第34話 ボホール海海戦
……どうしよう。
誰も、フィリピンにまともな海軍力を有する国家が存在することなど考えていなかったし、まさかこちらと同等レベルのガレオン船が出てくるとは思ってもいなかった。
旗印は黄色に白丸……本当に全く見覚えが無いぞ、これ。
そして街に対して艦砲射撃を行えるということは、我等とも砲撃戦が可能と言うこと。明確に脅威である。
攻撃か、交渉か、撤退か。決めねばならない。
しかし攻撃するにしても、まともなガレオン船同士の戦闘なんて想定していなかった。こちらの兵員の心理的動揺は計り知れないだろうし私だって動揺は凄い。
加えて言えば人員だって二線級、三線級でしかないので練度は正直お粗末なものだ。まあ一番ヤバいのは最高指揮官である私が全くの軍事の素人という点だけど。
そう、仮に攻撃するとしても、海軍戦術なんてまるで分からないし、指揮は不可能だ。とはいえ初動で動揺している今の状態で撤退行動に移れば、秩序だって撤退出来るのかも怪しい。
しかし、敵艦が存在する以上、私の判断に使うことのできる時間は多くない。そして私がいざという時に頼りにしようと考えていたグレイスは独自裁量権を持たせるために別の船、ウルダネータはレガスピ麾下にある艦隊4隻の指揮のために別の船で、軍事的に頼れる人が居ないのである。
そして所属不明の戦闘艦を前にして人員のやり取りを行うなんてことが出来るわけもなく。逃げるにしたって、ウラオ族長の下に置いてきた2隻――私に属する艦とレガスピ麾下の艦1隻ずつだが――彼等とどうやって情報をやり取りすれば良いのか、みたいなことも考えてしまう。
ああ、全然考えがまとまらない。こんな状況下で戦闘指揮なんて――
「――グレイス・オマリー様の指揮する艦に旗旒が掲げられております!
『司令艦は、開戦判断のみに専念せよ。戦闘行動は我々に任されたし』――とのことですっ!」
掲げられた旗を識別する通信兵の言葉に私は我に返る。
私は開戦判断だけ行う――それは、アイルランドでのグレイスの夫の弔い合戦に参加したときと全く同じ在り方であった。
初陣でやったこと。そう思い直せば、私は急速に頭が冴えてくるのを自覚できた。
「――敵軍の数は?」
「……はっ、現在視認出来ている所属不明のガレオン船は3隻! その他小型船が数十隻が入り乱れております!」
こちらは9隻。地形的に島に隠れている船もいるかもしれないが、現状彼我の戦力差は3倍。おそらく小型艦の方は、今襲われている国の艦隊も居るはずだから手は出しにくい。
……いや、ちょっと待て。小型船同士で交戦している最中に街を砲撃するのか? 普通砲撃するにしても敵船を狙わないか? 乱戦になって同士討ちを懸念して目標を切り換えたかもしれないが、その場合でも海戦中に街を狙うだろうか?
