外伝21話 第三の騎士
フィリピン伯領内は直ちに食糧統制を敷くこととなった。ただしこれは配給制を意味するものではなく、あくまで領外への食糧持ち出しを管理する臨検を強化するタイプの引き締め策である。
勿論こういう政策を行えば、食糧価格は値上がりするために商人らは売り渋りを行う。そして更なる食糧価格の値上がりへと繋がる負のスパイラルが発生して、行政サイドで何も対策を取らなければ最悪打ちこわしや一揆となる危険性がある。
が、これまでフィリピン伯領内で取ってきた政策が期せずしてそのような事態を引き起こさないようなブレーキとなっていた。
まず、この国の商業活動の規模はそれなりに大きい。それはそうだ。諸外国との通商の中継地点・中核地を企図して外交関係を形成してきたのだから商取引は活発である。
しかし取り扱われている商品を考えてみて欲しい。銀、香辛料、絹製品など……即ち『食糧』は主要交易品へと上がっていないのである。何故か。
答えは単純で、そもそもフィリピン伯領がフィリピンにおいて主導的地位を確立した最大の用件は『諸勢力に食糧分配が出来る』ことである。大口の食糧取引については実は私の直轄領域なのだ。だって、食べ物で現地の村落を従えているのだから。なので商人らが食糧の囲い込みを狙ったところで相対的に影響力は下がる。
第二に、税制度が未発達であるという点。通常は悪い方向に作用するデメリットでしかない話だが、今回はこれが十二分に生きた。
というのも人頭税すら導入できずに四苦八苦している現状、今の税制は貢納によって成り立っている。貢納とは生産物の直接徴収であり、我々は税として余剰食糧を貨幣経済を通すことなく直接吸収し貯蔵できるのだ。これが周辺国の飢饉となればメリットへと転化する。
第三に、職業の専業化・分業化がまるでなされていない点。生産能力の向上や業務効率化において再三問題となっていた兼業問題であったが、兵・農・商・水夫の区分が極めて曖昧なおかげで、現金収入だけしかないという領民が実は少ない。
副業アルバイトについては冒険者ギルドの依頼ボードのように政庁舎や教会の敷地を使って募集しているため、報酬を現物支給に切り替えることもできる。また、漁や山岳地域に狩猟依頼を出すことだって出来る。兼業状態なのでエキスパートには及ばないものの、半人前くらいの実力で何でも割と手広くこなせる領民は多いのだ。まあ周辺諸国以上に中世水準の体制なわけだが。
反面、デメリットとしては効率的ではないため土地というリソースに対してのリターンがあまりよくなかったりするのだが、そもそも人口密度がスッカスカだから、セブのごく限られた中心部を除けば土地はまだまだ余っているわけで。
そして連動するが第四にその人口密度が希薄さも利点となる。長期定住民が限られ流動的に人の流出入がある我が領では人口統計調査がまともに行えていない為に推定スペイン人人口500~4000人という摩訶不思議な状態になっているが、上限の4000の方で考えたとしても、万の位までスペイン人は到達しないことを意味している。
他方で、石見銀山からくる銀の総量の予想からくる実体経済規模は数十万石相当。それ以外にも取引は行っていることを考えれば、下手すれば百万石近い商品が動いているわけで、人口がミニマムに収まっているおかげで食糧対策は幾分やりやすくなる。
この状態でかねてから食糧問題については2年前より考慮はしていたために、セブ北部の開発でもって農業生産は拡大させていた上に、安易に日本人倭寇を定住民として受け入れたりしないことで人口の調節も行っていた。だからこそ自給、という意味合いでは実は充分に乗り切れる体制ではある。
であれば、諸外国の飢饉など尻目に鎖国してしまえば良い気もする。餓死者が大量に出るとは言っても所詮他国のことだし、無視すれば良いという意見もあるかもしれない。
しかし、それをしてしまえば周辺諸国は食糧を求めて決定的なまでに近視眼的となり、短絡的行動を選択するようになる。座して餓死するくらいなら余所から奪うのが生物としての基本的な機構なわけで、それは国家という『文明的な生物の群れ』であっても同様だ。
