第4話 継母なる神
とにかく、指定された場所へと向かう。
そこはパドヴァ大学内の、大学植物園。10年程昔に作られたらしく、まだまだ真新しい。それでいて、研究目的の植物園では最古となるものだ。
植物園とは言っても観光用途のものではなく、栽培されている植物は薬の材料となるものばかり。
というのも自然採集で集める薬草の類は、医師の植物鑑定知識に左右されて、薬の品質が一向に安定しなかったことをヴェネツィア共和国が憂いたからである。
……と、ここの植物園長から聞いた。
噂をすれば、その植物園長が薬草の手入れをしていた。
「あっ、ファロッピオ教授! お疲れ様です!」
「……おお、マルガレータ殿か。御客人が水辺の方にいらしているよ」
ちなみにファロッピオ植物園長は、植物学だけではなく解剖学や外科医の権威であるらしい。この時代の知識人は多芸だよなあ、と思いつつも、言われた水辺――植物園内にある、円形の水路に囲まれたエリアへと向かう。
そこにはフード付きの修道服を着た老齢の男性が、薬草ではなく、水に浮く浮き草を見つめていた。周囲に人が見受けられないことから、この御仁がラス・カサスさんなのであろうか。
私が近付いてきた雰囲気を察したのか、独白のような口調でもって語られる。
「……薬草は煎じられ、人々を救う薬となる。では、水に浮かぶだけのこの浮き草は、何のためにあるのでしょう?」
それが何らかの宗教的問答であることは察しが付いたが、特に意識せずに自然体で答える。
「水中に棲む小魚の隠れ家に。また直射日光を防ぐので水温の上昇を防げます。……あなたが、ラス・カサス様ですね?」
「……ええ、お初にお目にかかります。マルガレータさん」
「私に会いに来たということでしたが……何用でいらしたのですか?」
そう尋ねると一瞬言いよどむような素振りを見せた後に、こう話し出した。
「……あなたとフェリペ陛下のご関係を見込んでお願いいたします。
フェリペ陛下が就任以後、復そうとしているエンコミエンダの世襲をエンコメンデーロに認めようとする方針を撤回させて頂きたく」
……え、エンコミエンダ? エンコメンデーロ?
分からない言葉がいっぱい出てきた……。
*
エンコミエンダ。それは私にとって馴染みのある言葉で置換するのであれば『切り取り次第』が最も近いと浮かんだ。
初期は、レコンキスタにおけるイベリア半島からイスラーム勢力を駆逐する際に活躍した兵士や有力者への褒賞――即ち『御恩と奉公』のシステムとして確立したものである。これが新大陸進出の大航海時代と重なると、そのような遠隔地を王家で統治するのが、その時点では不可能であったことから、現地の征服者や入植者――エンコメンデーロに信託するもの、これが『切り取り次第』という部分だ。
だがしかし、日本の武士のシステムとエンコミエンダの最大の差異は、委託されるのが土地ではなく、人であるというところだ。
これにはしっかりと理由がある。新大陸に住む人々は、スペインの王位により正式にスペイン(カスティーリャ)の臣民として認められている。だから、制度的には奴隷でも植民地人でもなく本国人と同様の扱いだ。
だからこそ、エンコミエンダはレコンキスタ期のシステムを流用する形で、同じスペイン臣民であるネイティブアメリカンや黒人を臣下として扱う権限となった。それは実質的には鉱山やプランテーション農園での強制労働であったりに繋がる、奴隷と大差ない扱いではあったことは歴史が示している。
しかし、同時に肝となったのが、スペイン臣民としての身分をネイティブアメリカンは他ならぬスペイン王家より認められている点だ。
だからこそ、一般にスペインの『植民地』と呼ばれる地域の経営は常にスペイン内部の知識人からの批判を浴びながらの極めて不安定なスタートとなっているのであった。
もっと有り体に言えば、正式なスペイン臣民である新大陸在住のネイティブアメリカンや黒人に対する奴隷的酷使が許されるとなると、スペイン本国における本国人同士の奴隷的使役関係もまた同様に認められなければならないという制度的欠陥を抱えていたからである。
「我々は王家の方々と協力し、1513年にはネイティブアメリカンを奴隷的拘束から解放し労苦に悩まされることなく教会で神の教えを受ける権利を認める法を成立させました。また1542年には一律で奴隷化を禁止し、現在奴隷の者を即時解放する法も作りました。1549年にはエンコミエンダのネイティブアメリカンを私的な労働に駆り出すことを禁じました。