そして、街から煙が出ていることと、大砲を大量に積載できるガレオン船という艦種からてっきり街に対する砲撃が行われたと考えていたが。
「……誰か、敵の砲撃音を聞いた人は居ますか?」
この質問に対して帰ってきたのは沈黙であった。それは即ち、高確率で街から煙が上がっている理由は、砲撃によるものでは――ない。
としたときに、私の脳裏に浮かんだのは毛利と陶の戦である厳島合戦であった。あれは兵力に勝る陶に対して毛利の奇襲が完全に刺さった戦であり、瀬戸内の来島村上氏の水軍衆を毛利が味方として抑えたからこそ勝利を収めた戦であったが、その勝敗の趨勢を決定的にした毛利元就の一手は、陶軍を厳島に上陸させたことにあった。
つまり街に立ち上っていた煙がもし、砲撃によるものではなく敵軍の都市攻略、あるいは略奪によるものであったとすれば。周囲に居る小型船が上陸した兵員を急いでガレオン船に収容している最中なのだとすれば。
それは――決定的な好機である。
最後に外交的判断になるが、元々私達がこのボホール海へ至った理由はブール王国を味方にすること。そして今発生しているのは、ブール王国が何者かに攻められているという状況。即ち、当初の目的を達成するために眼前の艦隊を排除することは、むしろ推奨されるべきことなのである。返し切れない恩をブール王国に押し売りすることが出来るのだから。
「――戦闘行動を許可します。レガスピ殿の麾下の艦隊には彼の指示に従い、私の下にある艦隊は、彼等の援護とともに緊急時につき艦長の独自裁量を認めます。
通信兵は直ちに、その旨を旗に掲げてください!」
そこから先の戦は、私の手から完全に離れたものとなった。
*
勝つには勝った。というか、どちらかと言えば勝ちを譲られたかのような戦であった。
結局、私の予測は半分正しく、半分間違っていた。
砲撃音がせず、街の煙の正体が上陸した兵によるものであったのは事実であった。ただし、それは別にガレオン船が無効化したことを意味しているものではなかった。
「敵ガレオン2隻は取り逃し、我等9隻のうち5隻は修理が必要な状態……ですか。いずれも損傷は軽微であれど、太平洋を折り返すには不安が残る、と」
結局、上陸していたのは一部の艦と小型船のみで大部分のガレオン船は普通に戦闘可能な状態であったし、小型船はその身軽さ故に兵の撤収作業を速やかに済ませていた。厳島合戦のような退路を断たれた戦場では無かったのである。
向こうは最初から数的劣勢もあったことで、こちらにダメージを与えつつ最初から逃げる格好であったと思う。敵小型艦などは速力を活かして、そのほとんどが戦闘の初期のタイミングで撤退していったことを見るに、ガレオン船は恐らく殿であったのかもしれない。
その殿艦隊との近距離からの砲撃戦も行われたが、敵味方どちらも敵艦に砲撃をぶつけてもそれが有効打にならないという泥沼の戦闘であった。
それでも1隻仕留められたのは砲撃によるものではなく……慣れない海域で風上を掴み取り船首を敵艦に突き立て移乗攻撃を仕掛けたグレイスによる戦果であった。それにより戦の趨勢が変わり、所属不明の敵はそのまま撤退していった。
その移乗攻撃により敵指揮官らしき人物を仕留めた後に降伏し、船ごと手に入った。まあ増えたガレオン船も横腹に大穴が開いているので、そのままだと使い物にならないし、グレイスの船はラムアタックの影響で艦首が損傷している。
そして何より。
「死者・行方不明者31名。重傷者47名ですか……」
「行方不明者については岸に辿り着いている者も居るかと思うので多少減るかとは思いますが……救助活動は概ね終わった後ですので……」
後の話にはなるが、最終的には行方不明者は18名生還して戻ってきた一方で、重傷者のうち12名は死亡した。
大体500人参加させた海戦1回だからおおよそ1割の損耗となる。兵員の補充が極めて困難である以上、今回のような戦いをやってはいけない、そう痛感した私はこの後夥しい程のしかかるであろう戦後処理よりも優先すべきことがあると判断し、遠征艦隊の主要メンバーを招集することにした。
*
「――以後に戦闘がある場合でも、今回のようにフィリピン伯様は開戦判断のみを行い、実際の兵の運用に関しては我等にお任せする……そういうことですか?」
「はい、レガスピ殿。勝利こそしたものの僅か3分の1の敵勢にここまで手こずったのは我等の間で戦闘に際しての約定が為されていなかったからこそだと思います。
