外伝17話 東南アジアの循環ポンプ
マラッカが陥落してから半年ほど経過した。
まずオルガンティノの話にもあった通り、マラッカの教区を治めていたドミニコ会の司教はオルガンティノを通じてマカオ側のイエズス会ともやり取りをした結果、とりあえずマカオへと退避することとなった。
勿論そのやり取りの最中に、私達がテルナテ王国を挟んでアチェ王国サイドと調整を行っていた。教皇領の意向的に司教がイスラーム王朝に降るということはあってはならないことである一方、さりとてアチェ王国としても降伏しないから死という論理をカトリックの宗教指導者にまで要求することはないと結論付けたということになる。
まあ陥落したマラッカに残留した現地住民やポルトガル人との混血の人々がそれなりに居て、しかも彼等がカトリックである以上は、苛烈な裁定を下してわざわざ住民反乱を誘発する必要は無いという政治的判断なのであろう。
そして件の問題の争点となるドミニコ会の司教――名はホルヘ・デ・サンタ・ルジアと言うのだが、彼が非凡ではないと個人的に感じたのが、退避の際にインドのゴアを選択しなかったということ。
組織防衛という面でも、自己保身という面でも、普通ならば本国と連絡の取れる位置に撤退する。情報のやり取りという側面でもあるいはマラッカ奪還軍の編成に向けての政治的な活動をするためにもゴアのが有利だからだ。何よりゴアからなら後任の司教と交代するように要求してヨーロッパへ帰ることすらできるかもしれない。
にも関わらず、彼は東側へ落ち延びることを選択した。それは、カトリックの司教という立場のある人間が東南アジアから東アジアにかけてのカトリック信者をマラッカ陥落程度では見捨てないというメッセージになるからである。
こちら側に逃げ込むことでマラッカの奪還が遅れるかもしれない可能性に考慮しつつも、これ以上の失陥を避けるという動きとして見れば悪くない選択である。そしてその選択は教区が設置され司教座がおかれていたマラッカの聖堂と比すれば、明らかに自身の生活のクオリティが下がるということが明白な上での決断だ。
そんなサンタ・ルジア司教のマカオ退避が決定した際にマカオのカトリック勢力は私達に礼を伝えたいということで、イエズス会士のメルヒオール・カルネイロがセブまでやってきた。
彼は司教でこそ無かったものの、マカオが教区に格上げされたのであれば司教に任じられるのは確実視されている程の大物であった。直接彼が訪問して私に対して謝辞を伝えるということがこのアジアのカトリック界において、どれだけ影響のある出来事なのか、想像することができない程のことである。
そして、このメルヒオール・カルネイロは、サンタ・ルジア司教との間にも面識があるらしく、マラッカ侵攻が発生する以前に司教と面会した際に、
「最早、マカオはマラッカ教区の管轄下に無い」
と零していたことを、私に教えてくれた。マカオがカトリック中枢の手綱から放れて問題ならばフィリピン伯領は更に問題であろう。
即ちサンタ・ルジア司教がゴアに逃げなかったのは少なからず東アジア・東南アジアの体制強化の目算もあり、ある程度私やオルガンティノが自由裁量権を求めていることを見透かしての行動であったことは類推できる。となれば、サンタ・ルジア司教は優秀であっても、必ずしも全面的に私達の味方となるわけではない。
だからといって断じて敵と認定してはいけないのだが、その意味ではオルガンティノとの話し合いは一定度合いの成果があったと見るべきであろう。
そして、マカオのイエズス会そのものはマラッカ陥落以後『フィリピン・日本準管区』を暫定的にトップとすることを容認してくれている。そしてマカオのイエズス会とは即ちこのメルヒオール・カルネイロがトップなので、彼は彼でオルガンティノがマラッカ司教の受け入れに難色を示したのとは反対に、自身のマカオの宗教政策においてサンタ・ルジア司教の助力が必要であったと思える。
だからこそ、私達の企みに乗ったのだろう。そしてそうでなければそれだけの重要な立ち位置にある彼が、謝辞のためとはいえわざわざセブまで渡航してくる訳が無い。
と、ここまでが宗教政策。
また半年経過したために、交易関係にも進展が生じている。
まずかねてより準備を重ねていた日本とブール王国間の名目上朝貢交易がようやく本格的にスタートした。とはいえ、本当に名目上のものでしかなく、日本商人側は積み荷の多くをルソン島のトンドで下ろして、域内通貨として通用するスペイン銀貨と一旦交換する。
