外伝1話 白雪姫、戦国日本を飛び立つ
フィリピンへ帰る。既にヴァリニャーノが乗ってきたガレオン船は兵庫津にて待機しているから、すぐにでも発つことは可能だが、人員の選抜と後事の引継ぎだけはせねばならない。
オルガンティノとヴァリニャーノは日本に残る。というのもフィリピンよりも日本の方が遥かに布教難度が高いと判断してのことだ。準管区長とその補佐役筆頭を日本に注力させるという判断なのだろう。まあそれでも史実の陣容からフロイスが抜けているのだけれども。
ルッジェーリとアンシエタ、前者はカスティリーヤ宮廷の紐付きで後者は貴重な医学のプロフェッショナルであるため、この2人は統治中枢に置かれるべき、との判断の下私達とともにフィリピンへの帰還組になる。
一応、日本においてはアルメイダが医療従事者として残り、堺の診療所にて日本人にも医術を教えているから日本における医療インフラが衰えるということは無いだろう。むしろ曲直瀬道三とのコネクションもできたことで、上手く活用できるのであれば更なる医学的な発展も見込める。
数学者であり天文学者であるクラヴィウスは、この戦乱の世である日本に残す理由が無いので帰還だ。
ここまでが宣教師組の動向。次に私の臣下扱いの3人。まずグレイスは当然私の主戦力なので有無を言わさず帰還である。というかグレイスを手元から離した瞬間に軍事的空白が生じてしまうし。
次に、ダトゥ・シカツナ。彼もブール王国側への日本との朝貢交易の事後説明があるので日本に残すことはない。基本的に件の朝貢交易はフィリピン伯領で管轄するとは思うが、ブール王国側の人員を選抜するのであれば、その辺りの折衷も彼に一任している。もっとも独断専行の類ではあるので、ブール王国内部で反発が予想されるかもしれないが、彼自身が次期後継者であること、それに加えて臣従しているのだから本質的には独自の外交に関する権限は私が握っているので制度的には問題ないことを上手く利用して国内の説得工作を行うであろう。
最後に、アーノルド・メルカトル。彼についてはこのまま日本に留め置いて精密な地図を作製するのも面白そうだな、と考えによぎったが、別にその作業は強制する程でもないので彼自身の判断に委ねることにした。
前に神聖ローマ帝国のヴィルヘルム公に見せてもらったメルカトル図法で描かれた世界地図。東アジア方面の縮尺が曖昧だったことも今回の渡航で理解したアーノルドは日本に残って測量を続けることも悩んだが、結局私に付いてフィリピンへと帰還することに。その理由を聞けば、
「……マルガレータ様に付いていれば、また別の国へ行く機会もあるでしょう?
ここでこの国に固執するよりは、他の国の測量も行いたいのです」
とのこと。
確かに言われてみれば、測量スタッフ自体は鴻臚館人員に紛れ込ませることはいくらでもできる。そして何より、7年前にメルカトルからこの息子を引き取ってくる際に彼は『都市開発プロジェクト』の仕事を見繕っていた。
つまり、彼は測量以外でも都市造成におけるアドバイザーとしても使えるのである。3年間のフィリピン統治は主に、在地勢力の慰撫と臣従という交渉に重きを置いていたが、直轄としているセブについては都市計画をしっかりと練るということも今後あり得るかもしれない。そのときに、アーノルドの有無が重要になる。
……私としては世界地図の精度向上よりもむしろこっちのが大事なんじゃないか。いや、慶長年間に座礁したサン・フランシスコ号の例を鑑みれば、スペイン船が日本に漂着するケースというのもレアではあるが歴史上に残っている以上は、緊急用途として日本の地勢を地図として残す意義はあるのか。そう考えるとアーノルドに求める役割というのは案外大きくなりそうだ。
一応、割り振りはこんな感じ。
そして引き継ぎ事項。とはいっても基本は各自で行うから私がやっていたことをどうするかだ。
まあ博多関連と石見産の銀相場把握についてはルッジェーリの配下に任せる。千利休をはじめとする堺の商人らとの交渉窓口もそちらに一元化されるだろう。あくまで建前的には宣教活動と朝貢貿易は別枠なのだから、オルガンティノやヴァリニャーノには任せることができない。
とはいえ私が形成した人脈については、彼等が布教へと十全に生かすであろう。簡単に紹介状を書いておくくらいかな、これは。大使館機能を博多鴻臚館に置く以上、畿内での引き継ぎ事項がそこまで無いのである。
そんな最中、日比屋了珪の下へ届けられた書状が、開封された状態で私の下へと報告として上がってきた。
何というか、こういう状況で来る書状に対して全く良い思い出の無い私は、それでも中身を拝見する。
――副将軍・織田信長、摂津四守護の和田惟政を伴って摂津国入り。
和田惟政居城・芥川山城、城下屋敷で一泊し、一向は兵庫津を目指している模様。
織田信長が京で政務を行っているから、こちらの突発事態に即応してきている。私の知る歴史のようにさっさと岐阜に引き上げることが出来なかったことがまさかこんなところに作用するとは思わなかった。
しかし、帰るだけなのだから別に大した影響も無いだろ……う……?
