第16話 オーアの竪琴
アイルランド西岸、クルー湾沿岸部。
そこにはアムヘイル王国という国家……というか規模的には部族レベルの統治者が存在する。比較的イングランドの影響下の薄い西岸部でも更に西の端のような場所なので、在来の領主が意気軒昂としている。
そこの族長は何と8世紀頃から現在までずっと統治しているらしい……嘘か本当か分からないが、薩摩島津家やら陸奥の南部宗家などは鎌倉時代から明治維新まで同一地域を治め続けていたりしたので、全くあり得ない話でも無いだろう。無論、この手のものは話半分に聞くくらいが賢明なのだろうが。ちなみに、この族長家? 王家? はオマリー家という一家なのだが、その姓を使いだしたのは家祖から400年程経過した14世紀辺りらしい。
そして、私の曖昧な知識だとアイルランドって一度完全にイギリスに併合されていた記憶がある。まあ現時点でイングランド側に王を自称されて侵略を受け、片やスペインも対抗的に浸透してきているという段階なので、色々と末期的様相を既に示しているのは確かなのだが。
その辺りは、この地域の貿易関係をちらりと見ても薄々と察しが付くのだ。スペインからこの地にもたらされるのは、ワインと鉄製武器。一方でその対価として周辺領主が提供しているのが、動物の皮と魚なのだ。まあ、アイルランド全土がそうというわけでもないだろうが、少なくとも現状最もイングランドに対して反抗的なこの地域は言ってしまえば田舎、なのである。
なので、そのアムヘイル王国だがの700年以上続く由緒ある族長・オマリー家は、その仰々しい国名に反して主要な収入源は漁業と略奪という……言わば海賊とほぼ同等の存在なのである。
まあ秩序だった海賊というのは、戦国時代では水軍衆として戦の趨勢にも大きく関わっていた存在なので、一概に野蛮だとかそういう訳でもないことは重々理解はしているが、神聖ローマ、スペイン、ヴェネツィア、教皇庁といったこの時代のヨーロッパ先進地域ばかりにしか行ったことのなかった私にとってヨーロッパの田舎という存在はそれなりにカルチャーショックを受けるものであったことは確かである。
「ふむ……このレモネードというのは独特な甘味だが、レモンと砂糖を使うとなると随分と高価な嗜好品だね、マルガレータ君」
「まあ、そうですね……アラス司教様」
私の軍監というか目付のようなポジションでアイルランド工作に同行してきた方が1人。それが今、私の自作レモネードを飲んでいる壮年の御仁――アラス司教、アントワーヌ・ド・グランヴェルである。
メルカトル親子のパトロンであり、先代神聖ローマ皇帝とフェリペ2世の2代に仕えるヨーロッパ屈指とも言える外交官だ。もう聖職に就いている者が政治に関与していることに違和を覚えることもなくなってきた。ちなみにアラス司教以外にも聖職者が何人かと護衛も兼ねた兵員がおよそ三百という規模で2隻の大型ガレー船。手漕ぎのオールを使う船なので、それ以外に漕ぎ手が兵員と同じくらいの人数居るので直轄兵力の割に派遣人員はかなりの数だ。
そんなスペインの大人物がアイルランドの辺境に派遣されるよりも、もっと外交的に重視すべき場所はあるのではと思ったが、よくよく考えてみるとフランスで大規模なユグノーとの抗争を行っていることから陸路が潰され、地中海の制海権を失っていて、ネーデルラントは今カトリックとプロテスタントのバランスを崩さないようにとエグモント伯が工作しているとなると、外交攻勢を仕掛けられるのが消去法でこのアイルランド・スコットランド方面しか残っていない。
それとレモネード。
案の定というかレモン果汁が大量に余ってしまったのと、果汁のまま飲み続けるのが酸っぱすぎて辛かったので、砂糖水と混ぜてみた。
レシピこそ簡単だが、アラス司教の言う通り砂糖もまた高価なので、あまり普及していない飲み物だったらしい。……そもそもまだこの世界には存在しないものだったか?
