第2話 聖母会【コングレガティオ・マリアナ】
――白雪姫は王子のキスによって奇跡的に目覚める。
メルヘンとか恋愛要素とかを全部取っ払ってシビアに考えると、これってただの人工呼吸で医療行為だったのでは……? と疑問に思うこともあったが、そもそも王子がやって来た時点で死後数日経っているので人工呼吸でどうこうなる次元を超えている。
というかそもそもグリム童話まで遡ると、白雪姫の棺をもらい受けた王子が、棺を運ぶ際に担いでいた家臣の1人がつまづいた拍子に、その揺れで口の中に詰まっていたリンゴの破片を吐き出しただけだったりする。よくそれで蘇生したな、白雪姫。
そんな感じで必ずしも王子のキスというのは必須要件ではないようで。酷いパターンだと、棺を運ぶのに疲れた家臣が苛立って白雪姫を蹴飛ばすというものもあるみたい。
まあ、何が言いたいかと言えば。
白雪姫の物語に王子は登場するものの、その助け方は必ずしもキスというわけではなく。それは私の場合も同様であったわけである。
「マルガレータ! ……大丈夫か!? 怪我は無いか……マリア叔母上からは、毒を盛られそうになったと伺っていたが」
「……王太子殿下。格別なるご配慮ありがとうございます。ですが私は異端の身。カトリックの守護者たる殿下が易々と――」
「――マルガレータまで臣下のようなことを言うでない。ただでさえ未婚となったのだから煩くて適わん」
一応は部屋の主である私に対して許可も取らずにのこのこと出入りできるのは、この屋敷の主であるマリアさんを除けばそこまで多くない。
その数少ない例外の一人がこの王子である。そして、神聖ローマ皇帝の妹の屋敷に自由に出入り出来る『王太子』、そして名を聞けば。私でも知っている者であり同時に戦慄する人物であった。
そう。この王子の名は――フェリペ。
書類王・フェリペ2世。『太陽の沈まない帝国』と形容されるスペイン王国の最盛期を築き上げ、カトリックの盟主として君臨し、ポルトガル併合によってイベリア半島の統一とポルトガル植民地の全てを継承した時代の傑物。
後に、文字通りの『世界』を手に入れることとなる26歳の王太子は、現在未婚なのである。同い年のポルトガル王女、マリア・マヌエラと結婚して1人の子が居るが8年前にマリア・マヌエラとは死別。以後、政治問題としても浮上するこの王太子の婚約者は不在であり続けた、と伺っている。
そのような王子が、畏れ多いことにプロテスタントを信奉する両親を持つ私に対して何かと気に掛ける様子を見せる。
「何なら私と婚儀でも挙げるか? ……さすれば実家からの詰まらぬ嫌がらせは止むどころか、この叔母上の邸宅で世話になることも無くなるが……」
その言葉に虚偽は無いのであろうが、あまりにも大人物であるが故に喜びよりも先に、流石に気後れのが先行する。
私だって一応女ではある。だから王子からの求婚というものに憧れが無いわけではないが、流石に後に世界帝国を作り上げる人物からの求婚は重すぎる。
安全への欲求はあれど、世界の支配者となりたいわけではないのだ。
如何にこれがハッピーエンドに至る道筋なのであろうと、自らの命が脅かされなくなる選択肢の1つではあろうとも、素直にこの言葉に頷くわけにはいかない。
「……私に対してそのような慈悲痛み入りますが、王太子殿下。既にイングランド女王で在らせられるメアリー様との婚儀を薦めていると伺っております。そのような言葉は戯れであっても口にするものでは……」
「……ラモラールが告げ口したか。あいつめ」
何とか王子からの求婚を躱すために必死な私は、屋敷内で聞いた話を王子に対して伝える。王子が懸念した通りラモラール……ラモラール・ファン・エグモント、エグモント伯が私に話してくれた内容をそのままオウム返ししたものである。
この話を聞いた時に私はイングランド――イギリスって国教会だからカトリックよりはプロテスタント寄りなのでは? と思ったとともに、今目の前に居る王子――フェリペ2世の治世期間に、あのアルマダの海戦が発生してイングランドに対して無敵艦隊が敗れるほどに英西関係って良くなかったと考えていたが、どうもこのタイミングでは、まだイングランドとスペインの関係は良好であったみたい。
