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第47話 題目の巷


「オルガンティノ殿。我等はフィリピン伯様に付いて行かぬ方がよろしいかと存じます。宣教師が今の都に入るのは危険です」


 コスメ・デ・トーレスの一言で、私の入京へイエズス会士は同行しないことが決まる。ということで、カスティリーヤ宮廷へのメッセンジャーを兼ねるミケーレ・ルッジェーリも堺に滞留することとなる。

 連れて行く主たる面々はグレイスとシカツナ、そして地図作製者のアーノルド・メルカトル。松井友閑と護衛の織田兵先導の下、京へと赴くために……堺の町へ来た時に上陸した海岸へと連れて行かれた。


「あの……松井友閑殿? 此方は海では?」


「はい。本願寺の通行許可は頂きましたので、海路から淀川へと至り、そこからは皆様は巨椋池まで船で上っていただく手筈になっております」


 道中、松井有閑に色々と聞こうとしても「それは、殿の口から直接お聞きください」だとか「フィリピン伯様との対話を殿は楽しみにしておりますから、それを某が奪うわけには参りませぬ」とか、のらりくらりとこちらの情報収集を躱してくる。意図的に情報を絞ろうとしているなのか、あるいは本当に織田信長のためにそうしているのかの判断は付きにくいが、確実に言えることは、この松井有閑から何かの情報を引き出すには一筋縄ではいかないであろうということだ。


 しかし、その中でも先の一言、堺から京へ上るルートに海路から淀川を経由するルートには考えるものがあった。淀川を上って京に行くこと自体は別に特段おかしなことではない。しかし、わざわざ石山本願寺から許可を取ってまで海から入るルートを選択するのはちょっと妙だな、と考えて思い至る。


 足利義昭が将軍宣下を受けたのが僅か3日前なのである。そして日比屋了珪情報では摂津国には未だ三好の残党が居るという話だ。そんな状況で、果たして摂津よりも京から遠い和泉、河内の両国の平定が完了しているわけがない。だから、その2国を通らないためにも摂津経由になるが、そもそも摂津も残党が居るので航路を掌握している本願寺に頭を下げる事態となっているのだ。

 そう考えると、堺政所を名乗る松井有閑の立場が急に怪しくなる。先行して堺に送られたにせよ、正式に室町幕府から職を割り振られるのはどんなに急いでも3日前の将軍宣下当日が限界だ。


 ……これ、どんなに好意的に考えても堺の町は幕府方の点の支配にならざるを得ない上に、堺がそのような状態で自治を捨てるとは考えにくいので、むしろ現状では松井有閑はほぼ孤軍奮闘で、三好残党にあらがわねばならない。

 大勢としては幕府方のが圧倒的優勢っぽいので、後々三好の残党はおそらく掃討されるとは思うが、現時点で堺を抑えるのは流石にかなり無理をしていると言わざるを得ない。


 となると、松井有閑は堺を長く離れるのは下策なのでは、と思いそれを疑問として口にする。


「京までは、松井有閑殿がこのまま先導していただけるのですか?」


「いえ、私は石山までですね。そこから先は他の担当者に引き継ぎいたします。ご迷惑をおかけ致しますが」


「いえ、都合というのはあるかと思いますので構いませんよ。

 ……して、その引き継ぎ相手の名を伺ってもよろしいでしょうか? 相手の名を知らぬというのも失礼にあたるかもしれませんので」



 私がその言葉を告げた瞬間、松井有閑は答えに一瞬窮したが、どうせ石山に着いたら分かることだと思ったからなのかは分からないが、この質問に対しては閉口しなかった。



「――石山からは本願寺の僧官と私の配下の者が引き継ぎます。京に辿り着いたら武井夕庵殿がお取次ぎする手筈となっておりまする。京にて殿の補佐をしております人当たりの良い方ですよ」



