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第11話 マウレタニアの王


 思わぬ偉人の登場に逃亡中であるにも関わらず、メルカトルとの面会を話の流れでヴィルヘルム公に頼んだら、


「それならしばしこの屋敷に滞留するが良い。メルカトル君は此処、デュッセルドルフよりラインの川を下ったデュースブルクに住んでいてね。今すぐ手紙をしたためてお呼びしよう。まあ、3日少々あれば彼も来るであろう」


 それを聞いて、逃亡中なのに同じ場所に留まっていて大丈夫かな、という不安とともに、私からお願いしてしまったから今更断れないという思いが生じたが、表向きはもう承諾するしかないので感激の念を伝えて、その場は流す。

 そして、用意して頂いた部屋へと行く前に、今後の旅程の相談を皆でしたいという建前で広間をそのまま貸してもらう。


 ヴィルヘルム公が退出した後に、まず私がメルカトルに会いたいと言ってしまったが故に、此処での滞在期間が伸びてしまったことを謝罪する。

 すると真っ先に口を開いたのはクラヴィウスであった。


「……いえ、マルガレータさん。案外良き選択であったやもしれません。我等イエズスの修道士を歓迎しつつもヴィルヘルム公は『中道』を標榜しておりプロテスタントとも等距離です。……だからこそ前教皇猊下の残党を避けるという意味では小休止するにはうってつけかと」


 その口調とは裏腹に苦々しい表情を見るに、まあイエズス修道士にとして宗教政策の『中道』は本質的には容認できないよなあ、と私も苦笑い。とはいえ、それが私の安全になることと、それ以上に彼自身が私同様神聖ローマの出身であることからこの国の現状からすれば、これでもまだ『マシ』であると理解しているからだ。

 それに続くように、同じく苦笑いを浮かべたオルガンティノが話す。


「それにしても、ゲラルドゥス・メルカトルですか。……確か彼の者は異端審問で逮捕されていたと記憶しておりますが、詳しくは存じ上げません。どのような人物なのでしょうか」


 まあ、後の世で名前が地図技法として残るレベルの偉人……とは流石に言えない。

 これには、地図作製の隣接分野である天文学を専攻していたクラヴィウスが再び口を開ける。


「……地図には多少知見がありますので、マルガレータさんとメルカトル氏が対面する場には同席致しましょうか?」


 その言葉を受けてオルガンティノもヴァリニャーノも頷く。滅茶苦茶警戒されてるなメルカトル……。




 *


 ヴィルヘルム公が言った通り、3日後に彼の屋敷に訪問者がやってきた。

 壮年の男性と若い男性、親子ほどに年の離れた2人組は実際親子であった。そこに私とクラヴィウス、あとヴィルヘルム公が同席している。


「ゲラルドゥス・メルカトルと、こちらは倅のアーノルド・メルカトルでございます。この度はヴァルデック伯令嬢で在らせられるマルガレータ様のお目にかかることができ……」


 あっ、私の認識が神聖ローマ貴族令嬢として扱われるのは久しぶりだ。これまで宗教的な部分かスペイン国王のお気に入りみたいな扱いを受けてきただけにこれはある意味では新鮮である。

 そして短辺1メートルを優に超える紙が広げられる。それはヨーロッパ全図であった。まだ、未着色の部分も多々あったが、下書き線を見るだけでも明らかに現代で見覚えのあるヨーロッパの姿が描かれていた。


「これは……すごいわね……」


「数年前にアラス司教様に完成版を手渡したので、今は作成途中のこれしかありませんが……。従来の偉大なプトレマイオスが築いたヨーロッパの測定から最新の研究成果を反映させて、地中海の縮尺を変更しております。その他にも海岸線の書き換えも行っております」


 手書きでここまでのものが作れるのか。着色されたものが楽しみになる出来映えだ。その完成版を持っているアラス司教なる方が羨ましい。


「……アラス司教様?」


 私の疑問にはヴィルヘルム公が答える。


「おっと、マルガレータ嬢はアラス司教――アントワーヌ・ド・グランヴェル殿をご存知ないのか。はっはっはっ、これは意外!