まあアルマダの海戦とは言っても、無敵艦隊というパワーワードが先行してそれ以上のことはあまり知らないんだけど。
そしてプロテスタント側であるはずの私に、そうしたカトリック連帯の内部事情を漏らしているエグモント伯は現在21歳。彼もまた結婚適齢期であり、私に対して好意を抱いているだろうということは何となく察しが付く。
まあ、王子と比べれば優良物件には違いないのだろうけれども、問題はエグモント伯というのは『ネーデルラント』の大貴族である点だ。
現在は神聖ローマ帝国領であるこの地が、そう遠くない未来にオランダという国になるということは、江戸幕府とオランダが出島で交易していた事実から想像は出来る。
……となると、エグモント伯を結婚相手に選ぶということは、その後に待ち構えているであろう、スペインか神聖ローマ帝国かに対する独立戦争が待っているということだ。神聖ローマ帝国中のプロテスタント勢力を束ねて挑んでも一蹴されているのに、流石に独立戦争に身をやつすのは正直御免である。
このように確かに継母からの嫌がらせに対しては結婚で封殺することは可能であろうとは思うし、有難いことに私に求婚する人物も居るものの、このヨーロッパに居る間はずっとカトリックとプロテスタントの狭間に悩まされることになってしまう。
だからこそ早い所日本に逃げてしまいたいのだが、日本に至るまでの航路を開拓しているのはポルトガルなのだ。でも、安易にポルトガルに対して助力を求めたところで、私はこのポルトガルが後々にスペインに吸収されて滅ぶことを知っているし、そもそもポルトガルもカトリックだ。
となると、やはりスペインを背景として日本まで辿り着くという選択肢が最も有力に思える。時代は先になるが天正遣欧使節団はスペインを訪問していたし、ザビエルだってバスク人だ。スペイン側からでも日本と交流があったのは確かなのである。
これから全盛期が訪れることを知っているスペインに全賭けするのは実際アリなのである。ウィリアム・アダムスとかジョン・セーリスとか居たけれど、結局イギリスが極東において有力なプレイヤーとして姿を現すのは幕末だから、一旦向こうへ逃げてしまえば恐れるものは、秀吉や江戸幕府による禁教政策くらいだ。
まあ、秀吉による天下統一も江戸幕府もほとんど老後に近いので、逆にそこまでは大丈夫という安心感はある。
ということで、方針決定。
このフェリペ2世としてスペイン国王に君臨する王太子とは結婚はすると詰むので、それは避けつつも良好な関係を維持すること。そして、ネーデルラントはどうも後々に独立戦争が控えているっぽいので、なるべく早くにこの屋敷から脱出すること。これは継母からの暗殺警戒も兼ねている。
ということで王子に対して話を戻す。イングランド女王との結婚話だったか。
「……メアリー女王陛下との結婚に、何かご不満な点も?」
「……まあ。イングランドとスペインというカトリック教国の連帯に必要なことだとは理解しているつもりなのだが。
メアリー陛下は今年で御年37歳。私よりも11歳も年上なのだよ」
思ったよりも年の差があった。まあ、配偶者の年齢に対する価値観などは人それぞれではあるとは思うけれども、前妻が同い年であったことも踏まえれば多少気後れしてしまうのも仕方ないようにも思える。
そしてついでに言えば相手は女王に対してこちらは現段階では然したる実績もない王太子。格式という問題も析出する。
……となると、私に対しての好意もその反動と見るべきか。メアリー女王と比較すれば何もかもが真逆だし。何というか乙女ゲームのヒロインになった気分である。実情は宗教争いに巻き込まれた暗黒白雪姫だが。
「――で、マルガレータよ。婚約については強制はしない、其方の意思に任せるが。流石に、毒殺騒ぎに関しては対応をしなければならん。表向き人質という側面もある其方が叔母上の屋敷内で殺されたとなれば手を打つ必要があるのだが……」
「……私がプロテスタントであることが問題なのですよね」
「ああ。私やマリア叔母上から手助けをするためには、カトリック教徒でなくてはならぬ。カトリックによる欧州統合、それがハプスブルクが主より定められた使命なのだから、そこだけは譲れぬ。
……信仰を捨てよ、というのは酷なことを言っていると理解はしているが。それしかマルガレータを手助けできる道はないのだよ」
