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外伝13話 貴種と奇手


 突然ではあるけれども、内政干渉をしようと思います。



 そうは言っても、経緯を説明せねば意味不明だろう。

 起点は安宅神太郎とも話していた、恭順する日本人倭寇の今後の進退である。寝返りさせるように言っていたはいいものの、彼等の処遇は曖昧であった。


 当初はぼんやりとセブ島にでも連れて来れば良いか、程度にしか考えていなかったが、そのセブ島は人口増加によって北部の開けた土地を新規開墾地として開拓することが決定。東南アジアから東アジアにおいて派手に戦争が行われている現状、更なる人口流入とそれに伴う農地の宅地転換は、食糧分配でもって統治者として君臨しているフィリピン伯領の存在意義を揺るがしかねない。


 だから別口で彼等日本人倭寇の受け入れ先を探すことになったのだが、思わぬところから突破口は形成されたのであった。


 それは、マニラ滞在中に連絡係から報された次の一幕に集約されている。


「……え? トンドに明の商人が訪ねてきていて、私に面会を要求している?」


「はい。曰く『ご依頼のありましたジャンク船の引き渡しについて目途がつきました』とのことで……」


 マニラからトンドは川を挟んだ隣町なのでその日のうちに話を聞けば、次の船便から送ろうと思えばジャンク船の納入は可能とのこと。

 元々、戦国日本へ赴いたときに日本側にフィリピンまで来られる船が不足しているだろうから此方から賃料を出した上でレンタルを行おうと目論んでいた船である。とはいえ勘合貿易の折に使用していた明の寧波まで送っていた遣明船は改造した大型和船である以上、無理をすれば和船であってもフィリピンまで来ることは多分可能だろうけれども、石見銀を東シナ海や太平洋にばら撒かれても誰も得をしないのである程度信頼性のあるジャンク船を貸与することにしていた。


 明商人への購入対価は、現在フィリピン伯領内で普通に流通している新大陸製の銀貨。ウチの通貨でそのまま買い物できるのは願ったり叶ったりだから良いのだけども。


 また、明とトンド間の通商はシーズン的には3月から6月が風向き的にはメインにはなる。が、太平洋横断航海程には出港時の風への依存度は高くないために、時期を外して往来する船も居ることは居る。だから『次の船便』の時期そのものもある程度私の方で指定することが可能なのだ。



 としたときに、私は気が付く。

 この明から購入したジャンク船の水夫として、恭順する予定の日本人倭寇が使えないだろうか――と。


 勿論そのまま船を与えたら元の倭寇に元通りしてしまうので、水兵反乱を起こされても鎮圧できるレベルまで小分けしなければならない。しかし、それでもフィリピンを襲った倭寇にとっては勝手知ったる海なのだから、上手くすれば水先案内人やアドバイザー的なポジション、つまりはかつて口之津から博多までの道中で松浦党の手の者にお願いした『上乗うわのり』のような立ち位置に収まることだって出来る。

 そこまで目端の利く者が全部が全部というわけでもないだろうが、仮に一水夫であったとしても、倭寇などではなく公的に許認可された交易船の一員である。給金は積むのは確定的で、私貿易の規模から比すれば利も段違いである。


 倭寇としての生活に戻るよりも然りとした収入が確約されているのであれば、早々裏切ることも……無いと言いたいが、そうでもないのがこの16世紀という時代なのである。

 とはいえ小分けにすればリスクは分散されるはずだし、それでも尚失われる数隻くらいの倭寇化は、正直必要経費として割り切る覚悟も必要だろう。


 しかし、必要経費と割り切れない想定されうる損害が別にあった。それを未然に防ぐために、私は再び安宅神太郎と面会を行う。



「ええと……つまり。白雪様は、博多商人らに船を貸与するために大友と毛利の双方に和議を求めている……と。

 その解釈でよろしいですかな」


「その通りです。勅命でも幕命でも形式は問いません。

 正直に申し上げれば、九州における大乱の最中に船を送ってしまえば、戦時であることを理由に武家に接収される可能性があるでしょう? それをされてしまうと貴国の朝廷に通商を求めた私達の面目が丸潰れになってしまいますが、武家とはそれを理解していても尚、目の前の戦力を自身の物にすることがあるでしょう?」


