第39話 ラス・イスリス・フェリペナス
一夜で城なんて作れない。いや、城はおろか柵と建屋だけの砦とも呼べない代物であったとしても一日で、とは中々に難しいものであろう。
一夜城伝説として一番有名なのは、秀吉の立身出世に大きく関わったとされる墨俣なのだが、うん。あれはちょっと資料的に怪しいから何とも言い難い。となると北条征伐時に陣城として築城された石垣山城。数万人を動員し80日で築き上げられた総石垣のこの城こそが、豊臣秀吉のスピード建築の集大成とも言うべき代物であろう。まあ、一夜城として伝えられる部分は、完成するまで北条方から見えないように敢えて城を覆い隠す木々を伐採せずにそのままにしておき、城の完成後に伐採作業を行って、北条目線だとあたかも急に一夜のうちに城が出来たと誤解させた、という逸話によるものだ。
全然一夜で城そのものが出来ていないではないか、という感じだが、そもそも伐採作業ですら一夜でやったのかあやふやな部分がある。
とはいえ、そもそも80日で城を作ること自体そのものが、大分規格外なことをやっているのだけれども、やっぱり『一夜城』というありえないワードを目の前にしてしまうと少し霞んで見えてしまうものがある。まさしく伝説であり神話と呼ぶべきものだからインパクトは絶大だ。
一夜ではないにしろ、スピード築城という例で代表的なのは、本圀寺の変の後に織田信長が足利義昭のために作ったいわゆる義昭二条城の存在だ。これも70日程度の早業で建築が終わっている。……まあ、最初の70日でしっかりと作ったのは石垣部分で、後々少しずつ建物の建築・改修を行い、逐次必要設備を整えてはいる。
しかし、私は織田信長や豊臣秀吉のように強力でかつ莫大な実務スタッフを整えているわけではない。だからこそ彼等が築城にかけた時間よりも短い1ヶ月という刻限で出来上がるものは石垣が巡らされた城ではなく……木造の砦と呼ぶべき簡易なものが限界だ。
後は、二条城よろしく逐次的に増築を加えて行き、砦としての機能を整え、ゆくゆくは『要塞』と呼べるような代物に出来たらな、とは思うが、それについては正直数年がかりの事業となるだろう。それは今回の遠征の成否を判断した後に改めて考えれば良いことである。
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1563年3月20日。
我々がフィリピン諸島にて最初に上陸したウラオ族長の居る島であるサマール島、其処へ至ったのが1月23日と記録しているので、おおよそ2ヶ月が経過した。安全マージンを考慮すれば、そろそろこの遠征計画が成功したとしてこの地に残り続けるか、失敗と判断し帰投するのかを判断せねばならない。
先のセブ島における一連の攻略作戦よりおおよそ1ヶ月経過していて、当初の予定よりも多少遅れてはいたものの、例の砦の改修工事は急ピッチで進められ、ひとまず体裁は整った。
どこからどう見ても簡便な砦ではあるけれど、垣盾を突っ立てて並べていただけの部分は手作り感満載とはいえ木造の柵と平門が出来て海岸線側も含めて囲んでいる。そして簡便な櫓や砲台陣地が設けられ、掘っ立て小屋のような建物がその中にいくつかある。そこまでは出来た。とはいえ、内部も外部も資材が散乱していて、ブール王国から続々と送られてくる木材を置くスペースが無くなってきているので、見慣れてくると、城でも要塞でも砦でもなく、資材置き場の仮事務所のようにしか見えてこなくなる。
だが、この1ヶ月の間に、予想に反して私達とセブの戦は大々的に広まった。本来、この砦がもう少し完成するまでは隠さずとも大っぴらにはしないつもりではあったが、ブール王国の海洋大国としての情報の伝播度合いを見誤っていた。特段箝口令などを敷いていたわけではなかったので、私が流布しようと考えていた『一夜で城の如き堅陣を築き上げた』という噂は先行して流れることとなる。
