第52話 冬月香
今から行う『組香』という遊びは、ものすごく俗に言えば香りのクイズ大会である。
クイズと一口に言っても、早押しクイズや4択クイズ、○×クイズというように様々な形式があるように、『組香』の中にも形式があってその1つが『冬月香』という形式なのである。
ルール説明を聞いていると、『霜』『雪』『氷』『月』というのは香の種類なのだが、香の名前ではない。言ってしまえば、A・B・C・Dの4つの香があります、ということとほぼ同義だ。雅さもへったくれもなくなってしまったが。
この『冬月香』では、最初に『月』以外の香りを嗅ぐ……じゃなくて、聞かせて貰える。先の喩えで言えばAからCまでは一回サンプルを知ることが出来る、ということだ。
そしてサンプルを試し終わった後は本ステップとして、A・B・Cの香それぞれ3つずつの9つと、香りを知らないDの香1つが以降ランダムに、そしてどの香なのかは知らされずに登場する。合計10回の本番の中で、サンプルで香りを聞いていないDの香が何番目なのかを当てるゲームなのである。
しかし、不寒斎省巴は次のように語る。
「……重要なのは、正しき香りを当てることにあらず。此度の『冬月香』ならば、香から冬の月を見出すことにございます。今回ご用意した『霜』『雪』『氷』『月』はいずれも冬の訪れを感じさせる逸品を選び抜いております。
そして今回は初心のお二方が居りますれば、形式ばったやり取りよりも、兎角皆が楽しめる一席となりますように願っております。連衆の皆々方においては多少思う処あるやも知れませぬが、どうかご容赦を」
そう言うと、細川藤孝、曲直瀬道三、今井宗久の3人は静かに、しかし完璧な所作で一礼した。
その姿を見て秀吉が動く。
「……ですが、冬の月と言われましても。残念ながら、私には学がありませぬ。精々、冬に月を見た所で、美しさなどよりも肌寒さのが思い立ち早く家に帰り寧々……女房の作った温かな汁物を肴にして、どぶろくでも飲みたいとしか思えませぬなあ」
木下秀吉という男の性質が集約されているかのような一言だ。
この発言は、素朴かつ純朴であるがために物事の本質をかえって見通せる――言ってしまえば『学のある人間』が憧れとして、同時に想定しうる『学の無い人間』の姿が見え隠れする。
つまり秀吉は、この座における役割を的確に把握してそのような『学の無い人間』として意図的に振る舞うことで彼等教養人からの歓心を得るに至っている。
しかし、畢竟するにその役割を意識的にこなしている以上、少なからずは常人よりも遥かに教養も『学』というものを然りと有しており、彼が自身を貶めるほどに『学が無い』わけではないということは念頭に置かねばならない。
そして、ここに集まる教養人のいずれも一流と言っても差し支えない相手ばかりなので、そうした秀吉の在り方を看破していると考えていいだろう。そしてそうした役割で振る舞うことによって、この一席を秀吉なりに盛り上げようとしてくれている、と彼等は理解する。
そうであるからこそ先の秀吉の答えは、好意的に受け止められる。
「いやいや、冬の寒々しさと月が織りなす寂寥感が、温かな食事や家族と非常に良い対比になっておられます、木下様の感性は素晴らしいかと」
「いえいえいえ! 将軍・足利義昭様に茶湯でもって仕え、堺の会合衆を取り纏めている、皮商いの納屋の当主であらせられる今井彦右衛門殿には私など到底及びませぬ――」
「木下様。今しばらくは俗世の身のことはお忘れになる約束でしたな……」
「……おおっと、すみません! 宗易殿……あいや、田中殿」
利休は自身のことを『田中』と呼んだことに満足そうに頷く。一方で秀吉のことだから、注意されることは分かっていた上で今井宗久を褒めた気もするんだよなあ、これ。
そんなやり取りを尻目に、曲直瀬道三と細川藤孝の何気ない風を装ったとんでもない会話を私は聞いてしまった。
「冬の月と言えば……『山の端は 名のみなりけり 見る人の 心にぞ入る 冬の夜の月』。私はこの辺りを想起いたしますがいかがですかな、細川殿」
「ほう、大弐三位ですか。名分だけに囚われず、正しき真贋を見極める目を有している辺り、流石の当代きっての色と恋の駆け引き上手と知られた女流歌人だと感じ入りますね。
また、心に入る月とは『心月』とかけていると思うとまた味わい深い……」
……うーん、和歌バトルとかいう異次元格闘技は専門外なのですけれども。
とりあえず、その2人の会話を漏れ聞く限りでは大弐三位は紫式部の娘であり、歌のおおまかな大意は『世間一般に素晴らしいと言われている月が入る山の端ってのは評判だけで、実際のところ見ている人間の心に入ってくるのは冬の夜の月の方だよ』という逆張りの歌なのである。とはいえ、細川藤孝が話す『心月』――月のように澄み切っており清らかな心持ち――という要素は同時に悟りの境地に至ることを意味し、その部分を加味するとおそらくこの月見をしていたであろう場所が寺のような場所だと推定することができ、景色の良さという要素だけではなく、月見会場となった寺すらも婉曲に褒めるという高等テクニック……と解釈することもできるようだ。
正直歌の素晴らしさとかよりも、細川藤孝と曲直瀬道三のがめちゃくちゃ考察していることが怖い。和歌1つの単体で見たら31文字と少ないから、無限に解釈の余地があるパターンなのだろう、これ。