……それでも、尚。これらの法に違反してまで、数多のネイティブアメリカンの方々はエンコメンデーロによる不当な使役を行われているのです」
ただただ批判の声を挙げるだけではなく、このラス・カサスさんは実際に数多の実績を挙げていた。少なくとも、王家はスペインにおける不当な労働に対して不快感を抱いているのである。
「……何故、そうまでしてもなくならないのですか?」
「ひとえに、遠隔地であることから統制が取れておらぬのですよ。彼等は、都合の良いときはスペインの王冠の下に収まるものの、その実スペイン王家の意図に反して独占的権益を貪っているのです」
すなわち、この時代の最先進国であるところのスペインの統治機構をもってすら、遠隔地の独断専行を法的拘束力によって押し留めることが出来ていない。ここにも植民地ではないことが皮肉なことだが効いている。本国と同等の権利を有するが故に、本国と同様にスペイン王家が発布した正式な法であっても、領内の事情を理由に施行を遅らせることが出来るのだ。それでうやむやにしてしまおうとしている。
更に話を細かく伺うと、先の奴隷化を禁ずる法律を定めた際には、南米のペルーやエクアドル、コロンビアといった現状ではペルー副王領と目される地域にて、コンキスタドールとして有名なピサロの一族が奴隷制廃止反対の大規模な反乱を起こしているとのこと。
結局、4年かけて王家の直接的な介入によって解決はされているが、それくらい面従腹背の姿勢を見せているのがエンコメンデーロであるのだ。
となると、実際スペイン王家側が、奴隷解放などのネイティブアメリカンに対する人権擁護の対応を取っているのは、どちらかと言えばエンコメンデーロに対する統制強化により王権の命令が末端まで届くようにするという統治機構の建て直しの意味合いのが強いのだろう。
ただ、そういう背景があろうとも、目の前のラス・カサスさんのような人権擁護論者と王家は共同姿勢を見せていた。
……フェリペ2世が即位するまでは。
「――するとフェリペ陛下は何故、先例を覆しエンコメンデーロらの手綱を放すがごとく、彼等の権益を拡大しようとするのです?」
多少の歩み寄りの姿勢を見せつつ放った私の台詞は、我が意を得たりといった面持ちで返された。
「実は、先王陛下がかなりの放漫的な財政で、現在もフランスとの戦役で戦費が嵩んでおりますからな。財政再建の目途が立たないことから、エンコメンデーロの献金を当てにしている節があります」
「……となると。その意見を翻すためには財政再建プランを提示する必要があるのではないでしょうか?」
「それが出来るのであれば最良ですが。実は……担当官が言うには極めて深刻な状況であるらしく。このまま戦争を遂行していくと、来年まで国庫が持つかという瀬戸際だと……」
……え? この時期のスペインってそんなに財政危機に瀕していたの?
*
でも、よく考えたら財政破綻という事態が起こり得るということ自体が、曲がりなりにも先進国である証左なのよね。
これが戦国日本だと困窮して困ったら徳政令という流れになりかねないところだし、そもそも『国庫』という概念そのものがあって、『国庫が底を尽きる』という現象を予見できるだけでも、随分と先進的なのだ。
何をすればどれくらいお金が無くなるのかが、大体分かっているというのはそれだけでスペインが強国であることを端的に示す1つの事実であったりする。
しかし、事が財政に関することとなると手出しできる余地は少ないように思える。価値のあるものを一杯生産する、ということが真っ先に浮かぶが、そもそも史実スペインが全盛期を終えて斜陽を迎えた原因が、銀の生産能力の拡大による銀相場の大暴落では無かっただろうか。
そしてスペインの銀鉱山とは即ち新大陸にあり、エンコメンデーロが現地住民や黒人を強制労働させて拡充したものであったはず。つまり、エンコメンデーロの権益を認めるということは人権問題や王権の統治権限を抜きとしても悪手となりかねない。
とは言っても、だ。素人の私が思い付くことは大体宮殿に出入りする者らによって語り尽くされていることであろう。
となると、私が確実にそんな彼等よりも優れているのは戦国知識しかないわけだが……。