そしてその銀貨をそのままトンドに在住する合法的な明の商人との取引に用いて明の産品を積み込んで博多へと帰る――これが一般的なやり取りである。私達やルソン王国を間に挟むのは基本的には明商人の都合だ。日本人との交易は禁じられている。だから合法的に交易を行うためには仲介役が必須なのだ。
その中でフィリピン伯領の果たす役割はいくつかある。1つは名目同盟国であるルソン王国に対しての港湾利用貸出許可で日本側から配当を得ている点。2つ目はそもそも日本商人が利用している船団そのものが私達の貸出品であり、レンタル費用に保険・保証金を上乗せしていること。この2つだけでも彼等が船団を利用するのみで利益が私達に還元される仕組みとなっているが、3つ目に、日本商人が持ってきている『石見銀』のインゴット化作業をフランシスコ・デ・サンデが管轄する技術者に委託して行っているわけで、その折に念のため銀の吹き直しもしている。すると私達の手元には多量の銀と、石見における灰吹法で抽出しきれなかった少量の金などの希少鉱石が残るのだ。
そうして手に入れた銀はインゴットに整形した上で、テルナテ王国やマカオ、あるいはトンドにて明商人へと流す。
不思議な点は、明商人はとりあえず銀であればインゴットでも銀貨であっても、ほとんど根こそぎ持っていこうとする。インゴットはともかくとしても銀貨は域内通貨であるから大量に持っていかれると困るので、私達の手で直接明商人へ供出するのはインゴットの形が殆どではある。まあ日本商人に支払いで手渡した銀貨はそのまま流出しているけど。
としたときにそもそも根本的に何故明はこれだけの銀を必要としているのか?
この疑問は、以前私が博多に訪れたときに神屋の番頭から話を伺ったときにも同じことを考えていた。彼等は日本だけではなく、此処フィリピンでも銀を買い漁っている。
また、それとは別口でテルナテ王国との交易も開始している。こちらに石見銀由来の銀インゴットと金などの希少金属副産物が生まれたので、それらと引き換えに香辛料を大々的に買い付けられるようになった。そうして手に入れた香辛料は、太平洋航路を伝って新大陸へと送り、更に大西洋横断を伴ってヨーロッパへと流通することになるだろう。
これまでもブール王国を仲介とした少量の香辛料を新大陸へ送ってはいたものの、今年からは従来の規模とは隔絶した取引量になっている。不可侵協定とともに結んだ通商協定の偉大さにひれ伏すばかりだ。
そして、その香辛料と引き換えに私達は新大陸で生産されている銀貨や生活必需品を購入するという流れだ。
これによってスペイン経済圏をようやく、トンド・マカオを通じた明の東アジア経済圏、そしてテルナテ王国とアチェ王国の東南アジアのイスラーム王朝経済圏と接続することが出来た。しかも、そのアチェ王国はオスマン帝国とも関係が深いことから東南アジアの動静はオスマン帝国にすら波及することとなる。
その経済規模がどれくらいになるか? 一概には言えないが、戦国知識の方から1つの指標として挙げられるものがある。それは石見銀山の収益を仮に石高に換算したらざっと100万石は優に超えるとしているという説だ。
全部が全部フィリピンに来ていないにしても、それでも数十万石前後程度の実体経済があり、勿論言うまでもなくその規模は今のフィリピン伯領全ての農地生産物をひっくるめても遠く及ばない。
これで、ようやく。
軍事的には未だボロボロではあるものの、フィリピン伯領を国際貿易国家に押し上げるための『強大な武器』をついに手にしたのである。
*
テルナテ王国から香辛料がざっくざっくと手に入り、それを太平洋横断船団に詰め込んでガンガンとヌエバ・エスパーニャ副王領に送り、向こうが阿鼻叫喚となっているであろう姿を幻視するのを娯楽として、私は日々の書類決済を地道に行っている。
そんな妄想を描きながら、ふと一人であるからこそ思いふけることがあった。
……結局、ネーデルラント問題の解決までに間に合わなかったなあ……。
テルナテ王国の香辛料輸入のシェアを我々が奪い取るという方針は、元々はそれによってポルトガルの資金調達能力を減退させて、ネーデルラント南部で発生した叛乱軍に対するポルトガル支援の手を妨害するための策であった。けれども、その策が発揮される前に、カルロス王太子は戦死して叛乱の脅威は既にピークを越えてしまっている。