そしてその噂話の真偽はともかくとしても、そういった話が流れることそのものが、少なくともブール王国と協調する何某かの勢力が居て、しかもブール王国側は下に振る舞うことを是認している、という事実を露呈することとなり、フィリピン諸島の中部地域を中心とした今まで関わったことのない他の島々の領主も続々と臣従や面会のためにセブ島を訪れることとなった。一部、ブール王国の方に行った者もいるみたいだが、一元してこちらに丸投げしてきた。……臣従を盾に外交権限が無いとか言って、面倒事を押し付けてきたな。
当初の目論見であった、一夜城伝説にかこつけてのスペインの権勢アピールとは上手く行かなかったものの、とはいえ地域覇権大国たるブール王国を卸す存在が居るという意味でのアピールとなったために、結果的には求めていたスペインの威光を示すことには成功したのである。
穀倉地帯の制圧と戦の後に臣従してきた領主に対しての穀物供出によって、自給が出来るかは現状では不透明だが、とりあえず当面の食糧確保の見通しは経ち、遠征兵員を滞在させ続けたとしても数ヶ月で飢える……ということは無くなった。
そして、その穀物は同時にこの地域における最も重要な戦略資源であり、その生産拠点をスペイン――我がフィリピン伯領の傘下としたことで、今後の取り得る選択肢は大幅に広まった。
それは同時に、ブール王国が我々を裏切ることを極めて難しくすることに繋がり、ブール王国側の情報ネットワークや海上交易路をより一層活用することができるようになった。
以上のことが何を意味するか。
――フィリピン遠征計画による初期入植。ひとまずは成功に終わった、ということである。
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「――フィリピン伯様、少々よろしいでしょうか?」
「……ええ、構いませんよレガスピ殿。一体どういったご用件でしょうか」
私が在地領主との面会を済ませた後の空き時間にレガスピが私の執務室へと訪ねてきた。珍しいと言えば珍しい行動に少々驚きながらも、レガスピをとりあえず話しやすいように座らせる。
「……あの戦から、この地を治めていたラジャ・トゥパスについて少し調べていました」
「そう言えばレガスピ殿の献策で使者を送り、拒絶された後も貴殿は交渉を続けるように言っておりましたね。それで、何か分かりましたか?」
「えぇ……。私も報告を受け取ってすっかり信じ切っていたのですが。ラジャ・トゥパスは、どうもマゼラン艦隊のメンバーを不意打ちで殺害したラジャ・フマボンの息子ではなく、甥らしいとのことです。
どうやら、フマボンの長女を娶ることでスグボの領主としての名分を得て、後継者となったとのようで……」
つまりは従兄弟婚である。亡くなったトゥパスは先代から見て直系血族ではなく、妻に直系血族を迎え入れていたのであった。
従兄弟婚、それ自体は戦国日本にも普遍的に存在する。有名どころで言えば前田利家とその正室まつがその筆頭に挙げられるであろう。その他にも将軍・足利義輝や朝倉宗滴、毛利輝元なども従兄弟婚をしている。
ただし、従兄弟婚は普遍であれど、妻の側が先代当主であるケースというのは途端に激減する。強いて言えば、直江兼続とお船の方の夫婦。これも異説があるので微妙なところだが、直江兼続の父である樋口兼豊は上田長尾家当主長尾政景の家老として仕えていたが、兼続の母となる女性の存在の一説として直江景綱の妹であるお藤が挙げられることがある。
一方で、お船の方は直江景綱の子。だからこそ従兄弟婚となる上に、兼続自身は元々直江家の先代当主であった直江景綱とは直系で繋がっていないのである。
何故、直江家はそのような家督継承を行ったかと言えば、直江景綱の子に男子が居るには居るが幼名だけ伝わり生没年不詳だとか、生後まもなく前妻に子供ごと連れ去られて以後不明とか、中々に意味の分からない状態になっているため、後継者が不在であったからだ。
……とはいえ、後継が居ないくらいのことであれば、別に直江家に限ったことではないし、従兄弟婚などよりもポピュラーな解決策として養子縁組や、それを行った上で実娘を妻に据えるという手法があった。直江家もその例に漏れず総社長尾家から養子を招き入れお船の方と結婚させるという策で後継者を定めていた。
