第53話 背戸口
「……トーレス殿の様態はどこが悪いということではありませぬ。私共から言えることは養生するようにとしか……」
「曲直瀬道三殿。こちらにご足労いただきありがとうございます」
あの後、香道の席が終わった後に色々と参加者の方々と話はした。その中でも一番真っ先に効力を発揮したのが曲直瀬道三によるトーレスの診察であった。
曲直瀬道三自身、トーレスのことは知っていたのに加えて、あの場に同席していたアンシエタがスペイン・ポルトガル両国の国王から共に医師免状を頂いていることもあり、両者がともにお互いの医術について気になったかららしい。正直、その辺の専門的な医学的知見に関しては私はノータッチなのだけれども、トーレスの話を出したらすぐに診に行くという言質を得て、その言葉通り然程時を置かずして堺までやってきたのである。
京における著名な医師である彼をどうして堺まで呼び出せるのか、という点についてであるが、そもそもこの曲直瀬道三という男、直近まで陣中にある毛利元就の診察のために、出雲まで下向している。
また、同様にフットワークの軽さを示す話として、おそらくもう間もなく発生するであろう能登畠山家における政変で追放されることとなる当主・畠山義綱とも交流が出来る予定だ。畠山義綱は追放された後に六角家を頼って近江の坂本までやってくるので、そこでどうやって知り合ったかは分からないが曲直瀬道三と畠山義綱は仲良くなる。
そして、他に出てくる疑念としてイエズス会士が異教徒の医術に興味を示すという話。これについては、私の知る歴史ではイエズス会本部によって1559年に出された宣教師に対する医学研究や施術の禁止通達が関係してくる。というのも1584年の事例にはなるもののイエズス会司祭のベルショール・デ・フィゲイレドを曲直瀬道三が診察したという記録が残っており、興味どころか異教徒の医者に治療を行ってもらったりしている。
その後、曲直瀬道三が洗礼を受けてカトリックに入信したという話もあるくらいなのだが、実際のところ彼の弟子である施薬院全宗が伴天連追放令を起草し以後のキリシタン弾圧にがっつり関与しているためちょっと曲直瀬道三が洗礼まで本当に受けていたのかは微妙なところではある。
ただまあ、どこかで歴史が変わったせいかイエズス会本部による医療行為を禁ずる通達は結局出されず仕舞いなんだよね。私がイエズス会の人事に間接的に介入してフィリピン・日本準管区として独立させてオルガンティノをその準管区長に任命したのは1年後のことだし……。もっと前の段階で私のせいで歴史が変わったとなると、私が日本に行きたいとパドヴァ大学で公言していたことくらいなのだが、そこが起点なのだろうか。
その変化のおかげで、堺においてアルメイダは小さな診療所のようなものを切り盛りしており、日本人医師らとともに堺の町人に対して分け隔てなく医療を行う、という本来府内でやろうとして完遂できなかった事業をやっているなどの地味な歴史のずれも起きている。
まあオルガンティノの人事の後、ポルトガル影響力が排除されることになってからの影響が出るのは理解できる話なのだけど。ほら、ルイス・フロイスも本来であれば私がフィリピンにおける拠点構築をしていた3年前には日本に来ていたはずなのに、全然見かけないし。これは多分私のせいなのだろう。
で、話を戻せば医療技術に関すること。結局、日本において『医聖』とまで称された曲直瀬道三と、イエズス会の医療チームの見解が一致した。
ちなみに医療知識の蓄積という点において案外馬鹿にできないのが、フィリピンの先住民族の祈祷師の存在である。土着信仰と入り混じりともすれば部族的な呪術めいた怪しさ満点の祈祷であるが、まず祖となる文化的な基盤はインド方面からやってきており、そこにルソン王国のように中国系の影響を受けた国家と、南部のミンダナオ島やスールー・スルタン国のようにイスラーム系の影響を受けた国家とが混在するこの地域では、それぞれの中国医学やイスラーム医学の要素が祈祷師の持つ技術に内包することとなった。交易中継拠点だからこその融合的な発展であり、こうして戦国日本の医師に治療を行ってもらうこともあったイエズス会宣教師らが、そうしたフィリピンの祈祷師の医療に興味を示さない訳もなく、今のフィリピンに設置されている病院では元・祈祷師に医学的知見を培わしたり、それまでの祈祷師による治療についての記録を取ることも行っていたり。
