第21話 カカワトル
新大陸のヌエバ・エスパーニャ副王領……その中心となる大きな港湾都市・ベラクルスの地に降り立ったのは、ヨーロッパの夏では感じたことのないじとじととした暑さの日であった。
3ヶ月の大西洋横断の船旅は季節としては春から夏にかけてであったことに加えて、西進とともに南下を伴ったことから日が経つにつれてどんどんと暑くなるのは苦労した。
……一応貴族なんで、暑くても肌を晒せない。グレイスはその辺り完全無視で薄着になっていたけれども配下の統率が出来ているからこそなのだろう。
水夫から護衛に至るまで借り物である私は、熱中症リスクに怯えながらそれでも服を着込むことを止めることはできなかった。まあ基本的には私は信徒団体の身分だしイエズス会修道士に囲まれているから宗教的リスクがあり、護衛艦隊に囲まれているという護送船団方式による監視の目も効いているので、他者が私に手を出すことは出来ないような工夫はなされていた。まあそれは反面、私が船上であっても貴族らしからぬ行動を許されないことと表裏一体なのであるが。
で、肝心の壊血病対策だが、発病者ゼロとはならなかったが、それでも私の船団から死者を出すことは無かった。でも上陸後ただちにベラクルスの病院へ搬送された船員が3隻で17名。この世界における航海でそれは驚異的な数値であるけれど、それでも長期航海のリスクを実感として体感した一件であった。
そしてその根幹たるレモネードも惨憺たる結果になった。事前に仕込んだもののうち、半数は途中で発酵が始まり発泡してしまっていた。そのせいで積み込んだレモネードの発酵確認作業が追加された上に、おそらく確認役が盗み飲みもしていたこともあり、想定以上の目減りも起こっていた。
発酵したものから優先的に飲むように割り当てたものの、発酵ペースがあまりにも早くて、腐るくらいならと1日の供給予定を超えて配給することも目立ち、結果2ヶ月と少しで在庫が底を尽きた。
まあ私以外はそれが壊血病対策の主軸だとは思っていないから、飲み物が一品減ったくらいの認識ではあったけれど。それ以外の食品関係もロスが出ないようになるべく尽力したつもりだったが、予定よりも早く食べ終わってしまうものに想定以上に余ったものもあった。
後は積み込みの問題もあったかもしれない。やっぱり手前に積み込まれたものからどうしても消費しがちだから、その辺りも考え直さないと。
……終盤のザワークラウトまみれの食生活は辛かった、うん。
それでも他の船団よりも食事事情は恵まれているのだから手を打っておいて本当に良かった。
そんな食生活の最中で、久方ぶりの陸地であるベラクルスの街は大いに栄えていた。
市場を遠目から見れば、カリブ海の島々で採れたパイナップルやサトウキビ。我々の船団と一緒に居る時から目立っていたが牛馬や山羊、羊を本国より積極的に取り寄せているらしい。勿論、牧場もあるのだろうけどね。
街を行き交う行商人の中にはロバを使役する者も居る。ロバってアメリカ原産だったっけ。居なければロバもスペイン人によって運び込まれた家畜か。
まあ、こんな目移りする街で、到着したという高揚感もある。
「到着後の予定はどうなっていましたっけ?」
そう私が声を出せば、新人のイエズス会修道士ミケーレ・ルッジェーリが予定の管理をしていたようで、元気よく声を出す。彼も船酔いをずっとしていたから、テンション高いわけだ。
「はいっ! ひとまずはベラクルスで我々の宿は取って頂いているようです!」
「……そういうことなら雇いの水夫はここで解散で良いかしらね。宿も宮廷か通商院名義で取っていると思うから警備は万全でしょう。宿の警備兵に引き継ぎ次第、今日は護衛の方々も自由行動にしましょうか。
グレイスの方も、出発までに集まるようにすれば好きにして良いわよ」
「はっ、マルガレータ様! ご配慮くださりありがとうございます。
……おい、野郎ども! スペイン語を話せるやつは、さっさと貸し切れる酒場なり飯屋を探しに行け!」
「へい!!」
……まあ、グレイスは今日は別行動だろうな。
私の鶴の一声に歓声……というか雄たけびに近い叫び声を上げる水夫と護衛とグレイス配下を尻目に見つつ、遠巻きに私達のハイテンションな様子を怪訝な表情で見つめるベラクルス住民の目線をひしひしと感じながらも、用意された宿へと向かうこととした。
*
「この街の桟橋と塔は、海賊に対抗するために30年近く昔から改修が続けられている……要塞なのですよ!」
「へえ、そうなのですね」
宿というか屋敷と言うのが適当な場所に連れて来られた私達はそこの使用人から歓待を受ける。