毛利家のように銀山収入と海上通商収入を充てにするというのは、もうやってる。三好家の経済的な隆盛もやはり海上交易路の掌握に依るところが大きく、畿内に入ってから各宗教勢力に対して中立を保ち裁定に尽力するという施政も、スペインの場合そもそもカトリックで当事者なのである。
あるいは大友家のように国内の非カトリック勢力に対して焼き討ちなどを敢行することで収入を得る……ってこれはレコンキスタでもうやった。
北条家のように民を慈しみ、直接統治により中間搾取の入り込む余地を無くす……というのは、そのままずばりエンコメンデーロの権益を削ろうとするスペイン王家の従来の方針と合致していて、それで財政破綻を起こしているので効果的な対策とはなり得ない。
となると。
「……あの、ラス・カサス様。スペイン国内に、このヴェネツィア共和国のように商人らによって栄えた地はありますか?」
その質問は、織田信長が上洛時に堺に課した矢銭徴収、あれを模すことを企図したものである。
「――ええ、勿論ございますよ。ネーデルラントにある一大港湾都市の『アントウェルペン』がそれに当たります」
……成程。『ネーデルラント』にスペインの経済の中核はあるのね。
*
「――まずは、パドヴァ大学より遥々よく来てくれたな。息災か? マルガレータよ」
スペイン王国には首都機能というものがない。一応、宮廷がトレドやバリャドリッドに置かれているがために、現状は国王の所在地が行政拠点として機能しているが、そもそも先王陛下の時代には神聖ローマ帝国とスペイン王国の皇帝位と王位は同一であったがために、国王が神聖ローマ側に居るということも多々あった。ある意味では、この2つの頂を分けたのも無理が生じているからなのかもしれない。
しかも今居るのはその両宮殿ですらなく、ネーデルラントのブリュッセル。戦争指揮の都合もあり、フェリペ2世はこの地に滞在していた。……まさか、またブリュッセルに戻ってくる羽目になるとは。
「このようなお出迎え、誠にありがとうございます、フェリペ陛下。ラス・カサス様より新大陸の状況をお聞きし、非才ながら私に出来ることがあるやと思い参上致しました。
……まず、フランスとの戦争は終わらせられないのですか?」
一応の確認だが、支出の根本を断ち切れるに越したことはない。今回の場合、戦争という明らかな支出要因が見えているがために、聞くがそもそも講和に至れるのであれば私がこうしてのこのこと現れる前にとっくにしているのだろう。
「実は、戦いそのものは優勢に進めていたから講和自体は吝かではなかったのだ。その様子だと知っていると思うが、財政が芳しくないからな」
「……では」
「サヴォイア公とイングランドを対仏戦に巻き込む準備が整ったのだ。これで我がスペインと神聖ローマを合わせればフランスの包囲網が完成するが故に、今更退けぬ」
サヴォイア公の治めるサヴォイア伯領はスイスとイタリアに隣接する領地だ。そもそも北西イタリアであるミラノはスペイン領であることを踏まえれば、字義通りほぼ全ての国境線を接する相手をフランスは敵とすることとなる。そんな包囲網が完成するのであれば、ここで財政を理由に講和というのは確かに避けたいのであろう。
「だからこそ、エンコメンデーロの権益を認めようとしているのですね」
「……ああ。奴らの統制に手を焼いているのは事実だが、上手く懐柔すれば金を引き出せるやもしれん。……いや。王家が譲歩するのだから金くらいは出させねばこちらとしても収まりはつかん。
――だが、マルガレータ。お主はそこのラス・カサスと共に参ったということは、対案が何かしらあるのであろう? ……まあ、ブリュッセルの叔母上の屋敷での馴染みだ。折角来たのだから、話くらいは聞こう」
私は、一呼吸たっぷりと時間を空けてから口に出した。
「エンコメンデーロからの献金に頼るのではなく。
……アントウェルペンに対して、矢銭の徴収を」
「なるほどな、アントウェルペンか。そう来たか。だが、彼等も商人。ただでは金は出すまい」
「――ええ。ですから、彼等の信仰を金に換金するのです。
……アントウェルペンにおけるプロテスタント信仰の黙認。それをお許しになれば、彼等は必ずやスペイン王家にこぞって資金を提供するでしょうね」
私にとっての実母は生家の信仰たるプロテスタントか……あるいは前世の日本か。
どちらにせよ。継母なる神であるカトリックに挑もうか。
――白雪姫の物語を始めよう。