第41話 戦国日本に降り立つ
日本への通商派遣が現実味を帯びたことで、人員の選定に着手することとなる。今更、3年前より私に付いてきているメンバーの中でそのことについて驚きをみせる人物は少なかった。大本を辿れば、パドヴァ大学時代から公言していた話でもあるし。
まあ確定なのはイエズス会の面々に、私の臣下であるグレイスとアーノルド。とはいえ、あまり人員を引き抜くと、今度はフィリピンの政情不安定化に直結してしまう。それに数百の軍勢を引き連れていたら、確実に戦になる。フィリピンで最悪戦になっても、後々の統治に生きる可能性もあったので、許容したし状況次第ではこちらからも仕掛けていたりしたが、日本ではなるべく軍事的衝突は避けたい。
理由は単純で、グレイス配下の損耗を補填するのが大変だからである。今回の主目的はあくまで通商である。それだけなら博多商人に買い付けを行えば終わりだしそもそも他の人に任せれば良くないか、という話だが、爵位を有していてかつカスティリーヤ宮廷への伝手があるのだから、もっと踏み込んで国交を樹立して正式に許認可を得た上で大々的に交易路を構築したい。
とはいえ、懸念事項はいくつかある。まずその交易許認可の先例は、おそらく日明貿易となり得るので幕府の管轄事項であるが、私の知る歴史だと、今の時期って丁度永禄の変――足利義輝が三好勢に弑逆された事件――の後であり、将軍が空位になっているタイミングであったはず。
足利義昭……還俗したばかりなら名は義秋であろう彼と、三好家の擁する伝家の宝刀、平島公方家から足利義栄……こっちも将軍宣下前だから名は義親だっけ、そんな2人が次の将軍位を求めて相争っている最中だったと思う。
だから、今仮に上洛しても幕府そのものが無い、なんてことになりかねない。とはいえ、これは不都合も多いがある意味では好都合な面もある。何故なら日明貿易は15世紀末より細川氏や大内氏に業務委託されて公貿易としての側面が損なわれていくから、私としては幕府名義での許認可を受けたとしても、ぶっちゃけそこまで信用できないからだ。
好都合な点とは幕府権力の不在を理由に、その辺りの不信を隠しつつ交渉が行える点。不都合は言わずもがな権力機構が空白のときに手を打つと、後々反故にされる危険があるのでひと手間が必要となる点だ。
民間貿易の体裁なら、それでも十分に機能するとは思うが、民間でやるなら別に博多商人を通して終わりでも良いのである。
では何故私が公貿易としての立ち位置を望むのか、と言えば。
――言ってしまえば、イエズス会からのオーダーという裏背景。
「日本の在地で布教している末端のイエズス会士が、ポルトガル商人と日本人商人との通訳に入ることで頂いていた寄進を生活の糧としていたのですが……。どうもここのところ、中国船に同乗して貿易を行う商人が増えたようで、現地の商取引が漢文で交わされて――」
これは補佐官になったフアン・デ・イディアケスには話していない、オルガンティノからの言葉だ。
即ち、ポルトガルの日本への貿易方針が、ポルトガル船を直接往来させる手法から中国系商人とタッグを組む方法へ変わりつつある、ということだ。実際のところ、今までのやり方から大幅に変わったというよりかはむしろ割合や傾向の問題であろう。種子島への鉄砲伝来時もポルトガル人は王直の船に同乗していたから、この地域での海上交易では度々あり得ることなのである。
しかし、それをオルガンティノが私に敢えて告げたという事実。つまりは、その話のどこかに私の関与があったはずで、そしてそれはすぐに気が付いた。目の前のオルガンティノがフィリピン・日本準管区長に任命されていることである。
ジョゼ・デ・アンシエタがブラジルの現地政権といざこざを起こし追放されるくらいには、新大陸のポルトガル勢力とイエズス会は関係悪化の一途をたどっていた。……で、あればアジアでも同様のことが発生していてもおかしくないのでは?