*
思わぬ教養の暴力を喰らってしまった私であったが、しかしまだ香道に入ってすらいない。
不寒斎省巴が話す。
「まずは『試み香』から。
最初は『霜』の香になります。こちらは沈香ですね。まずはお手本を見せますので、見様見真似で構いませんのでヴァルデック殿からお願いいたします。聞き終わりましたら隣の方にお渡しください」
あー……私が正客だからトップバッターなのね。そして省巴の所作は左手で湯呑ほどの大きさの香炉を持って、右手は上を覆うように被せ、親指と人差し指の間のスペースに鼻を近付けて香りを聞いている。まあ、何となくやり方は分かったので、模倣してみて『霜』の香を聞く。
木を燻ると聞いていたからてっきり燻製みたいな匂いを想像していたけれども、全然違う。あるいは線香などとも全く違う。
近い感覚で言うのであれば、お寺の香りと言えば良いのだろうか。しかし単純ではなく説明が難解だ。少なくとも木って言われて思い浮かべるものからはかなり離れている。
「……『霜』は鹹が少々強いですね」
「今井殿、お鋭いですな」
そうかこれが鹹。
つまり、塩辛さが特徴的な香りなのね。
全然、分からないぞ、これ……。
内心の動揺を隠しつつ第2の香炉。今度は『雪』。
「『雪』は、先程の『霜』とは異なり、白檀を使っております」
へえ、そもそも木自体が違うのか、でも木の香りの区別なんて気にしたことなんか無いしなあ、と思いながら鼻を近付ける。
――確かに、香りが違う。
何が、どうと言うと中々に説明に悩むが、とにかく最初の『霜』のものと『雪』とが違うことが認識できるほどには差異がある。香りの性質がどう、というよりもこちらの方が何となく薄い、とでも言えば良いのだろうか。素人の鼻でも何となく分かるってことは劇的な違いなんだろうな、これ。
そして第3の試み香――『氷』。
「『氷』は、『霜』と同じく沈香ですが、別の香木でございます。細かいことを言えば『霜』は真南蛮、こちらの『氷』は伽羅です」
真南蛮とか伽羅というのは性質というか産地というかで区分する指標みたい。それ以上詳しいことは分からなかった。
うん、これも1つ前の『雪』とは異なる。
ツンと来る、とまで言うと言いすぎかな。後は、ごくごく僅かだけど何となく木というよりも花っぽい香りだ。蜜の香りと言うと誇張になるけれども、木と言われると不思議な感じ……って『霜』でも『木とは違う』って考えていたな、私。
というか、2個前の『霜』と比較するのは無理じゃないかな!?
2つを直前直後で比較すればもしかしたら違いが分かるかもしれないけれども、3つを同時に検討するのは難しいし。それが狙いなのか、この『冬月香』って遊びは。
だが。ここまではお試しだ。本番ではない。
「では、ここから本題です。今皆様に聞いてもらった『霜』『雪』『氷』の香3種をそれぞれ3つずつ計9つと、また別の香である『月』1つ。あわせて10の香を順番を入り乱して皆様にお出しします。
――是非、『月』が何番目の香であるかお考え、楽しんでいただければと思います」
さてここから、今、予習した3つと未知の『月』の香を順番をシャッフルにして出す本番へと入る。
*
まずは1つ目の全く未知の香の匂いを聞く。
……。
……。
あ、これ、詰んだわ。全然分からん。
そして半ば投げやりになりながら香炉を回したら、執筆の千利休が私に質問をする。
「本来は、ここで此方の名乗紙に、今の香が『月』であるか否かを記載していただくのですが……。この国の民では無いヴァルデック様に筆記までお手数をおかけするのは……」
そこには和紙と硯と筆があった。
まあ、書こうと思えば書けるけれども、会話だけならまだともかくとして筆記まで出来ることがバレるのは色々不味いか。というか書くとしたら楷書しか書けないから、やめておいた方が良さそう。
とはいえ、自分で文字を書かないことにしても先程の香が『月』か否かを判断する必要がある。でも全然分からなかった。当たる確率は1割ではあるけれども、しかし人間の心理として一番最初にいきなり正解を持ってくるとは考えにくい。
ということで私は首を振る。一応これで意思表示としようか。
次に2つ目。1つ目とは若干違うように感じた。
これ、全部の内訳は分かっているのだから10個の感覚をまとめて謎解きすれば、もしかしたら行けるのではと思ったが、よくよく考えてみるとこの時点で2つ目が『月』か否かの答えを出さなくてはならないのでその手法は使えない。
となるとやっぱり確率で攻めるしかない。1つ目の解を暫定的にAとして、Aは『月』以外だと仮定した。そして2つ目はAではないと思う。となると、この2つ目が『月』である確率は、A残り2つも除外できるから7分の1。うーん、違うでしょ。
3つ目。2つ目と同じ? 違いを掴み取ることができなかった。じゃあ『月』ではないのかも。
4つ目。これは3つ目のものとはそれなりに違っていた。何ていうのだろうか、こうして考えると3つ目って結構特徴的だったのかもしれない。4つ目は、何というか無個性だ。となると、これが『月』? あ、でも『雪』ってパターンもあるか。いや、実は『氷』と『霜』が並べて匂いを聞くと全然違った可能性か?