まあ、この目の前の王子の場合、実際にカトリックの盟主となるから何とも言えん。
「――あくまで、私個人の意見ですが。カトリックに改宗すること、そのものについては吝かではありません。ただ、それはプロテスタントとカトリックを比較考量した結果ではなく、私自身が双方に対して優位性も熱心な信仰心を抱いているわけではないからであると理解してください」
事実上の無宗教宣言に等しい暴挙であったが、逆に信仰に熱心な人間であれば絶対に改宗しないだろうから、王子は天啓を得たかのように大きく頷く。
「……そうか、ならば!」
「しかし。父と亡き母の信仰であるのですから、そう易々と私の独善的な考えだけで捨てられるものでもないです。
それに。毒殺しようとしてくる継母はカトリック。屋敷の主であるマリア様は心優しい方であれど、使用人の方々は私がプロテスタントであるという事実一点のみで手抜きをする。
……正直に言えば。カトリックの教義ではなく、それを信仰する人間に私は悪意を持って接され続けられている以上、カトリックそのものに対しての懐疑の念をどうしても抱いてしまうのです」
ここまで、伝えると王子は黙る。
信仰そのものの問題ではなく、信仰する人間側の問題。こればかりは王子が如何にカトリック世界の盟主になろうとも解決不可能なものであろう。
「――カトリックの信徒に悪意を持って接された者は、カトリックそのものを疑う、か。だが、異端の芽を摘まねばハプスブルクとしての威信が揺らぎ決して我が冠の下に集まることなどできない」
「ならば。異端は全て殺し回りますか? ……私を含めて」
口には出さないがこのように問答をしたところで、王子の意見を翻すことが出来るとは微塵も思っていない。異端は異端であるし、プロテスタントとの妥協を図らざるを得ない現在の神聖ローマ帝国の現状が決して好ましい状況にあるとは言えなく、それを根本的な部分が変えることの出来る地位に居る彼が、その辺りの価値観ごと捻じ伏せられるわけが無いのだ。
かくなる私自身ですら熱心なプロテスタント信仰の家に生まれながらも、終ぞ前世的な価値観を覆すに至っていないのだから、人の在り方そのものを破壊するというのは、人を殺すことよりも遥かに難しいことなのである。
そして、そのような人の命を背負うこととなる施政者の在り方など言うに及ばず。
だからこそ、王子は断言した。断言してみせた。
「……ああ。
異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい、からな」
だからこそ、彼と絶対に結婚することは出来ない。改宗したとしてもプロテスタントであった事実は永遠に残り続ける。そして、この考え方の王子にとってそれは失点としかなり得ない。……まあ、そもそも世界帝国の王妃になどなるつもりは毛頭ないのだけど。
ただ。
「――カトリック内部でも組織の改革運動の流れが来ていることは私も承知しております。プロテスタントへの攻撃ではなく。内部に蔓延る組織的な汚職や不正を糾し、高位聖職者や……教皇猊下相手であっても組織改革に立ち向かえる方々からの洗礼であれば。
……これがギリギリの妥協点ですね。プロテスタントとしての立場ではなくなっても、カトリックの内部改革を推し進められる地位に就くこと。お父様を説得しつつもカトリックへの改宗を実現するのであれば、これが私から提示できる限界です。
すなわち。
――イエズス会への入会を希望いたします」
実利上のギリギリのラインと、既に日本でネットワークを広げているイエズス会の協力は、私の日本逃亡プランには必要不可欠なものだ。
その言葉を聞いた王子は曖昧な笑みを浮かべながら、こう答えた。
「……そのマルガレータの意思は非常に嬉しく思う。
――が、イエズス会は男子修道会だから、マルガレータは入会できないぞ」
……。
ガラシャとか洗礼受けていたじゃん! 洗礼を受けるだけじゃ修道会に入会したことにはならないのか!
――結局、王子の一存で新たに「コングレガティオ・マリアナ」という信徒団体がイエズス会士フアン・デ・ロイニスの指導の下設立され、私は表向きはこの団体に所属しながら、イエズス会士の出向という形で教示してもらえる形に収まった。