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第7話 宇宙体系と復活祭


 とりあえずオルガンティノからの助言で、日本逃亡計画の問題点が明らかになったので、ヴェネツィア共和国のパドヴァ大学で身を守りながら少しずつスペインの東アジア政策に関する情報を集めていく。

 とはいえ、露骨にやってしまうとまたスペイン内政に介入するのではという疑いの目をかけられかねないので、先代の神聖ローマ皇帝……すなわちフェリペ2世の父親の治世時代に的を絞った。

 先代皇帝は神聖ローマ皇帝でありながらにしてスペイン国王でもあったから、色々と隠れ蓑にするのには向いている。


 それにマゼラン艦隊の派遣を認めたのもこの先代皇帝だし。



 そして、調べていくうちに1つの地域がスペイン・ポルトガル両国の海上覇権争いに強く影響していることが分かった。


 ――オルガンティノの話にも出てきていたが、その地は『香料諸島』と呼ばれるフィリピンの南にあるインドネシアの群島である。

 正式名称は『モルッカ諸島』。香料というか香辛料と言えば、大航海時代の重要なファクターであろう。私も胡椒がこの時代のヨーロッパでは高価であったことは知っている。

 そんな最中、この『香料諸島』でしか採れない香辛料が存在する。だからこそ、このインドネシアの島々はただの島ではない計り知れない価値があるのだ。

 だからこそポルトガルがここに至ったからこそ、東アジアへと至る航路の開拓が活発化した。


 ……そんな重大な情報が何故、当事者ではないパドヴァ大学の資料にあるか? 答えは単純。ポルトガルが航路を発見する以前は、香辛料交易は『ヴェネツィア』が独占していたからである。……オスマン帝国との密貿易という形で。


 闇が深い。


 そんな重要地域であるために、フランシスコ・ザビエルも『香料諸島』へ布教へ行っている。……というかこの群島とその周辺には『テルナテ王国』という王朝が築かれている。しかも、イスラーム系王朝なんだこれ。

 ヴェネツィアが密貿易していたかと思えば、ポルトガルは堂々とイスラーム勢力と交易を行っていた。一応改宗させようと色々努力した結果、国王拉致してカトリック改宗強要したから反ポルトガルになっていたりするみたいだけど……。


 どうしてそんな遠方の王朝に関して事細かに事実が残っているのかと言えば、それはヴェネツィアだから。……多分、この辺の文献の内容ってイスラーム系商人との直接的なやり取りの中で出てきた話なのだろう。


 だから闇が深いって。


 というわけで、そんな『香料諸島』にも程近いフィリピンに対しての植民計画は、先代の神聖ローマ皇帝や新大陸のヌエバ・エスパーニャ副王領の統治者などによって企図されているが、現状は失敗しているとのこと。

 ……失敗とは言っても、フィリピンや『香料諸島』に至ること自体は被害がありながらも出来てはいるようで、全く何の成果が無かったというわけでもないみたい。まあ、そうしたスペインの航海士が、ポルトガル側に発見・捕縛されて捕虜になったりしているみたいだけども。


 分かったことは、同じキリスト教徒であるはずなのにまるで連携していない。航海技術では比肩するがために、国外対立も激化するのであろうが、かつて戦国日本視点でこの時代の歴史を俯瞰していた私としては、そのあまりにも一枚岩では無さ過ぎるキリスト教世界に驚きがある。



 とはいえ、当面の目下の問題はこれか。


「……イエズス会の管区区分では、アジア全体がインド管区。そしてその本拠はポルトガル領ゴアに置かれている。まあ、それはそうだよね。今のアジア地域にはポルトガル船しか居ないんだし」


 サラゴサ条約の境界線でも北海道の東部を除けば、日本のほとんどがポルトガルの地位保全範囲である。まあ、新大陸側の境界線を定めたトルデシリャス条約と同様に、厳密に両国ともに遵守するわけではなく目安に近いけれども。