正直、港としての構造部分と要塞の機構との違いが付かなかった。今治城とか桑名城のような海城、あるいは瀬戸内の水軍城のようになっていればパっと分かったけれども、西洋要塞の構造についての知見が無いことと……多分、そもそも改修中ということは完成に至っていないことから、分からなかったと私は推察している。
と、そんなことを考えつつ饗されたチョコレートの香りが強くする飲み物を飲むと、何やら苦辛いという不思議な味とともにアイスクリームのフレーバーが口に広がる。
なんだ、この飲み物? 心当たりの食品の名を口にする。
「……チョコレート?」
「おお、マルガレータ様お詳しいですね! 先住民のトトナック族の言葉も御存知とは! ですがショコアトルはトウモロコシ粉を使った飲料のことで、今お飲みになられたのはカカワトルと言いますよ!」
「……カカワトル」
詳しく製法を聞いてみれば、カカオを粉にして、バニラと唐辛子と共に水で溶かした飲み物のことを指すらしい。
ああ……あのアイスクリームっぽい香りはバニラか。
思い浮かべてしまうと食べたくなってしまう。何せ、夜になっても暑いし。
けれどアイスクリームみたいな氷菓子は流石に無理……いや、確かパドヴァ大学で硝石を水に溶かすと温度が下がる仕組みは、誰かが研究していたなんて話は聞いたことがある。あれは過去の人物がやっていたのか、そういう理論があったのかまでは把握していない。
でも、硝石って銃で使うしなあ。そんなに簡単に買えるものなのだろうか。だけど、冷却装置が手に入ればチョコレートも固められるしなあ。
そのような詮無きことを考えていると、ヴァリニャーノから私を悩ませる一言が飛んできた。
「それでマルガレータさん。この後はどうするつもりですか?」
「この後と言いますと?」
「つまりですね、首都であるメキシコシティへと向かうことになりますが、ヌエバ・エスパーニャの副王様と、彼の地のアウディエンシア長官のどちらに先にお会いするかという問題です」
早速、スペインの統治機構が曖昧であることによる齟齬が出てきた。
格式で言うのであれば、間違いなく副王のが格上である。
ただ私が、フィリピン伯という爵位以外に拝領した役職である巡察使はインディアス枢機会議から任命されたものであり、同じようにインディアス枢機会議を上部組織としているアウディエンシアと呼ばれる司法寄りの擬似シンクタンク組織に顔を出すことで、組織としての系統を重視することもできる。
「……名前は分かるかしら?」
この質問には、新人のミケーレ・ルッジェーリが答える。
「ええとですね……。副王様がルイス・デ・ベラスコ様で、アウディエンシア長官閣下がフランシスコ・セイノス様です」
うーん、全然分からん。差異が分からないとなれば優先すべきはどちらか。
そこで、私はふと思い出した。
「……副王様に先に会うことにします」
「そのお心は?」
「ほら、既にフェリペ陛下からフィリピン派遣艦隊の建造と計画立案がヌエバ・エスパーニャ副王へと投げられていたじゃないですか。
何年前から動き出していたプロジェクトかは知らないですけれども、我々は言わばそこに無理やり横槍を入れたとも取れるわけですから、詫びは入れねばなりません」
私の言葉に一同は納得したように頷いた。
「あっ、そういえば。イエズス会のネットワークで先触れを出すことってできるかしら?」
「あー……そのことなのですが、マルガレータ殿。
新大陸におけるイエズス会による布教は、ブラジル――つまりポルトガル植民地を中心に行っておりますので、ヌエバ・エスパーニャやペルー副王領では、フランシスコ修道会などの別の修道会はあっても我々の修道会は無いのですよね」
……あれ? そうだったのか。全然知らなかった。
*
イエズス会のヨーロッパ外への布教。現状ではほとんどポルトガル領に限られていることが明らかとなった。
それはスペインと不仲であったというよりも、ただ単にポルトガルの方がより親密であっただけということらしい。
曰く、件のザビエルがアジアに派遣されたことについても、ポルトガル王家側からの要請であったとのことだ。そこから20年弱、ポルトガルとはその当時の付き合いの名残で色々と便宜を図ってもらっている。イエズス会の設立が1534年でザビエルのインド行きが1541年とその間は僅かに7年。
これは、むしろポルトガルの先見性が、スペインを上回った事例と捉えるべきであろう。というか当時のスペインは神聖ローマ帝国と合邦していたのだから、神聖ローマ帝国領内の布教を重視していただけなのかもしれない。
という中で、私がイエズス会に入信したいと言ったことはある意味で転機でもあったとのこと。実際にはコングレガティオ・マリアナという信徒団体ではあるが、そこでフェリペ2世が直々に交渉したからこそスペイン宮廷との強力なコネクションが出来たのである。
って、私の存在がスペインとイエズス会の関係を緊密にした……?
