第5話 貢の銭
騒然とした場を鎮めたのはやはり、王であるフェリペ2世であった。
「……以前、叔母上の屋敷で似たようなことを話したことがあったな。
あのときは、異端を全て殺すか? という問いであったか」
「ええ。陛下は、それに対して『異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい』とお答えになられましたね」
おそらくこの場で口を開けることのできる人物は私とフェリペ2世以外には居ない。異端審問と隣り合わせの現状で、それでも尚穏やかに話し続ける私達2人はまさしく異様であった。
「それを覚えているということは、少なくともプロテスタントを救わんとする意図からの発言ではないのだな? ならば、何故。私の眼前にてプロテスタント信仰の黙認などという戯言を語るのか」
私はその言葉に対して即答する。
「――この地、ネーデルラント独立の阻止のため……でございますよ、陛下」
それはスペインにとっての実利というよりも、私利私欲からの提案である。
江戸幕府が『いわゆる鎖国』体制下において交易を継続した相手国の1つがオランダなのである。それは禁教政策の中でもプロテスタントであれば布教活動なしに交易が可能であったという側面と、関ヶ原の戦いの直前に発生したオランダ商船のリーフデ号が豊後で座礁した事件の担当者が徳川家康であった部分に起因している。
即ち。オランダという国家そのものが誕生する目をスペインによって潰して貰えば、日本がスペイン、ポルトガル以外の欧州のパートナーを得る機会は失われ、必然カトリック勢力の排除には消極的になり、スペインの後援を得た上で日本に逃げるつもりの私の安全が保障されるという算段だ。ポルトガルがスペインに併合されることも踏まえれば、完全に日本のヨーロッパ勢力との交易相手はスペイン1国に絞ることができるのだ。イギリスは私が生きている間は、オランダを上回る脅威にはならないし。
だからこそ、織田信長の上洛時の堺支配の踏襲をネーデルラントのアントウェルペンに行うように提案したのだ。……まあ、まだ1556年だから史実通りなら上洛はおろか桶狭間もまだまだ先なんだけど。
つまり、矢銭の要求とプロテスタント信仰の黙認は、堺に対して行った安堵と同時に身内に引き込んだうえでの支配の試みだ。さて、それをどうやって説明するか。
とりあえず、ネーデルラントの独立については私の中では歴史的事項だから口に出してみたが、思えばこの時点で彼等は本当に独立を志しているのだろうか。
しかしフェリペ2世は沈んだ表情を浮かべて次のように語った。
「……父上は、ネーデルラントの生まれ故に、フラマン語やフランス語も話せたが、私は話せない。
そうか、彼等から見れば父上程には親近感を抱く王では無いのだな」
知らないことではあったが、都合が良いのでフェリペ2世の言葉に乗っかる。
「……その上で、プロテスタント信仰の否認が重なるわけです。そして財政再建には増税が伴うでしょう。今、スペイン王国の富が集まるのは、ネーデルラントのアントウェルペンなのでしょう? 親近感の無い王が信仰を禁じ、富を奪うとなれば……起こり得る未来は自明なのではないでしょうか?」
「だからこそ、彼らに妥協して異端の信仰を認めよというのか……」
「短期的にはそうなります。ですが、それはあくまで一時的な窮余の策であり飴に過ぎません。
問題の根幹はネーデルラントがプロテスタントを信仰していることではなく、ネーデルラントそのものに経済的なイニシアチブが握られている状態です。仮にネーデルラントをカトリックに教化できたところで、国際貿易都市としてのノウハウを彼等が握っている限り、必ずやスペイン王家に対して足元を見に来るときは来るでしょう。それを拒めば結局は同じ帰結ですよ」
とりあえず口先だけで語ってみる。実際に正しいかどうか割と二の次だ。とにかく問題を宗教対立にのみに限定してしまえば私の命が危ない。あくまで地域間経済格差の問題に落とし込む必要がある。