 だからこそ、もし日本に行くのであれば問題になるのはポルトガルそのものよりも、むしろインド管区の同じイエズス会との競合だ。

 フィリピンと日本で新管区のようなものを樹立してもらえればそれに越したことはないが。問題は既にイエズス会士は日本で活動を行っている点だ。イエズス会は上意下達が然りとした組織ではあれど、前任者に対する何らかのケアも行う必要がある。オルガンティノが此方に居るから、今だとトーレスとかその辺りだろうか。


 だが、同時に救いとなるのは日本での布教は実質的には、イエズス会しか行っていない点。だからこそ現状においては他の修道会による介入についてはそこまで考えなくて良い。1580年代くらいまで時代が進むとフランシスコ修道会とかが関わってくることになるが、逆にそこまでは安全マージンと考えても良い。


 ……まあ、根本的にスペイン側で太平洋航路が開拓されない限り身動きは出来ないけれども。


 一応のスペインによるフィリピン入植の意欲は確認できたところで、書庫の扉を叩く音が聞こえる。


「……あら? どちら様で」


 入ってきたのはパドヴァ大学の職員としても活動しているコングレガティオ・マリアナの者であった。


「マルガレータ様。神聖ローマのバイエルン出身の学生が、本学での学習にあたる前に、挨拶をしたいと訪ねてきておりますが」


 たまにコングレガティオ・マリアナの実質的指導者が私だと勘違いする者が居て、特にパドヴァ大学に来たてのイエズス会士のなかには、わざわざ私に挨拶しに来る人も居る。

 まあ、フェリペ2世との関係を邪推する者は後を絶たないし、実際アントウェルペンで政治力を発揮したように見えてしまうせいで、その誤解は解けないどころか助長されているが、私としては否定したいところである。


「承知しました。……ちなみにその学生のお名前は?」


 分からないとは思っていながらも万が一を考えて職員の方に聞く。


「クリストファー・クラヴィウスと名乗っております。昨年イエズス会に入会した若者とのことです」


 やっぱり日本関係者以外は知らない人しか居ないよ、このヨーロッパ!




 *


「えっと、クラヴィウス殿。私が聞くのも変な話なんだけども、一応。

 どうしてこのパドヴァ大学に?」


 入ってきた人物はヴァリニャーノと同世代くらいの若者。年齢という意味ではフェリペ2世が今29歳で、私は彼の6歳年下にあたる。ちなみに先生と仰いでいるがオルガンティノは私と同い年である。

 そこから更に歳は飛んで10代後半なのがヴァリニャーノや、目の前のクラヴィウスという人物。


 ヴァリニャーノについては元々ここの学生でありイエズス会とも無関係であったが、このクラヴィウスはわざわざイエズス会士として無数に選べただろう大学の選択肢の中から、わざわざこのパドヴァ大学を選んでいるため、理由が気になった。


「はっ、マルガレータ様。私は神聖ローマの出身なので、現在のローマに入るのはちょっと……」


「とりあえず、様はやめなさい。私もここでは一介の学生なのよ」


 ネーデルラント周辺でスペインとフランスが戦争を行っていたが、教皇領はフランスを支援していたし、神聖ローマ帝国はスペインの同盟国としてこの戦争は推移していた。そりゃ、如何にイエズス会に入会したと言えどもクラヴィウスはローマへ入りにくい。


「では、マルガレータさんでよろしいですか? こちらのパドヴァ大学を選んだ理由といたしましてはマルガレータさんの影響もございます。

 ……ほら、ヴァルデック伯のご息女でしょう?」


「まあ、実家はプロテスタントですけれどもね」


「我が出生地のバンベルグは司教座も置かれているのでカトリック一色ではありますが神聖ローマ国内においては既にプロテスタント勢力との妥協が図られておりますので……」


 昨年より神聖ローマ帝国議会にて、帝国内でのカトリックとプロテスタントは共存の道を歩み始めている。

 クラヴィウスは続ける。


「まあ、それは重要ではないのです。ともかく、帝国とローマの間に帝国貴族のご息女が主導してイエズス会とパドヴァ大学を結び付けたのであれば、それにあやかろうと思いまして。