としたときに、食糧の余剰がありそうなのは何処か? と問われれば、間違いないなくこのフィリピン伯領が最大の穀物庫に見えるだろう。実態としてはあんまり余裕は無いのだけれども。
勿論、海という防壁はあるから容易に攻め込まれることはないように思える……が、ガレオン船やジャンク船があれば問題ないのである。オスマン帝国とアチェ王国のインド洋の通商に使われているのはガレー船だから、アチェ王国の有するオスマン式のガレー船が外洋を渡航できないわけでもないのも困る。
その中でも最悪と言って差し支えないのが、ポルトガルが東南アジアの諸外国と協同して攻めてくるパターン。ミャンマーのタウングー王朝やアユタヤ王国は仏教国、アチェやジョホールなどはイスラーム王朝だから、ポルトガルが連携する訳が無いと言いたいところなのだけれども、彼等はかつてテルナテ王国と協力してブール王国を攻めた前科があり、状況次第ではポルトガルの出先機関は異教徒と普通に組むわけで。何なら本国もネーデルラント問題でプロテスタントのイングランドと協調姿勢をみせていたし。
だからこそ、マカオを見捨てるとおそらく碌なことにならないのである。では、マカオだけ助ければ渡海能力的に恐れる敵は居なくなるのでは? となるが、次点で悪いシナリオとして、倭寇勢力やブール王国南西部のスールー・スルタン国による海賊行為が激化するということが考えられる。
食糧がそれら諸外国に高く売りつけられると分かれば、私達の交易船を襲うということを海賊らは真っ先に思い付くであろうし、下手すればそれらの海賊行為によって食糧が齎されるとなれば、諸外国の中には彼等を『義賊』として歓迎する国すら現れるであろう。
戦国日本視点で言えば倭寇とは日本近海の東シナ海にしか存在しないかのように錯覚するが、実際には南シナ海にも普通に居るので。
勿論、海軍力と水運能力については当初よりそれが生命線になると判断して拡充してきた。戦略的な軍事行動は出来ずとも単艦ないしは少数艦での臨機応変的な対応であれば、覇権国スペインの軍として見れば全く物足りないであろうが、水軍衆として見れば最低限度はあると思う。
しかし、そうであったところで、カバーする海域が広すぎるしスールー・スルタン国の実力的には捨て身であればブール王国の海域へと侵入しフィリピン中部の輸送インフラを麻痺させることくらいは出来るのだ。そんな敵艦とインフラ網の引き換えをしたくはない。
なればこそ救える限りは救った方がリスクは下がる。
「それで、フィリピン伯様。どうなさるおつもりで?」
そのように尋ねてきたのは政庁舎のフランシスコ・デ・サンデ。その他にルソン王国から急遽帰還してきたイディアケス補佐官とギド・デ・ラベサレスに、グレイスやアーノルド・メルカトル、ブール王国出向から舞い戻ってきたイエズス会の面々、更に地場のフランシスコ修道会の修道士らも一堂に会し、現状フィリピン内に居る高官は揃い踏みと言って差し支えない。
「……余剰穀物はマカオへと供出いたします」
まず最低限これはほぼ確定事項。それを告げればミケーレ・ルッジェーリを中心とするイエズス会側から安堵の溜め息が漏れる。マカオにもイエズス会はあるしね、そりゃあ気にはなっていただろう。
しかし間髪入れずにイディアケス補佐官はこう指摘する。
「余剰と申されましても、それほど多くはありません。
……生産余剰ではマカオの要求量は満たせますが、全ては救えません。
というより大国に提供しようものならば我々が飢える懸念がございます」
そもそも熱帯地域の農業にそこまで期待してはいけないのである。生物多様性が豊かな割に土壌は痩せまくっている。しかもその多様性は害虫の多さとして振りかかる上に、スコールは恵みの雨というよりも土壌を流してしまう。
逆にマカオという一地域だけでも救えるのだから良しとせねばならない。では他の地域はどうするか。
地理関係に関して最も詳しいアーノルドが提案する。
「……となると、此方で何とか出来るのはジョホール王国くらいでしょう」
「しかしアーノルド・メルカトル様。マラッカがアチェによって陥落している以上、ジョホールへの食糧提供の航路の安全は確保できますでしょうか――」
「……それは、アチェ王国と調整するしかないですね」
「しかし、アチェ王国は自国よりも他国を優先する交渉に応じますか?」