カトリックに挑むとは言ったものの、搦め手で攻めるしかないのだ。
「――つまり、プロテスタント容認を餌にしてアントウェルペンの優位性を掠め取れと言うことだな」
「加えて言えば、陛下がプロテスタントへの容認を出す必要すらありません。王家に近しくネーデルラントの諸言語を話すことのできる人物を長に据えて、その下に信仰を問わずネーデルラントの有力者を据え置く……ただ、それだけで良いのです。
それで時間を稼ぎつつ実務層を掌握するのです。カトリックに改宗する者は能力問わず重用することを明確にしたり……あるいは、イエズス会と通じてネーデルラントに新たな官吏育成のための高等教育機関を設置するように折衷しても良いでしょう。
そうした飴を見せつつ、矢銭の徴収を迫れば早々断りはしませんよ、きっと」
さり気なく、改宗者の優遇とイエズス会の役割を入れることで、滅私の精神での要求ではないことと現在の後援者への媚びへつらいの意図があることを示しておく。
特に改宗者への優遇策は、似たような境遇の人をスペイン領内で増やすことで、私への反感を和らげようとする意味もあるわけで。
「……正式な王族ではないが、確か姉上がパルマ公に嫁いでいたか。パルマ公のせいで今、フランスとの関係がこじれているのだから姉上をネーデルラント総督に引き上げても良かろう。
だが、彼の地の宰相は誰にする?」
具体的な名を聞かれても困る。……だってネーデルラントの貴族なんてフェリペ2世とイングランド女王との結婚を教えてくれたエグモント伯しか知らないし。私が沈黙を保っていると、後方から声をかけられた。
「――マルガレータ嬢の策を実行に移すのであれば、陛下。
宰相の名を空欄にした正式な書面を用意して、ネーデルラントの三部会にそのまま手渡せば良いのです」
ネーデルラント側に宰相を選ばせる……その手があったか。しかしフェリペ2世と相対しているために分からなかったが、今の発言は一体誰が……?
「……ほう、面白い。……ルイ・ゴメス侍従長よ、ならば貴殿がマルガレータとともに話を詰めよ」
*
……何だか、厄介なことに巻き込まれてしまった。私としては早い所ヨーロッパから逃げ出したいのに、どんどん泥縄的になってきている気がする。
フェリペ2世の御前を辞去し、侍従長と呼ばれた壮年の男性であるルイ・ゴメスさん? との会談の場がセッティングされるとその思いも強くなる。
どうも、このルイ・ゴメスさん。フェリペ2世の幼少期からの付き合いらしい。傅役……と言うにはどうにも年齢が10ほどしか離れていないので、どちらかと言えば幼馴染とか親戚の兄弟のような面持ちのある主従とみて良いだろう。
で、「あっ、これはまずい」と直感したのが次のひとこと。
「……実は、私は宮廷内で陛下の身辺の世話係をやっておりますが、この度カスティーリャの会計長官をやることになりましてな。とはいえ、財政のことなどからっきしですので、面白き献策を上げてきたマルガレータ嬢に乗っかろうと思った次第であります」
何で、財政の素人を会計長官に据えてんのこの国!? しかも侍従って日本の官位みたいなのではなくてマジの執事的なやつみたいだし……。
そんな執事を財務の偉い人間に据えるとかまるで中世ヨーロッパ……って、ここヨーロッパだったわ。中世なのかは分からない。
「えっと、私も素人なのですが……。というか『カスティーリャ』の会計長官? スペインではなく?」
我ながら嫌なことに気付いてしまった気がする。
そして告げられた言葉はほとんど案の定であった。
「ええ、同君連合とはいえ、陛下はカスティリーヤの王で在らせられますからな。同じスペイン王国内部とはいえナバラや、アラゴンの執政府は別にございますし」
そして気付く。今ネーデルラントを巡って行われている戦争、これが財政を圧迫しているのは明らかであるが、それがスペイン対フランスであるのに対して1つの重大なものを見落としていたことに。
……そもそもスペインとフランスって国境は面しているはずなのに、何でネーデルラント方面だけで戦争しているのだ?
