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外伝2話 ネーデルラント政策の清算


 帰国したセブの政庁舎で私を待ち構えていたのは、大量の決済書類と補佐官フアン・デ・イディアケスの叱責であった。


 当たり前と言えば当たり前である。3年経過していたとはいえまだまだ立ち上げ期である領内統治を放り投げて、およそ1年近くもの間外交交渉に専念していたのだから。そりゃ誰だってキレるし、書類も溜まりに溜まる。


 帰国した理由であるネーデルラント政策の顛末は当然気になるところである。というか、そもそも『フランドル=ワロニア王国』ってなんだ。オランダではないよく分からないものが独立してしまった。これが前世においても存在した出来事なのか知る術は無い。


 ……とはいえ。ひと通り私のことを叱責したイディアケスは、ルッジェーリとの意見交換へ向かってしまったために、ヌエバ・エスパーニャから届いた手紙を何となく見やる。書類は溜まりに溜まっており、僅かな時間でも現実逃避したかったためだ。

 目に付いた、とりわけ豪奢な1つを開けてみれば、それはルイ・ゴメス侍従長の妻であり眼帯を付けた隻眼の麗人であるアナ・デ・メンドサからのものであった。

 中身を読み進めると、書かれていた内容は今のフェリペ2世の正妃であるエリザベート・ド・ヴァロワと仲が良くなったことと、その正妃の女児出産についてであった。言われてみれば、アナ自体も歳の差結婚だったから、このフランスからの政略結婚で送られてきた若き王妃とはシンパシーを感じるのだろう。

 私とは宮廷内部で悪口を言われる仲ということで意気投合したことを考えればえらい違いである。


 手紙の返信を書こうかと思ったが、流石に私はこのまま脱線し続けるのはまずいと思い書類の方に手を付けることにした。

 勿論、1日2日で何とかなる量ではないことはイディアケス補佐官も百も承知であり1年という期間があったので、統治のガイドラインとして必要になりそうな部分をピックアップしていた。うん、これだけでも私には過ぎた行政官であることがありありと分かる。


 私のフィリピンにおける施政方針は諸勢力の折衷。もっと平素に言えば所領安堵が基本である。唯一攻め落としたセブ島を除けばフィリピン伯領に臣従した勢力によっての代理統治が基本なのである。

 とはいえセブ島攻略作戦以後の臣従は現役領主層の退任と食糧上納を条件に掲げて先んじて臣従してきた者らとは差別化を図っている。そして領主の退任はその勢力の行政能力の一時的な低下に繋がるため、地域によっては領土が管理できないと自主的に返納するパターンとミスを犯して一部没収となるパターンとがあった。

 つまり直轄領と臣従領がモザイク状に入り乱れる事態となっている。……まあ、戦国日本も含めたこの時代の領地というのは基本的にはそういうものなのだけれども。


 そこに起因する問題がガイドラインに書かれた1つ目。常備兵力増強の提案に繋がっていた。常備兵らしい常備兵はグレイス家臣団を除けば、ほんの一握りの士官層くらいのものである。基幹となる兵卒は期間限定の短期アルバイトによって賄っているのが現状だ。

 繰り返そう、短期アルバイトなのである。金銭契約ではあるが基本的に戦闘ないしはそれに準ずる活動を基幹とする傭兵でも、農閑期にだけ戦に赴く農民兵でもない。フィリピン伯領内における兵卒とはあくまで副業収入を得るための手段の1つなのである。そこに農民兵やら一領具足のような連帯感というか強制は無い。兵・商・農の区分が曖昧なのである。

 だからこそ当初は短期の探索依頼やら、交易振興による水夫募集の強化という依頼の数を増やす方針での統治を行っていたし、イディアケスにもそれを引き継がせていた。私はそれを、せめてファンタジー世界の冒険者レベルにまで軍隊としての統制を高めることを企図していた。求める軍の規律水準が中世ですらなく、本来規律などというものから縁遠いはずの冒険者というお粗末なものであるが、新大陸でもあぶれてこのフィリピンまで来る平均的な本国人とはつまりはそういうものなのである。


 流石にこの現状に危機感を持ったイディアケスの提言は多分正しい。

 しかしあらゆる職業で副業兼任で、どれが本業なのか分からぬ有様になっている現行のフィリピン伯領内において職業軍人を設置することは、兵卒のアルバイト募集の減退に繋がりひいては領民の収入低下に直結する問題となる。雇用・収入対策と連動させて進めなければいけないのでちょっとこれは保留。



