外伝3話 歓喜に溢れたこの幸福な日に
フェリペ2世の男児の子は叛乱を起こし独立を図ったカルロス王太子のみ。
40歳のフェリペ2世と25歳のカルロス王太子。そのどちらが長く生きるか問われれば、まあ子であるカルロス王太子であると考えるだろう。
だからこそイディアケス補佐官は先のことを考えたときにカルロス王太子に付く選択肢を私の眼前に用意した、と私は見ている。子が親に対して反旗を翻す事例そのものについては、戦国日本でも枚挙に暇がない。
成功した例を挙げるだけでも斎藤義龍と斎藤道三、武田信玄と武田信虎、最上義光と最上義守、太田氏資と太田資正などなど……家臣が殺めた例も付加するのであれば大友家の二階崩れの変もそれにあたるだろう。
だからこそ事象としてそういうことが起こり得ることは理解していた。
だが、しかし。よもや『スペイン貴族』としてその二者択一を迫られることになろうとは断じて思わなかった。本当に今が黄金期なのか、スペインって。割と屋台骨がボロボロじゃないか。
それはともかく、まずは考える。
大前提としてカルロス王太子と私は面識は無い。繋がりらしい繫がりと言えばメキシコシティのアウディエンシア長官であるセイノス長官がポルトガルの分断工作に利用できる一手として、カルロス王太子の名を出していたことだ。
カルロス王太子の父は明示した通りフェリペ2世である。しかし、その母は既に亡きマリア・マヌエラ――ポルトガル王族であった。そのためカルロス王太子にはポルトガル王位継承権が生じている。そしてそのポルトガル王家は13歳のセバスティアンが国王として摂政補佐の下統治を行っている。
若年の国王を擁立せねばならないポルトガル王家は直系の継承者がほぼ枯渇気味である。だからこそ、カルロス王太子をポルトガル併合の一手として利用できるわけだが。同様の直系後継者不足というロジックエラーはスペイン側も抱えていたのである。まあ、スペインは女系相続者は問題なく居るのでポルトガル程には切羽詰まっていないわけだが、それでもネーデルラントで実質的後継者が独立した、ということはかなりの動揺を国内に与えただろうと推察できる。
しかもハプスブルク家の片割れである神聖ローマ帝国は、オスマン帝国に侵食されている現状。割と冗談ではない地獄がヨーロッパで生まれていないか?
ただし、これらの状況は1年前であることを念頭に置かねばならない。その上で補佐官が判断を求めているということは、即ち旗色を鮮明にしないと以後の情報次第では即座に詰むというわけだ。
……え、詰む?
ってことは、秘匿されている情報があるな。
「――私に本国送致命令でも出ていますか」
思い出したのは、新大陸でのエンコメンデーロの反乱と、その責を問われて本国へ送致処分となり新大陸を追放されたオアハカ侯爵マルティン・コルテス。
その問いに対してイディアケス補佐官こう話す。
「……非公式ではありますが。本国にて司法を管轄する諮問会議である『異端審問所』からは招致の声が挙がっているとのことです。
ですが今現在の段階では、正式な命令として発給はされていませんのでこれに服する必要はありません。何より今ヨーロッパへ戻ってはなりません――」
「……まあ、ここで帰ったら。うん。
死ぬよね、私」
「……そういうことです」
ネーデルラント政策で先延ばしにしていた爆弾が、ハプスブルク家の相続問題と絡んで爆発した。しかも元プロテスタントでスペイン国内には然したる地盤も無く、ただフェリペ2世の信任で成り立っているだけの新興貴族。
これ以上ないくらいにスケープゴートとして適任な存在もそう多くは無いだろう。事実無根であっても、とりあえず憂さ晴らしレベルで殺されてもおかしくない立ち位置なのに、探ればポルトガル裏工作が出てくる身なのだ。
そりゃあ、起死回生の一手としてカルロス王太子側に付き、盤面ごとひっくり返すことを提案されるわけである。返す返すアジアまで逃げていて本当に良かった。
