第55話 一期一会
清原枝賢が来るまでの間は、しばらく細川藤孝の屋敷で滞留することとなった。
その間、ダトゥ・シカツナに用意してもらった吹き矢であるサンピタンを彼の師事の下、吹き矢の実習を行う。面白そうなので私もちょっとだけ参加することにした。
吹き矢の良いところは、まず物凄い大雑把な括りで言えば矢ではあったので、細川邸の弓道設備を流用して的などは用意できるということ。
そして、弓ほどには難しくないということである。そう言えば細川藤孝って弓術の印可持ちだったっけと思いを馳せながら、どうせならちょっと和弓も触れてみたいと言ったら、細川藤孝は無言で楊弓の方を渡してきた。公家が娯楽で遊ぶために使うことの多い言わば短弓である。
ただ、その楊弓。矢は飛ぶことは飛ぶが、的に全然当たらない。確かにこの体たらくでは和弓は明らかに時期尚早なのだろう。大人しく吹き矢の実習をさせてもらうことにした。
で、本命の吹き矢なのだが。これが想像していたものよりも遥かに長い。その吹き矢の筒にあたる部分の長さが人の身長くらいかそれよりもちょっと大きいかくらいの巨大さである。
こんだけ長いのなら、もしやと思いダトゥ・シカツナに気になったことを聞いてみる。
「ええ、フィリピン伯様のおっしゃる通りで。サンピタンは吹き矢としての用途以外に、槍としても使うこともあります」
とのこと。私としては棒術かと思ったが先端部分に刃物を付けて槍として運用するらしい。吹き矢のストックが尽きたら槍にするらしいけれど、その運用思想って完全に銃剣だよね。
まさかの吹き矢の応用力の高さに驚く。
そんな別用途はさておきと言わんばかりに、ダトゥ・シカツナは弓用の的を狙って吹き矢を吹くと、思ったよりも軽い音がして的にストンと刺さっていた。
「……と、まあこんな感じですね。基礎的なことを覚えてしまえば的に当てること自体は難しくないと思います」
一応通訳は用意してきているので全部が全部私が訳すことはなく、細川藤孝はその通訳の言葉を傾聴している。
私も試しに……と思ったが、思い切り息を吹きかけてみても中々出てこない。何度か息を吹いていたら先端からぼとりと矢が落ちる。
あれ? 思ったよりも難しいぞ。
「フィリピン伯様。肺活量も大事ですが、息の出し方にも少々コツがあります――」
まずは呼気の使い方から学ぶこととなった。
*
確かに最初は苦戦したが、確かに弓に比べれば鍛錬に時間はかからないと言っていた通り、細川藤孝は僅か数日でものの見事に的に当てることができるようになっていた。
……私? 一応、吹き矢が飛ぶようにはなったけれどもそもそも筒部分が長すぎて重い上に重心が手元にないので狙いなどとても付けられない。それに飛ぶとは言ってもダトゥ・シカツナや細川藤孝のように飛距離は出ていない。
そこから総合されるのは、単純な細川藤孝のセンスの良さ。ただし、そんな細川藤孝も完璧ではなく、矢が刺さることなく的に当たるだけというのが殆どである。最初から威力不足って話はあったしね、吹き矢。
そういう意味では矢を刺せるダトゥ・シカツナの技量は一段高みにあることは確かなのだが、彼自身も別にブール王国に居る間この吹き矢を常用していたわけでもないし、一人前ではあっても達人というわけではないから案外、細川藤孝もさっくりと同じくらい上達するだろうとは思う。
「ああ、そうでした白雪殿。明日には清原枝賢様が此方に到着するようですよ」
対価を完全に個人的な趣味・興味の類で全振りしていた細川藤孝だが、それでも仕事はちゃんとこなしてくれていた。
私達と一緒に吹き矢の鍛錬をしている空き時間で、慣れない仕事であるはずの摂津守護としての職務を果たしつつ、私達の依頼もその片手間でこなすのだから流石に人物なのである。
*
清原枝賢とはサシで会うこととなった。
