閑話 史実16世紀フィリピン統治用語解説
用語解説回です。
フィリピン総監【Capitanía General de las Filipinas】領
一般的にはフィリピン『総督』と言われるが、本作においては国王直属の代官にあたる総督(Landvoogd)と副王に任命される総監(Capitania General)を区別するために敢えて表現を違えている。(本作においては主人公の伯爵領として独立してしまっている以上、フィリピンに総監職が設置されておらず区別した意味があまり無いのだけれども……)
スペインによるフィリピン統治の歴史は1565年のミゲル・ロペス・デ・レガスピ率いるガレオン船5隻、人員約350名の遠征艦隊から始まるが、最初の接触は1521年のマゼラン艦隊、以降1525年(ロアイサ)、1527年(セロン)、1542年(ビシャボロス)とレガスピ以前にもフィリピン周辺まで到達した探検家ないしはコンキスタドールは多い。とはいえロアイサ艦隊は香料諸島に到達したウルダネータを含む25名以外は全員死亡・行方不明だし、セロン艦隊もミンダナオ島東部の小島にしか上陸しておらず、まともな接触はマゼランとビシャボロスのみであった。加えて言えばマゼラン本人はマクタン島の戦いにてラプ=ラプによって討ち取られている以上、必ずしも最初期のスペインはフィリピン諸勢力にとって重大な脅威であったわけでもない。
では、史実においてスペインがフィリピンを総監領と出来た理由は、1563年のブール王国に対するテルナテ・ポルトガル連合軍の侵攻(本作のボホール海海戦に相当)によって彼の国の首都が壊滅状態に陥り、ダトゥ・シカツナの手によって遷都された矢先の接触であることが大きい。更に、このフィリピン中部には統一的な政府はおろか各部族ごとにほぼ分断されており個々の勢力での交易等のやり取りはあったものの、複数の部族の代表者が集まって会議を開く、みたいなことも行われていなかったために、他の東アジア・東南アジア地域の統一王朝がある地域に比べると、相対的にではあるが各個撃破が容易であった。
衰退していたブール王国に助太刀する形の大義名分を得たレガスピは、基本的には軍事侵攻の前に対話でもって支配部族を増やしていく方針を取っていたが、セブの東岸・スグボの領主ラジャ・トゥパスは戦闘前と戦闘後の二度の降伏勧告を拒否したためにこれを滅ぼし、拠点をセブに置いた。レガスピ自身は1569年に拠点をセブからパナイへと移し、次いでマルティン・デ・ゴイティをルソン王国に派遣して、1年に渡る戦いの後に平定し、1571年にマニラを本拠にした(スペイン本国による認可は1572年)。
以後は、マニラがフィリピン統治の中核となるが、マニラに移された理由は諸説あり、セブの拠点がポルトガル人(ただの海賊とも、サラゴサ条約違反に対して撤退勧告を行ったがレガスピがそれを無視したためにポルトガル軍が包囲に踏み切った説もある)に荒らされたという話もあれば、1567年に新大陸より追加の援軍200名余が送られた際に物資欠乏を引き起こしたため、あるいは同援軍に刺激されレガスピが更なる功績を得るために第二植民都市の建設を目論んだ、はたまたイスラーム勢力による攻撃を避けるためなど多岐に渡る。とはいえ、以降マニラが一貫として中心地となったために、セブの拠点は放棄こそされなかったが16世紀中には衰退の一途を辿っていくこととなる。
ちなみに16世紀中の歴代のフィリピン総監は、エンコメンデーロの権限抑止に動いており、1570年代にはフィリピン総監領に勤める行政官がエンコミエンダを所有することを禁じる法令が出されたり、1584年にはフィリピン総監とマニラ・アウディエンシア長官を兼ねる形でアウディエンシアの設立がなされるなどの施政を行っている。