とはいえガレオン船艦隊が敵に回るなどという事態はおそらく誰も想定出来なかったでしょう。圧倒的に優勢な戦闘しか想定しなかった慢心……無論、その意味では私の責も大きい」
ここに集まった面々で、戦勝に沸き立った者は居なかった。そして我々遠征艦隊の指揮権限に関する齟齬が完全に露呈した結果、グレイスの旗旒による機転によって完全な判断ミスこそ免れはしたが、初動の出遅れによる不用意な損害を計上するお粗末な結果を招いた。
「ですので今後は、司令艦にはレガスピ殿には大変申し訳ございませんが、ウルダネータ司祭を同乗させ、彼に直接の戦闘の指揮を執って頂こうと考えております」
「……已むを得ません。ウルダネータ殿がそれで良いのであれば、私からは何も言うことはありません」
「……痛み入ります」
本来レガスピの補佐に付いていたウルダネータを総指揮の代理に抜擢する。それは指揮系統における上下関係の逆転が発生しているものの、さりとてヌエバ・エスパーニャの援兵のまとめ役という任を負っているレガスピに全体の指揮をさせるのは流石にオーバーフローだからである。
また何よりレガスピ自身も軍事指揮経験がある、というわけでもないので未知の敵の戦力があると分かった以上は、全面的な責務を負う立場には就きたくないという本音もあるだろう。だからこそ、その立場の逆転を止む無く受け入れてくれたのだと私は見ている。
ちなみに副官であったウルダネータを私の下へ出仕させるということは、レガスピにとって監視の目が和らぐという副次作用もある。
そしてウルダネータには、あらかじめ根回しはしてある。こうなった以上は、ヌエバ・エスパーニャ副王領にて太平洋艦隊の差配もしていた彼が今回の遠征艦隊の軍事指揮を執る者としては最も適任なのは誰が見ても明らかであり、それが政治的介入によって歪な構造になっていた部分を改めた、というのが本筋だ。
そして如何に軍功を挙げようとも、グレイスが総指揮代理という立場を取るのは不可能だ。私の兵もレガスピの兵もスペインないしはヌエバ・エスパーニャに付けられた兵だが、唯一グレイスの臣下のみは私の陪臣扱いだ。だからこそグレイスに総指揮をさせるとグレイス臣下と一般兵の間の関係があやふやになり、指揮系統に更なる乱れが生じかねないし、何より一般兵が勝手に私の陪臣と同格にされてしまっては納得できないのである。
そんな最中で、兵を取り纏めていたマルティン・デ・ゴイティがやってくる。
「フィリピン伯様、レガスピ様。報告が2つ上がってきております」
「聞きましょう」
「まず、1つは。襲われていたブール王国からダトゥ・ダイリサンとダトゥ・パグブアヤの両名の使者を名乗る人物が、縁もゆかりもないのにも関わらず救援してくれたことに感謝するとともに歓待を行いたい、との申し出です」
まあ、それ自体は想定していたというか当初の目的へと回帰した形だ。
「承知しました、彼等ブール王国とやり取りできる通訳はウラオ族長から借り受けてきておりますが、念のため向こうの方々が話すことのできる言語も確認して頂けると助かります。
……で、もう1つの報告は何でしょうか」
「はい。鹵獲したガレオン船の捕虜の取調べを行っていたところ、艦隊はテルナテ王国……即ち香料諸島からやってきた船団であることが分かりました。掲げられていた旗の白丸の中に文字が書かれていたのでそれをテルナテ語話者に見せたところ、間違いないとのことです」
ここで出てくるか、香料諸島。
確かイスラーム王朝であったテルナテ王国は、香辛料の一大産地である。加えて言えば私がヴェネツィアより受けた依頼である香辛料の買い付けの任務も地味にあったが、交戦したことで一歩遠のいてしまっただろうか。
しかし、まさかテルナテ王国がガレオン船を保有しているとは思わなかった。だって彼等はあくまでも香辛料交易におけるポルトガルのパートナーでしかなく……ん?
……ポルトガル?
このタイミングで最も聞きたくはなかった報告が、マルティン・デ・ゴイティの口から飛び出した。
「そして件の船の操舵を担っていた者を始めとして決して少なくないポルトガル語が話せる人員が混ざっております。……早い話が、指揮官やら航海士、操舵手などはポルトガル人そのままで国旗を挿げ替えただけのポルトガル船団です。
まあ、ポルトガルとテルナテ王国の間に少なくとも何らかの軍事的な密約があったことは確かでしょうね」
イスラーム王朝国家と、カトリックであるはずのポルトガルの軍事的な連携……そんなことが起こっていいのか!?