 ……よし。ようやく決定的な手がかりが掴めた。

 武井夕庵。茶人であり織田信長の祐筆。そして信長の側近の文官として活躍した人物だ。だが、そこは今は重要ではない。

 この武井夕庵――道三、義龍、龍興と三代に渡って美濃斎藤家の祐筆として活躍した人物でもある。


 そのような斎藤家の中核に居るはずの人物が、織田信長に仕えている事実が示すことはただ一つ。



 ――美濃斎藤家は、既に滅亡している。




 *


 私は松井有閑と別れた後、淀川の船上で考える。


 美濃斎藤家が既に存在しないと前提がひっくり返れば、色々と納得できることがある。織田信長の美濃守護の一件もそうだし、私が河野島の戦いだと誤解した織田の上洛軍が美濃勢に妨害されなかった理由も既に、美濃を平定しているのであれば問題なく繋がる。


 つまり、歴史の分岐点は美濃の早期制圧にあるのだ。しかし、何が影響して美濃は織田の手中に落ちたのであろうか。1つ謎が解けても、また次の謎が襲い掛かる。


 そんな詮無きことを考えていると、グレイスが呟く。


「……この川に入ってからというもの、度々船を止めさせられますね」


 この時代、短い間隔に関所が置かれるのは当たり前な話だが、そもそも領地が入り組んでいるのも1つの要因なのであろう。とはいえ大量の関が全て関銭を徴収する用途でもないし、そうした徴収目的の関であっても全部立ち寄る必要があるわけではなくスルー出来るものも多い。まあ、だとしても絶対数がそもそも多すぎるので、大部分を幕府と石山の威光でスルーしているのにも関わらず、頻繁に停船する。まあ、お金払うのは幕府か織田家なのだろうから別に良いけれども。


 こういった関を減らしたのが一応、織田信長というわけではあるが、別に物流の向上とかの視野でやったというよりかは、軍事的な目的で利用される防衛設備としての関所を敵対勢力のものから優先的に廃止しただけであり、今私達が止められているような経済的なものはあまり手を付けていない。それが畿内で為されたのは秀吉の時代である。

 というか、根本的に織田家特有の政策というわけでもなく他大名家でもやれる範囲で関銭徴収目的の関所は削減方向に進んでいる。一番関所が乱造されたのは応仁の乱の頃だったと言われているし、更にその昔の後醍醐天皇の建武の新政の折には淀川の関所の多くが一旦廃止されるということも行われているために、関所の廃止も設置も伝統的でかつ比較的普遍的な政策だったり。


 とはいっても、信長の意志がどこにあるにせよ、幕府が再興してから高々三日四日で手が付けられる代物ではないのは明らかなので、今後どうなるのかは別としても少なくとも今回の私の入京時に解決される見込みは無いだろう。


「アーノルド。……今、止められている関所についてメモしている?」


 急に話を振られたアーノルドは若干驚きつつもこう答えた。


「あ、はい。欧州の家紋よりかはこの国の家紋は象徴的で分かりやすいので、関に掲げられる旗などに描かれている家紋も併記させてあります。

 船から見える山などの位置も書き残してありますが……こんなに止められるルートを使えるものなのですかね、マルガレータ様?」


 後から淀川水域のメモ書きを確認してみれば、太陽が出ている間は観測もひっそりと行っていたようで、経由した土地を通過した時刻なども併記されていた。あまりにもヤバすぎる軍事資料が出来上がってしまっていたので、イエズス会宣教師も含めて口外厳禁の機密指定を命じたのは言うまでもない。




 *


 瀬戸内での順調な航海とは打って変わって、幾度も停船されつつ、夜になれば朝まで泊まることを何度か繰り返していたら大きな湖に出た。巨椋池である。

 淀堤の脇を通りながら、伏見で下船した私達は、そこで待っていた武井夕庵とともに連れられる。


「……武井殿。我等はこれからどちらへ向かえば良いのでしょうか」


「フィリピン伯様の兵員の宿の手配も済ませているので、数名のお付きの方を除けばまずは彼等を宿へと案内しようかと」


 うーん、洛中に数十人規模でも兵を引き連れて入るな、ということか。幕府軍の治安維持の為とも言えるし、私の実働兵力を縛るという意味合いもありそうにも思えるが、とはいえ宿が手配済みなのは助かる。


