第6話 プロテスタントのクレオパトラ
とりあえず後事のことはルイ・ゴメス侍従長とドミニコ修道会のラス・カサスさんに託して、私は大人しくヴェネツィア共和国のパドヴァ大学へと帰る。
ラス・カサスさんは宮廷メンバーではないのに、政治のことを任せて良いのかと思ったが、この時代、有力な聖職者はそのまま実務も掌ることも多い。というかネイティブアメリカンの意見の代弁者だったし、普通に行政処理能力もあるみたいだし。
……え? 政教分離の原則? この時代にはないし、何なら私だってコングレガティオ・マリアナという信徒団体に所属しているからそんなものがあれば私も危ない。というか教会が徴税制度の一部とはいえ代行しているのだから、推して図るべきなのである。
しかし、まあ。私的には大人しくパドヴァ大学にて勉強していたつもりだったのだけれども。フェラーラの司祭様であるグネッキ・ソルディ・オルガンティノがいつものように講義のために来訪したときに、当たり前のように隣で真剣に話を聞くアレッサンドロ・ヴァリニャーノと私に向かって、講義終了後に話しかけてきた。
「マルガレータ殿。……ちょっと、よろしいでしょうか」
「え……あっ、はい。何でしょうかオルガンティノ先生」
「実はフェラーラで、あなたの良からぬ噂を耳にしましてね、お伝えしておこうかと。
……『プロテスタントのクレオパトラ』と、あまり良き者ではない方々が口々にあなたのことを、そう呼んでおりますよ」
プロテスタント、という部分はまあ仕方がない。実家はがっつりプロテスタント信仰だし、私も改宗した身だ。
で、問題はクレオパトラの方。私の中にある前世価値観で考えてしまえば、絶世の美女という評価が一番一般的だとは思う。何をしたかは分からなくても昔の美女ということだけ知っている、なんてケースもあるだろう。
まあ、白雪姫からクレオパトラに変異したと言えば、肯定評価っぽくも聞こえなくもないが、絶対悪口なのでこの線ではないことは確かだ。
では、この時代の評価としてはどうか。
パっと思い浮かぶのはシェイクスピアの戯曲である『アンソニーとクレオパトラ』。これはロマンス物で、先の価値観と近いものがある……が、シェイクスピアっていつの時代の人だっけ? ヴェネツィアの町は『ベニスの商人』っぽさがあるから、何百年と離れてはいないだろうが、同世代なのかはまるで見当がつかない。
というか、そもそもシェイクスピアって生前から評価されていたタイプの偉人だったかも覚えていないし。
だからこそ、『知っている』人物なのにも関わらず。私はこの質問をせねばならない。
「……クレオパトラ?」
「おや、ご存知ありませんでしたか。過度の愛によって滅びた古の異教徒の女王の名、ですよ。二百年程昔、フィレンツェを代表する詩人であったジョヴァンニ・ボッカッチョが言及をしていますね。『祖先と美しい顔以外のものはなく、強欲と残忍と贅沢で名を馳せた暴君』であると」
……うーん、これはひどい。
そしてヴァリニャーノからも追撃が入る。
「あ、クレオパトラなら私も知っております。ペトラルカの著書に無情な妻として紹介されていたかと……」
「そうですね。ペトラルカ自身は詩人でありながらも一時期法学も修めており、優れたラテン語の記法をも遺しております。法学を学ぶヴァリニャーノ君が良く勉強していることが分かります」
……全然話についていけてないけど、知りたい情報は手に入った。
やっぱり、クレオパトラに対する評価が非常に宜しくない。
まとめれば「スペイン国王たるフェリペ2世を誑かす毒婦」みたいな評価なのだろう、これ。
えっと、そんなに私ヤバいことしたっけな。
「あの、オルガンティノ先生。……その噂はどのような形でどこから……?」
「ああ、すみません。マルガレータ殿のお話の途中でしたね、申し訳ないです。
プロテスタント信仰の根強いネーデルラントにおけるカスティーリャ王家の妥協が、あなたの献策によって行われたこととともに噂は流れてきましたね。
……その、フェラーラの『南』から、です」
フェラーラ。ヴェネツィアやパドヴァ大学から見てすぐ南の都市であり領国。あるいはイタリア全体で見れば北部イタリアと言っても差し支えない。
その南に位置するのは……教皇領。そして、ローマ。
――最早。噂の発生源は言わずもがな、というやつである。
*
結局、ラス・カサスさんとルイ・ゴメス侍従長は、私の名前を前面に出してネーデルラントの掌握を進めたらしい。だからこそ、プロテスタント側には『カトリックに帰依した裏切り者』として、カトリック側には『スペインのプロテスタント妥協の諸悪の根源』として双方で名声が高まった。
なんてことだ。目立たぬように早めにパドヴァ大学へ逃げ帰った結果、かえって事態は悪化してしまった。
しかし、現状が決定的に破綻していないのは1つに宗教的色彩の薄いヴェネツィア共和国の内部に居るから。そして、ついでのように要求していたイエズス会による学校建設の利権誘導をフェリペ2世に話していたこと。
それがイエズス会による庇護を失わずに済み、同時にローマからの圧力を躱すだけの力のあるイエズス会が私のバックから消えなかったことで、破門や異端審問騒ぎまでは発展していない。まあ、直接的手段に出られないからこそ風説の流布という形で悪評が流れ出したとも言えるのだが。
だが、これによって元々コングレガティオ・マリアナという信徒団体の設立によってイエズス会内部で悪目立ちしていた私に対して、更にイエズス会から視線を浴びる羽目になってしまった。
「……しばらくは、ヴェネツィア共和国から出ずにほとぼりが冷めるのを待った方がよろしいですね」
私がそう呟けば、オルガンティノは頷く。
「ええ、それが賢明かと。しばらくはスペイン宮廷とは距離を置かないとあらぬ疑いをかけられるでしょうね。無論、プロテスタントもですが」
その言葉を聞き、もしかして日本への逃亡可能性を聞くことのできるタイミングは今なのではと思い、オルガンティノに尋ねる。
「……あるいは、欧州から離れてしまうのもあり、なのではないでしょうか」
「えっと、かつてのラス・カサス様のように新大陸にですか? いや、彼の地のエンコメンデーロの権益を侵害したのですから新大陸は危険ではないでしょうか。確かに新大陸もイエズス会のネットワークは広いですが、ヴェネツィアが一番安全かと」
「……アジアなどはいかがでしょう? その、彼のザビエル様が布教を行った、日本――ジパングとか……」
言った後に思ったが、フランシスコ・ザビエルって有名人なのだろうか? 日本での布教以外はまるで知らないから、もしかするとマイナー人物である可能性があるけれども、大丈夫か?