そこで、一旦呼吸が置かれる。
しかしその静寂は私の言葉によってすぐさま打破された。
「それについては、私に腹案があります。
マラッカの包囲戦はポルトガルにとってあくまでも籠城戦。ポルトガル領インドや東アフリカからは食糧を受け取れる可能性はあります。
それを餌にする形で、ジョホールの寄港許可、並びにスペイン・ポルトガル船団を食糧輸送に限定して認めるように話し合うことは出来るかと」
実際インドや東アフリカについては皮算用でしかないので、アチェとの交渉用の札にはなっても、飢饉対策の当てにしてはいけない。
だからこの交渉の成否で救えるのはジョホールのみ。だが採算はある。
「……成程。これを拒否すれば、ジョホール王国の救援をアチェ王国側に強要することも出来ますか」
「ええ、そこまで込みなら受け入れる可能性は高いと思います」
とりあえずジョホール救済案は特に異論が出なかったので、既にこちらに来ているジョホールとアチェの使者に提示することで決まった。
そして、次。
「アチェ王国についてはゴンサロ・ロンキージョに命じてテルナテ王国側から援助を試みてみようかと。とはいえ既に両国ともに先んじて動いているとは思いますが」
「アチェはそれで事足りますかな?」
「……足らない可能性の方があるでしょう。オスマン帝国からの支援も必要になるでしょうね」
そしてそれをインド洋上で妨害しないように、更にポルトガルから譲歩を引き出す必要がある。マカオを救うのだから発言権はあるだろうけれども本当にカツカツだ。
それでも尚、アユタヤ、タウングー、室町幕府への分が足りない。
「……新大陸から緊急輸入するしか無いのでは、フィリピン伯様」
「それは必須ですが……。届くのは来年の年明けになりますが、それまで間に合いますかね……」
その私の言葉に質問をしたジョゼ・デ・アンシエタも含めて無言になる。総意として間に合わないという判断であった。
足りない以上はどこかから持ってくるしかない。けれども、新大陸よりも近くでないといけないが、周辺諸国はどこもかしこも戦争によって疲弊しているという有様。
そんな都合よく、余裕がある国が近場にあるわけ……あ。
「――明っ! 明があるじゃないですか!
日本は銀の取引量を増やしてもらい宋銭や茶器等よりも食糧を優先して融通してもらうようにすれば良いでしょうし、タウングー、アユタヤ両国については貴金属の供出で恐らく明商人からならば食糧が手に入るかもしれないと交渉してください!
この際私達を間に挟まなくても構わない、とそう伝えてしまって結構です」
結果から言えば、アユタヤもタウングーも一部は我々につなぎとして委託してきた。そしてアユタヤからは鉛のインゴット、タウングーからは上質なルビーが手に入り、それを対価として明商人から食糧を搬入することとなる。なお、この動きはマカオや明の開港港湾都市においても同様にみられるらしい。
そしてその交易関係は、この1570年の飢饉の後も継続され、我々が手にする新たな産品に追加されたのである。
鉛は南蛮吹きに用いられる。
そして、ルビーは王侯のための宝石加工品に必要ではあるために価値は高い。しかも、このタウングー王朝のルビーは品質としてはヨーロッパのものと比較しても群を抜いて高く、それでいて量も多い。何でこんなとんでもないものがミャンマーに?
……ともかくヨーロッパ向けの輸出品が更に増えることとなる。
タイの鉛(ソントー鉱山)
16世紀東南アジア流通の鉛の殆どはここ由来。日本にはポルトガル商人が持ってくる鉛製品という形で流入。
肥後の田中城から出土した鉛玉(1587年肥後国人一揆にて使用)のうち37%がこのソントー鉱山由来の鉛であることが、鉛同位体比推定によって明らかになっている。
ミャンマーのルビー(モゴック鉱山)
歴史的に流通したロイヤルジュエリーのうち、ほとんどはこの地域の産出。一説には現代のオークションで落札された高額ルビージュエリーの9割がモゴック産とも。採掘自体は6世紀ごろからで、11世紀にはミャンマー経済の中核となる。モゴックの鉱床が現地部族からタウングー国王の直轄に置かれるのは1597年(ただし直轄以前から流通はしている)だけど、本作では飢饉と主人公の助言により地味に史実改変。