いや、待って。そうではない。
ヴァリニャーノは口之津から畿内へ来るときにガレオン船に乗ってきていた。
そして、信長は既に摂津入りしており我々はまだ堺で引き継ぎ作業中。どうやっても間に合わない。
それは即ち。
――織田信長にガレオン船を見せるということに他ならないのである。
*
案の定、私達が出立の準備を終えて兵庫津を訪れたときにはそこに織田の軍勢が控えていた。
私達の出立をこの国の副将軍が別れを惜しむというストーリーラインが作られているのであれば、私は立場上、織田信長に会わねばならない。
正直、会いたくない。物腰柔らかく丁寧で常識人であった織田信長であれど、この信長は倭寇と本能寺経由の又聞き情報だけで一夜城を伝説から真にした男だ。
そんな人物にガレオン船を見せた上で挨拶をする、というのは恐怖が先行する。
その恐怖とは、織田家がガレオン船を建造するということではない。というか、それは、こうして見てしまった以上は建造への挑戦は既定路線になるだろう。本当に出来るかどうかは未知数であるが、少なくとも船大工や技師の類を招聘したフィリピンでは3年の内政期間の間に問題なく建造できているし、そもそも史実ではヌエバ・エスパーニャ側の技術指導があったとはいえ、伊達政宗の仙台藩にて1ヶ月半程度でガレオン船は建造されている。
フィリピン伯領から技術を拡散することは無いが、同時に織田信長にとっては倭寇に同行するポルトガル商人という抜け道がある以上、ポルトガル側からの技術流出は充分にあり得るわけで、そしてその可能性を織田信長が見逃すとは思えない。
だから、織田家が何年かけるかは分からないが、ガレオン船を所有することに関しては既定路線と考えてしまった方が良いだろう。
では私の感じる恐怖が何かと言えば『ガレオン船がそこまで軍事的に有用ではない』と現時点で看破されることにある。フィリピンにおける戦役においてガレオン船は在地勢力にそこまで脅威に思われていなかった。ボホール海海戦にて、ブール王国はテルナテ王国船籍のポルトガル義勇軍ガレオン船艦隊よりも、上陸した陸戦兵力を危惧していた。またセブ島攻略作戦時に私達が運用したガレオン船も揚陸作戦を相手の念頭に置かせるという陽動としての位置付けであった。
ガレオン船の強みは積載量と外洋航行能力。裏を返せば近海における戦闘においては、輸送艦としての有用性は十二分にあれど、決戦戦力としては船速が不足しているためにいざとなれば敵は逃げられるという欠点があるのだ。
勿論火砲を大量に積み側面火力を上げれば戦力は増強されるものの、それを行うと交易船としての物資積載量が落ち込むわけで、太平洋を航行するスペイン船はほとんど武装商船である都合を考えると、徒に火砲を積むのは本来の交易品輸送の観点からみればロスでしかない。
探検艦隊であれば、探検日数にあわせて補給物資を積載する必要があるので武装商船よりもより純軍事特化が難しい。
その危惧を念頭に置きつつも、私は指定された屋敷へと赴き織田信長と面会するしかない。名目としては送迎であるため、此度は私が上座であった。
「マルガレータ・フォン・ヴァルデック殿。貴殿が畿内へいらっしゃってから1年幾ばくかという短い刻限ではありましたが、私といたしましては濃密な日々であったと確信しております」
そう甲高い声で話す織田信長の側に控えるのは、事前に小姓によって説明があったが和田惟政と細川藤孝であった。まあ和田惟政は信長の随員として兵庫津までやってきたのだから居て当然な話である。細川藤孝については多分、私に対してのフォロー要員という側面もあるだろう。幕臣の中では親密な方だし。
しかし摂津四守護のうち、2人がここに居るのか。在地行政官のトップ層の半数がこの場に居るということは、トップダウンで何らかの指示が出される可能性は考慮すべきであろう。
「ええ、私も全く同じ思いであります織田信長殿。……しかし、信長殿の場合は私が堺へと参った時期と同じくして上洛をしていたではありませぬか。濃密というのであれば、それは副将軍としての日々のことのが余程かと思いますが」