また、エンコメンデーロへの規制に反して、現地住民に対しての統治策が比較的緩く、原則的にはスペインの王冠に忠誠を誓えば、ほぼ先住民統治者の権限を剥奪することはなく(免税特権や兵役免除など)、歴代のフィリピン総監はスペイン人探索以前から存在した統治機構の存在をそれなりに尊重はしている(プリンキパリア)。1594年には、これが成文化され『カトリック信仰とスペイン国王の名の下にある限り』在地原住民領主の代理統治権限と名誉は許された。これで元在地領主は、ほぼ貴族に準ずる特権的地位を有することとなった。(『カトリック信仰』が前提にあるために宣教師の影響力は否応なしに高まる訳だが、とはいえこれはそもそも徴税を教会に委任する制度などもあるため、カトリックでない領民の存在に対する行政のロジックエラー[異教徒だから税払わないバグ]が発生するのを抑止するためという側面もある。)
そうした比較的寛容な施政を取った理由として、根本的にスペイン人入植者の数が少なすぎるということがある。資料によっては1591年のマニラのスペイン人・新大陸人の人口が合計300人程度、セブ島においては50人程度としている。マニラ・ガレオンによるフィリピン―ヌエバ・エスパーニャ間の交易は16世紀中は概ね年間ガレオン船3隻以上とされているが、同数が行き来していては年間を通してみればフィリピンの人口増加に寄与しないのである(ただしヌエバ・エスパーニャからフィリピンに交易船団が到着し、それを送り返すまでは一時的に人口は増大する)。
史実フィリピン総監領の軍制
たまに言われることに『スペイン人は、アステカ帝国やインカ帝国といった大国をわずか数百名の軍勢で倒すことができたから、以後現地政府を少人数で打倒出来ると考えていた』という風説があるが、正直なところ現地住民の征服に何度も失敗した上で兵員を増員することはほとんどしていないから、そもそもその『わずか数百名』という数が派兵出来る限界量という見方も出来る。
確かにマゼランがラプ=ラプと対峙する際に、エルナン・コルテスの名を挙げて少数による数十万の敵の軍勢を打ち破った先例を出して士気高揚の演説をした事実もあるが、この時味方49名に対して敵軍1500名という戦いを強いられていたので、その言葉がどこまで本心かは不明である。
また遠征艦隊の規模については作中で以前述べた通り、ヌエバ・エスパーニャ副王領としては13隻の艦隊を派遣してフロリダ入植を推し進めたのにも関わらず現地住民の抵抗で失敗していることもあり、この人員規模が軍事的に不足という認識は確実にあった(事実、ルイス・デ・ベラスコはフィリピン遠征に反対の立場を表明している)。一方でこのフロリダ遠征の撤退の決定的要因は、現地での食糧生産・確保に失敗したことにあり、この事実は軍事的に兵員を増員することが必要でも、増やすことで今度は食糧供給が追い付かなくなる可能性があることを示唆していた。
そういった事情を踏まえた上で、フィリピン総監領の軍制を見る。彼等の基本的な軍の編成は、少数のスペイン人(新大陸出身者含む)に多数の現地住民を傘下に加えるという手法を取っていた。その意味では兵数の少なさを認識し、彼等なりに対応策を講じてはいる。
ルソン王国を滅ぼしたときはスペイン人260人に対して現地住民600人程度、本作でも改変して登場している林鳳率いる倭寇との戦闘(史実1574年)でもスペイン人200人に現地住民の戦士階級200人プラス多数の原住民民兵という形、あるいは1578年のブルネイ帝国への侵攻時には、400人のスペイン人の混成兵に、現地住民1800人という軍勢を率いていた。
練度にバラつきがある上に、現地住民に対しては別に特に軍事的なテコ入れを行っていないため、結局16世紀中にフィリピン総監領は、住民反乱や山岳地域の敵対民族からスールー・スルタン国にブルネイ帝国、テルナテ王国に至るまで、ほぼ全方位で戦火を交えたものの、軍事的に挙げられた成果は少ない。(明確に成功と言えるのはセブとルソンの戦役と住民反乱鎮圧程度で外征と山岳戦は結構ボロボロ。)
何というか微妙という一言に尽きるのも、その根底にあるそもそものスペイン人人口の少なさが引き起こしたものだと考えることも可能である。
史実のセブ入植
