表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/104

第48話 本能寺対談


 本能寺、織田信長。

 その2つの言葉で浮かぶ事象の意味を敢えて語るまでも無い。だが、気になることはある。


 というのも私の知る歴史では織田信長は何度も京に足を運ぶことになる割には在京用の館をほとんど持っていない。旧二条邸である押小路烏丸殿を譲り受けて1577年に建てた『二条御新造』を本邸にしたこともあったが、これも2年で皇太子へ献上。ちなみにこの『二条御新造』が献上後は『二条新御所』と名を変え、ゆくゆく本能寺の変にて織田信忠が籠城する場所となる。そして『二条御新造』以後、新たに信長屋敷として造成された場所こそ『本能寺』なのである。

 しかしその『二条御新造』時代以前は、全て仮住まいの宿に泊まっている。


 だからこそ、その本能寺に呼びつけられるのは自然……かと思えば、案外そうではない。私の知る歴史の信長は、京での宿を決める時に、そのほとんどを妙覚寺に定めていた。

 妙覚寺と本能寺、前者は日蓮宗四条門流の妙顕寺から離脱した分派、後者は法華宗本門流と差異はあれど、どちらも宗旨としては日蓮宗に属する。しかし妙覚寺は意外なことにも美濃の斎藤道三との係わりが強く、道三の子が住職に就くほどだ。不思議な縁もあることながら、信長がその妙覚寺を宿として使い続けたのにもそうした背景があったのかもしれない。


 ……としたときに、私が気になる点は自明であろう。その妙覚寺ではなく、本能寺が選ばれているというのは、それ相応に不自然であり不可思議なのである。実際、本能寺の変のネームバリューのおかげで、信長と結び付きやすい本能寺であるが、妙覚寺の方が信長に圧倒的に近いのである。特に、現時点では信長屋敷の造成なんて検討すらされていないだろうし。


 そして、不自然である……ということは、会談場所に本能寺が選定されたことすらも何らかの意図が含まれていると思っても、それは考え過ぎではないであろう。



 西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路。それらの道に囲まれる形で本能寺は存在する。

 京の街が碁盤の目であり、大雑把に言えば二条通を境界線として上京と下京に分かれている。ちなみに信長がよく宿泊した妙覚寺は下京ではあるものの、二条通を臨む上京への出入り口であったという側面もある。


 更に、この時代の京は、度々地政学上開けているから守りにくい割に攻めやすいだとか、一大消費地であることから街道も抑えていないから干上がるために守りにくいとは言われるが、当時の人間も重々に把握しているので、上京と下京は双方ともに街をぐるりと囲むように惣構そうがまえが作られていて堀や土塁で防御を固めていた。本能寺はそんな下京の惣構のギリギリ境界線上に位置する寺だったりする。まあ基本、寺と寺を繋ぐように土塁等は作られているようなのだから必然ではあるけれども。


 そんな寺に私は、グレイスと、シカツナと僅か数名の供廻りを引き連れて中に入る。周囲には『五瓜に唐花』……織田家の家紋をあしらった兵が巡回をしていた。足利氏一門であることを示す『揃い二つ引』ではない。まあ、そこに意図があるかは分からないが念のためチェックはしておく、あくまで全ての巡回兵を見たわけでは無いので指標にすらならないとは思うが。



 会談場所として通された堂宇の一室は板張りの部屋であれど、それなりに広い。


 そして、その部屋の下座に既に1人の男が、入口に背を向けて座っていた。私達が入ってきた音はおそらく聞こえていようが、その男はこちらに振り向く素振りを見せない。



 ――この時の私は下座に座る男が誰かということを疑問に思う前に、直感的に『試されている』と感じた。


 だからこそ、こういう言葉が出た。


「私のことをスペイン国王であらせられるフェリペ陛下の代理人として遇するのであれば、そのまま空けて頂いている席に座りましょう。

 ですが、フィリピン伯という貴族……ないしは只のマルガレータ・フォン・ヴァルデックとして接するのであれば、そちらに座るわけには参りません」



 無言の沈黙が場を支配する。

 その永劫にも思えた一瞬の沈黙の後に、男はゆっくりとこちらに振り向く。顔を見るに印象としてはほとんど同世代。髭は少なく、この時代の人間としては清潔感のある人物。そして武士とは思えぬ程に華奢な体躯。しかしてその所作はまさしく武士であることを体現するかのように芯があるものであった。