そして、こういう場面で参考にするのはあまり好ましくないとは思うが、トーレスの史実死亡年は1570年、4年後だ。そして1560年代は断続的に体調を崩していたという話も残っている中で、在地の子供たちへの日本語教育は欠かさなかったという話もあるくらいなので、身体が弱ってきていたのにも関わらず無理して働いた結果という結論は導けそうではある。……ただし医学的知識の無い人間のアドバイス程、当人にとって意味不明なものは無いだろうから絶対に話すつもりはないが。
また些細なことで歴史がどんどん変わるから、この見立てすらも既に大きく誤っている可能性もあるわけで、不用意に口出しをするつもりはない。
「……で、マルガレータ殿? あの後から、この国の朝廷への働きかけをしていないようですが、まだ動くつもりはないのですか?」
そうオルガンティノがミケーレ・ルッジェーリを引き連れながら私に話しかける。ルッジェーリからはこう言われた。
「通商協定の方は、私共としましても強制するものではありませんのでフィリピン伯様のご随意のままにやって頂いて構いません。銀の取引自体ならば商人を通すだけでもできますし、わざわざこの国の否定的な宮廷を翻す必要はないですからね」
その言葉は私のことを心配するような意味合いも含んでいた。まあ、確かに失敗したところで銀の取引自体は神屋経由で行えるだろうし鴻臚館構想だって私貿易に流用することはできる。そう、朝廷との交渉は商取引上の必須要件ではなく、どちらかと言うとスペイン宮廷向けの得点稼ぎという意味合いの内々の内政事項に近いのだ。勿論、公的な許可はあった方が望ましいが無くても構わない案件でもある。
……ただし。
「えっ? 朝廷工作ならばもう動いていますよ?」
「おや、そうなのですか? それにしてはこの国の王に会えるだけの格式を有する貴族の方々とはやり取りを取っていないようですが?」
「……別に、先に公家衆に接触する必要は無いのでは? 相手が不快に思っている中で正規のルートを使ったところで断られて終わりですよ。
――今、トーレス殿の治療に協力して下さっている曲直瀬道三殿は『御典医』……宮中の医師でもあり、直接、この国の帝に治療で謁見することが可能です」
別に曲直瀬道三を帝への奏請ルートに利用しようとまでは考えていない。ただ、イエズス会に反感なき彼に対して、イエズス会の医療技術であったり、治療方針、ひいてはその根底にあるカトリックの教義に対して理解を深めてもらう。
別に、私達の方から教化を行うまでもなく、私がイエズス会士に口添えすることもなくただ自然体であるがままの姿を見せるだけで良いと思っている。無理に私の望む方向に操ろうとすればするほど、その不自然な動きは不快感として析出するだろうから、今のアンシエタと曲直瀬道三の仲を彼等の考えるままに進めていって貰えれば構わない。
それがポロっと帝の耳にでも漏れ伝われば御の字、そういう類の話だ。策ですら無い。
そうした意図を伝えると、オルガンティノが零す。
「……何と言いますか。フェリペ陛下との個人的な信任関係だけでスペイン宮廷内での影響力を発揮していたマルガレータ殿がそれを仰いますと、異様な説得力がありますね……」
「……後でマテオ・バスケス秘書官に極秘で、宮廷内部の医師の交友関係を洗い直すように提案書を送っておきます」
いや、別にカスティリーヤ宮廷でやっていたわけではないのだけれども……。政治力云々の話はラス・カサスさんとルイ・ゴメス侍従長が勝手に私に責任押し付けてきただけなんだけどなあ。