今、ヨーロッパに居たらマジで詰みだった。物理的な距離が私の命を繋いでいる。
親であるフェリペ2世と子であるカルロス王太子の中にある確執。そして室町幕府を模倣して作成したことで析出した将軍を模したネーデルラント総督であるカルロス王太子と管領想定のネーデルラント宰相であるオラニエ公の対立とネーデルラント南北問題。
これにカトリックとプロテスタントといった宗教区分が折り重なる。一見不可思議なのはスペインに残留した北部ネーデルラント側の方が勢力としてはプロテスタントの影響力が強い地域であるという点だ。これは、私の企図した懐柔策の効果があったことを如実に示していると同時に、事が単純な宗教対立の一面で済まないことを指し示している。
これに、カルロス王太子側にはポルトガル影響力というものも加味される……というか、多分この叛乱と独立そのものがポルトガルから有形無形の支援は受けているものだろう。
それは即ちポルトガル主導のイベリア統合という可能性が敷かれたレールであり。
――私やセイノス長官の狙っていたカルロス王太子を利用したポルトガル併合の策略の失敗を意味していた。
*
さて。
それらを是認した上で、私は選択しなければならない。
フェリペ2世率いるスペインを引き続き信任するということであれば、ポルトガル工作は実質的にゼロベースに戻る上に、露見すれば更なる立場の悪化も考えられる。更にその上で、私の現状のささやかな宮廷への伝手であるルイ・ゴメス侍従長はポルトガル貴族の出身。上手く鎮圧できたとしても当面は彼の肩身は狭くなるであろう。
これに加えて、ネーデルラント政策において私と連携して動いていたエグモント伯が逮捕されているという事実。彼は南部ネーデルラントを差配していながらも一貫してスペイン側であったために『フランドル=ワロニア王国』から軟禁されてしまっているが、もし諸問題が解決した後に解放されたとしても、それまでのような影響力を発揮することは期待できないであろう。
つまり、これだけのデメリットを甘んじて受ける必要がある。当然、私が日本と結んだ朝貢に由来する貿易協定の功績なんてものは消し飛ぶ。
一方、これまでの関係を捨て去りカルロス王太子擁する独立国・フランドル=ワロニア王国側に付くというのも、それはそれで修羅の道だ。まずカルロス王太子が全くの未知数であるという点。今ある情報で彼に付くことを鮮明にすれば、おそらく重用されることはあるかもしれないが、ただそもそも一方で私の立場というものはスペイン宮廷内部ではフェリペ2世との個人的信任関係に由来するものであるから、受け入れられたとしても信用も信頼もされることはないと思う。
そして南部ネーデルラントで独立したが、アントウェルペンがそこから離脱して中立を宣言しているのも気がかりな点だ。独立までしているのだから、カルロス王太子サイドが現状打破派であることは明らかであり、そしてネーデルラントにおける『現状』を作り上げたのは、一部ではあるにしろ私が関与している。それらを踏まえた上でカルロス王太子側に付くのであれば、私は今まで築き上げたものを一旦破壊する選択を行うことと同義となる。
そしてカルロス王太子の背後にポルトガルの操り糸がある場合。そもそも私自身がポルトガルサイドに好かれていない節があり、私自身もポルトガルとの関係改善にそこまで注力していない。まあ『フィリピン伯領』としてはマカオとルソン王国の交易に関与することで交易パートナーとして一応存在こそしているものの、公的な外交部分では東アジアにおけるイエズス会影響力をごっそりと奪い去った格好になるため、好かれる理由が無い。
どちらも正直――悪手。
だが、その悪手の中から、よりマシな方を私は選ぶしかない。
「私は――。
フェリペ陛下を裏切ることはありません」
歴史を選択する。聞き及びのない『フランドル=ワロニア王国』や『カルロス王太子』よりも太陽の沈まない国を。後の世界帝国を選択する。
