第49話 大うすはらひ
「思わぬこともありました。墨俣で斎藤勢の抵抗が軽微で、もしやと思い私は稲葉山城まで兵を進めれば、そこにはほとんど補修が為されていない稲葉山の姿がありました。
だからこそ、強攻し……落城させました」
話を統合すれば、竹中半兵衛から斎藤勢が城を奪還したタイミングと前後して秀吉が墨俣の放棄された砦を占領。それを取り戻しに来た斎藤勢は、直前まで半兵衛の指揮する稲葉山城を攻めていたこともあり疲弊していた。だからこそ、秀吉は信長が来るまでの間、守りに徹することができた、と。
更に斎藤勢の脆弱さに目を付けた信長は、そのまま稲葉山城まで反転攻勢し電撃的に落城させた。
……うん、出来過ぎだ。全てが奇跡的なタイミングで噛み合っている。その悪運の強さこそが信長と言ってしまえばそれまでなのだが、このストーリーすらも私にとっての『一夜城』エピソード、即ち何かしら誇張され、情報に加工が為された対外用の物語なのだろう。
「……それで斎藤勢は滅んだ、と? そういうわけですか」
「いえ、居城を落とされたとはいえ美濃に斎藤の名は轟いておりますので、以後、龍興殿は東美濃を中心に我等に対して反抗を続けておりました。犬山の織田信清殿とも連携されて随分と手こずりましたが、ようやく今年に入って目途が立って上洛という運びに……」
あー……。先手を打って稲葉山城こそ落としたが、それで斎藤家が即滅亡したわけでもなく、後回しにしていた犬山織田家と連携されたのか。墨俣一夜城と稲葉山城早期陥落というイベントがあれど、そちらを優先したせいで歪みも生じてはいる。私の知る歴史とどちらが良かったのかは分からないが、それでも今結果として出てきている成果は2年早い上洛という行動に結実しているわけで。
突拍子もないことをした割には、事後対応は嫌に常識的というか。
「さて、少々私のことを多く語りすぎましたね。貴殿のような高貴な身分の御方に我等織田家のことを知っていただけるのは光栄であれど、本題に入りましょう。
……概ね話としては伺ってはいるのですが、認識に差異ないか改めて貴殿の口からお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。まずは、前政権で認可されていた京における布教許可の追認を。
そして、我がフィリピンとの通商に関する協定をお願いしたく。既に通商に関しても博多にて実務担当者との折衝は行っております」
「ええ、そうですね。まずは副将軍としてお答えしましょうか。
京の布教許可……これを幕府として出すのは、おそらくそこまで難しくは無いでしょう。足利義昭公も、先代である兄君の義輝公路線の踏襲になりますから乗り気です。
そして通商交渉に関しては確たることは言えませんが、既に実務者同士での協議を行っているので、そこを強調していけば追認に近い形ですが、幕府としての何らかの回答は出せるかと思います」
あれ、想像以上に好感触だ。というか、この様子ならばもしかして私が日本に来てやること終わった? 後はこの常識人っぽさの残る織田信長に任せておけば何とかなるのかもしれない。
だからこそ、続く言葉は聞きたくなかった。
「――但し、『幕府』としては、ですが……」
*
「――キリスト教の布教拡大に対して、朝廷が不快感を示しております。帝の御意向がどこまで含まれているのかは私には皆目見当もつきませんが、それでも朝廷を支える公卿の方々……あくまで伝え聞く限りではありますが、好意的な反応は見受けられません」
朝廷がキリスト教に不快感を示している。
全く分からない話でも無いのが困る。私の知る歴史の中だと、永禄の変にて足利義輝が倒れた後に、朝廷の綸旨によってイエズス会宣教師の退京処分がなされた。色々と既に捻じ曲がっているこの戦国日本でも、その起点が墨俣一夜城であるとするのならば、おそらくその辺りの大勢に変化はないはずである。実際にトーレスとアルメイダが堺に居り、しかも私が入京する折に宣教師は行かない方が良い、と助言をしているところからも、おおよそ同様の処分が為されていると推定ができる。