「……おっしゃる通りで」


 日本人倭寇の恭順後の処遇について概ね定まると、今度は日本そのものを取り巻く現在の環境が問題となったのである。つまり、博多の周囲で戦……それも複数国持ちの大友と毛利の大激突という大規模なものが発生している以上、ここに船を乗り入れさせることはできない。

 立地的な条件を一度振り返ると、博多も堺同様に水深はそこまで深くないが、例外として荒津という地域の付近だけはそこそこ水深がある……というか、この荒津こそが『博多鴻臚館(こうろかん)』の元々の所在地であり、それは即ちジャンク船の寄港地としては最適な地域であることを示している。しかし、その博多に寄港できるとは言っても、毛利や大友に船を奪われてしまってはひとたまりも無い。


 外交的に絶対まずいことは、キリシタンの大友宗麟なら百も承知だろうし、毛利元就がそこを見落とすなどということはまず無いと断言して良いと思う。しかし、毛利方が、九州の地場の水軍から村上水軍に至るまで船をかき集めて制海権を握っている中にジャンク船などというジョーカーをぶち込んだとしたら、双方の軍が外交的リスクを天秤にかけても尚、船の奪取に向かうということは当然考えられる。

 しかし、同時に私と博多商人には繋がりがあるし、この交易構造そのものが博多にとっても莫大な富を生み出すことから、神屋紹策や島井茂久は絶対にその暴挙を止めようとするはず。平時・・でさえあれば、というか大友と毛利さえ直接争わなければ何とかなる……と思う。


 だからこそ、このタイミングでの室町幕府に対する内政干渉なのである。日本人倭寇の恭順問題がいつの間にか毛利と大友の和平へとスライドしていたがために。


「足利義昭殿が両家の講和に乗り気であることは伺っております。……というかこの九州の大乱自体は、私が日本に居る時から発生しているものですし。

 ですので、遠慮せずに私の名を使って下さいな。さすれば、少なくとも博多の地場商人らは和平への斡旋を強めるかと思います」


 加えて言えば、これが内政干渉ではあれど足利義昭に対する援護射撃である以上、基本的には幕府の意志に沿ったものではある。だからこそ、安宅神太郎もメッセージを伝えるだけで幕府内の功績に代わるものだと理解した。

 勿論、ルソンにおける倭寇の引き抜きからウルダネータの死後の事後処理提案までを踏まえた感状を添えるつもりではあったが、これが私が彼に渡す手土産であることも含めての理解である。


「白雪様のご配慮には感謝いたします」


 安宅神太郎は、倭寇の恭順工作を自身の配下に一時引き継ぎ、一度日本へととんぼ返りすることとなる。



 ――そして、安宅神太郎は二度とルソンの地に足を踏み入れることは無かった。

 今回の外交折衝の功績が認められ、幕府水軍操練所付の武官から播磨国・明石に加増移封されることとなったためである。


 ……功は認めつつも、私の手駒にならぬように即座に切り離してきたか。

 しかも彼の明石移封という説は私の知る歴史においても存在したが、これは領地を与え一城の主として遇する傍らで淡路水軍との切り離しを図っており、旧主・三好義継の下へも三好三人衆側へも帰参を防いでいるように思えてならない。

 その上で、おそらく切り崩された淡路水軍の兵力は三好義継が管理することになるし、これは単純な三好義継の戦力強化という形で安宅神太郎の忠義に報いているともいえる。


 そしてこれだけの仕掛けの本義は、管領である畠山高政と河内半国守護で分け合っている三好義継側の戦力を増強すること。

 本来足利義昭にとって織田への牽制役として運用するつもりであった畠山高政が、本来協力して欲しい管領代・六角義治と対立している。この現状を是正するために畠山高政のカウンターパートナーとして三好義継を擁立し、畠山家の影響力を弱めることで畠山高政と六角義治を和解させようと模索しているととれる。