私がその選択をすれば、イディアケス補佐官は安堵したかのように背もたれに腰かけた。
「――実は1つだけフィリピン伯様にお伝えしたことに嘘、がありましてね……」
「……はい?」
「招致命令は出ておりませんでしたが、宮廷より条件付きで逮捕命令は出ておりました。
『カルロス王太子側に付くことを表明したスペイン貴族を拘束せよ』とのことでした」
「……」
完全にカマをかけられていた。危なかった。
あくまでイディアケス補佐官は宮廷の人間。全く私の身を案じていないわけではないだろうが、優先されるは宮廷の意向である。そして私自身がヨーロッパに居た時節より推し進めていたエンコメンデーロを牽制しカスティリーヤ宮廷による中央集権を強化することは、同時にこのように私の行動を縛り付けるものでもあったというわけである。
そりゃ遠隔地の伯爵位なんて地方権力の最たるものでしかないし。過去の自分の所業が完全に現在の私に跳ね返ったという格好だ。ネーデルラント政策も含めてだけども。
「確かに、ネーデルラント政策は私が関与していましたし、今、『フランドル=ワロニア王国』側に付くというのはスペインに対する重大な背信行為であると理解しておりますが。
しかし、虚言まで用いて私の進退を試してきますか。随分と宮廷は余裕が無くなっているようですが」
「それは、まあそうでしょう。
よく考えてみてもください。ポルトガルがネーデルラント南部に支援しているのは、公然の事実ですが。
……どうやって支援しているのでしょうか」
「……そりゃあ、海路経由ですよね? ポルトガル側もガレオン船はあるのですから補給の問題はないはずですし」
「ネーデルラントとポルトガル……いえ、イベリア半島の間には何があるか、お忘れですかな?」
ネーデルラントとイベリア半島の間の行き来なら私もやった。フランドルからスペイン北部の港町であるヒホンへと上陸するルートだ。別に何も変なことはないと思うけどなあ。
ただ、英仏海峡を横断して……あ。
英仏海峡を通るってことは、ポルトガル船団をイングランドが妨害することは容易いはずなのに、それが発生していない!
カルロス王太子の『フランドル=ワロニア王国』とポルトガルのいずれもカトリックなのに。イングランド視点で見れば下手すればポルトガル主導のイベリア連合という悪夢すら想定されうるのだから、普通であればポルトガルもスペインもどちらも妨害して双方の足を引っ張るはずなのに、多分それが起きていない。
「まさか……イングランドとポルトガルが……」
イディアケス補佐官は頷く。
「イングランドはウィンザー条約を論拠としてポルトガル及びフランドル=ワロニア王国への支援を表明しております」
――『ここでスペイン王国が最も恐れるシナリオは、ポルトガルとイングランドの連携なのですが……実は200年近く前にその先例はあるのです』という言葉。
これは、ヴェネツィア共和国の元首を弟より継承したジローラモ・プリウリがかつてパドヴァ大学に居る頃に語った危惧である。それが現実のものとなった。
イングランドという英国国教会――異端の関与がある以上、そりゃ転向者たる私が疑われるのは必然か。……返す返すも本当に、アジアに居て良かった。
一旦ヨーロッパの外交関係を整理する。
神聖ローマはオスマン帝国に独力で対処しており、フランスは内戦中だからこの2国は、もう組織的に行動は不可能。
我がスペインは教皇庁とヴェネツィアと連携し、プロテスタントの多い北部ネーデルラントは引き続きスペインを支持。
一方でカトリックが多いはずの南部ネーデルラントはフランドル=ワロニア王国として独立し、ポルトガルとイングランドの後援を得ている。
もう、宗教対立が滅茶苦茶だ。カトリックとプロテスタントが入り乱れて陣営が出来つつある。それでもネーデルラントの南北分断の問題の根幹には宗教対立があるという重層的構造。
……となると、重要となるのはイングランドの背後を突ける場所。