ちなみに砂糖がどれくらい高価かと言えば、値の揺れ幅を考慮すると凡そ胡椒の5倍から10倍程度だ。とは言っても胡椒も砂糖も『同じ重さの金や銀』と取引される程の極端に高価なものではない。
遠隔地から交易で仕入れてきたものだから決して安くはないものの、ぶっ壊れた値が付いているわけでもないのである。
とはいえ、その代金を私はどこから支払っているのか、そもそも収入源などあったのかかと問われれば、ロジックそのものは単純で、ネーデルラント政策に関与した際の謝礼である。
あの三部会に宰相を白紙委任した一件は、私の懐事情にも影響を与えていた。あれの対価としてカスティリーヤ王家にアントウェルペン商人は矢銭徴収されているわけだが、その過程で私の方に付け届けとして金品を送られていたのだ。
まあヴェネツィアまで持ってこられても困るので放置していたら、いつの間にかアントウェルペンの銀行事業に私の口座のようなものが作られており、そこに積まれていた。だから、アントウェルペンの市内及び影響下にある地域では、その預金を使って決済が出来る。
……まあ、アントウェルペンがスペイン最大の国際貿易都市である以上、基本的にはスペインの支配領域では後でアントウェルペンの銀行まで取りに行ってねという正式な書面を交わせば、割とお買い物がスムーズにできるようになったのだ。
とはいえ、新大陸などの遠隔地ではその価値は目減りはするだろうが。
そして、一見利便性の良いこの方法も致命的なデメリットが2点存在する。
1つ目は私がアントウェルペンの資産を動かすのを面倒がったために、以後私がこの資産をどこかに逃避させようとした瞬間に、その理由を探られることとなる。まあこれに関しては普通に使えば問題ない。
更に2つ目。そもそも銀行がアントウェルペンにあるがゆえに、ネーデルラントの信用と直結している点。ネーデルラントが独立するなどという事態が発生すれば、独立したネーデルラントに付けば資産は保障されるだろうが、その時点でまず確実にスペインかカトリック教会勢力によって殺されるのが確定し、一方で引き続きスペインに付くと直ちに資産は凍結されるという事実上一択の選択を迫られることとなる。
それが嫌で資産を移動しようとすれば、私がネーデルラントのことを危険だと考えていることが明るみになり、状況によってはネーデルラントの独立運動が加速しかねないわけで、ともかく私がこの資産を保持したいと考え続けるのであれば、とにかくネーデルラントの独立はやはり防ぐ必要があるのである。
……おっと、話を戻そう。
レモネード……いや、そちらではなくアイルランド工作についてだ。アラス司教に当面の方針を尋ねると、明瞭な答えが返ってきた。
「まずは族長のオマリー家に会いに行くことになるね。このオマリー家が周辺とどのような関係を築いているか見極めてから行動を策定しようと思う。
クルー湾沿岸に真っ先に上陸するのは宮廷の指示だが、別にそこを支配する領主のことを利用しろだなんて言われては居ないからね、彼等がスペインにとって……何より我等・カトリックにとって真に隣人と呼べる存在であることを切に願おう」
「……おっしゃる通りで」
*
「――正直、期待通りというか、期待外れというか。まさしく前情報通りの人物であったな、マルガレータ君」
「……お金はありそうでしたね。豪快な人物というか自信家と言いますか……」
「言葉は正しく使った方が良いね。あれはただの海賊だよ。こちらの兵力にしか興味がない野蛮人だ」
オマリー家の当主との面会が適ったが、女性と聖職者という組み合わせに落胆の色がありありと見えていた。
口を開けばスペインはどれだけの兵を派兵するのか、将軍は誰が来るのか、そして提供する対価を値切ろうとするわで、このアラス司教の心証は最悪に近かったようである。しかし、海千山千の魑魅魍魎が跋扈するヨーロッパにて外交官として活躍し続けているアラス司教は、交渉中はそれをおくびも出さずに口先だけでそれを躱していった。しかしその面の皮の厚さは私の前では一部剥いでいる。これが素顔というわけでもないだろうけれど。
「でも、どちらにせよアイルランドでのカトリックの連帯強化は連れてきた聖職者の方々がやるのでしょう。我等がアイルランドに期待するのはイングランドへの抵抗能力なのですから、武威を重んじる方であるのは、存外都合が良いのではないでしょうか」