 私の中では、この男の正体がおおよそ確信へと変わった。


 そして男は声を出す。


「貴殿はまさしく一国を差配する人物。

 何故、上座に座ることを躊躇うのでございますか」



 やや甲高い声でありながら、驚くほどに通る声であった。そして、敬語。


 そんな言葉に対して、私は詭弁を押し通す。


「仮に、私が一国を差配しているとしても。

 貴殿が差配するのは、尾張と美濃――二国ではないですか」


「……貴殿がそうおっしゃいますのであれば、僭越ながらこの場は私が折れましょう。何せどちらかが折れねば、このまま押し問答になりますからな」


「そうして頂けると助かります」


 そして、護衛の兵とシカツナは部屋の外に待機してもらい、グレイスだけ入ってすぐの場所に座ってもらう。そしてその間に上座へ移動した男は、出入り口を守る兵に指示を出し退席させた。


 そして私が下座へと座ったことで、この広い空間にはたった3人だけ残される形となった。


「足利将軍家が臣、副将軍を拝領しております織田信長と申します。

 貴殿が、フィリピン伯マルガレータ・フォン・ヴァルデック殿で相違ありませぬな」



 そこには想像以上に物腰が丁寧で、明らかにこちらを格上として遇してくる織田信長の姿があった。




 *


 何というか自己の中にあった織田信長のイメージとかけ離れた存在に、私は少々混乱する。

 もっと破天荒で、形式を嫌い、高圧的で、尊大で、畏怖すべき対象で、恐ろしい存在として『織田信長』を認識していたが故に、まさか私を形式上でも敬うかのような態度を見せる織田信長を全く想像だにしていなかったのである。


 勿論、時代の枠に囚われない革新主義者であり強烈なカリスマ性を有する覇王としての信長像が、そこまで当てにならないことは知っている。ただ、それを頭で理解していても、目の前の人物を『織田信長』として受け入れることに強烈な違和を覚えてしまうのだ。


「堺に到着したのも束の間、急に京へと呼び出してしまったこと。誠に申し訳なく思います。ですが精強な三好軍が跋扈する河内国で老練な彼等を出し抜くには拙速であっても、こうするしかないと思いまして。

 非礼は承知しておりましたが、何卒ご容赦いただきたく……」


「あ、いえ。別に、京には最初から赴こうとは私も考えていましたので、それは別に構わないのですが。……というか、博多で聞いていた話と異なり幕府が再興していて驚きました」


「春先から足利義昭公の幕臣の方々と協議は重ねておりますが、端から見れば分かりにくいものだったかもしれませんね。かくいう私も貴殿が日本を訪れたことは最近知りまして……ある意味お互い様と言えましょう」


 本当に調子が崩される。この常識人・織田信長は極めて好人物で話しやすいけれども、それでも弟・織田信行を誅して、史実に無い副将軍就任のために本来の主家である斯波家の乗っ取りまでしている……というか斯波武衛家の当主の義銀って尾張追放されていたけど、どうやって乗っ取ったんだ。