私がそう告げれば社交辞令の笑みを浮かべて苦笑する信長。全く本当にやりずらい相手である。
「私のことを引き立てて下さった足利義昭公、そして尾張の片田舎の武者を副将軍と認めて下さる幕臣の皆々方には欣喜雀躍の想いではありますが、それでも長らく京に居りますとふとした時に郷愁の念の襲われることもあるのですよ。
……貴殿は、そうした瞬間は御座いませぬか?」
織田信長は世間話として聞いてきたのか、少し攻めて探りを入れてきたのか悩む一言を放ってきた。
郷愁の念。ノスタルジックで故郷を想う懐かしみの心持ちのことである。石山本願寺にて前世供養を行った後での質問であるがために色々と勘繰ってしまう部分、そして自分の中で考えてしまうところもあるが、多分前世供養まで見越した発言ではないと思う。しかし、これをこのタイミングで問うところは何というかやはり織田信長という男が何かしら『持っている』ということを思わざるを得ない。
「今の私は一国を差配する身ですから。何より信長殿が所領に戻ったところで今の居城は尾張ではなく美濃の岐阜ではないですか」
「おっと、これは痛いところを。ですが岐阜からなら尾張は目と鼻の先である一方で、京からですと連絡路すらままなりませぬ。やはり、いざというときにすぐ郷里へと駆け付けられる手段があるというのは安心感が段違いですから」
そう言えば、この信長はここのところ、尾張と京とを自国勢力圏で結ぶために大和と北伊勢の攻略に注力しているのだっけ。それを踏まえた上で、更に次のように信長が付け加えれば私も流石にその意図を理解することが出来た。
「……その点、いざとなれば貴殿は、如何に遠国へと歩み出でても船を使い郷里へと舞い戻ることができるのですから羨ましい限りでございます」
「……つまり、信長殿は尾張と畿内との連絡にガレオン船が使えるのかどうか見定めたい、とそういう意図の下、此処兵庫津へと来たのですか……」
まあ、スペイン航路だと新大陸で一度乗換があるから太平洋艦隊だけでヨーロッパには戻れないし、ヨーロッパに戻ったところで神聖ローマ帝国にある故郷への立ち入りがほぼ不可能に近いわけだが、そこまでの内情は黙りながら信長がガレオン船を現状どのように運用したいのかに思いを巡らせる。
大阪湾から尾張までガレオン船で回航することは、効率的か、あるいは本当にガレオン船を利用する必要性があるのかを度外視すれば可能であるだろう。喫水の問題さえクリア、というか最悪伊勢湾内で和船へと乗り換えれば良い話だし。
しかし、それに思い至った瞬間、私の背筋は凍った。
織田信長が上洛し、副将軍になった後に最初に行った行動は何か――それは、堺への代官設置。
勿論私への接触を優先した、というのも事実であろう。しかし、同時にその時点から信長は織田領との海上接続をも考えていたのではなかろうか。
無論、遠浅の海である以上ガレオン船は堺に入港できないという問題があれど、彼は状況を活用して摂津四守護であり織田家取次である和田惟政を後付けで利用する手に変更した……とそんなダイナミックな推察は果たして荒唐無稽と断じて本当に良いものであろうか。
そんな私の恐怖心を察したかどうかは分からないが、織田信長は次のように語った。
「勿論、織田家としての思惑がありますことは否定しませんが、本質としては今後活発になるであろう貴国……いえ、失礼、ブール王国との通商に際して、幕府としてもその交易路をブール王国側のみに負担を強いるのは好ましくないと考えております。
ですので、この兵庫津に幕府の新水軍の操練施設を設け、来たる通商に備えるつもりです。丁度、貴国の船も来航できるようですしね。
――何より、先達である渤海との通商においては、渤海から我が国へと使節を送る『渤海使』に対して、返礼に『遣渤海使』を我が国からも送っておりますので」
兵庫津という神戸に程近い地域に出来る、幕府海軍の操練所。偶然の一致かどこか既視感を感じるそれであったが、問題の本質はそこではない。
