第8話 太陽は沈まず、三日月も沈まず
1558年。
私はこの年にパドヴァ大学の学位を取得した。パドヴァ大学の中では今までで一度も女性に学位を与えたことは無かったので大学初であることは間違いなく、そして大学関係者が他大学で女性に学位が与えられた事例なんて聞き及びが無いと言っていたので、おそらく史上初とみていいだろう。パドヴァ大学自体の歴史もイタリアでは2番目に古いということもあり、この時代に急増した新興大学群にはない蓄積があるとのこと。
まあ、新興とは言っても日本が戦国時代やっている頃に出来た大学なのだから相当古くなる予定ではあるのだけどね。
そしてそんな世界初の名誉を頂くこととなったわけであるが、流石に政治的に裏がある。
1つは私がプロテスタントからの転向であること。カトリックの寛大さを示す広告塔としての役割はまず間違いなくあるだろう。これについては、私としても自らの生存確率を上げることに直結するため意識して動いた部分もある。
そして、もう1つ。そもそも私をパドヴァ大学へ入れた段階で学位発給を根回しはフェリペ2世によってなされていただろうという事後事実。
つまり、ブリュッセルの屋敷で王太子であった時節のフェリペ2世にとって私を救うという言葉はここまで織り込み済みのものであったということとなる。
ということで一応学生としての身分は修了したわけであるが、信徒団体であるコングレガティオ・マリアナの本部は変わらずにパドヴァ大学内部に置かれていることと、ヨーロッパ脱出をしないのであればヴェネツィア共和国に居るのが比較的安全であることから引き続き大学の聴講生扱いとはなる。
でも、節目ということで学位の授与式が執り行われた。フェラーラより定期的に臨時講師として遊びに来ていたオルガンティノや、ファロッピオ教授を始めとするパドヴァ大学の主要な教授陣は同席したが、それだけにとどまらない。イタリア国内の主要大学からの招待客であったり、私の後援者であるフェリペ2世からはスペイン国王の名代という形でフェルナンド・アルバレス・デ・トレド――アルバ公が派遣された。このアルバ公、スペイン側のイタリア方面の総司令官であると同時にカスティリーヤ宮廷内部では執事長に就く人物である。
軍事力は随一で、外交・内政にも小回りが利く上で国王近臣。まあぶっちゃけてしまえば柴田勝家タイプである。
そして、私の後援者の片割れが出てきたとなれば、もう1つの後援団体も黙ってはいない。そう、イエズス会も学位授与式に人を送ってきたのだが、こちらも大人物を送ってきた。
その人物の名は――ディエゴ・ライネス。イエズス会の2代目総長であり、修道会組織のトップの人間が来たのだ。
前にザビエルが関わっているとオルガンティノが話していた『モンマルトルの誓い』の一員でありライネス氏もまたイエズス会初期メンバーだ。
こちらは無理やりに戦国時代の人物に喩えるのであれば顕如クラスと言えば良いのだろうか? いや、適当かどうかは分からないが、ともかくそれだけの『政治案件』として取り扱われる代物であることを如実に示している。
となると、どうなるか。その答えがこの現状へと繋がるわけである。
「済まないね、マルガレータ嬢。忙しい時期であるのにも関わらず儂などのために時間を割かせる真似をしてしまって……」
「いえ。こうして匿わせて頂いている身ですので、その恩義には到底及びませぬが私に出来ることであれば何でも致しますよ……。ジローラモ・プリウリ様」
ジローラモ・プリウリという名のこの老人は、ヴェネツィアの一介の商人である。
そんな商人の名を私が何故知っているかと言えば、ただ1つ。彼の弟であるロレンツォ・プリウリ氏が、ヴェネツィア共和国の元首なのである。
「ははは、様だなんて……。儂はそこまで高尚な人物では無いよ。
気軽にジローラモおじさんとでも好きに呼んでおくれよ」
「……では、ジローラモ殿で。して、何用でこのような密談の場を設けたのでしょうか?」
堺の町が『東洋のベニス』と呼ばれていたことから逆算でヴェネツィアへの移住を決めた私であったが、成程。確かに、堺がヴェネツィアを形容する理由が何となく分かった気がする。似ているのは水路を利用した街の構造だけじゃない。
目の前の好々爺のような見た目をした商人は、このヴェネツィアで然りと実績を挙げた海千山千の人物だ。千利休や今井宗久のような人物だと思えば、全く油断ならないと警戒するのは必須であろう。