「宿の場所は、どこか教えていただいても?」


「勿論でございます。和田惟政様の屋敷ですね」


 流石に場所も規模も分からないが……。まあ考えていた中では私達に最も配慮がなされたものではあった。寺とか言われたら難色を示さざるを得ないし、イエズス会に理解のある和田惟政を指定してきたのは、しっかりと受け入れ態勢を整えてきたな、という印象だ。

 しかし、和田惟政がここまで幕臣の中でキーパーソンになろうとは思ってもいなかった。いや、確かに足利義昭の一乗院脱出の折には面目躍如の活躍を見せていたし、その後も信長・義昭双方に寵愛される人物ではあるけれども。


 ……ちょっと探りを入れてみる。


「……ですが、良いのですか。此度の面会の一件、副将軍である織田殿のご意向かと思われますが、幕臣であらせられる和田殿の屋敷を我等の宿代わりに使っても……」


「ああ、それなら心配無用ですよ。

 何せ、和田惟政様は織田家取次役ですからね。多少の融通は利くのですよ」



 おっと、ここにきて新情報。和田惟政がどうやら幕府と織田家の橋渡し役になっている。これは私の知る歴史とは若干異なるが、そこまで妙な話というわけでもない。

 1566年の5月、今年のことにはなるけれども、和田惟政と細川藤孝の両名は尾張に下向して上洛に関する交渉を行っているのだ。その後、数ヶ月の間上洛交渉を担い尾張に残り続けたのは細川藤孝で、足利義昭からの指示を受けて定期的に尾張と矢島御所を往復するのが和田惟政であったはずである。

 そこから織田方と関係を深めていくのは本来細川藤孝であったはずが、どうも織田信長に気に入られたのは和田惟政であったようである。


 しかも取次役として役職を与えられるまでは史実の細川藤孝も至っていないわけで。やはり、和田惟政の動きも妙に異なる。


 ……あれ? 既に和田惟政ラインで幕府と織田家との連絡網が出来ているなら、明智光秀が台頭してくる余地が無くないか、これ。



 まあ、今は特に関係してこない明智光秀のことは色々と考えの隅に置いておこう。先に考えるべきことは山ほどある。目の前の武井夕庵から話を聞くとか。


 そういえば、大事なことを聞いていなかったな、と思って私は次の質問をした。


「……あの、松井友閑殿に聞き忘れてしまっていたのですけれども、織田殿とはどこで面会を行うのですか?」



 その質問には、ごくあっさりと、そして誰しもが知っている地の名を出してきたのである。



「ああ、殿はですね。上洛してからは同じ場所を宿にしていますから、そちらへと向かっていただけると助かります。

 ……その、キリスト教徒であるフィリピン伯様をお招きするのは少々心苦しいのですが――本能寺。


 そちらの法華宗の寺を会見場所として頂ければ私共といたしましては大変助かるのですが、よろしいでしょうか?」

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― 新着の感想 ―
[一言] メルカトルさんちのアーノルド君がいるのはほんと助かる。 これは史実を知ってるということ並みのアドバンテージでは。 信長の最初期の寵臣、小姓兼馬廻りと言う異例の人物、 岩室長門守の姉妹が和田…
[一言] ヨーロッパから逃げても日本は日本で普通にいつ殺されるかわからない修羅の国という事実…… 本能寺は燃えているか
[一言] まさか、フィリピンの一夜城から着想を得た秀吉が本当に創作のはずの墨俣一夜城を作ってしまい、美濃攻略が早まったのか?
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