「何より、フランシスコ修道会では伝説的な存在で新大陸には絶大な人気を誇るラス・カサス様と、マルガレータ殿はお関わりがありますからな。
……我々の旅路に彼の師より、一言口添えがあったと見ていいと思います」
うわあ、そこも繋がるのか。
スペイン宮廷でもある程度影響力のあったラス・カサスさん。そう言えばフランシスコ修道会だったね。で、数年前の財政問題とネーデルラント政策の一幕によるスペイン宮廷への影響力行使の始まりはラス・カサスさんの訪問からであった。
そこで私は、結果的にはラス・カサスさんの要望であった『新大陸のエンコメンデーロへの世襲許可を出さないこと』を達成した。
そのときの縁が、ここに来て活かされてきている。
「後で、フランシスコ修道会にも謝礼を伝えねばなりませんね」
新大陸での用事がまた1つ増えてしまったが、過去の積み重ねの延長線に現在が存在していることをありありと認識することができ、決してそのやることが増えたことについて消極的でも億劫だと感じることなく、1つ1つこなしていこうという気持ちになったのである。
*
「フィリピン伯殿。あなたには是非一度お会いしたいと考えていたのですよ」
「は、はあ……。光栄で御座います」
中米・カリブ海にあるスペインの全領土を統べるヌエバ・エスパーニャ副王に就いているルイス・デ・ベラスコは予想に反して私のことを知っていた。
ヌエバ・エスパーニャ副王領の首都、メキシコシティの広場の前に構える宮殿に招かれたときには、私達がベラクルスに到着した一報はとうの昔に入っていたようで、歓待の準備が整っていた。
彼は副王として10年程度、この地を統治しているらしく必然ラス・カサスさんのことも知っていた。本国との情報のやり取りに3ヶ月かかるとはいえ、裏を返せばその気になればそれ以前のことであれば知っていて全くおかしくないわけで。私のこともかなり正確に把握していたのである。
「……残念ながら、今なおこの地ではネイティブアメリカンに対しての苦境は依然として残されたままです。
就任当初に鉱山で強制労働を強いられていた住民の解放をして、それは今でも継続しているのですが、何分エンコメンデーロの職分に抵触することもあり、改革は遅々として中々進みませぬ」
この副王は反奴隷制の立場から奴隷的な強制労働を強いられているネイティブアメリカンを既に1万人以上解放しているらしく、原住民に対しての司法や医療などの公共インフラも整備しているという話だ。
……あれ? 何だか予想していた新大陸の反応と全然違うという表情を浮かべていたら、それを察されたのか苦笑いでこう告げられる。
「ははは……元々はハプスブルクの王家の方々の統治が正しく及ばない現状を憂慮して、命令に不服従であったエンコメンデーロの力を削ぐために奴隷的な使役を断罪していたのですがね。
……3年前に大規模な洪水と、それに伴う疫病の蔓延を経験してから、現地住民であろうとスペイン人であろうと確たるサービスは受けられないと大変なことになると痛感致しましてな。
何せ、疫病は誰しもを巻き込みますからな。自分の命のためにも、統治のためにも、そうした方が効率的というだけですよ」
つまり、この副王は道徳的な観念でネイティブアメリカンを救いたいと願ったわけではなく、ただ王家に対する忠誠心と自身の統治の円滑化を図ったために、結果的にそのような統治手法へと進んでいった、と。ちなみに洪水の年に流行った疫病は、話を聞いている内に天然痘とインフルエンザの同時パンデミックだと判明。恐怖すぎる、そのタッグ……。
「だからこそ、エンコメンデーロの世襲を認めないように宮廷を説得して頂いたフィリピン伯殿に対しては、感謝の念とともにいつか是非お会いしたいという気持ちがあったのです」