 それと個人的に、数学と天文学を深く探求したいと考えていましたので、パドヴァ大学のような歴史ある学校に通えるのに越したことはない、と」


 あ、理数系専攻なのね。


「私は非欧州言語を学んでおりますので異なる分野になりますね」


「ええ。イエズス会では現地語での布教活動が中核を占めると入会した際に伺っておりました。マルガレータさんはそこに注力を入れているのですね」


 日本逃亡用のカモフラージュなんだけど、それは黙っておく。


「数学と天文、それらも宣教に役立つのでしょうか?」


 相手の専門分野である故に答えやすいかと思い私は質問する。後はこの時代視点でこれらの学問がどう見えているのかも兼ねている。

 すると、予想外の回答が得られた。


「どちらも広範に用いられる学問かと思われますが……そうですね。

 数学は、緻密な建築などの図面作成などに使われております。ですので、大聖堂や高等教育機関の建築に邁進しているイエズス会では必ずや役立つと確信しております。

 ……ああ、そうだ。イエズス会からは離れるのですけれども、建築と言えば当代随一の彫刻家であるブオナローティ先生がサン・ピエトロ大聖堂建築の指揮を執っておりますが、数学的素養はそういった分野でも必須になるかと……」



 ――ブオナローティ先生って誰だ?

 サン・ピエトロ大聖堂については聞き覚えが辛うじてある。バチカン市国の大きい建物だっけ。この時代から作られていたものなんだ。


「……えっと? ブオナローティ先生、ですか?」


「おや、マルガレータさんはご存知でないので。

 ――ミケランジェロ・ブオナローティ。様々な芸術品を手掛ける万能の天才、時代が生んだ寵児であらせられる方ですよ」



 ……ミケランジェロで彫刻家、そして万能の天才って言ったら、やっぱりあのミケランジェロだよね!? 超有名人だけど、そっかこの時代の人だったんだ。全然知らなかった。



「――で、天文学は布教の際に現地の知識人層の受けが良いと伺っております。

 ただ……その一方で現行の天文学が包括する問題も大きい」


 こんな仄めかしをされてしまえば、私にも分かる。これのことだろう。


「……天動説と地動説、のことでしょうか」


 それでも地球は回っている、で有名なガリレオ・ガリレイってこの辺の時代だった気がする。具体的な年代は分からないのでクラヴィウスに向かって彼の名を告げることはできないが。

 でも、流石に地動説が正しいことなんて明らかだ。太陽の周りの地球が回っているなんて常識だから、天動説を信奉するなんてそれこそこの時代ならではのこと……。


「そうですね。亡きコペルニクス司祭の提唱した地動説なる新説は、『プトレマイオスの宇宙体系』から『エカント』を取り除いた上で、『一様な円軌道の等速運動』となることを示しつつプトレマイオスモデルに少々劣る程度の精度を出している点は面白いとは思います。

 ただし、地動説もまた天動説同様に『月の軌道』に関する観測結果との差異が大きい。現行の天動説に数学的問題があることは認めますが、肝心な部分で地動説もまた同様の問題を生じている以上は、何とも言い難くそれ故に然りと学びたいと前々から考えておりました」


 あ、あれ……。えっと、地動説の方がモデルとしての精度は悪いの……?