そして、それは巡ってみると私が管区の変更を助言したところに帰結するのである。だからこそ、イエズス会としては、フィリピンが安定化したのであればなるべく早急に交易船を派遣して欲しいわけで、これは洗いざらい補佐官に話すわけにはいかない部分でもあり、秘匿性と案件の特殊性を考慮した上での日本渡海なのである。無論、銀の囲い込み自体も建前ではなく本気ではあるのだけれども。
とはいえ、折角自分で行くのだから外交的な実績も積み重ねるつもりだ。現状、室町幕府に求め許可されていたのは足利義輝によって認められた京での布教許可に関してだけだ。これも永禄の変で立ち消えになっているはずだが。なので交易に関する畿内との取り決めは、実は存在しないのである。
それを認めさせるという意味合いで、まず1つの実績。そして、これに幕府以外の権力機構――即ち、朝廷をも巻き込むことで日明貿易を上回る緊密な関係を築き上げたという実績に仕立て上げる。辺境の島国の動静がスペイン中枢の琴線にどこまで触れるかは未知数だが、そんな辺境であっても、明という近隣の覇権大国よりもスペインをパートナーに望んだ……という感じに情報を恣意的に私の方で捻じ曲げれば、多少は実績として評価されるはずだ、多分。
そこまでやれば、一応マッチポンプ的に発生したイエズス会の陳情が公にバレたとしても、何とか相殺分込みでプラス評価に持っていけるはずだ。
また、大規模な兵力派兵で恫喝するという手法もあるにはある。しかしアジア地域におけるスペインからの援軍が望めない。新大陸からでもマゼラン海峡経由でないと太平洋以外の艦隊を派遣することができない上に、今居る太平洋艦隊は遠洋航海可能な船は交易用途でオーバーフロー気味なために転用できないためだ。なので大兵力の移動は、フィリピンの軍事的空白を生みかねない。
フィリピンでの反乱勃発、そして鎮圧失敗のコンボが即座に政治的な死に繋がるものである以上、兵力を過度に抽出するのは得策ではないために人員はある程度絞る必要がある。無論、外交使節として舐められない程度の兵力は必要だが。
それに人員を絞りすぎると今度は、日本で物理的な死の脅威を防げない可能性が高まるわけだし。
としたときに、外交使節団として適切な規模というのは、室町幕府には実は先例がある。将軍就任祝賀等の目的で遣わされ入京している『信使』の存在である。最後に将軍と引見できたのは足利義教の頃であったはずだが、その後も義政や義尚の代にも企図されていて九州近辺までは来ていたものの海難や日本の政情不安が重なって中止となった信使もあったようである。
……確か、足利義政の代のときに派遣が途上で中止となった人員が100人くらいだったはず。だから、仮に室町幕府の内部にある直近の外交使節の記録をひっくり返して出てくる数字はそれくらいだろう。まあ今、幕府機能していない可能性が高いけど。
となると、ガレオン船2隻で150名前後。単独艦での航海はちょっとリスキーなので、これくらいが妥当か。勿論、この人数全員が上洛するわけではない。また滞在が長期化するのであれば、フィリピンとの人員交代のローテーションも組まなければいけないし、あるいは私が九州から畿内に上るときにも、兵員の選抜は再度必要となるだろう。
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「……で、ダトゥ・シカツナ殿。貴方までどうして一緒に準備しているのですか? 貴殿はブール王国からの客将ですので、付いてくる必要は無いのですが」
「それは、無論忠義を示すためでございます。フィリピン諸島の外でもブール王国在り、という活躍をお見せできれば我等は安泰ですからね、フィリピン伯様」
すっかりスペイン語をものにしたダトゥ・シカツナは、どうやら日本にまで付いてくる算段らしい。言葉尻だけ捉えれば臣従勢力の客将として殊勝な心掛けのようにしか見えない。
「建前はともかく、本音を言ってみてくださいな」
「そりゃあ此方に残るよりかは、フィリピン伯様に付いていった方が面白いことが起きるに決まっているじゃないですか」
「……やっぱり、自分の享楽のためですか」
「いえいえ、ちゃんとスペインの方々の利も考えておりますとも。
――フィリピン伯様の臣下であらせられるグレイス・オマリー様の軍勢。精強でありますが、易々と補充できないのでしょう? 少数でも我等を臣下として扱えば、スペインの軍勢もフィリピン伯様の軍勢も損なうことがないと存じますが」