「アイルランド……は国力的に無理か。では、スコットランドの現在の動向は情報として入ってきておりますか?」
「あまり芳しくはありません。メアリー・スチュアート女王はイングランド女王を僭称する庶子・エリザベスとの対決を表明しておりますが、昨年に宮殿内部で信任していた秘書が謁見室で斬殺される事件が発生し国内は混沌としている模様です。
そもそも、スコットランドの内部はプロテスタント勢力に伸張している以上、メアリー・スチュアート女王を信任しない貴族もそれなりに居るとのことで……」
うーん、どこもかしこも体制が不安定すぎる。相対的にイングランドがある程度余裕があるように見えるのが問題だ。不穏な隣国ポルトガルを気にしつつ、英仏海峡でイングランドに妨害されながらネーデルラント南部の独立を鎮圧するというのは、如何に覇権国スペインといえども骨が折れる。
しかも、その叛乱を引き起こした独立者は、本来の次期スペイン王位継承者なのだから。
そしてイディアケス補佐官は総括するように、こう語る。
「……というわけで。以後はフィリピン伯領内で業務をこなして頂けますよね? ヨーロッパでの出来事は痛恨事ではございますが、情報のやり取りに1年かかる以上、我等がこのフィリピンより手が出せるものでもないかと思います。
だからこそ粛々と統治を行うことこそが、カスティリーヤ宮廷への何よりの献身となることでしょう……」
まあ、確かにそうなのかもしれない。ヨーロッパに手出しする場合は1年越しという迂遠な手を打たねばならないし、向こうの情勢を把握できない以上、できることは限られてくる。
例えば今からネーデルラントに何か工作を仕掛けるとしても、それが即効性の効果を有する場合でも効果が出るのは最短で1年後。もしかすれば私が何かをするまでもなくネーデルラントの問題は解決されるかもしれないし、逆にスペインにとって不利に作用する危険すらある。
で、あれば……いや。
――その時。ふと、私の中で点と点が1つの線によって結ばれた。
中立を保つ国際貿易都市・アントウェルペン。独立勢力の背後にあるアジア・アフリカ方面に植民地帝国を築き上げるポルトガル。
そして。私の手元に生まれた新たなカード――ブール王国と日本の朝貢関係。
これにかつてのヴェネツィアのジローラモ・プリウリの書状が想起される。
それは、オスマン帝国から渡された、テルナテ王国に対する『ポルトガル以外の第三国』による香辛料の買い付けを黙認する密書。
そう。今、このタイミングであれば。
ポルトガルから香辛料の販路を奪い取り、テルナテ王国との外交のイニシアチブを取ることが可能なのだ。
「いえ。此処は攻勢の時です。
私は香料諸島――テルナテ王国へと出向き、香辛料交易拡大の貿易交渉を行おうかと」
私がそう告げれば、イディアケス補佐官は悩む素振りを見せ、逡巡しつつ言葉を選ぶようにしてこう語った。
「……確かに、時期的には絶好であることは確かですが。
統治責任者たるフィリピン伯様が赴く必要がありますか? 何某か代行の者を用意して派遣すれば済むことかと」
……いや。オスマン帝国からの密書という情報を、ここで開示出来ない以上は、私が行くしかないのだが、それはこの補佐官には話せない。で、あれば。
「フィリピンを足掛かりとして『香料諸島』へ交易路を作る提案を受けていることは、既に私からフェリペ陛下へお話していることです。
何より。日本での外交実績が此度のネーデルラントの騒動で消し飛んでしまった以上、更なる功績の上乗せをする必要があります」
「……まあ、百歩譲ってフィリピン伯様のおっしゃる通りだとしても。
香辛料の買い付けは、どのようにして行うつもりですか? 交易と銘打つ以上は、対価を出す必要がありますが」
その対価を私は既に手にしていた。
「日本と外交関係を結んだことで、フィリピンまで『ソーマ銀』と呼ばれております日本産の銀は運ばれてきます。その銀は対価となり得るのではないでしょうか」