「いや、ただ儂はマルガレータ嬢の卒業を祝いに来ただけだがの……。しかし、それでは収まりがつかんという顔をしておる。
――まあ、あくまでも卒業祝いのついでの話なんじゃが。
イングランドのメアリー女王。あの御仁がまもなく崩御するぞ、健康を害しておるとの見立てよ」
ほら、やっぱり裏がある。
イングランドのメアリー女王と言えば、フェリペ2世の年上の結婚相手であったはずだ。
「……それが私に何か関係するのでしょうか?」
「いやいや、若者なんだからもっと外に広く目を向けねばいかんよ、マルガレータ嬢。
結局、フェリペ陛下とメアリー女王の間に子が生まれなかった以上、イングランド王位の継承権を有するのは異母妹であるエリザベスのみ。そして、そのエリザベスはプロテスタント勢力によって教育を受けておる」
「……即ち、スペインの同盟国たるイングランドは失われるというわけですか」
クイーン・エリザベスという名は聞いたことがある。軍艦か当人の知名度かは分からないが、その『クイーン・エリザベス』とはこの次期イングランド女王内定者であるエリザベスのことなのであろうか。
しかし、プロテスタントのイングランド女王か。ここで、イギリスは英国国教会に舵を切るとみて良さそうだ。即ち私はこれが史実通りと考えているわけだが、カトリック勢力サイドからすれば戦々恐々ものだろう。
上手くこれを翻すことが出来れば、アルマダの海戦というスペイン凋落イベントを回避することも叶いそうだが、既にメアリー女王の健康が害されている以上はそれも難しい。
「御明察の通りですぞ、マルガレータ嬢。あなたの後援たるフェリペ陛下は、新たな同盟国が必要となったわけです。
ここでスペイン王国が最も恐れるシナリオは、ポルトガルとイングランドの連携なのですが……実は200年近く前にその先例はあるのです」
詳しく話を聞いてみるとどうやらポルトガルとイングランドの2国間にはウィンザー条約なる同盟条約があったとのこと。現状は形骸化しつつあるとのことだが、万が一の可能性はある。
……スペインとメアリー女王によってカトリック化政策の抑圧にあったイングランドと、新大陸やアジア地域で相互に火種を抱えるポルトガル。
どちらもスペインと対立するだけの理由がある。カトリックとプロテスタントが同盟を組むわけがない? 残念ながら神聖ローマ帝国内部でガッツリ妥協しているからあり得るんだなこれが。
そしてスペインにとっては、ポルトガルが陸路でスペイン本国を狙ってくることを恐れているわけではない。というか陸戦であれば、フランスを一捻りに出来るのでポルトガルもイングランドも正直相手にはならないだろう。
問題は海上。私は後々イングランド……というかイギリスだが、ここの海軍がとんでもないことになることは知っている。アルマダの海戦で更にぼろ負けするくらいならぶっちゃけ最悪構わないけれども、万が一私が生きている内に東アジアまでイングランドが進出できるようになってしまうと大いに困るのだ。
「……ポルトガルとイングランドの連携。確かにそれは断固として防がねばなりません」
「――でしょう? その意味ではマルガレータ嬢と儂は全くの同意見となるわけですな! いやはや、良かった。
……実は、スペイン名代のアルバ公とは少しお話を交わしましてな。我がヴェネツィアと連携について快いお返事を頂いていたところなのです」
……既にヴェネツィア共和国はスペインと組んでいるのか。知らないところで随分と話が進んでいた。というか、その秘密同盟の隠れ蓑として使われていたわけか。
「それを、何故私に……」
「まあ、そう答えを急ぎなさるな。……こちらの書状を読んで心を落ち着かせて下され」
そうすると、1枚の手紙のようなものが私に手渡される。思わず受け取ってしまった私は渋々ながらも、その中身を検分する。
『――友邦・テルナテ王国の情勢不安について我が国も憂いており、第三国による攻撃には辟易させられている。そこで貴国とのかつての友好を復するために、第三国に対して適切な対応が行われれば、我が国としても貴国との貿易協定を再度締結することも叶うだろう。
無論、テルナテ王国に対しての正当な交易であれば、我が国としても内政干渉にあたるので関知することではない』
