第20話 ミル・ルグレ
スペイン南部の大西洋に面する都市――セビーリャ。この都市からスペインの大西洋船団は独占的に出発する。
護送船団方式が採用されており、新大陸領土の商法を管轄し交易路を保護する機関である通商院より許認可を受けた船団しか交易や探検等に参画することはできない。一方でこの認可を受けていることで非武装船舶でもスペイン軍艦に護衛されながら新大陸まで向かうことができるので落伍率は比較的低めである。
そして今年――1561年より、船団は2つ編成されるようになった。1つはセビーリャとヌエバ・エスパーニャ副王領の外港・ベラクルスを結ぶルートだ。ベラクルスはメキシコ湾岸にあり、ヌエバ・エスパーニャの都であるメキシコシティまで街道で結ばれている。
そして別の船団はペルー副王領のカタルヘナというカリブ海に面する都市を経由して終着はパナマとなる。パナマから先は地峡を陸路で越えてペルー副王領の都であるリマの外港であるカヤオまで新大陸内の交易路で接続していた。こちらの後者のルートが銀交易の主要なルートとなる。
護送船団設立の背景にはカリブ海の政情不安も1つ理由に挙げられているとのこと。でもカリブ海って海賊のイメージしかないし、不安定なのも今更って感じだ。
……まあメキシコでも銀は採れるのでヌエバ・エスパーニャ側も銀が交易産品として挙がるが、ヌエバ・エスパーニャとペルー副王領の違いは、前者は鋳造所が併設されているが故に銀貨とインゴットでヨーロッパへ送られるのに対して、ペルー副王領は全てインゴットである点だ。ちなみに銀塊や鉱石の状態での採掘施設からの持ち出しは禁じられている。
そして、この通商院で編成される新大陸との護衛船団ルートはポルトガル植民地とは接続していない。だからポルトガル植民地であるブラジルとは隔絶されている。
また、ポルトガル植民地と繋がっていないので、アフリカと公的な航路で接続されていない。しかもポルトガル側にもこの通商院に相当するような貿易管理機関がありポルトガル王家直轄の下で植民地取引は一元化されているので、不正な取引を除けばポルトガル領アフリカからポルトガルやスペイン本国を経ずにダイレクトに新大陸とやり取りが行われることはほぼ無いと言って良い。
そのような詮無きことを考えていると、そばに居たオルガンティノが書簡を手渡しながら次のように話す。
「――マルガレータ殿。ディエゴ・ライネス様からご返答を頂いておりますよ」
「……へ?」
私は腑抜けた返事をしつつもそれを反射的に受け取った。
ディエゴ・ライネスは、今のイエズス会の総長である。そんな人物からどのような内容の書簡が送られるのか気になった私は、その場で開いて読み解く。……うわ、ラテン語だ、パドヴァ大学に通っていなかったら即死だった。
「えっと……、『インド管区内にある日本布教区を分離し、フィリピン・日本を統合した準管区の準管区長にグネッキ・ソルディ・オルガンティノを任命する』……オルガンティノ先生、凄いじゃないですか!」
「マルガレータ殿がまさか本当にフィリピン行きを現実化することになるとはイエズス会内部でも、あまり考えていなかったようでですね。
思いがけない栄転ですよ」
まあ、私に対しての目付というか監視役というかそういった側面が十二分にあることは承知している。
そしてそのオルガンティノの命にて、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、クリストファー・クラヴィウスも補佐役として同行する旨が記されている。
えっと、私の知る歴史だと、オルガンティノが京都の布教責任者でヴァリニャーノが巡察師だったはず。オルガンティノはそれよりも栄達を歩んでいるが、ヴァリニャーノは単なる補佐となってしまったようだ。本来もっと後発組でこんなに早くアジアへ向かわなかったからだろう。
更に名簿を目で追うと、見覚えのない名前があった。
「ミケーレ・ルッジェーリ……?」
前世知識を含めても知らぬ名だ。だから日本には来ていないはず。
「ああ、彼は少し若いですがカスティリーヤ王家の宮廷から送られてきた人物ですよ。今回の旅路にあたってイエズス会に入会いたしましたので、道中私達が教示しながら彼もまた優秀な宣教師として独り立ちできるように尽力せねばなりません」
まあ、スペイン王家からの監視役と見ればいいのかな。
「承知しました。オルガンティノ先生。
他にイエズス会から同行者は居りますか? 船は借りて新大陸まで行くつもりですので、人員が増えるようであれば借りる船の見積もりをし直す必要があるのですが……」
「いえ、そこまで気を配らなくても大丈夫ですよ。
えっと、ガレオン3隻でしたよね?」
「ええ。まあ1隻はほとんどグレイスの臣下の方々で埋まってしまいますけど」
当たり前だけれども、この時代にパナマ運河なんて存在しないので、スペイン航路である大西洋横断でヨーロッパから新大陸に渡るルートの後に太平洋に出る方法が限られている。
まさか南米の南端であるマゼラン海峡を越える苦行をするわけもなく。一旦メキシコで降りて陸路で太平洋岸まで出る予定だ。
……新大陸での厄介事に巻き込まれる予感しか無いけれど、まあどの道副王辺りには顔を出すことになるし仕方がない。だって本来の太平洋航路開拓は副王に命令が既に王家より命が下っていて進行中のプロジェクトだったのに私達が無理やり割り込んだ形となってしまったので、そこに至るまでの様々な政治的配慮に対する感謝を述べる必要はあるのだ。