それで。正四位下相当の宮内卿とスペインの伯爵位。さて、どちらが身分としては上になるのか。フィリピン伯を『国司』として捉えるのであれば、その官位相当は従五位から従六位なので宮内卿のが格上。
あるいはアジア地域におけるスペイン唯一の出先機関という考え方をすれば、アジアの外交をも一手に担う存在――即ち、大宰府長官である大宰帥と同格として捉えることも解釈次第では可能だ。この場合大宰帥は従三位相当になるため、私の方が格上になる。
あるいはアジア方面軍の軍事総指揮としての権限で見れば、征夷大将軍、まあスペインから見たときには征西大将軍といった将軍職としても考え得る。まあ、織田信長との会談の席で一応下座に座ったわけだから、この解釈は流石に飛躍しているが。
あ。でも、信長よりは下位であると規定はしたのか。それともあの場は非公式扱いか? そもそも信長自身も先に下座に座っていたことを踏まえると席を後々入れ替えたとはいえ、どちらが上位かは分からないのだろうか。
ひとまず信長の官位について考えてみると、猶子による方便とはいえ斯波家当主なのだから、そこを辿れば従四位か五位くらいか。でも、副将軍に就任しているから、ちょっと分からない。
足利尊氏の弟、足利直義が副将軍に就任したときには従四位上でその後従三位まで上がっている。やっぱり信長は高く見積もっても従四位相当でそれを超えるとはあまり考えられない。
というか上洛に際して昇叙したのかな。史実だと、上洛タイミングで副将軍を拒否しているから全然参考にならないけれども弾正少忠を貰っていた。そしてその時信長は従五位下である。うーん、考えれば考える程に分からなくなってきたぞ。
まあ何も考えず下座で待とうかな、と思っていたら、座ろうとした私に対して細川藤孝が全力で上座に座るように薦めてきた。だからこそこれは絶対下座に座ったら駄目なやつだと察して、席は確定することとなる。
なおその細川藤孝当人は、清原枝賢の紹介だけしてそのまま退席した。朝廷工作自体には関わるつもりはないようである。
「……自己紹介はお互いに不要かと思われますので本題へと入っても構いませぬか、白雪殿。
同じカトリックに帰依している身でありますれば、最大限助力いたすつもりで御座いますが、して何用でございますかな?」
清原枝賢は狩衣に烏帽子といった様相であったが、首元には十字架が下げられていた。まあ私は普段から持ち歩いてはいないけれども。だってあれ重いし、ずっと付けていると肩が凝る。
「……朝廷の動向を。まず私が通商協定を求めて畿内入りしたことを公卿の方々は把握しておいででしょうか?」
「身代が足らぬ故に人伝の話も混ざりますが。まあ、把握しているとみて間違いないでしょうな」
「その私の話に副将軍からは、朝廷は乗り気ではないであろうと伺っておりますが、これは真でしょうか」
「……そうですね。白雪殿を前にして畏れ多きことではありますが、お世辞にもその動静を良好と結論付けるわけには参りませぬ」
まあ、ここまでは当初より予想していた回答である。だからこそ、次の質問が私が清原枝賢へ聞きたいものとなる。
「清原枝賢殿。
……朝廷で我等に反発が強き者の名を、ご教示願えますか」
「声を大にして批難を声を挙げておりますのは、熱心な法華教徒であらせられる竹内季治様。
そして、その風潮を差配しているであろう御方は、亜相であらせられます――万里小路惟房様」
竹内季治の名は松永久秀より聞いていた。久秀が逆らえぬ相手として。
そもそも松永久秀は、日蓮宗の『西の祖山』として知られる本圀寺――史実における足利義昭上洛時の仮住まいとして選定された地――の檀越であり、その文脈に沿えば熱心な法華教徒であることが伺える。だからこそ朝廷における高位者でかつ同じ宗派の公卿たる竹内季治の命に背けない、という話はこの上なく納得のいくものなのだ。
……ただ1つ、その下位者が『松永久秀』であるという事実を除けば。