誰から見ても、王太子の戦死こそが叛乱解決の主要因となるであろうことは明らかであり、私はその流れに間接的にも絡めていない。つまり、主目的については実は不首尾に終わってしまっている。もっとも、まだネーデルラントの叛乱は完全に鎮圧された訳ではないのだが、でもその王太子死去の報って、輸送タイムラグ込みで1年前の出来事になるのだよね。多分、私がテルナテとの貿易を再開したどうこうのタイミングだと下手すれば全部解決してる可能性すらある。
そしてそのスペインの危機に対して上手く絡むことが出来なかったというのは、宮廷内部や貴族に私への悪印象は残ったままということだ。ネーデルラントの制度をいじったのは一応私ということになる訳だし。フェリペ2世がそうした意見に流されるとは思わないが、周囲の意見というのはあまり好意的にはならないだろう。
そんなことを考えていたら執務室の扉がノックされる。入室の許可を出すと、入ってきたのは、政庁舎のニューホープであるフランシスコ・デ・サンデだった。
「サンデ殿? 何か急用ですか?」
「いえ。急用という訳では無いのですが……1つフィリピン伯様にご考慮していただきたいことがございまして。政庁舎職員一同の総意でもあるのですが――」
上位の者に対して部下が『お願い』という体裁で話を持ってくるとき、それは殆ど拒否するとまずい代物――語弊を承知で言えば『命令』であることが多い。
私は、どんなことを突き付けられるのか戦々恐々としつつも一体何用か尋ねるが、フランシスコ・デ・サンデの発言は予想外のものであった。
「……フィリピン伯様。そろそろ『邸宅』をお持ちになって頂かないと、伯爵領としての『箔』が付きませぬ」
「……え、私の家? 既にセブにあるじゃないですか」
一応、私の家は既にある。それも結構大きいやつ。ただ日本やテルナテ王国に赴く機会が多かったので、そもそも使う機会に乏しかったし、今でも寝るために存在するくらいの折角の広さが完全にデッドスペースとなっている勿体ない代物だ。
しかしフランシスコ・デ・サンデは根本的なことを指摘する。
「フィリピン伯様、あれはあくまでも貸家です」
……まあ、確かに広々一軒家ではあるけど賃貸物件ではある。
「……貸家じゃ問題ですかね?」
「大いに問題ですっ! 貴族の邸宅は饗応や歓待にも用いられる『迎賓館』としての側面もあるのです。ただでさえ我が領は辺境である故に他国の要人が訪ねてくる機会が多いと言うのに……」
あー……迎賓館。確かに神聖ローマ帝国でユーリヒ=クレーフェ=ベルク公爵のヴィルヘルム公の邸宅でもてなしてもらったことはある、最後にお父様と会った場所ね。
あるいは、アナの夫のルイ・ゴメス侍従長の屋敷でスペイン本国滞在中にはお世話になった。グレイスと初めて会ったのも彼女の夫の城である、城も広義の意味では邸宅と言っても良いだろう。戦国日本のケースだけど御殿って大体は城内にあるし。
もっと初期の初期まで遡ればハプスブルク家のマリア・フォン・カスティーリエンさんのブリュッセルのお屋敷。あそこなどはサロンや社交場としての側面もあっただろう。……私は嫌がらせを受けてたし、よく脱走して街に繰り出していたけど。
確かに言われてみれば、貴族の家で歓待を受ける機会は何度かあった。
「……あ、でも。今まではサン・ペドロ要塞の応接室で事足りていたじゃないですか」
「要塞は防衛機構なのですから、気安く外の人間を入れるものではないじゃないですか。
……というか、フィリピン伯様が政庁舎や要塞の空き部屋に自分用の寝具を持ち込むせいで業務遂行に悪影響が出ているので、家で過ごす時間を増やしてください!」
付け加えれば、サン・ペドロ要塞もいつまでも木造のままなのは体裁が悪いので石造りに改修したいみたい。それは、ごもっとも。
だけど要塞改修よりも優先すべき早急の課題は私の邸宅らしく、フランシスコ・デ・サンデが暗に告げているのは、私がいつまでも政庁舎や要塞に居ると邪魔だということ。
そして、私の私兵であるグレイス麾下の陪臣組とフィリピン伯領としての護衛を区分できない問題も重なり、その辺りも踏まえて家の警備は家臣団に、執務関連はちゃんと領としての護衛を出すようにしたいと棲み分けの提案も重なっていた。
そんな政治的な都合も重なって、私の邸宅づくりは当人の希望は半ば放っておかれる形で始動したのである。
「……あれ? これ報告に無かったけれども、前にセブ山岳部で発見された大理石を切り出してないですか?」
「諸外国の使者を招くスペースで権勢を見せつける必要があり、しかも領内に大理石の埋蔵が確認されているのですから、普通使うでしょう?」
……こんな感じのやり取りも挟みつつ、私の邸宅は作られていくのであった。