 『織田信長』というネームバリューの持つ色眼鏡を差し引いたとしても、ただの好人物であるだけ、ということがあるはずないのだ。


 そして、発言の中に気になる言葉を見つけた。


「……私のことを以前からご存知で?」


「ええ、そうですね。2年程前よりお噂の方はかねがね」


「……ちなみに、どちらでその噂を伺ったのか、聞いてもよろしいでしょうか」


 私がそう言うと、信長は少し破顔させ悪戯をするかのように、何も言わずに、床を軽く二度叩いた。


 その時、私は何かの仕掛けが作動したりだとか、誰かが部屋の中に入ってくるのか、と一瞬考えたがどうやらそういう訳では無さそうで。しかも、その後に言葉が続かないから、どうやら先程の所作が私の質問に対する答えらしい。


 床……? 床が噂を、ってこれは違うか。

 じゃあ床ではないとしたら、何を指して――って。



「――本能寺」


 此処――本能寺は法華宗本門流の本山である。

 そう。法華宗なのである。種子島に鉄砲が伝来した際に、中国系商人であり倭寇でもある王直とのやり取りは漢文でなされたが、その種子島側の通訳として抜擢されたのは法華宗の僧侶であった。


 法華宗本門流の歴代貫主は、地方布教を重視しており、種子島、瀬戸内から北陸など広範囲に分布している。そしてその法華宗本門流の広域情報ネットワークは、此処本能寺にて集積されるのだ。

 中でも、私にとってとりわけ大事なのは種子島と瀬戸内。瀬戸内は博多と通じ、種子島はその王直の例が示す通り、倭寇が現れることもある。

 どちらも倭寇に通ずる。そして。


――私も島井殿も、明の商人より伺いました。曰く『呂宋の先で一夜で城を作った女将軍』が居るとか何とか。今韓氏だとか、南蛮の平陽公主だとか、そんな異名も付けられているみたいですよ。


 神屋紹策が倭寇から上のような情報を仕入れていたように、本能寺も似たような話を倭寇より手に入れ、そして本能寺経由で信長の下まで私の情報は伝わっていた。


「2年前。貴殿の噂を聞いたときの私は狂喜乱舞いたしました。

 ――サン・ペドロ一夜城。よもや、異国には一夜で城を作る達人……それも女子が成し遂げることがあろうか、と。


 そして、それは美濃との戦に疲弊していた我等の天啓となり得たのです。

 永禄7年に我が配下の木下という男に命じて作らせた『墨俣』という地での一夜城。それには貴殿の話を大いに参考にし、そして長らくの宿敵であった斎藤家を崩すことが叶いました。ですから、貴殿――マルガレータ・フォン・ヴァルデック殿に是非、お会いしたいとその頃合いからずっと思っておりました」



 ――永禄7年、1564年の墨俣一夜城。

 伝承として残される1561年でも1566年でもない、全く未知の一夜城。



 今の幕府の謎を解く最後のピースにして最初の転換点は――墨俣一夜城伝説にあったのである。




 *


 でも、そこを起点だとすると色々おかしな点がある。

 なので、先に他のピースから埋めていこう。


「……副将軍となったのも、私が通商と外交交渉目的でこの国を訪れることを知っていたから?」


「左様です、まあ他にも目的はありますが貴殿に関わりのある部分ではその通りでございます。日ノ本という国家を通じた交渉事に参画するためには、どうしても幕臣という立場……それも上位の役が必要でした。

 ですので、尾張で閉塞されていた斯波義敦様の猶子となり斯波の名跡を継ぐことを義昭公に認めていただきました」


 うわあ。随分とアクロバティックな手法を取ったな。まさかここで斯波義敦の名が出てくるとは思わなかった。2代前の斯波武衛家の当主で今川と交戦して敗北して捉えられた挙句に今川氏親の慈悲によって、剃髪され尾張に送り返された御仁だ。以後は影響力は失っていたはずであったが、そうか。……そもそも生きていたのか。



 そして、改めて墨俣の話に戻す。


「……一夜で城を築くなど、やはり不可能ではないでしょうか? 私の噂にしても実情は――」


「ええ、全く貴殿のおっしゃる通りでございます。常識的に考えましても、城を作ることをたった一夜でこなす……。それが出来るのは最早神仏の類でしょう……おっと、すみません。仏の話は禁句でしょうか」