「えっ、でも太陽を中心にして惑星が回転するのと、地球を中心にして他の天体が回るのでは話が異なるのではないでしょうか……?」


「――それって、座標軸の中心点を何処に取るかって話じゃないですか? その意味ではコペルニクス司祭のモデルも現行のプトレマイオスのモデルもほとんど等価ですし、モデルと実際の観測値とのずれをどのように修正するのかという部分の方が遥かに重要となると思いますが」



 えっ。天動説と地動説の争いって、何を中心にして回っているかという問題は本質ではなくて、モデルの誤差をどうやって正すかという部分のが大事なの。

 やばい。全然話が分からない。


「……そんなに『モデルのずれ』と言うのは、大事なのですか? ごめんなさい、深く学んでいないので、モデルが使えないのなら観測値を使えばいいだけなんじゃって思ってしまうのですけれども……」


「いえ、構いません。それでマルガレータさんの疑問に答えると、観測値だけを使っていると未来の予測ができないのですよ」


 ……あ、そっか。これは私にも分かる。観測した値というのは過去のものと今のものしかない。モデルとはそのデータから未来の値を推定するものなのに、それがずれているということは、未来に対して確実性が無いということである。


 そしてクラヴィウスは続ける。


「未来の惑星の位置を正しく推定できないと、暦の策定に影響します。

 ユリウス・カエサルによって1500年程昔に考案された暦には重大な欠陥があることが前々から指摘されておりました。

 ――閏年が4年に1度しかないのです」


 えっと……4年に1回の閏年。いや、それって私の知っている現代の暦と同じじゃん。何も間違ってないような。


「えっ、別に問題無いような……」


「4年に1回、1日だけ伸ばすということは1年とは365.25日であるということですよね?」


「まあ、そうですね」


「ですが、春分点に戻ってくるまでの時間……まあ1年ですね。この時間が326.25日から10分ほどずれているのは既に観測結果から明らかなのです。

 だから今の暦は、毎年10分ずつずれていく」


 この時代の天文学って1年のタイムスケールに対して10分の違いを発見できるのか。たかが10分、けれどそれを1500年も使用し続けている。


「10分の1500年というと……」


「おおよそ10日となります。今の暦は実際の太陽の動きと10日間ずれている」


「10日は大きいですが……。でも、それって私の生活に何か影響があるのですか? ずれていると分かっていれば、別にそれに合わせて生活すれば……」



 私がそれを問えば、クラヴィウスは一呼吸おいて、次の言葉を告げた。


「――復活祭。

 これの期日についてニカイアでの公会議にて『3月21日以降の最初の満月を過ぎたあとの最初の日曜日』と定められております。もし観測による『満月』で定めてしまうと、時差の問題でヨーロッパでは土曜日の夜に観測された満月が、インドのゴアでは日曜日に観測される……なんてことが起こり、世界で復活祭の期日が1週間ずれてしまうことがあり得ます。

 だから、この復活祭の計算には『暦』を使用することにしているのですが……」


「現行の暦そのものが10日ずれている……」


「その通りです。そしてそのずれた10日の内に満月の日が来てしまうと、次の満月を待つ必要があります。月の満ち欠けというのは大体29.53日程度ですので、最大で復活祭が1ヶ月程度ずれるなんて事態が発生しかねません」


 教会で管理しているはずの暦で、復活祭が1ヶ月ずれる。

 それは確かに重大な欠陥点だ。


「そして……最大の問題は、365.25日から10分だけずれているという部分。

 ……ここの導出に、先に挙げた天動説での導出値を使っているが故に、本当に正しいのかという疑念が生じているのです」



 そして、それらのモデルの値はちょっと精度が怪しい。


 成程。そりゃあこの時代に天文学にフォーカスが当たるわけである。完全に時代が正確な天文学を求めていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 惑星の軌道が真円なわけないでしょ……とここでツッコミを入れられれば地動説が勝利できたのですけれどもねえ
[良い点] 築山の作者が新作を書かれたと知り楽しみに読ませて頂いてます [一言] ああ、閏年の100年単位の決まりとか昔の望遠鏡の精度だとむしろ天動説のが合ってるとか天文学に詳しくないと知りませんしね…
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