 フェリペ陛下お気に入りの敏腕な外交官であり高名な政治家よ。古くは先王陛下も重用した政策アドバイザーで、亡きメアリー女王との婚儀を取り持ったり、フランスとの講和会議を主導した人物よ。

 ……後は、そうさな。美術品の収集家としても有名か。だからこそメルカトル君のつくった地図も持っていかれたわい!」


 豪快に笑うヴィルヘルム公からは地図を持っていかれたことに対しての怒りなどは見受けられなかった。

 しかし、これまた意外な繋がりだ。スペインの司教ともなれば、確実にカトリック。にも関わらず異端審問の経験があるメルカトルの地図を収集している。しかも、私はフェリペ2世の御前でおそらく出会わなかったが、かなり中枢の人物であるようだし。


 更にメルカトルの息子は別の地図も取り出す。こちらは先のヨーロッパ全図よりも下書きというのが色濃く出ていて、紙の品質も明らかに劣ることから、まだ本番書きではないことが明らかなものが出てきた。


「……ふむ、これは私も見せてもらったことの無いものだね。一体どこの地図だい?」


 ヴィルヘルム公の問いかけをよそに、私は地図をじっと見る。しっかりと書き込まれたヨーロッパ、海岸線が完璧なアフリカにアラビア半島、そしてインド半島。縮尺は違えど細かく描かれたインドネシアの群島。メキシコからカリブ海沿岸にかけて精密だが、他は粗雑な南北アメリカ大陸。南極大陸と北極大陸・・・・

 ……そして。かなり歪な形をしているが。


「……これが日本――ジパング。

 つまり……世界全図ですね、メルカトル殿?」


 それは後世でメルカトル図法と言われる、そのものの地図様式であった。


「マルガレータ様のご推察の通りでございます。この作成途中の地図は世界を表したものであり、今指差した場所こそがジパングです」


「……このヴィルヘルム。マルガレータ嬢の見識に感服致しましたぞ! 豪胆な夢想について語らいましたが、情熱は確かなようで。常の地図とは少々異なるにも関わらず迷いなくジパングを引き立てるとは余程の思い入れがあるようですな」


 まあ、知ってるしとは言えないので曖昧な笑みで誤魔化す。

 そうやって私がヴィルヘルム公と談笑している間に、クラヴィウスは、メルカトルに質問を重ねていた。


「この世界は球体であるはずなのにこの図では平面に伸ばしておりますね。経線はよろしいでしょう。しかし、緯線はどのように区切っているのですか?」


「球体である地表を円筒となるように仮定し、角度が正しくなるように補正した図で御座います。ですので舵角は常に一致するので、この地図と方位磁石さえあれば道なき場所でも目的地にたどり着くことが可能になるのです」


「補正の仕方が気になるところですが、その説明ですと両極の付近をどのように処理しているか知りたいところですね。何せ正角を維持するためには極付近での経線も緯線も無限遠方に拡張せねばならないのではないでしょうか」



 ……何か異次元の会話をしていたので無視することにした。天文学者と地図製作者のガチバトルに介入出来るわけが無いのよ。




 *


「その……マルガレータ様は、ジパングに興味がおありで?」


「そうですね。加えて言えば一応ヴェネツィアから『おつかい』も頼まれておりますので、フェリペ陛下に一度お会いしたときにお許しが出れば、ですね」


 私が、そう答えても半信半疑な感じである。……おっと、メルカトルの息子の方が発言を求めてきたので、自由に話すことを許す。


「……その、女性が船で大海原に乗り出す、というのはあまり聞かない話なので現実味が……」


 まあ、そりゃそうだ。何となく私のイメージの中にも船の乗組員というのは男性って固定観念がある。


「分からないでもない話ですけれど、大西洋を隔てた新大陸にスペインやポルトガルの領地があり、家族ぐるみで移住するケースもあるのですから、一概にそうとも言えないのでは?」


 そしてクラヴィウスが付け加える。


「それに、イエズス会が背後に付きスペイン国王から正式な任を頂けば、そうそう可笑しなことにはならないかと思います……まあ、前代未聞には違いないですけれどもね」


 ヨーロッパ脱出が徐々に現実味を帯びてきたことで、確かに船の問題も考えなきゃなあというところまで来た。何だっけ、あんまり女性を船に乗せる風習って無かったとかなんとか。戦国武士が戦の前にを想起する女性とは会わないようにする穢れの観念に近いものが欧州でもあったのだろうか。

 でも、既に新大陸であれだけのコミュニティと統治機構を成熟させている現状、現地妻だけではなく妻を連れて入植してきた人間も居るはずなのだ。まあ、そこに抜け道はあるはず。もう入植してから40年くらいは経過しているのだから。


 そこで、ふと思いついた。


「あら、そうですわ。でしたら、アラス司教様の覚え目出度いメルカトル殿も一緒に来て下されば百人力ですわね。優れた地図は宣教活動にも役立ちますし、芸術復興のためであれば私が渡海する理由付けの補強にもなります。

 何より……この極東・・方面の測量データ……不足しているのでしょう? 実地で観測したものを反映することが出来ますわよ」


 ちょっと揺さぶりを掛けてみる。見せてもらった世界全図。確かに素晴らしいものであったが僻地・・に行けば行くほど線が粗くなって精密さが失われていた。まあ、そりゃデータ不足だから仕方ないけれど、でもだからこそ現状あまり多くの記録が無い日本周辺のデータを得られる機会は喉から手が出る程欲しいはずと見た。