史実においてその決定が更に覆るのは、足利義昭・織田信長上洛後。両名に謁見したフロイスの尽力もあって、信長から宣教師の京都滞在に関する朱印状と義昭からは再度将軍からの制札を出して貰ったことで覆る。ただし、その後信長が京を離れた隙に再度朝廷から宣教師追放の綸旨が出されているのだ。
結果的には、この幕府と朝廷の対応の乖離は、幕府側が押し切ることで何とか宣教師滞在許可の方向性で固まるものの、朝廷側は終始一貫してキリスト教の布教に否定的な姿勢を崩さなかった。
「……幕府としては、朝廷の意向に逆らっても問題無いのですか?」
「問題が全く無い、とまでは言えません。だからこそ、大枠としての行動策定は出来たとしても、幕臣と義昭公が一丸となって統一的な行動を取ることは不可能でしょう。そして、それはある意味で貴殿にとっても都合が良いことはありますよ」
足利義昭が容認姿勢であり、副将軍である織田信長も私達との関係強化に対して推進を志していることから、幕府内部の大勢としては我々の味方ということにはなるものの、それは統一行動を行えるほどに意見が一致した動きにはならないと。まあ、あんな幕府人事見せられてしまっては、そりゃバラバラにはなるよなあとしか思えないし。
しかし、バラバラだからこそ幕府内にも、反宣教師というか反カトリックのような立場の人間は必ず居るわけだ。それを信長は逆手に利用して、朝廷の意向を汲んでいる人員が幕府内にもいることを明確化して決定的な対立を避けようとする方針なのである。この辺りの気配りの仕方、本当に織田信長なのかと言いたくなるけれども、当面の指針としては私としても異論はないし都合も良い。
「……で、そうなると。幕府内における我々に対しての反対派の急先鋒となり得る相手は誰になるか分かりますか?」
「朝廷との関わりと信任がある武士で、ある程度意向を汲み取りつつも、我々幕府中枢と敵対せぬ綱渡りが出来る人間など、並大抵ではなき幕臣の方々の中でも一握りしか居りませんね。
――松永久秀殿、かと思われます」
松永久秀の名が出てくることは薄々察していた。先の綸旨による宣教師追放の実務者となったのもこの松永久秀であるからだ。彼は三好長慶の存命中から、足利義輝と三好長慶の認めた京におけるカトリックの布教許可について、朝廷側の人員より1563年段階から宣教師追放に動くように働きかけられていたが、当時は幕命を尊重するとして拒否。永禄の変にて将軍空位となってから、再び動き出した朝廷による再度の依頼により宣教師追放にて実務的な働きをした。
反カトリック的な立ち位置であるにも関わらず、ある意味では交渉の余地もある男。それが松永久秀なのである。朝廷は手駒として活用できる戦力として、幕府としては完全に反カトリックに靡くことなく実利でギリギリの綱渡りが可能な清濁併せ呑む人物として、松永久秀を双方信任している、というわけである。この一面からも松永久秀が今の幕府にとって必要な存在であるのは明らかだ。
「一度、堺に戻り宣教師の方々と話を合わせてから、手を考えようと思います。あ、堺と言えば日比屋了珪殿が良しなにお伝えするように……」
「日比屋殿の一件は此方の松井友閑に一言言っておきましょう。
それはそれとして宣教師の方々ともよく話し合ってください。幸い此度の一件で貴殿に関しては、宣教師の布教許可が出ていないにも関わらず入京するという先例が出来ました。
ある意味では宣教師と国外の貴き使者の切り分けを行ったわけですが、これに対する朝廷の反応も見ることができるでしょう。私としては助力を惜しむつもりはございません、また再びこうしてあいまみえる日を心からお待ちしております」
結局、本能寺での対談は、私の要望については朝廷の動向次第、幕府の好意的中立という事実上の白紙回答に終わり、一旦この結果を持ってイエズス会士の面々のところへと戻ることとなった。
「――では、貴殿の帰路についてなのですけれども。松永殿が河内・和泉国の三好勢と交渉のために軍勢を差し向けると言っていたから、副将軍として声はかけてありますよ」
「え、でも松永久秀殿って今の話だと、宣教師のことを……」
「常識的に考えても、相対する相手のことは一度簡単にでも知っておくべきかと思いますよ。特に松永殿は幕命に背いてまでいきなり襲い掛かるというのは利無くば決してやらない御方ですし」
それって、私を斬る利があれば殺しにかかるってことですよね!?