本作においてはセブへの入植理由を『平地が多く食糧生産能力に優れるため』としているが、史実レガスピ艦隊としてはむしろ港湾設備に重点を置いたと言われている。
とはいえ、セブはスペイン人入植前から農業・漁業を基幹としてフィリピン国内を基幹としつつ中国・東南アジア諸国に対して交易を行う中継交易拠点・港湾地域として拡充されていた経緯を有する。そして製鉄、窯業、織物業などの商工業従事者も居り、フィリピンにおいてはそれなりの人口規模(そもそもフィリピン諸島自体の当時の人口密度はスッカスカではあるが)を擁していた。レガスピが上陸した1565年当初には300を超える住居が密集しているという報告もある。
その後1569年にはパナイに拠点を移し、次いで1571年にはマニラを首都として構えているため中核拠点としての機能は僅か4年で失われることとなる。(尚、パナイも食糧生産拠点として有望な土地であったが、この時期にイナゴの大発生による収量減退が起こっていたことに加えて湿地帯であることによる当時の不衛生な環境が相まって2年でマニラに移転したと考えられている。)
入植したその年からサン・ペドロ要塞とサント・ニーニョ教会は建設されているが、当時はどちらも木造であった。特にサント・ニーニョ教会は翌年の1566年には一度全焼して再建されているが、構造としては木と竹で組まれたヤシの葉の茅葺屋根の簡素な教会であったので、台風の度にしばしば倒壊していたとされる。なお、サン・ペドロ要塞は1600年に石造りに改築され、サント・ニーニョ教会も1628年に石とレンガ造りの教会へ変貌しようとしていたがこの工事は中断され、結局現存するサント・ニーニョ大聖堂が完成したのは1739-40年頃のことであった。
都市造成の観点から見れば、この2つの建造物以外に目立った建物の建築は見られず、拠点が移ったこともあり都市計画も実施されていない。とはいえ、その最初期の要塞と海の位置関係などから、カリブ海の植民都市サント・ドミンゴを意識しているという説もある。
スペイン人人口も1588年には約30名、1591年でも50名程度と本当に雀の涙の程であるが、一方でガレオン船の波止場としての機能はマニラに拠点移転後も維持されていたようだ。
サント・ニーニョ大聖堂が建設された17世紀半ばごろからセブは隆盛を見せるようになるが、18世紀には一時停滞期を挟み、そして19世紀の蒸気船の登場でもって各島の農業生産物集積の物流拠点の港湾都市として大きく変貌し、世界各国の流通網に接続したことで現在に至る大都市へと変わっていく。ちなみに現在のセブ島全域の人口は300万人超。
史実のマニラ入植
1569年のパナイ入植とほぼ同時期にマルティン・デ・ゴイティとフアン・デ・サルセードの両名を指揮官としてルソン島探索に駆り出し1570年には同島へ到着。この際、トンドの領主ラカンドゥラと、マニラ領主の1人ラジャ・マタンダは友好的であったが、もう1人のマニラ領主であるラジャ・スレイマンは交渉の打ち切りを宣告。マニラとは断交状態となる。(このときトンドをパートナーとして利用しなかったが、それは既にマニラの方が要塞化されており、拠点としてマニラをスペイン側が使いたかったためらしい。)
その後スペイン船の砲撃を耳にしたラジャ・スレイマンはまだ陸に残るスペイン軍に総攻撃を命じたが短い戦闘の後に敗退。この時、マニラの街が焼ける(既にフィリピンのイスラーム勢力においては比較的一般的であった焦土戦術をマニラ側が敢行したとも)。ただし、スペイン探検軍の海上兵力は劣勢であったために勝利後すぐさま撤退している。
そして1571年にバンクセイ海峡において海戦を行い、スペイン側は一部の船を2隻ずつ固定した巨大な偽装目標を作成、マニラ側はこの欺瞞戦術に騙される形でスペイン船団を包囲したが、砲撃によって沈められた。(なお、この時もマニラの街は燃えておりやっぱり焦土戦術なのではという説もある。)
そして勝利後に焦土化した元要塞部分に上陸、そこに中央広場を確定し、その東に政庁舎、西に総督邸宅を設置し新首都として宣言。同年中に要塞の再構築、教会の建設がなされている。