そして、その疑問は2、3の質問を重ねて、簡略化された財政収支の取り纏めに関する報告書の要項のようなものを見せられて氷解する。
「……つまり。戦争における財政支出は、カスティーリャ単独で出している、と。
だからスペイン対フランスと銘打ってはいるものの、実質的にはカスティーリャ単独でフランスを相手に取っている……」
「正確に言えば、新大陸側のヌエバ・グラナダ王国、ペルー副王領そしてヌエバ・エスパーニャ副王領の3地域はカスティーリャに属するので、軍は出せぬでも資金提供による戦争協力は出来ますがね」
逆に言えば。スペイン領に南イタリアやナポリなどがあったが、そこはおそらくカスティーリャに属しているわけではないから財政のあてにはできない。
……まあ、何か色々と納得した。
先程侍従長が出したナバラとアラゴンとは、カスティーリャと連合を組むスペインを構成する『国家』なのだ。
フランス国境線の過半がこの2地域に集約されている以上、フランス側としては無理に山脈を超えてスペイン本国に攻め込もうものなら、彼等の参戦を煽りかねない。
スペインとしては自国領土でありながら、同時に緩衝地帯としての役割も同時に果たしているのだ。……でも地図見て何となく察したのだけれども、これアラゴン側に『バルセロナ』とか私でも聞き及ぶ地名があるけど、ここの税収は使えないのね。
すなわち、スペインは本国であるはずのイベリア半島部分の税収を全てスペイン政府とも言うべきカスティーリャが使うことが許されず、カスティーリャ地域だけで戦っている。そりゃ、財政破綻もするわ。
そして、スペイン没落の要因の1つでもある銀相場の大暴落も、大方これに起因するものだ。どう考えてもカスティーリャ領域だけで財政を維持できないから、カスティーリャの王冠の下にある新大陸から銀を運ばざるを得なかった。
……で、その銀決済は通商院というスペインの行政機関を通じてカスティーリャ本国に船団は一度寄港しているもののそこで積み荷が全て下ろされることなく、ネーデルラントの『アントウェルペン』で行われる。富がカスティーリャに完全に還元されてはいない仕組みだ。がカスティーリャの財政のためには銀を掘り続けなければならない。……うん、衰退もするわけだ。
むしろこの財政状態でよく黄金時代を築いたな、という感想しか出てこない。
何となく思い浮かんだのが甲州金の採掘で、大大名となった武田家。彼の家も武田勝頼の代には金山の収量の低下が発生していた。武田家が戦国日本の金相場を破壊したかは分からないが、それでも、鉱山収入を充てにして軍備を拡張して繁栄を築いたが、その鉱山収入がひとたび崩れることで衰退に入ったという意味では近しいとも言えよう。
ある意味、これ以上なく中世然としている統治体系だ。
「……まあ、それはどうこうできるか分かりませんが。
あと1つ。この資料中にある『クルサーダ』って何ですか? どうもカスティーリャの主要財源のように見受けられますが」
「ああ、クルサーダですか。これはイベリアの外の出身である方には馴染みの無いものかもしれませんね。レコンキスタの時より、イスラーム勢力との戦いに備えるために教皇猊下から認められている『一般カトリック信徒から徴収の認められている』税金の一種です。
国内のカトリック教会が代行して集めて、我々は教会から徴収することができるものです」
「……今の教皇猊下ってフランス側に付いていますよね? これって廃止されたりしないのですか?」
「……ローマの外交官に照会してみます」
――そこは、心配ないと言ってほしかった!
「ま、まあともかく。ルイ・ゴメス侍従長にお任せすれば、何とかなるのですよね? その、カスティーリャの会計長官なのですし……」
「そこのところはご安心を!
そのために陛下は、何も仕事をせずに財政危機を放置していて機能不全となっていた財務諮問会議の代わりに、より迅速に事態に対応できる財政特別委員会を設置して、私をその責任者に任命してくれましたからな。
これで、財務諮問会議を使わずとも財政改革に着手できるのです!」
何で、そういうところだけ妙に現代的というかお役所仕事というか、中世っぽくないんだ……。
似たような組織が並存して権限が分散されることの恐ろしさは、私は戦国時代で知っている。朝倉宗滴亡き朝倉家の一門同士の不和であったり、関東公方と関東管領の対立であったり、あるいは小牧・長久手で盛大に失敗した三河入りや、逆に脆く崩れた織田信雄軍など本当に枚挙が無いのだ。
――ということで。
私は決断した。
……スペインの財政問題を何とかしようと思ったら、一生をかける一大事業となってしまうから、早い所誰かに押し付けて放置するしかない!