「あ、そのためにマルガレータさんは言語の授業を……」
「モンマルトルの誓いの一員であるザビエル様ですね? ヴァリニャーノ君の話も統合すれば、最初からオリエント地域に興味を持っていたのですね」
オリエント? まあ、東方は東方か。
しかし、ザビエルについて知っているようで良かった。モンマルトルが何か分からないが、おそらくイエズス会の初期メンバーか何かなのだろう。
そしてオルガンティノは続ける。
「しかし……ザビエル様は、ポルトガルの国王より布教の任を得た者。加えて当時の教皇猊下の知己でもあった彼の御仁は選ばれるべくして選ばれたような存在です。
……その、言いにくいですが、ローマに目を付けられているマルガレータ殿では『ポルトガル』から信任を得ることは厳しいでしょう」
「……では、『スペイン』ならばどうでしょうか?」
「思考実験としては面白いかもしれませんが、現在ジパングへ至る航路を開拓しているのはポルトガル王国のみでございます。いや、先代の神聖ローマ皇帝の後援を得たマゼランが新大陸からフィリピンへ至る航路を発見こそしておりますが、帰路……すなわちフィリピンから新大陸まで戻るルートが見つかっていないので、片道切符なのですよね」
……えっ? まず、ヨーロッパから大西洋渡って新大陸に行って、そこから太平洋横断して日本入りする想定なの? 何その苦行そうなルート。
ポルトガルの使っているルートでいいじゃん。
「あの……アフリカから、インドや中国を通ってジパングへ至ることは……?」
オルガンティノは勘違いをしていそうなので、私はそれを正そうとする。
しかし、重大な勘違いをしていたのは私の方であったことが次の台詞で分からされてしまう。
「……成程、マルガレータ殿。30年程昔にサラゴサの地で締結されたポルトガルとスペインの領地を分界する平和条約を御存知ないのですな。
香料諸島以東幾許かで定められた分界線よりも西側はポルトガル、それより東側はスペインと取り決められておりますので、マルガレータ殿の差し示すルートは『ポルトガル』船籍の船に認められた航路なのです。中継拠点が全てポルトガル領ですし。
もしスペインの援助の下でジパングまで到達するのであれば、先に私の挙げた太平洋横断のマゼラン艦隊が辿ったルートを使う必要があります」
そんな……。スペイン側からだと東アジアまで至る航路が完全に確立されていない……? というか、植民地分界線の存在は聞き及びがあったけれども、よく考えもしなかった。あれの存在でインドやアフリカ東岸辺りにはスペイン領が一切無いんだ。だからスペイン船の補給難度は極めて上がる。
何となく宣教師が往来しているからカトリック世界の国家的盟主ともいえるスペインの援助さえ受ければ何とかなると思っていたけど、想定が甘かった。
根本的にスペインとポルトガルは別の国であり、高々宗派がカトリックで一致するからと言って、領土を一緒に利用するような仲良しこよしな関係であるはずが無いのに。
となると、今からポルトガル王家との関わりを深くする? ……いや、もう私がフェリペ2世の庇護下にあることは明確だし、スペインの政策に口を出せる立場だということになってしまっている。ポルトガル側に警戒されるのが関の山だろう。
あるいは、ポルトガルが後々、スペインに併合されることを知っている。そこまで待つか? ……何年、何十年先の話か分からない。
いや。でもマゼランが成功しているのだから、片道切符でならフィリピンまで行ける。フィリピンまで行ければ、後は何とかなるか? 時代はかなり下るが、堺の商人である納屋助左衛門が日本側からフィリピン諸島であるルソンまで到達しているのだから、スペインの援助がある前提ならばどうにかなりそうではある。
……というか、まだ一応大航海時代ではあるんだよね。マゼランとかの名が出てきているのだから。
だったら、勝手に航路開拓される可能性はあるのか。であれば、私は安全地帯であるヴェネツィアの地でフィリピン・新大陸航路の開拓が促進されるように立ち回れば良いのだ。
――無理ゲーじゃないですかね、それ……。