しかし、その養子であるところの直江信綱が御館の乱における恩賞配分のトラブルで、利害関係者からは外れていたのにも関わらず偶然会談に同席していたことで、とばっちりで襲撃に遭って殺害されるという事件が発生する。この時には既に先代の直江景綱も死していたために後継者不在で取り潰しすらあり得る事態だが、直江家が一切悪くない上に、恩賞トラブルという面の原点を探れば当主たる上杉景勝に至ってしまうという危うさがあったため景勝は直江家を存続させることを決断し、正当性を持たせるという観点でも従兄弟婚が執り行われ、兼続が直江家の家督を継承……という中々アクロバティックな背景があった。
あくまでもこれは、戦国日本の事例でありフィリピンでの出来事でもスペイン人の感覚に沿うものであるかも分からない。事実、後々にブール王国のダトゥ・シカツナに尋ねたら、そういった家督継承の手法はこの地では、私が思っている程に珍しいものでもない、と語ってくれた。
だからこそ、考え過ぎなのである。しかし、それが考え過ぎであったとしても、レガスピは次のように推察を立てていた。
「……そうした継承が行われた、ということは。あるいはラジャ・トゥパスの求心力、というのはそれ程集落内で高くなかったのかもしれません。
当主の命でもって、和議を請う……というのは有り得ることかと思いますが、彼等は当主のみならず有力者が全て自害した事実も、それを裏付けているように思えます」
今となってはラジャ・トゥパスの求心力など知る術は少ない。それを知るであろう有力者は皆、死した。だからこそ残された集落民から聞くしかないわけだが、追い込んだ我々がそこまで踏み込んだことを聞くのは私としてはあまりしたくない上に、そこまでのリスクを背負ってまでやることではないと思っている。
しかし、私がそう思うことは、レガスピ自身の考えが誤っていることに繋がりはしないし、もしかすればそこに交渉の糸口があったのかもしれないと悔やむことが間違っているというわけでもない。
……ただ、1つだけ否と言えるとすれば。
「おそらく根本的な部分では、私とレガスピ殿は同じ方向性を向いているとは思います。協調を重んじ、対話でもって事を為す。私も慣れぬ戦に出るよりも、そちらの方が断然やりやすい。
……ただ一箇所だけ貴殿と大きく異なる点がありました。
それは、レガスピ殿は対話の相手を『現地住民』としたのに対して、私が対話が必要であると思っている相手は彼等よりも、この遠征計画に派遣された人員であり、それを後援する者らであったり……カスティリーヤ宮廷であるわけです」
「それはつまり。フィリピン伯様はスペインに信服していない、ということでしょうか?」
「断固として違います、と申しておきましょう。
私の身がラジャ・トゥパスのようになっていないのは、フェリペ陛下の慈悲の心による賜物であり、イエズス会の暖かさによるものであり、そしてレガスピ殿のような優れた行政官や軍人、商人、貴族、近臣……そうした者らに支え続けられてきたから、と言っても過言ではありません。
だからこそ、私は皆様の信任を失う訳にはいかないのです――」
――転向者だから。
という言葉は飲み込んだが、しかし確実にレガスピには伝わったのであろう。彼はしばらく何も答えなかった。
私がスペインを如何に信用しようとも、本当に最終的な部分ではスペインから信頼を勝ち取ることは……できないのである。
だからこそ、私は掲げなければならない。
「レガスピ殿、1つだけ簡単な質問をいたします」
「お伺いしましょう」
「――此処は……何処ですか?」
「……っ。
――Las Islas Felipinas……」
ラス・イスリス・フェリペナス。
……フェリペの島々。
此処はスペインにとって。
ただの熱帯の島々なのではなく。現地住民のための島々なのではなく。領主である私こと、マルガレータ・フォン・ヴァルデックの島々ではなく。
フェリペ2世の島々なのである。