 ということでガイドライン2つ目――不正や横領の増加による取締りの是非についてである。3年経過してそういった犯罪がスペイン人側にも現地住民側にも増加した。これは、フィリピン伯領の統治に慣れて気が緩み悪事に手を染めた者が居るという側面がある一方で、単純に統治機構のノウハウが重なって今まで発見できなかった犯罪を検挙できるようになる司法面の成熟、そのどちらとも取ることができる。

 イディアケス補佐官の考えでは、先の軍備増強も踏まえると恐らく前者なのであろう。不正の跋扈に対して常備軍設置による展開能力の拡充で対応しようと考えていると読み取れる。彼の提言では副王領やアウディエンシアの現行法に照らし合わせて、罪の軽重問わず対応すべしとしているが、同時にそれを行うと在地領主の中から改易処分となる者も出るようである。


「……フィリピン伯様。只今戻りましたが……ああ、ガイドラインを読んでいらしたのですね」


 と、ここまで読んだところでイディアケス補佐官が戻ってきた。

 折角読んだタイミングなのでネーデルラントに関する詳報よりも先に、こちらの対応を行ってしまう。


「先に2つ目の横領の取締まりの件についてですけれども。

 これは、小さいものは見逃します。看過できないレベルものだけを取り締まって下さい」


「……法の厳格な運用は為さらない、ということで?」


「現段階でのフィリピン伯領にて法治国家へ至るのは無理です。人治でもって裁きます。

 ですので、重要なことをもう1つ。大きな犯罪を裁くときには、必ずスペイン人のものと現地住民のもの、その両方を必ず等量で(・・・)裁くようにお願いします」


 つまりこれは、法の平等性を用いない統治を行うということだ。法によって国家を統治する在り方は、確かに正しい。が、現状の領内においてはそれだけの立案能力も無ければ多民族国家である以上、法の理念で平等を敷いたところで元々のバックグラウンドが違うせいで、平等になり得ない。スペインの現行法を参考にして法を組めば必ずや現地住民からは不公平感は出るし、ではフィリピンにおける慣習などを法律立案に取り入れる……となると今度はそれを行うだけの行政リソースが無いのである。

 であれば、見かけ上の平等なり虚像なりを駆使して何とかやり繰りしていくしかない。法的にセーフかアウトかではなく、どう考えても駄目、というレベルの不正や横領・賄賂などを取り締まるのだ。しかも、大きな犯罪を取り締まるときはその検挙件数が罪人の出自によって均等になるように調整する。

 普通に考えれば犯罪を起こす人数が民族ごとに均等になるわけないのだが、取締り数を絞ることによってそれを強引に実現させる。つまり見せしめの逮捕を行う訳だが、その逮捕によってスペイン人側にも現地住民側にも不満が極力出ないようにする、という逃げの策である。


「……理屈は理解いたしました。ですが、随分とまた……」


「前時代的であることは重々承知です。しかし、厳格に裁いたところで住民反乱に繋がってしまっては元も子もないのです」


「では、軍備の増強を認めていただければ、その反乱の懸念も幾分拭い去れるかと……」


「そうですね。そこに繋がりますよね。

 しかし、私といたしましては陸上兵力を現状で新設するつもりは無いです。代替案として更なる造船への振興を行い海上展開能力を向上させることで対応いたします」


「フィリピン伯様。陸戦兵力の拡充を執拗に避けておりますよね? 経済的な面が関係しているのは理解しておりますが、それでも忌避、というレベルで頑なに拒みますね。

 ……その理由をお伺いしても?」


 イディアケス補佐官はここにきて私の真意を問うてきた。

 まあ聞かれてしまえば答えるしかないだろう。練度が低い軍を改善しない理由の1つ、それは。


「……ちゃんと士官教育を受けた将官がおりません。軍を拡充すればまず間違いなく指揮官が不足しますし、その士官層の練度を向上させる基盤すら出来ていません」


「それは私も同意しますが、それであれば本国より軍人なり騎士団人員なりを招聘して頂ければ済むことでは? それであれば、私にも伝手がありますが……」


 それを提案されることは薄々分かっていた。そしてそれを私は易々と受け入れることができない。

 というのも、イディアケス補佐官に行政代行権限を引き渡したが軍権はウルダネータに掌握させたままであり、その状態で政務を代行させるチェックを行うことが出来た。今でこそ、彼が少なくとも本国に関係の無い自身の私利私欲によってフィリピン伯領をどうこうするつもりがないことは明らかだし、宮廷の意向にさえ沿っていれば極端におかしなことにはならないから、今であれば彼に軍権を渡しても問題ないとは思う。まあ文官の彼に軍権を渡すなんてことないとは思うが。