テルナテ王国は前に調べたから分かる。香辛料が沢山採れるインドネシアの群島国家のはずだ。しかしテルナテ王国はイスラーム系王朝であったはずだ。それを『友邦』と呼ぶ国と言うのは一体……。
「――オスマン帝国からの書状で御座います」
「……っ! まさかっ、ヴェネツィアはオスマンと内通を!?」
「それこそ、まさかに御座りまするな。よくよくお読み下され……スペイン王国にとって不利なことは何も書かれておりますまい。それどころか、オスマン帝国からの『香料諸島』に対しての大義名分までご丁寧に与えられているのですよ」
改めて書状を見直す。我が国とはオスマン帝国で、第三国がポルトガル。そして貴国がヴェネツィアであるのならば、先の書状が述べている内容は次のようになる。
――オスマン帝国としてもポルトガルの行動には手を焼いているから、ポルトガルを何とかして追い落とせれば、オスマンとしても香辛料が手に入りやすくなる。そうすればヴェネツィアに香辛料を横流しすることも再び出来るようになる。
何なら、正当な交易名目であれば、テルナテ王国にポルトガル以外の国が香辛料を買い付けに言ってもオスマンから不満を言うことは無い。
まあ、『香料諸島』はオスマンにとって帝国領土でも何でもないただイスラームを信奉する国という共通点しかない遠国だ。ただポルトガルとはインド洋やアラビア半島のオスマン帝国の第二戦線にて競合する相手。
その排除をヴェネツィアでやってくれるなら香辛料など安いものだ、ということだ。
そして、ヴェネツィアからすると独力で香辛料の買い付けに行くことは事実上不可能な以上、オスマン帝国からの申し出は願ったり叶ったりなのだ。現状のポルトガル圧倒的優位の香辛料交易体制を打破することができる。
……異教徒からの密約を許して良いのか? 大丈夫、ヴェネツィアはもうやってた。
そして、ポルトガル以外の国が『香料諸島』に直接買い付けに行っても良い。
そんなことが出来るのは。
――スペイン王国、ただ1国のみ。
この密約が為されれば、スペインは『ヴェネツィア』からの依頼ということで香辛料の買い付けに行くことができる。しかも、現地は反ポルトガル感情が高まっており、こちらには『オスマン帝国』の委任を示すこの手紙がある。
つまり、スペインは先代神聖ローマ皇帝の時代から野心を見せていた『香料諸島』に対する大義名分と介入理由を得ているのだ。
そして、香辛料のポルトガル独占体制を壊しつつスペイン自身は新たな香辛料貿易の主役に躍り出ることすらできる。
ついでに今ポルトガルに苦しめられている『香料諸島』のテルナテ王国は、名目上では『正当な交易』を行う密約となっているスペインによって、搾取から解放される。
「……見事にポルトガル以外の利害関係者が得をするようになっておりますね」
「それだけではありませんよ。マルガレータ嬢。儂はこのように見てくれの通りじじいになってしまいましたが、それでも耳が良いことだけは昔から自慢でしてな。
……貴殿のジパングへの旅行計画。それを正当化する申し分ない理由ではないでしょうか」
――そこまで見越して私に渡してきたのか。
確かに……スペインによる『香料諸島』への正当な交易交渉団の外交使節として私が同行するという名目で、太平洋航路が開通したらしれっとアジアへ渡ることは出来るのではなかろうか。
そのとき、目の前の御仁はヴェネツィア共和国を代表して私を推薦する。そしてこれがスペイン財政問題解決の一手にもなっていることから宮廷内のルイ・ゴメス侍従長は賛成に立ち回ることも予想できる。
そして私とフェリペ2世の関係を愛人関係のごとく見做している者らからすれば、私の影響力を宮廷から排除できる格好の機会であると同時に、アジアという辺境の地にて私を通してカスティリーヤ王室の影響力を発揮できるようになる。
それは新大陸において、ラス・カサスさんが憂慮し王室も治めるのに苦労していたエンコメンデーロなどのスペイン人権益者を中央から統制出来る術を提示できるというメリットすらある。
そして、何より。私自身の目的に沿っている以上、キリスト教世界に対する道義の問題を差し置けば。
……うん、認めよう。この非道徳的な提案に割と乗り気だ。
「……ジローラモ殿。1つだけお伺いしたいことがありますが……」
「無論、構わぬよ。これだけの大事。マルガレータ嬢に無償の奉仕をさせる積もりなど毛頭ない」
「ありがとうございます。それでは――」