加えて言えばこの竹内季治は前将軍たる足利義輝の信任に篤く、竹内家自体は鎌倉時代より存在するものの公卿にまで上り詰めたのはこの竹内季治が初であり、しかも足利義輝自身の執奏によって堂上家、即ち上級貴族と認められる家格を有した室町幕府にとても近しい人物であり義輝のお気に入りでもあった。
だからこそ、幕臣という側面を有する松永久秀が逆らえないというのは、この上なく筋道は通っているのだけれども、やっぱり『松永久秀』のイメージ的にただ追従するだけ、とは思えない。
ただし、竹内季治が熱烈な反カトリックであること自体は正直、二の次である。何故なら、堂上家となったのが足利義輝によるものであるのならば、裏を返せば朝廷の公卿にとっては新参者であり、彼はあくまでも朝廷からすれば末端の実行者に近しき存在であるわけで。
彼の朝廷におけるロビー活動でこちらに対する向かい風が強くなることはあり得るが、そもそもの風向きまでを変える力があるわけではない。
としたときに、我等と対峙する相手の本命となるのは万里小路惟房。
亜相と清原枝賢は言ったが、その唐名が示す官位は――大納言。正確には権官ではあれど、これよりも上は官位相当に沿えば、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣しかない。
このうち、太政大臣と内大臣は常設設置の職ではないので、今の朝廷における権大納言の官位を有する者の上位者は皇族を除く公家衆の中では僅かに3人。
関白・近衛前久。
左大臣・西園寺公朝。
右大臣・花山院家輔。
以上なのである。同格である権大納言は、後鳥羽上皇の院政による慣例より権官含めて10人までとされているため、万里小路惟房に宮中で対抗できる公家は僅かに12人なのである。
とはいえ、その全員が対抗馬として担ぎ上げられるかと言えばそういうわけでもない。例えば、関白である近衛前久は、私の知る歴史における足利義昭上洛の際には、永禄の変での足利義輝暗殺の折に三好三人衆側に加担したと幕府に追及されて退京処分にされている。義昭がどう考えているか知らないが、二条晴良が再度関白に還任されることも考慮せねばならない。
他にも権大納言の中でも頼れない人が多い。九条兼孝などは未だ齢13歳であるし、久我通堅は勅勘――天皇直々の譴責を受けて位階の降下処分がなされている。広橋国光などは私の知る歴史だと翌年には辞任しその更に翌年には亡くなるので体調面での不安があるし、挙句、三条西実澄に至ってはそもそも京におらず駿河に下向しているという有様なのだ。
対抗馬が12人居るとはいっても、かなり限られるのである。
更にこれだけではない。万里小路惟房という個人の人物を見ても私にとっては不都合で、万里小路惟房にとっては彼の権勢を盤石とするものがある。
万里小路惟房の父は秀房といい、その秀房の姉妹には栄子という女性が居る。
そしてこの万里小路栄子。先代の第105代天皇である後奈良天皇の女院――即ち皇后であり、同時に現在の天皇である正親町天皇の母親。
――以上のことから分かる通り、万里小路惟房は正親町天皇の従兄弟なのである。
そして最後に、私が知る情報をもう1つだけ付加すれば。
フロイスはこの万里小路惟房のことを『最悪の敵』と称したことを私は知っていた。
「白雪殿。何か申し付けがあればここで承りますが……」
「いえ、清原枝賢殿。
……こういうことを私から申し上げるのはあまり良きことではないでしょうが、貴殿も宮中においてはあまり快い感情を向けられておらぬの……でしょう?」
清原枝賢は神妙に。しかしゆっくりと首を縦に振った。
それはそうである。彼の経歴を鑑みれば、イエズス会宣教師に公開論議を挑んで叩きのめされ、代々儒学の教えを受け継いできた名家で神道新流派を牽引する家の当主であるのにも関わらずカトリックに改宗したのだから、心証は最悪にしかならざるを得ない。そんな彼を情報収集としては扱うことができても、実際の宮中へ切り込むための懐刀とするのには朝廷側の信任が心許ないのである。