この国の朝廷の先例踏襲主義を逆手に利用した私の『渤海使』を利用したブール王国の二重従属策。織田信長はそれを吸収した上で更に利用する形で『遣渤海使』という返礼使節制度を応用することで海軍技術を吸収することを目論んでいたのである。
朝貢という従属関係である建前と、従属国だけに負担をかけてはいけないという常識論を掲げ、私の示した朝廷との関係を重視するやり方すらも尊重しつつ、更にその上で、幕府の利益になるような形で織田家にとって有利になる物事を押し通すというやり方。
しかも、四国へと逃亡した三好三人衆への対応という幕府内の共通オーダーすら完遂する海軍増強計画。
――常識人の逸脱者・織田信長の神髄がここにあった。
*
兵庫津に新たに造られるかもしれない幕府の操練施設。その始動は恐らく数年の歳月を必要とするであろうが、今後は博多鴻臚館と同等レベルのこの国の外交の趨勢を定める場所となり得るだろうと私は確信した。
だからこそ、先んじて1つだけ質問を投げかける。
「その未来の操練施設の管理者のあてはあるのでしょうか?」
これに対しては織田信長の苦笑とともに返答がくる。
「……いやはや、ほんのつい最近思い付いたことでして、恥ずかしながら何も決まっておりません。あくまで、この国の取り得る先の出来事の1つとして考えて頂ければと」
この瞬間に私が思い至ったのは、この海軍施設の責任者に織田方の人物ではなく、より幕府の影響力が強い人物を当てて、信長の牽制に使うという策である。
そして私が思い浮かぶ程度のことは、当然この場に同席する人物も考えていた。
だからこそ、織田信長でもなく、織田家取次の和田惟政でもなく。
細川藤孝から声があがることは必然であったと私は考えている。
しかし、その言葉の中身は完全に想定外のものであった。
「……でしたら、我が細川家の配下の者で是非とも推挙したい人物がございます。
幕府足軽衆の一員であり、私が摂津に居を移してから嗜んでいた医術の研鑽のためにアルメイダ殿の診療所で師事を受けていて切支丹との伝手があり、何より織田様の本領である美濃出身で、正室である帰蝶様の縁戚にあたる人物でございます。
――明智光秀なる男を、実務の取り纏め役として起用しては頂けないでしょうか」
「ふむ、藤孝殿。そのような見所ある人物が居たのですね。では、一度その者にやらせてみましょうか。宣教師の方々とも面識があるのならば、慣れぬ仕事でもやれることは増えるでしょう」
明智光秀。そうか、アルメイダの診療所に日本人医師として参加していたのか。思ったよりも近くに居た。確かに明智光秀が医学的知識を身に付けていた説があるという話は私も知っていた。しかし、だからといってこの日本の中でまさかアルメイダに師事を受けている可能性は全く考慮していなかった。
細川藤孝としては、私に対しては割と善意の申し出ではあるのだろう。彼自身が幕府内で守護職に抜擢された以上は、目立つ真似をする必要はない。にも関わらず藤孝配下であると同時に幕臣でもあった明智光秀をここで出すということは、宣教師との繋がりが少しでもある人物をこの水軍の実務者に収めることで、私が残していく人員との連携を取りやすくしようという配慮が見え隠れしている。
それは確かに助かる話であり、厚意からくるものであることは理解している。
しかし、それがよりにもよって明智光秀の躍進に繋がるのか。何というか数奇なものである。
彼が本能寺の変を起こし、織田信長を殺害する……その辺りはこの際正直どうでも良い。問題は彼が織田政権の中で秀吉と同じく外様という立ち位置から重臣と呼んで差し支えない地位まで飛躍したことだ。
――その、明智光秀の才覚が。幕府海軍の創設に使われることとなる。
しかし、私がそこに関与できる余地は恐らく非常に限られている上に、そもそも私は間もなくこの日本を発つのだ。
最後の最後でガレオン船を織田信長に見せてしまったのは、もしかすると、この国に来てからの一番の失策であったのではないか、という想いを胸に。
――私は、戦国日本を飛び立つこととなる。