「……この場には宣教師の方々は居ませんから別に構いませんよ」


 やっぱり常識人っぽさを出してくる部分はペースを乱される。決して不快ではないのだけれども、的確にこちらのピントというか歩調がずらされているような感じだ。


「――失礼。ですので、貴殿の『サン・ペドロ一夜城』のやり方は極めて参考になりました。先に戦だけ勝っておいて、後から城を築く。

 そしてその城をさも一夜で作ったように喧伝させるというのは実に面白いやり方だと感じました。だからこそ私は木下にこう命じたのですよ。

 『放棄された墨俣砦を奪取して、そこを改修して陣にせよ』……とですね。貴殿のやり方を真似させていただきました」


 墨俣の地には砦があったらしい、という話は確かに私も聞き覚えがあった。そしてそれが度重なる織田と斎藤の戦で放棄されているという話も。

 高々倭寇と本能寺僧侶の又聞きでしかない私の噂話から、そこまでの裏背景までを把握すると言う点は常識人に見えるこの信長から垣間見える異常性だ。

 そしてそれを自己の作戦に組み込み模倣する。それは、確かに凡百の人間が思い付こうとも実行には移せない。常識人でありながら異常性も両立している。


「ですが、それでも……。一度墨俣の地で勝利する必要がありますよね?」


 私の一夜城作戦の最大の欠点は、城よりも防備の薄い陣で戦に勝利する必要があるということ。そして一夜城として喧伝するためには、その勝利が少なくともはたから見ても明らかにお味方の大勝利でなくては効力が薄まる。

 そもそも私はラジャ・トゥパスの軍勢と比較して圧倒的優勢であり、これらの一夜城作戦は戦後統治と派遣艦隊人員を納得させるための政治的要素を満たすためのものに過ぎなかった。墨俣一夜城伝説のように軍事的勝利をもたらすものではなく、むしろ純軍事的に言えば、行動を阻害するものとも言える。


 だからこそ墨俣の砦を改修したくらいで、果たして斎藤勢を退けるほどの戦力を秀吉が有していたか、という疑問。

 これに対しての信長の回答は、こうであった。


「貴殿のおっしゃる通り勝たねば何も意味がありませぬが、寡兵で勝つのは至難の業。ですが永禄7年の夏には、それを成し遂げる絶好機があったのですよ。

 私と木下は其処を突くことに運良く成功したまでです」


 永禄7年の夏、1564年の夏に何があったか。この時期の斎藤家で一体何が起きていたか……。



 あっ、ああ……そうか。アレか。


 ――竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り、それが1564年の春。

 そしてそれが斎藤龍興によって奪還されたのが夏のことだ。講談などでは諫め諭す目的で城を奪い、後に返還したように語られるそれは、ただ西美濃三人衆と共謀して城を乗っ取ったはいいものの、半年に渡る斎藤龍興の反抗作戦に屈して逐電したと言われている。


 そう。そのまさに稲葉山城を斎藤龍興が奪還し、竹中半兵衛が逐電したその前後で、墨俣に兵を入れたのであれば。

 稲葉山城を攻めるのに注力していた斎藤軍の差し向けた兵を、秀吉が信長の援兵が来るまで持ちこたえることは……できるかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 短気粗暴は後世の猿、狸のイメージ戦略に利用されて作られたものを歴史研究家擬きがそのまま認めたので、そのイメージが定説化してしまってますしね。 他の大名、武将もかなり実像と違うことがある。 …
[一言] 更新お疲れ様です。 思った以上にフレンドリーだった、後の覇王&第六天魔王信長・・・・ 伝聞情報の断片から彼女の思惑や戦略を類推し、かの地の攻略に生かす頭の回転の速さや柔軟な姿勢が。 『彼女…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