ちなみに途中に陸路を挟む関係から船は乗り捨て前提になるので、レンタルにしたのだ。マゼラン海峡アタックをしない限りはスペイン本国の艦隊が太平洋上に出現する可能性は無いのである。
というわけで、スペイン本国から私達の救援のために日本やフィリピンまで艦隊が派遣されることはほぼ有り得ないことなのだ。あったとしてもヌエバ・エスパーニャやペルー副王領の艦隊が精々であるし、今のところ太平洋側には、建設途上のフィリピン派遣艦隊を除けば沿岸部用の交易船や探索船、更にそれに付随する程度の海軍力しか無い。
……まあ、ポルトガル併合後であればポルトガル航路を使ってアジア進出という選択肢は出てくるが。でもポルトガル併合っていつあるのか分からないからあまり当てにするわけにもいかない。
*
「……ふうん。じゃあ、セビーリャで艦隊の準備が出来次第出発ってことなのね。
寂しくなるわね」
「陛下も残念がっておりました。既に宮廷でも許可を与えたこと故に致し方ないとは納得なされていますが、それでも不安なものは不安なようでして」
マドリードの街で仮の住まいとして間借りしていたルイ・ゴメス侍従長と隻眼の麗人ことアナの夫妻の屋敷から退去する日取りが概ね決まったことを伝えると2人は残念そうな表情を浮かべた。
新たにマドリードより馬車で半日という場所にエル・エスコリアルという修道院を作る予定で、王家の霊廟を設置し、そこで簡単な政務を執れるようにするとルイ・ゴメス侍従長にかねてより伺っていた。そして、本日ルイ・ゴメス侍従長が在邸しているのも陛下より指示を受けて、修道院建設の監督に行くために仕事を早めに切り上げたためである。
「でも女性の身で、船に乗るってあまり無いことですよね? マルガレータさんの為に色んな人が動いているとはいえ、そこが心配」
「ご心配ありがとうございます、アナさん。
ですが私の方でも色々と試行錯誤をしていますし、そもそも船に男性しか乗れないとなると新大陸の男女比がおかしなことになってしまいますから」
まあ実際のところ女性の渡航者が皆無では無かったとは思う。とはいえ、実数としてみれば全然男女比を均衡させるには至らないレベルだったと思うが。
とはいえ、いつまで経っても女性が新大陸に大手を振って行けないという状況はあまり好ましくない。家庭を築けないのならば単身赴任の域を出ないから新大陸にスペイン出身者が定住しないため立場ある人が新大陸に帰属することが無い。
また、現地妻を作り事実上の重婚することもあるかもしれない。いや、別に無関係だから口出しすることでも無いのだけれども、フィリピンにて私が伯爵領を盛り立てるときに後援となるのは新大陸領なのだから、不安定になって欲しくない。私の些細な行動で安定化に寄与するのであれば将来の安全保障の布石として色々と試すのも吝かではないのだ。
実際、ちょっと手を加えたのが私のレンタル艦隊の船員の食事状況の改善だ。意図としては2つ。
1つは私やグレイスという女性が立場ある身分で乗船するので、風紀の乱れを極力避ける必要がある。その不満逸らしのためにせめて食事だけでも良くしておこうという考えだ。
ほら、大航海時代の探検家って水夫の反乱と隣り合わせだったという話は聞いたことあるし。そんなことが起きれば割と詰みなのでとことん善後策は突き詰める必要がある。……まあ、軍隊随伴の護送船団の一員としての航海だからそこまでのことは起こらないとは思うけど。
そして第2の理由としては、壊血病対策。
例のレモネードを船員全員に配給し、毎日一定量飲むことを義務付けようと考えている。まあ食事事情丸ごとの改善なので、実際に効果があったところでレモンに直結するとは限らないし、そもそも壊血病の原因は海洋における風土病のようなものだと考えられているみたいだから、事実上私が壊血病にならなければそれで良いくらいには割り切っている。
万が一ここを起点として大幅に壊血病対策が進歩しようが、全く見向きもされなかろうが正直そこはどうでも良くて、とにかく私が病気になりたくないという一心、そしてかといって自分だけ良いものを食べて不満を持たれるのが怖いという部分から推し進めているのである。
まあそれでも出来ることは限られているから、煮凝りや漬物のような伝統的な保存食だったりを片っ端から集めたり、瓶詰を活用するくらいが精一杯だ。これらの食料品による積載量増加のせいで本来人員的には2隻で済むはずだったのに3隻になってしまった。それに伴い人員もちょっと拡充してまた物資増加が伴ってという負のスパイラルが見えかけたが、何とか均衡点に抑え込んだ。
「新大陸にいつ頃到着するのかしら?」
「そもそも出発時期がまだ確定していませんので何とも言えませんが、セビーリャから新大陸まで3ヶ月程度はかかると考えています、アナさん」
そう言ってアナさんとは他愛もない会話を楽しみつつ、ルイ・ゴメス侍従長からは宮廷で何かあれば一報を入れると伝えられる。……まあ、最速の通信手段が船便だから3ヶ月遅れの情報にはなるけれどもね。
そしてお世話になった2人には感謝しつつ、残り少ない滞在日を楽しむのであった。
*
「マルガレータ様……準備は整いました」
「分かったわ、グレイス」
1561年。
スペイン南部の港町――セビーリャにて海軍の護衛艦隊に囲まれた複数の商船が港町から送迎の歓待を受けて遥か彼方の新大陸、メキシコの貿易港・ベラクルスの地を目指すこととなる。
「――出航っ!」
『フィリピン伯』マルガレータ・フォン・ヴァルデックの第一歩はここから始まる。