……分からない。とりあえず保留としたいがそんな抜け道は無いので、とりあえず違うとしておく。
5つ目。これは先程の4つ目とかなり似ている。でもどこか違うような気もするし、気のせいかもしれない。ただ、1つ目をA、2つ目と3つ目をB、4つ目をCと判断している以上、5つ目がA、B、CのいずれでもないDだとすれば、もうこの5つの中に『月』が出てきてしまっている。あくまで自分の感性を信じればという話だが、そこを疑うとなると何の意味もなくなるので感性は取り敢えず尊重する。
あるいは、4つ目と5つ目が同じもの――Cだとすると。『月』は1つしか存在しないことから、Aもしくはまだ出てきていないということに。
……出てきていない可能性はあり得るか。先延ばし。
6つ目。これもまた5つ目に似ている。しかしほんの、ほんのわずかにだけれども先程は感じなかった『甘さ』に似たものを感じた。フルーティーとでも言えば良いのだろうか。そうすると5つ目とも4つ目とも違うことになるのだけれども……うーん。でも先程と違うのならば、もう他に候補は無いのでこれが『月』としなければならない。
「――この6つ目が、『月』であると。私は考えます」
そして残り3つ。
7つ目。6つ目とは違って香りが濃いような感覚。
8つ目、7つ目に似た感覚。
9つ目、8つ目にこれもまた似ている? いや、ここで3連続はおかしいぞ。何か違うのか?
10つ目。これも9つ目に似ている。えぇ……もうどうなっているんだ……。
最後の聞き分けが全くできないまま終了。途中までは何とか違いが分かっていた気がしたのだけれどもなあ、同じものは3つしかないのに4連続で似た香りと判断してしまったら私の鼻が信用ならないことの何よりの証左となってしまった。
「ほお……4つに割れましたね……」
不寒斎省巴の言葉に、実に楽しそうな笑みを浮かべながら頷く千利休。そりゃ、そっち側は楽しいだろう。まあ、とはいえ。最初に不寒斎省巴も言っていたけれども、正解するゲームじゃなくて香りを楽しむ遊びだし。
まあ一応、6つ目と予想した私の鼻がどれだけ信のあるものなのかは聞いておこう。
――そして、不寒斎省巴の口から結果発表が放たれる。
「……『月』の香は、真那賀で苦・鹹の中に僅かな甘がございます。
5番目の香が、『月』の香でございました。……細川殿と今井殿が見事的中なされておりますね」
意外と惜しいところまでいっていたような、別にそうでも無かったような……。確かに5番目で悩みはした。悩みはしたけれども選ぶまでには至れなかった。
これで、終わりかと思ったら、千利休から次のような話が出てきた。
「本来の組香は、これでお題となった証歌を紹介してお開きなのですが、この『冬月香』の面白きところは的中なされた方ではなく、惜しくも間違えた方が『月』に何を見出したのか、というところで1つの景色が生まれます」
そう言えば、最初に『香から冬の月を見出すこと』が重要だと言っていたな。であれば『月』を『月』と見出した正解者よりも、『月』に何か別の物を見出した不正解者の方がフォーカスが当たるのか。……正解すれば万々歳、間違えたらそれはそれで更に深みへと至れる、やばい、ちょっと奥が深くなってきたぞ、この遊び。
で、そうなれば当然、正客でありながら不正解した私の解に話が飛ぶのは自然の摂理である。一応この場は私の季節感の感じ方のために生じたものなのだから。
不寒斎省巴は粛々と、私が『月』に一体何を見出して、そしてどのような景色が生まれるのかを解説してくれた。
「ヴァルデック殿は、六の香に『月』を見出しましたね。これは……『雪』の香でありました。
この『雪』を見出した情景は非常に有名な歌が本邦にはございます。古今集にも勅撰されております、坂上是則の歌です――」
そして。その歌は私も先の世で聞き及びのある歌であり。
この歌こそが、私の今後の進退に多大な影響を与えるものとなる。
◇ ◇ ◇
朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに
吉野の里に ふれる白雪
◇ ◇ ◇
――童話の『白雪姫』とは、全く異なる『白雪姫』の物語が産声を上げた瞬間であった。