 しかし、一方で新しく何某かの軍人や騎士団を招聘するとなると、そうした思惑が不明瞭なのである。兵制改革を行うことそのもののリスクよりも、それを行う人員に対しての信頼性が私の中ではそこまで高くないから反対なのだ。

 そして、イディアケス補佐官の伝手を借りるにしろそうでないにしろ、その軍事改革を司る人物の動向を抑え何を考えているのかを把握し対応する必要がある。万が一にも指揮統制を離脱して私を捕縛する……みたいな動きをされたら、詰みなのだから。軍権を代行させるというのはそれだけ重く、そしてその意味ではウルダネータが居る意味は大きい。


 しかし、面と向かって『あなたの伝手で来る人物を信頼してませんよ』とは言えないので、別の理由を私はでっち上げる。



「――本国から見れば辺境も辺境であるこの地に、軍事リソースを割くということは、肝心のスペイン本国の軍事力に僅かながらでも分散させてしまう危険性がある……ということを理解した上での発言でしょうか?」


 この危惧もある種、私の中にあるものだ。スペインにとっての主要戦線は、異教のオスマン帝国であり、異端のイングランドであり、そして新たに生じたネーデルラント南部の独立国『フランドル=ワロニア王国』への対処である。

 スペインが欧州において軍事的主導地位にあることは明らかなれど、異端に異教に叛乱と敵も多いのである。その状態で指揮官になれる人材をおいそれとフィリピンまで派遣することは事実上の利敵行為となりかねない。


 仮に我々が何者かによって攻め落とされようとしており、フィリピンの失陥がスペインの威信の低下に直結するような状況であればまだしも、今のフィリピン伯領にとっての軍事リソースはあくまで領内統治策の域を出ていない。言わば領内を円滑に統治するために必要な軍事力であり、それだけのために本国から軍人を招聘するのは好ましくない、とも私は考えているのだ。

 不足しているのは総大将ではなく、その手先として動く部分。我がフィリピン伯領の軍勢とは万石取りの大名家程度の規模はある。その大名家の大名とごく僅かの家老を除いた武将、そして戦場においては組頭をまとめ、その武将の手足となって動く足軽大将となる地侍層、この辺り全てをスペイン本国からの寄騎で何とかしないといけないわけで、テルシオの軍勢や騎士団まるまる1つ分レベルの規模になっている。もっとも質に関しては、それより大きく下回っていて問題はないけれども、流石にこれだけの規模の軍を編成できる人員を要求は出来ないし、かといって士官教育を施せる人材になると、今度は今まで気にしなかった質の方が要求されるのだ。


 私は続ける。


「……更に付け加えれば、ネーデルラントで発生している事柄について教えてくれたのは、イディアケス殿ではありませんか。

 本国が予断を許さない状況であれば、我々の統治は二の次に考える必要があるかと思いますが……その辺りは、どうなっているでしょうか?」



 そして、私が戦国日本を飛び立つ理由となった、ネーデルラントで発生していることの詳細へと踏み入れる。




 *


 イディアケス補佐官は語る。


「……総督に任命されたカルロス王太子がブリュッセル入りしたと同時に、スペインからの独立を宣言しました。この動きに公領相当ではブラハントとリンブルフの2領、伯領ではナミュール、エノー、アルトワの3領が呼応。

 これに反してネーデルラント宰相オラニエ公は北部ネーデルラントを中心にまとめあげて親スペインとして対抗。ここにネーデルラントにおける内戦が開始しています」


 ネーデルラント統治者としての称号は確かフェリペ2世が有していて、それを王家出身者である総督へ委任し、その総督の業務を輔弼していたのが宰相であった。

 このシステム自体は最初期のアントウェルペン献金の過程でルイ・ゴメス侍従長が提起し、何故か私の功績として認知されてしまったものである。

 そして、その後再びネーデルラントを訪れたときに、まだ私がプロテスタントで神聖ローマ帝国貴族令嬢でしかなかったブリュッセル軟禁時代に知り合ったラモラール・ファン・エグモント――エグモント伯よりネーデルラント統治の献策を求められてオランダの独立阻止のために作り上げた寄木細工が今のネーデルラントであった。