援軍派兵と言う見えやすい部分に意識を向けさせて本命は住民指導者として組織化が行える聖職者を浸透させること。やり口が一向一揆の煽動が染みているけれども、まあ洋の東西で違うとはいえ、宗教勢力ではあるのは違いないから手口が似るのは仕方ないのかな。
「……マルガレータ君も中々言うじゃないか。
ああ、そうだ。そう言えば此処の海賊領主たるオマリー家は、南東のオフラハティ家に娘が嫁いでいると言っていたな。
どの道、オマリー家の戦力調査で私はここに残らねばならん。……どうだろうか? ここは1つマルガレータ君がそのオフラハティとやらに挨拶回りに行ってみるかね?」
「ええと、行くのは構わないですけれども……何を目的として行けば良いのですかね、それとアポイントとか取らなくても大丈夫なのでしょうか……?」
「先触れはどうせ、此処の領主が出しているだろう、何なら私からも海賊領主殿に告げておくさ。
目的もカトリックの連帯を他の領主にも再確認させるため……といったところかな。会って話をすればそれで十分だし、門前払いにされたならそれならそれで勢力の色分けが出来るからそのまま此処に戻ってきてくれて構わないよ」
つまり示威行為ということね。確かに、ここに残ってもやること無いかもしれないし。おつかいで済むのならば、行ってしまって良いかもしれない。
*
「……申し訳ございません。我が夫は他領主との小競り合いで城を開けております。
お噂はかねがね伺っております……『フィリピン伯』マルガレータ様」
「随分と良き耳をお持ちですね。ですが一点だけ訂正を。その爵位は頂いておりませんから、今はただのマルガレータですよ。
……あなたのお名前は?」
「これは失礼いたしました。グレイス、と申します。
アラス司教様が滞留しているオマリー家、其処の当主の娘でございます」
つまり、グレイス・オフハラティということか。私とほぼ同世代かちょっと年上に見える彼女が『フィリピン伯』の名を出してきたことに驚く。
まあ良く調べているものならば『プロテスタントのクレオパトラ』なりの異名が飛び出したりして私のことを知っている可能性こそ考慮していたが、まさかごくごく最近のスペイン国内情勢である『フィリピン伯』を知っているとは。
軽く探りを入れてみれば、このオフハラティ家もまた由緒ある家系らしく11世紀頃からこの辺り一帯を統治しており、しかも先のオマリー家率いるアムヘイル王国よりも広大な土地を治めているっぽい。
確証がないのは、オマリー家側の領地状況を詳しく知らないからである。
「あの……随分とこの領について詳しいですね」
「夫は戦働きを至上としておりまして、領を不在とすることも多いので。
……城を開けている間は、私が代理で差配しているからでしょうか」
少なくとも、このグレイスさんは夫や父よりも政務能力では優れていそうである。その後、数日滞在していくと良いと言われたので、そのご厚意に預かってグレイスさんの城にて泊まることにした。個人的にもう少し話したいなと思った人だという点と、領内状況の把握能力だと明らかに此方の方がオマリー家よりも高いので、もう少し色々と情報を集めてからアラス司教に進言をしようという政治的判断を重ねてというのが理由だ。
そして、翌日も歓待を受けつつ領内のことを聞いてそのまま就寝。
だが、3日目の明朝。私を起こしたのは城の使用人ではなく、スペインの護衛兵士であった。
「――マルガレータ様! 至急御耳に入れねばならぬことが!」
ドアの向こうから聞こえた怒号のような大声で目を覚ました私は、只事でないことを察して、寝間着姿ではあったもののとにかく部屋へ入るように告げる。
その許可とともに入ってきた兵士は私の姿を見て慌ててドアを閉め直そうとするが、それを遮るように一言。
「至急の用件なのでしょう? 着替えている時間も惜しいですわ。……早く、聞かせなさい」
最後の語気を強めにして命令口調にすれば、兵士はそれに気付いた様子で改めて臣下の礼を取りつつ、こう告げた。
「――この城の領主であるドナル・オフラハティが、近隣領主との野戦にて敗死したとのことですっ!」
……えっ、グレイスさんの夫が死んだ……?
というか、私達ここに居て大丈夫なのか、ヤバくない!?