つまり補充可能な兵力という側面に価値を見出しているわけか。確かに、それは今の私にとって重要な要素である。とはいってもこのシカツナは事実上のブール王国の後継者候補である以上、そんなに簡単に使い捨て出来る存在でもない。勿論、本人もそれを承知の上で先の言葉を放っている。
ただ……この感じだと、ブール王国側は注意した後なのだろうなあ。それでも強行してきたとすれば、たとえ今ここで断ったとしても、何らかの手段を使って単身船に乗り込んできかねない。であったら、最初から頭数に入れて計算した方が良いだろうと思い、溜め息混じりで彼の同行を認めることとしたのであった。
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1566年の9月の下旬。2週間の航海で2隻のガレオン船艦隊は、口之津へ到着した。セブの出立後は、挨拶にマニラに寄った程度で、そこから先は無補給でダイレクトに口之津まで来た。まあ、太平洋横断に比べれば然したる距離でもないわけで。
そして、口之津という地名が聞き慣れないかもしれないが、島原の港町であり肥前有馬家の領内である。領主は有馬義貞。私の知る歴史においてはまだ現時点では改宗していないが、南蛮交易の利などからイエズス会への忌避は薄めの人物である。
普通、南蛮貿易の交易拠点と言えば、平戸や長崎がパっと思い浮かぶかもしれない。しかし、長崎の開港は2年後の1568年だし、松浦家の治める平戸は宮ノ前事件が発生したことを契機にトーレスが平戸における貿易を一時的に禁止している。
その後は測量などを行い、長崎半島の北部にある大村純忠領の横瀬浦に貿易港機能は移管されることとなる。がしかし、その純忠の弟である後藤貴明が大村家家臣らを使い謀反を起こさせ大村領を平定しようとした際に、軍事作戦の一環として横瀬浦は焼き討ちに遭う。謀反そのものは大村純忠によって鎮圧されたがこのとき港が壊滅していたので、一時的に港湾機能は平戸へと戻る。
その後、再度大村純忠と交渉を行い長崎湾の外側にある福田浦を提供される。が、今度は松浦家が障害となる。松浦家側からすれば平戸に一瞬戻したのにも関わらずすぐに大村家に靡いたことで、背信行為のように映り、以後松浦の船団が略奪するようになっているという泥沼の様相を示している経緯がある。
としたときに、口之津は島原まで入らなければならないので、交易路としてはやや不向きではあったが、それ故にそうした南蛮交易の利を求めた争いからは無縁でいられた地域でもある。その安全性を買われたのかどうかは分からないが、ここにはアルメイダの開いたイエズス会教会がある。私の知る歴史では丁度2年前の1564年より現状の日本布教の責任者にあたるコスメ・デ・トーレスが居たはずなので、まずはここで話を聞こうと思い日本初上陸地として選定した。無論、イエズス会の面々も口之津寄港には大いに賛同した、そりゃ手間省けるものね。
そんな口之津の町が見えてきたとき、そこには木造の掘立小屋や蔵などが立ち込める街並みの中にヨーロッパ建築が融合する国際色豊かな港町が広がって……いなかった。ぱっと見た感じは完全に日本の古い港町って光景である。
まあ、そりゃそうか。建築に長じた人物を呼ばない限りは街並みは現地のスタイルに合わせる他ないわけで。ある意味、ものすごく無難に落ち着いた話でもある。
とはいえ、目を凝らしてよく見れば、寺のように見える建物の上には、確かに十字架らしきものが飾られていたりして、こちらの文化をしっていれば何となくそれっぽいものはあるなあ、と認識できる。
その建物の外には修道服に身を包んだ男性が何人か居て、こちらに手を振っていた。風格がある人物がその中央に居るけれども、もしかして彼がトーレスであろうか。
まあ、それはともかくとして。
ひとまずガレオン船を港へと接岸させ、口之津の民に歓迎されながら私達は上陸した。
――長かった。
ブリュッセルの屋敷で、白雪姫として継母に暗殺されかけそうになったあの時から13年。紆余曲折はあったけれども、ようやく私は最初期の目標であった戦国日本へと降り立つこととなったのである。
*
「お初にお目にかかります。日本での宣教活動ご苦労様です。
……えっと、トーレス殿、でしょうか?」
「――ああ、貴殿がフィリピン伯様でございますね! どうも、噂はかねがね伺っておりますよ!
おっと、失礼。自己紹介が遅れました。私はトーレス師の下で活動を行っておりますガスパル・ヴィレラと申します。
トーレス師は堺の地にいらっしゃるので、此度は私が代理でご挨拶することに――」
……あれ?
口之津の町にトーレスが居ないってことは、歴史変わってない?