相手のことを深く知るというのは確かに常識的な言い回しだけれども、そのために今後敵対可能性のある人物と会う機会を設けるって、絶対可笑しいって!
しかも今回の対談の感覚からして、私に好意的印象を抱いているっぽいから、これ完全に善意の申し出だよね、きっと。
……何というか、最後の最後で『織田信長』らしい側面が信長から見えた……ような気がした。
*
「いやはや某も是非フィリピン伯様にお会いしたいと思っておりましてな! 時間があれば茶などを馳走したいところですが残念ながら主命の最中、せめてこの土産を献上いたしますので、折を見てこの松永、足利義昭様並びに三好義継様が臣、松永久秀を良しなにお願いいたしますぞ!」
「は、はあ……ありがとうございます。こちらの桐箱がそのお土産、でしょうか? 中身をお伺いしても?」
「これはですな、選りすぐりの茶器ですぞ。只天目の茶碗とそれに合う黒塗りの台を併せたもので、かつて堺の町衆との朝会で絶賛された逸品で御座ります。必ずやフィリピン伯様の身代に決して見劣りせぬものだと確信しております。
何、価値を介さぬ者がおれば、この松永久秀の名を出せばよろしい。ひとたまりもなくひれ伏すでしょう」
本能寺での会談後、私の麾下の軍勢の再集結を待つためにしばしの休息を取った後に門から出ると、歳を感じさせない快活さと押しの強さを見せるご老体が、そこには居た。
随分と気さくな御仁であるこの人が、松永久秀であるようで。また何というか『織田信長』とは違う感じでイメージとはかけ離れたタイプで来た。乱世の『梟雄』か、三好の『忠臣』かというまあ両極端で評価がぶれる人であるが、今の印象だと只の話好きの多趣味なお爺ちゃんである。
まあ、明らかに怪しくて嫌な奴が、讒言であったり謀略を孕む甘言を口にしたところで、相手にされる訳がない。だからこそ、謀将と呼ぶべき人物こそ表層は好人物だったのかもしれない。というか、その表の顔という仮面であるはずのものと深層の部分がほぼ一体化しているからこそ人を響かせる言葉を紡げるのかもしれない。
更に松永久秀の言葉は続く。
「フィリピン伯様の軍勢の皆々方には、某の配下の者と同行して頂きたい! そして、フィリピン伯様が馬に乗れるかどうかは分かりませんでしたので、一応輿も用意いたしましたが、どうなされますかな?」
兵たちもその身振り手振りと通る声で通じぬ言葉で話しかけている様子に、一切邪気の無い老人という印象を抱いて、言葉が全く通じていないのに明らかに慣れぬ言葉の通じぬ異国に居るとは思えぬ程にリラックスしたような姿をみせる者がちらほらと出てくる。……一瞬で言葉すら通じぬ兵相手に人心掌握させてみせてきた。
それは確かに、これ以上ない程の松永久秀の才覚による本人確認であった。
「……輿でお願いいたします」
流石にそれだけの才気を見せられて少し言葉が引き攣ったものの、輿を試すことにする。神聖ローマ帝国の伯爵家の出で生まれながらにしての貴族なので馬に乗れない訳ではない。そういう訳では無いのだけれども、流石に京から堺までの長距離を馬で乗る訓練はしていない。だから大人しく輿を使わせてもらう。単純な興味もある。
ちなみに、グレイスは普通に馬に乗った。シカツナは徒士として同行することに。
ちなみに、道中三好勢や野盗の類には出くわすことはなかったことを付け加えておく。それが松永久秀の威光によるものなのか、それとも三好三人衆側の凋落を示しているものなのかの判断は付かなかったが、その道中で強く感じたことが1つだけあった。
……堺に到着したらちゃんと馬に乗る訓練しよう。船酔いには慣れたはずだったのに、輿の揺れ方は全然勝手が違った。もう、乗りたくない。