ある意味、宮廷の切り崩しに実績があると思われてしまっている以上、それを拭い去ることはどうにも難しいようだ。秘密裏にセイノス長官委任で進めているはずのポルトガル浸透工作を除けばはじめての宮廷工作なのに。
*
先の組香の場における縁が、何らかの進展へと至ったのは曲直瀬道三の話だけではない。あの場にて幕臣である細川藤孝と繋がれたことは多大な恩恵があった。
イエズス会士との窓口は基本的には和田惟政である。しかしその和田惟政は同時に織田家取次役でもある以上、相応に忙しい。しかも加えて言えば足利義昭が大和の一乗院を脱出し、六角家庇護の下で矢島御所へ移るまでの間匿っていたのも和田惟政。イエズス会士・織田信長・足利義昭の三者から信任を置かれている状態の彼は相応に忙しい。
それが何を産み出したか。
「また、幕府人事の内示が出ましたか……」
摂津国の守護として以下の人物を命ず。
池田勝正。
和田惟政。
細川藤孝。
伊丹親興。
まさかの摂津四守護の誕生である。史実よりも細川藤孝が増やされている理由は、和田惟政が織田家取次として忙しく守護としての業務に専念できないことを懸念したためだと思われる。
だったら守護代を付ければいいのにと言いたくなるが、京兆家ではないとはいえ細川の名跡を継ぐ藤孝を守護代とするのは義昭として避けたかったのだろう。加えて言えばそれをすれば和田惟政と細川藤孝の間に明確な序列を作ることとなってしまう。
だからこその四人守護体制なのである。一応摂津国は歴史的経緯から本来は細川京兆家が守護として任じられる国ではあったが、管領家でもあるかの家を幕府は警戒し牽制する意図で守護の他に分郡守護のような形で複数人の守護を命じることは度々あった。半国守護と言い、中々に滅茶苦茶なことをやっている気もするが、先例は先例。摂津において複数人守護は問題なく成立するのである。私の知る歴史から見ると1人増えていたとしても。
で、摂津に和田惟政と細川藤孝の拠点が出来たことで、堺の私達とも連絡が取りやすくなった。まあ和田惟政は殆ど摂津には居ないので、彼の分の政務の代行を細川藤孝はしているわけだが。
そういう意味で、私が摂津国において辿れるコネクションに細川藤孝が追加されたことで、事実上単純な割り算では摂津の半分に話が通せるようになった。淀川が摂津と河内の国境を流れている以上、アーノルドが機密地図を残した淀川ルートにおいて更に利用しやすくなったとも言える。
また、話が出たので更に隣国の河内国。
ここも守護の人事が発表されたことを細川藤孝から聞いた。
半国守護として、畠山高政と三好義継の両名が任命。
これも概ね私の知る歴史に似通っているが、しかしこの決定に畠山高政は当初不満を表明したらしいという噂も入ってきている。
曰く、管領である自分と比肩する相手が一国の中に居るのはおかしいだとか、管領代である六角義治も近江半国守護なのだから管領と管領代を同格として扱うのか、など。
実際に畠山高政がそう言ったという確証は取れておらず、あくまでも噂話。勿論信憑性など皆無である。
だが足利義昭からしてみれば、畠山高政は上洛のときに偶然拾った相手に過ぎず、一方で六角義治は矢島御所にて長らく支えてくれて、しかも上洛の計画を一緒に練ってくれた大事な臣下、更には最大兵力を率いてきた織田勢に配慮して管領代で納得したという謙虚さまであるように見えているはずで。
あくまで織田に対する対抗馬としての役割としてしか期待されていない畠山高政のこの不穏な噂を足利義昭が耳にしたら、どう思うだろうか。
勿論これが原因ですぐさま倒幕、となることは無いだろうし、舌先乾かぬうちに三好三人衆側が擁立していた足利義栄の方をやっぱり支持、なんてことは流石に出来ないだろうとは思う。
だがしかし。出来てまだひと月幾許かであるはずの新たな室町幕府は、大方の予想よりも遥かに早く、僅かにではあるものの不協和音を奏で始めている。