家の客将として身に寄せたという話もあった。ただし、一向宗勢力や三好三人衆との関係が先にあった。
「ええ、まあ。稲葉山城を奪われてからは東美濃で転戦しておりましたが、それも厳しくなると朝倉家が手を差し伸べてくれましたからね」
そうだった。この世界の織田信長は美濃攻略の集大成として稲葉山城を落としたのではなく、あくまで間隙を突いて落とした形で、以後も2年程度は斎藤龍興は織田信清と繋がって抵抗していた。そして、その残党を織田はじわりじわりと追い詰めた格好であれば、長良川を下って長島を頼るという逃亡ルートは取れない。
であれば山間部の峠を越えれば逃げられる朝倉領を目指すというのは理に適っている。確か多少血縁関係もあったはずだし甲斐武田家や木曽家などよりは頼りやすいであろう。
話を戻そう。
ともかくこの龍興の処遇が幕府内で問題となり、足利義昭は織田信長の反対を『裏を返せば斎藤龍興さえなんとかすれば若狭侵攻して構わない』と判断したようである。
「――という流れで某には丹後一色家経由で、この若狭侵攻に関する幕府内の情報が入ってきました。
どうにも幕府は朝倉家と敵対するのを辞さない姿勢があり、このまま朝倉に残る不安のあった某は幕府への使者という名目で一乗谷から逃げ出してきましてね……。いや、実に拍子抜けするくらいにはあっさり認められましたよ、朝倉家としては邪魔であったのでしょうね」
朝倉家は一門衆の主導権争いが激しく、誰しもが幕府との交渉の必要性は理解しつつも自分が京へと赴けばその分越前では権力空白となり、それを他の一門に掠め取られるという警戒心があるようで。その分斎藤龍興……一色義棟であれば、一色家という足利一門の家格もあるが故に使者としては確かに適任ではあるのである。
だから朝倉家を出奔するにあたり朝倉から旅費すら貰って、そのまま幕臣の地位に収まった。それは最早、詐欺である。
この結果を基にして足利義昭は若狭侵攻反対派の織田信長に再度詰め寄ることとなる。それに対する信長の回答は、織田家は義理出兵に留め、朝倉を警戒するという形での容認であった。
以上の流れでもって、管領代・六角義治を総大将とする2万の軍勢による若狭侵攻作戦が開始された。これには畿内の諸将及び畠山・織田の義理出兵分や幕臣直轄兵力に、六角で匿われていた『尼子再興軍』も従軍している。なお侵攻路は、琵琶湖西岸を北上して保坂から若狭街道利用で近江から直に若狭入りするルートであったがために、地味に金ヶ崎フラグが折れているのがポイントである。
――ここまでの話は良かった。既に私の知る歴史からはずれてはいるものの、理解は出来る。
しかし次の斎藤龍興の一言は完全に想定外であった。
「……若狭街道で若狭国へと入ろうとしていたところ。水坂峠にて総大将・六角義治殿が狙撃され討死。これで侵攻軍が壊乱したところを若狭国人衆が奇襲を敢行し敗走。若狭武田の勝利にてこの戦いは終わります」
「――はいっ!? そこまでお膳立てしておいて幕府が負けるのですか!?」
織田・六角・一色・朝倉を巻き込み、政治的な暗躍・謀略が飛び交った末の戦は、一発の銃弾によって結果ごとひっくり返ってしまった。
最大の混乱は勿論当主が死亡した六角家。とりあえず義治の弟の六角義定への家督継承と、隠居していた六角義賢の後見という形で領内混乱を何とか収拾するも、六角家は領内統治に追われることとなり幕府への影響力は急激に低下する。
そうなると、幕府も困ってしまう。そもそもこの世界においては、足利義昭の上洛の折に最大の兵力を出してくれたのは織田家なものの、その上洛計画を共に練り、苦楽を共にしてきたのは紛れもなく六角義治であったのである。