まあそれを抜きとしても、宮内卿では身代が足りないのだが。
つまり、情報収集以上の手を打つためには、また別の一手を探る必要があるのだ。
だが、私にとって真に肝要であったのは、彼を手駒として扱うことではなく。
対峙すべき相手を認識することであったために、万里小路惟房の名を知れたという意味合いでは十分に必要なことを手に入れられた会談であったのであった。
*
「マルガレータ様、少しよろしいでしょうか」
清原枝賢との会談が終了したタイミングで既に夕刻に差し掛かっていたために、もう1泊だけ細川藤孝の屋敷に泊まることになったのだが、護衛として私の寝所に参上したグレイス・オマリーより改まって話を切り出された。
「ええ、構わないけれども……。何かグレイスの配下から陳情でもあった?」
「いえ、そちらではなく。マルガレータ様が現在進めているこの国の宮中への工作の件なのですが……」
一応、交渉自体は日本語でやっているとはいえ、随員が同席している場合には基本的には通訳か私かで訳しながら話しているし、今日の清原枝賢との会談のような1体1の場や、翻訳する余裕のない場であっても、後々あったことはグレイスには概ね全て、その他の人員にも適宜情報を精査して伝えてはいる。特に、ルッジェーリにはカスティリーヤ宮廷まで至るネットワークがあることからヤバい情報を差し引いたうえで極力分かりやすくまとめた情報を送っている……つもりだ。
だからこそ、今までの交渉の多くを把握しているのはグレイスなのだが、これまで新大陸でもフィリピンでも私の政治的な動きに口を出したことは無かったのに、ここにきて相談ときた。
無論、彼女が軍事だけではなく政略にもその才覚を有することはアイルランドの一件だけでも十二分に把握しているので、彼女の意見は無条件で傾聴に値する。
「ええ、是非。私としてもグレイスの意見を聞きたいです」
「マルガレータ様は、この国の都から帰る際に同行して下さった『松永』でしたっけ? 彼を極度に警戒していますよね?」
「まあ、そうです。彼が幕府の反カトリック勢力の主柱となることは副将軍から聞いておりますから」
もしかして松永久秀が一見すると多趣味なお爺ちゃんにしか見えない気さくな人だから警戒しすぎという話かな。
そんな暢気なことを考えていた私であったが、グレイスの警告は私の想像とは全く異なっていた。
「……やっぱり、この様子だと。
確かに、あの松永という人物を警戒するのは構わないのです。まあ私にはその真贋の判断はさっぱりですが、マルガレータ様が訝しむというのであれば、それはご随意のままに。
ですが、マルガレータ様。お気づきになっていないのですか?
――あの組香とかいう催し物の後になってから、マルガレータ様の宮中に対する打ち手が急に増えています」
「え? でも、それはそういうものではないかしらグレイス。伝手が増えれば打てる手立てが増えるのは当然のこと……」
私が呟く言葉はグレイスの露骨な溜め息によって遮られる。
そして決定的なことを告げた。
「……『曲直瀬』という医者に、今こうして屋敷を提供してくれている『細川』という武人。
どちらもマルガレータ様が直々に呼び寄せた人員では無いですよね?」
……あっ。確かに。
香道の場で知り合った彼等の伝手を使うことを思いついたのは私である。
ただし、その香道の場そのものを用意したのも、彼等を集めたのも私ではない。
それを行ったのは――千利休。
私がその可能性へと至った瞬間に、グレイスから核心に迫る一言が紡がれた。
「マルガレータ様。
今までの一件ですが……あの『千宗易』とかいう商人によって、意図的に誘導されていますよ」