1574年の林鳳の攻撃で都市の一部が放火されたことを受けて、木の柵でマニラ全周を囲むことに(1570年代後半に完成)。同時期に木造の見張り台も2つ設置されている。この柵で囲まれた領域が後のイントラムロスと呼ばれるスペイン人が『マニラ』と呼称した地域となり、入植者はこの柵の内外を明確に区別していた。1580年までに4つの教会、2つの病院がイントラムロス内には設置されているが、1583年にサン・アウグスティン教会で発生した失火により街が全焼した。これを受けて街全体の石造り化に着手。同時に柵の全周部分の角などに稜堡が複数作られ、1596年までには木の柵が石造の城壁に代わり、城塞都市として完成する。
行政設備も逐次拡大を続けており、1579年にはマニラ司教がドミニコ会より就任し、1580年代初頭にはマニラ・アウディエンシアが設置され、フィリピン総監がアウディエンシア長官も兼任することとなる。1582年には中国人居留区のパリアンを設置。
城壁都市の完成以後は、その城壁の外に外堀を設置する工事やパッシク川への架橋工事、城門の設置などが行われた上にこのイントラムロス外にも建物建設の流れが加速化し、18世紀以後には護岸工事と海の埋め立て工事が推し進められるようになる。
イントラムロス内部は初期に都市計画に基づいて造成された後は、火災で燃えたり台風被害で倒壊したりはしているものの、大きな都市構造そのものに変化はない。ちなみに、wikipedia や一部資料には『1573年のインディアス法』(植民都市の建設計画が体系化された法)に基づいて都市が建設されたように書かれているが、この法律の制定以前からの流れで都市、特に街路・城壁位置の決定は行われているため、必ずしも『1573年のインディアス法』がマニラの根幹を形成しているわけではない(実際に中央広場街区の寸法は『1573年のインディアス法』で定められた規定サイズとは異なっている)。
なお、現在もイントラムロスの遺構は現存しており、かつて堀があった場所は緑化地域として整備され、稜堡を含めて要塞や城壁もかなりの部分が残っている。スペインが建設した新大陸も含むすべての植民都市のうち城壁都市は、このマニラのイントラムロスを含めて14しかない。
パリアン
1582年より設置されたマニラの中国人居留区。1591年のマニラのスペイン人人口が300人程度という資料がある一方で、1588年頃のマニラの中国人人口は1万人程度とする資料がある。1580年代には年間30~40隻程度のマニラへのジャンク船の往来があり、彼等中国人はフィリピンの統治行政にこそ深く関与はしていないものの、フィリピン現地住民からカトリック、イスラーム商人の仲介などを務め、中間商人としてフィリピン統治に不可欠な存在となっていた。加えて商人以外にも織工、医師、薬師などを始めとする非常に多岐にわたる職業人(漁師、狩人、製鉄業者、木工、裁断師、製パン業者・ベーカリー、肉屋、塗装業者、銀細工職人、反物屋、彫刻家、飲食店、鍵製造職人、キャンドル職人など)も多数移住してきており、日常生活においても既に切り離せない相手でもあった。
単純な数の上でも、そして経済活動の上でも必須の存在でありながら、同時に脅威となっていた彼等をパリアンの設置によって言わば隔離し、彼等の移住を禁じた。
また税制においても特別課税が行われ、フィリピン現地住民以上の人頭税(トリブート)の規定、輸入関税にあたる三分税に滞在許可に関する税も例外的に徴税なされている。
この税制に対する苛烈な政策に反発して17世紀には4度の叛乱と、叛乱鎮圧に際しての中国人虐殺が発生している。が、そもそも日常生活の仕事の殆どを中国人が行っているために、数え切れない迫害の中でも彼等の影響力を排除することは出来ず、中国人人口は増加の一途を辿っていくが17世紀の清の遷界令によって中国大陸において沿岸部住民の内陸強制移住政策が取られると一転して減少に転ずる。遷界令の解除とともに一時増加するものの、18世紀中に在住中国人移民者に対して改宗の義務化と改宗に応じたカトリック教徒をフィリピン人として組み込むことに成功し、中国系フィリピン人として混血を伴って土着化することとなり、この時期になると居住制限と特別課税策は大幅に緩められ、パリアンの役割は消失することとなる。