 ……というか、それを見ればそもそも安宅神太郎の幕府水軍入りもそうした流れの一環であったのだろうが、私が彼に功績をあげさせ過ぎた(・・・・・・・)のだ。だから、こんな顛末となった。



 とはいえ。幕府側も私の面子を潰さないギリギリのラインはしっかりと提示してきた。

 日本人倭寇の恭順工作に安宅神太郎の配下を引き続き使用することは認めた上で、大友と毛利の和睦に対しての責任の所在を明確化し、確実に和平へと持っていくことを確約してもらった。つまり、こちらのオーダーそのものについては完遂する約定は結ばれたのである。和平工作完了後に日本人倭寇の引き抜きを行うこととなるため、こちらの軍はルソン王国近郊に下げたままにして総兵力も逐次減らしておこう。



 そして。

 大友と毛利とが和平を結んだということを幕府方から報する使者が、口之津から出航するイエズス会宣教師用の連絡船に同乗してきたのがそれから4ヶ月程度が経過した――1568年の11月のことであった。




 *


 大友と毛利の和平が1年近く早い。

 私の知る歴史通りに合戦が推移しているとすれば、直接の和睦の要因となった大内輝弘の山口強襲や尼子再興軍の挙兵も来年の出来事だし、それ以前の両軍の直接の大衝突となる長期化した多々良浜の戦いですら起こっていない。

 豊前・筑前、そして伊予において両軍は衝突しているが戦闘における決定打は現段階では存在しないはずだ。私が言い出したことだし博多商人の圧力もあるから急転降下で和睦へと転じた可能性も十二分に考えられる……が、そこまで私の思惑通りに事が進んだ自信は全く無いのである。


 それは、セブのサン・ペドロ要塞の応接室まで遥々やってきた商人実務者の老人の存在が物語っていた。


「お初にお目にかかります、白雪様。池永修理と申します」


 安宅神太郎に続き、また随分と変化球を放ってくる室町幕府……というか、これはおそらく商人層の動きだと思うが、説明は必要だろう。

 池永修理――堺の商人であり『池永家』とは、前世紀にて遣明船交易及び琉球交易で巨万の富を築き上げた豪商・湯川宣阿(せんあ)の後継者一族である。つまり堺における東シナ海のプロフェッショナルの商家を出してきた。

 そして、実際にこの池永修理がトップを務める商会である日向屋においては、かつて往年の大内家を経由して島津家に対して船の建造を出すくらいには九州との関係が深い。既に高齢な彼を私へのメッセンジャーとして出すということがある種、堺の本気度合いを伺わせていた。おそらく同族の池永左京亮とかは普通に堺の会合衆の1人だし、何なら現在の管領・畠山家と縁戚関係にあるくらいである。


 まあその畠山家との関係も邪推するものがあるがそれ以上に問題なのは、この池永修理自身が、1564年に津田宗及の茶会に参加した形跡があり即ち天王寺屋サイドと何らかの蜜月の関係を築いていた可能性がある点である。

 千利休の魚屋や今井宗久の納屋には共に組香の場で関わりを持っていたが、まさかノーマークであった天王寺屋からの刺客となると、事の厄介さが多少なりとも見えてくるだろう。


 とはいえ経歴だけ考えればこれ以上適任な人材もない。大友と毛利双方の利害に全く無関係なのは確実だし堺の商人も博多鴻臚館構想には参画している以上、第三者の代表者としてスライドさせる場合には大友寄りの商人も、毛利寄りの商人も納得しやすいわけで。ここは天王寺屋が上手く間隙を突いたと言えば良いのだろうか。