だからこそ足利義昭は六角義治を頼りにしていた。彼が死した後も六角を見捨てることはないものの、かといってまだ何も実績の無い後継者六角義定においそれと管領代を渡すわけにもいかない。
なし崩しで、足利義昭を支えるのは畠山高政と織田信長の管領・副将軍の二元体制へと移行せざるを得なかった。
……こういう形で織田信長の影響力が大きくなっていくのね、やっぱり怖いなあ織田信長、何もしていないのに確実に利益は得ている。
「窮余の策として義昭公は、管領代の空位を宣言し、代わりに政所所司代として松永久秀を任命しております」
つまり六角家以外に管領代は継がせないことで六角の離反を防ぎつつ、同時に六角が衰退することで生まれた第三極に新たに松永久秀含む三好義継勢を配することとした。これは本当に苦肉の策だ。
というのも管領の畠山高政と三好義継は同じ河内国の半国守護同士だ。最早揉めることを企図している。それで六角家の影響力低下を補填しようとしているが、これは無駄ではないにしろ効果的とはとても言い難い。
そんな目に見えた幕府の隙を、織田信長が見逃す訳が無いからである。信長は『亡き管領代の意志を継ぐ』という名目で若狭武田攻めを続行することを御前沙汰で提起し、消極派から一転強硬派に転じることで諸将の度肝を抜く。
その上で、足利義昭と彼を擁立する幕臣勢に向かってこう言い放ったことを斎藤龍興は回想した。
「……あの時ばかりは、某の仇敵であったとしても思わず呼吸を忘れる程でしたな。あの男――織田信長は、こう言い放ったのです――」
――『上杉謙信公の上洛のためには湊の確保は必須ではないでしょうか』、と。
それは、足利義昭の初志であった。その全ての始まりの御心を思い出させたことで決定的なまでに事態は揺れ動くのである。
即ち足利義昭に遠隔地大名を利用することを織田信長は思い出させた。かくして各地に上洛の意志を尋ねる奉書がばら撒かれることとなる。
まず、最有力候補の上杉は『信玄と和平出来れば行けるかもしれない』という回答。ならばと武田信玄へと手紙を出せば『上洛は無理だけど、上杉との和睦は可能。それと駿河守護が欲しい』という足元を見た返答が戻ってきた。反発もあったであろうに義昭はこの信玄の提案を容認。
かくして、西の大友・毛利に引き続き、東においても征夷大将軍の威光を利用した大大名同士の講和が結ばれることとなる。
……とはいえ武田信玄は、この幕命で越相同盟が無効化している隙に矛先を北条家へ向けて小田原攻めを発動するのだが。
「そして義昭公は朝倉家にも奉書を送ったのですが、先の若狭武田の勝利を背景に若狭への介入姿勢を強めており……」
そして幕府軍側が織田信長が本腰を入れて若狭侵攻軍を立て直しているから衝突は不可避、と。
東で甲斐武田の小田原攻めと上杉の上洛準備。畿内では2度目の幕府主導の若狭侵攻の大軍編成。西では大友と毛利の大乱は終結したものの、反大友残党と大友家の戦闘は継続。
うん。大体分かった。
「……それ、兵糧足りませんよね?」
幕府も我々に食糧支援を要求するのである。これだけの大乱が国内において頻発すれば、当然の帰結である。
私の疑問形の呟きに、斎藤龍興は苦笑して答えた。
「……全く同じことを、幕臣の末席に座っていた安宅神太郎殿はおっしゃっておりましたよ」
幕府内では最も長くフィリピン伯領に接していて『白雪姫の政略』を目の当たりにしていた彼は、期せずして私と同じ発想に至っていたらしい。
そして、その安宅神太郎の言葉を的確に理解したのは、織田信長と細川藤孝、更には浅井長政から又聞きで聞いた竹中半兵衛の僅か3名であった。
かくして細川藤孝の具申によって私の下へ食糧支援の使者を送ることへと相成ったのであった。