トリブート
フィリピン総監領にて1571年より施行された(一応)人頭税制度。徴税単位は1家族、もしくは成人2人単位で、年間銀8レアル(≒27.46グラム、なおスペインの当時の銀貨の銀含有量は93.055%なので、8レアル銀貨1枚では少しだけ足りない)とされていた。この金額そのものはそれほど重くもないのだが、問題は3つ。
1つは指定の生産物による物納であった点。施行されたタイミングがマニラ拠点移転後のタイミングであることからも分かる通り、それぞれの物品の『現地住民における価値』の比較衡量が不完全のタイミングで税制を導入してしまった。なのでトリブートの基準となる銀8レアルに相当するだけの生産物の価値基準が曖昧なままだったのである。
そして、2つ目は徴税官自身の不正。先の問題の通りスペイン人側が上納された『物納の税』の価値を理解していなかったし、それは逆に言えば現地住民側も不正が可能であるという疑心もあった。そしてその価値基準の制定タイミングであったので、仮に水増しして税を徴収したところでフィリピン総監の行政府側も判断しようがないという状態が重なった。
それに加えて3つ目で忘れてはいけないのが、そもそも不正を行う質の悪い徴税官であっても、総監より派遣されていればまだマシ(税負担が軽減されるという意味ではなく一応マニラの政庁舎に従属しているから総監の意向が反映されやすいという意味合い)で、この16世紀スペインの遠隔地統治の基本には『エンコメンデーロ』という存在があるということ。エンコミエンダとして安堵された領民は税の徴収権限がエンコメンデーロに帰属する都合上、総監からの介入を受けにくい。だからこそ以後のフィリピン総監領ではこのエンコメンデーロとの権限の削り合いで長らく争い続ける(フィリピンにおけるアシェンダ制導入は19世紀以降で、新大陸よりも遥かに長くエンコミエンダ制が維持され続ける)こととなる。
これらにより末端での税負担がとんでもないことになる地域も見られた。
ポーロ
トリブートとともに定められた賦役だが、主にエンコミエンダにおける使用が目立つ。16~60歳の男性が年間40日の労働に徴発された。衣食は支給される建前であったが、実際のところ殆ど無に等しい薄給であったとされている。
通常は居住地付近のインフラ建設に携わるが、時として造船の労役や遠征部隊の雑用など遠隔地に派遣されることもしばしばあった。
バリオ
フィリピン総監領における最低行政単位。スペイン人到達前のフィリピンではおおよそ30~100世帯単位の集落(バランガイ)が形成されており、その長をダトゥとしていた。(そのバランガイをいくつも束ねたものがブール王国であり、連合を組んだものがルソン王国であった。)
ただしまとまって存在する集落は少なく、分布もまばらであったためにいざ彼等を統治しようとするとそもそものスペイン人人口の少なさも相まって物理的に不可能であった。
なのでまず教会を設置し、その教会の周囲に付近の集落を移住させて中心集落を作成し、周辺部と統合する形でバリオという行政区画を制定することとなる。このバリオを複数まとめた1つ上の行政単位がプエブロで、プエブロはおおよそ2400~5000人単位で1つとされ、プエブロと教会側の小教区の単位がほぼ同一となる。
そしてそのプエブロの更に1つ上の行政単位が『州』にあたるアルカルディア・マヨールで、これは総監の直下に置かれ、総監の代理人によって統治されていた。
なお、これだけの強制移住を伴う制度を、ごく限られたスペイン人労働力によって一朝一夕で作れるわけもないので、統治領域内部で機能させるまでに半世紀ほどかかっている。