「遠路遥々ご足労いただきありがとうございます、池永修理殿。

 ……して、九州での大乱はどのように?」


「おっと、その前にオルガンティノ様より書状を頂いております。私共の用件よりも先に、其方に目を通されては如何でしょう?」


「そうでしたのね、助かります――」


 出された書状に目を通せばラテン語である。挨拶や細かい話もいくつか書かれていたものの特筆すべきはこれであろう。


 ――『土佐一条家』の領主様が、ヴァリニャーノ君の手によって洗礼を受けました。ドン・パウロという洗礼名を授けたようです。



 あー……、土佐一条でドン・パウロってことは一条兼定か。このタイミングだと毛利家の伊予出兵軍を含む河野家にぼろ負けした時期かな。まだ土居宗珊が生きているはずだから何とかなっていると思うけれども、随分と早い段階でキリシタンになったな。私の知る歴史だと土佐から追放されて大友領に居る間の話だった気がするけれども、まあ歴史が変わっているなんて今更か。


 隠し立てすることでもなかったので、池永修理にも朧気に内容を伝える。


「オルガンティノ先生は、昔の恩師なのですよね、日本で上手くやっているみたいで安心しました」


「おや、白雪様とオルガンティノ様は弟子と師の間柄であったのですね。こういう話は中々聞けぬので実に面白い――」


 それから二言三言、言葉を重ねると話は自然と大友と毛利の和睦に移った。


「……大友家と毛利家の和睦は、将軍であらせられます足利義昭様の仲介で成し遂げられました。九州からの毛利軍の撤退に際して追撃を加えず、大友も四国で展開している軍を下げ、周防・長門に今後討ち入らないよう約定を交わした模様です」


「他に和睦の条件はありますか?」


「ええ。毛利方は、大内輝弘様が前将軍の足利義輝様より認められていた大内家の家督継承を抹消することを要求し、これを大友方は飲んでおりまする」


 まあ毛利としては抑えておきたいポイントではある。けれども。


「よく、大友がそれを承諾いたしましたね」


「はい、大友もそれなりの利を得ておりますれば。大内輝弘様を切り捨てても是非もなきことなのでしょう」


「……へえ、それだけの対価って何かしら?」


「大友家と婚姻関係で結ばれております、従三位・左近衛少将の位を持つ西日本屈指の名門・土佐一条家当主……一条兼定様の朝廷への出仕が決まり申しました。既に土佐の所領を後にして参内に関しての準備を整えるとともに、幕府の働きかけで断絶していた鷹司たかつかさ家を相続することが決定しております」



 更に足利義昭から一字拝領して、鷹司家相続後の一条兼定の名は――鷹司兼義(かねよし)となるとのこと。



 いや、待て待て待て。それは全く想定していない。

 一条兼定が土佐を離れる。これは多分長曾我部が伸張するだろうけれども、それは私にとってどうでも良い。

 一条兼定が鷹司家を継承する。これも、断絶した鷹司家の復興に熱心であったのが史実信長という点が非常に怪しいけれども、別に重要ではない。

 一条兼定が大友宗麟の子女を妻としていて、大友家の外交チャンネルが朝廷に出来る。色々と歴史が壊れかねないターニングポイントではある。だが、それでも私には関係が薄い。


 問題は。すぐ直前にオルガンティノからの書状で知った一条兼定のカトリック転向、これである。

 一条兼定の位階は、池永修理も言っていたように従三位。そう、三位・・なのである。


 三位だと何が問題かと言えば、それはただ1つ――彼が公卿ということ。

 即ち私が日本で外交関係を結ぶときに、竹中半兵衛が出してきた三条西実澄という伝手を得るまでずっと難儀していた朝廷中枢への手立てが、事もあろうにキリシタン公卿・一条兼定改め鷹司兼義の誕生によって容易に接続できるようになった、ということなのである。


 ……誰だよ、こんなとんでもない絵図を描いたのは!?

 本作では、1521年に島津家に船の建造依頼を出している日向屋の池永修理(鹿児島県史料旧記雑録前編2)と、1564年に津田宗及の茶会に出席した池永修理と思しき人物(天王寺屋会記)を同一の存在として取り扱っています。

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― 新着の感想 ―
[一言] 更新お疲れ様です。 幕府もさるもの、安宅と白雪が更に接近してヘッドハンティングされるのを防御するように配置転換(^^;; 意外な線から朝廷へのパイプが^^ 一条、大友、毛利、早期洗礼&早…
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