 総督を将軍に見立てて、宰相が管領ないしは副将軍。そして各領の代理統治者を守護として見れば室町幕府を鏡に映したかのような存在に仕立てたのである。


 だからこそ、私が赴いた日本において将軍である足利義昭の意向と異なる方向に歩み始めようとしていた管領・畠山高政と管領代・六角義治。そして、謎の幕府海軍構想へと邁進している副将軍・織田信長の三者が三様に不協和音を示していたが、おそらくその機能不全状態と同じことがネーデルラントで発生してしまったのであろう。


 私の企図したネーデルラントの幕府・・は大前提として将軍たる総督が『何もしない』ことを前提に組み立てたものである。しかし、新たにネーデルラント総督に就任したカルロス王太子は、恐らくその仕組みを是としなかったのだろう。だからこそ独立を試みた。いや、当初から独立という流れだったかすら微妙なところだ。


 色々と聞くべきことはあるけれども、ここまで考えた中でふと思い出したのが、エグモント伯が守護代相当である知事として治めていたフランドル伯領。独立国名が『フランドル=ワロニア王国』という割に、先の補佐官の話には出てきていない。


「……あの。フランドルの動向はどうなっておりますか?」


「フランドル伯領は、当初は意見が対立し中立を保っていましたが、カルロス王太子直々に国号に領名を記載するという勅を頂き、王太子側へと付きました。

 その際にスペイン派であった在地の領主とその支持者を逮捕・軟禁しておりますね」


「……っ。

 在地の領主って……エグモント伯ですよね?」


「ええ、その通りです。エグモント伯は現在ブリュッセルに移送されてそこに軟禁しているという情報は既にあがってきております」


 ……まさか、エグモント伯が逮捕されていようとは。


「……スペインだけで解決できないのであれば、同じハプスブルク家である神聖ローマ帝国に助力を願うことは――」


「現在、オスマン帝国皇帝のスレイマンがイスタンブールを発ち、大兵力で神聖ローマ帝国領内へと侵攻しハンガリーのスィゲトヴァールにある城塞が陥落して危機的状況です。こちらに関与するどころか首都・ウィーンの安全すら危ぶまれる状態です」


「……その他の動向は、分かりますか?」


「フィリピン伯様に関わりの近いところですと、アントウェルペンはブラハント公爵領から離反し局外中立を宣言しています。……彼等の心情としては北部寄りなのでしょうがブリュッセルから近いという地理的要因で中立が限界であったかと。

 また同様に中立を宣言したのが、リエージュ司教領やルクセンブルク公領ですね」


 アントウェルペンは中立か。そして神聖ローマ帝国はオスマンの侵攻を受けていると。私の実家たるヴァルデック伯領は大丈夫かな。あそこは北ドイツなのでハンガリーよりもネーデルラントのが近いため、オスマンのことよりもネーデルラントの方が影響を受けやすいだろう。

 しかし、このネーデルラントの政変もオスマンの神聖ローマ帝国遠征のどちらも私の知る史実において発生していたことなのか否かは分からない。



 そして、未知という部分を度外視したとしても、気になる点はいくつかある。

 それはこれら一連の報告の記載期日。カルロス王太子のネーデルラント総督任命が1566年の4月、オスマン帝国によってハンガリーの要塞が陥落したのが同年9月。1年前の情報なのである。まあ大西洋と太平洋を経由して届いた急報な上に、更にそこから日本に居る私にまで使者を送ったタイムラグも加算されているので当然の話ではある。

 だからこそ。


「……既に昨年の出来事であるこれら一連の事件を、私に知らせることの意義が見えてきませんが……。何故、イディアケス殿は私を呼び寄せたのです?」


 それに対する答えは、私の予想だにしないものであった。


「それは重大な決断の時であるからです。フェリペ陛下は現在御年40歳でカルロス王太子は25歳。しかもフェリペ陛下の直系では唯一の男子です。

 ここでカルロス王太子を廃嫡してしまうと、フェリペ陛下には男子のご兄弟も居りませんので、今後の御世継ぎ次第では神聖ローマ帝国側から王族を招聘する必要が生じてしまいます。


 フィリピン伯様。貴殿は『カルロス王太子』側に付くことも出来るのですよ……?」



 ――この補佐官は、私に。

 フェリペ2世を裏切る選択肢もある、と讒言したのである。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 最後でイディアケスが黒田官兵衛に見えた。
[一言] 更新お疲れ様です。 積みあがる書類の山と案件・・・・orz そして風雲急を告げる欧州事情(><) 『フランドル=ワロニア王国』 過分にして存じ上げなかったのですが、検索だと350年後のヴェ…
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