 しかし、まあ流石にヴィルヘルム公は止める。


「おっと、少し待っていただこうかマルガレータ嬢よ。メルカトル君はウチで出資している貴重な地理学者なのだからね。ゆくゆくは領内に建設中の大学の教授をやってもらいたいからね。そう易々とロマンに付き合わせる訳には行かないね」


「そうですね、すみません。少し先走ってしまいましたわ」


 ……そりゃ、駄目だよな。既に地図そのものが芸術方面でも評価されているのだからそう易々とパトロンが手放さない。


 諦めて話を切り上げようとした瞬間、1つの声によって遮られる。


「――あ、あのっ! その、渡海には父上ではなく……俺、いや私では力不足でしょうか!?」


 一応名義的には伯爵令嬢である私と神聖ローマ皇帝の外戚であるヴィルヘルム公の貴族の会話に割り入って進言する程にはこのメルカトルの息子――アーノルド・メルカトルは我を忘れて今の話に興奮していたらしい。


「……ヴィルヘルム公」


「……私は構わんが。メルカトル君? 君の息子は外に出しても大丈夫かい?」


「はっ、ヴィルヘルム殿下。不肖の倅ではありますが、ひと通りの技は教えてあります。そろそろ都市開発プロジェクトの地図作製辺りから任せようかと仕事を見繕っていましたが……アーノルド。

 これはお前が思っているよりも大きな仕事だぞ。やれるか?」


 メルカトルに訊ねられたアーノルドは強く頷く。まあ、技が身に付いているのであれば私としては特段著名人にこだわる必要もない。ただ自前で地図を作れるというのは今後色々な場面で役に立つに違いない。


「……であれば、私の倅をよしなに頼みます、マルガレータ様。こき使って下され」


「ええ、こちらこそありがとうございます。……ですが私から言い出しておいて何なのですが後継者とかは大丈夫なのでしょうか?」


「ああ、それについては心配には及びません。私には他にも息子は居りますし、末の息子であるルモルド……今年で15になるのですがな。これも中々筋が悪くない。ですからアーノルドについてはウチに返そうなどと思わず、別家を立てさせるつもりでどんどん使い潰してくれると助かります」


 一気に後継者候補から外れたアーノルドだけれども、父からもヴィルヘルム公からも認められて感無量って感じだから良いのだろうか。……まあ、彼はともかくとしてヴィルヘルム公にはフォローを入れておかないと。


「ヴィルヘルム公の慈悲の心をスペインの隅々……いえ、このアジアの辺境まで広めますね」


「おっと、そうすると私はジパングで4つ目の公爵領を頂くことになってしまうかな? 困るね、ただでさえ爵位が長くなっているというのに」


「あら、ジパングには『六十余州』あるそうですよ。1つだけと言わず、もっと長くして差し上げますわ」


「こりゃあ、マルガレータ嬢に一本取られたね!」


 このくらいは貴族のじゃれ合いで、お互いに本気にはしていないお遊びだ。貴族生まれたるもの比較的標準装備の技能なのである。




 *


「ああ、そうだマルガレータ嬢。2つ連絡事項があるのだが大丈夫かな」


 メルカトル親子はアーノルドの準備も兼ねて一旦帰路につく。そしてヴィルヘルム公から話したいことがあるというのはそのまま頷き次の言葉を待つ。


「1つは妻の実家からの言伝でね。ネーデルラントのフランドル州知事にエグモント伯が就任しているから彼を頼ると良いとのことだ。……知己だったりするのかい?」


「ええ、また随分と懐かしい名前ですわね」


 妻の実家とぼかしているが、確かその妻って現・神聖ローマ皇帝の娘だったよね。此処に来る前にクラヴィウスが言っていた。ということはハプスブルク家側からの指令か。まあフェリペ2世の親戚というか甥と叔父の関係だしね、皇帝。そりゃ助力してくれるか。

 そしてエグモント伯。これまた随分と懐かしい名だ。ラモラール・ファン・エグモント――私がヴァルデック伯領を出てカトリック側の人質として留め置かれることとなったブリュッセルの屋敷で、フェリペ2世とともに色々と私の手助けをしてくれた人だ。同時にフェリペ2世と亡きイングランド女王メアリー1世との婚儀を推し進めてそれを私に告げ口した人である。


 そうか、州知事まで上り詰めたか。そしてフランドルということは北海を臨むことができ、そこから先は海路にてスペインまで行くことが出来る。


「そして、もう1つ。ちょっと近隣の領主を只今屋敷に呼んでいてね。もしかしたら偶然出会うかもしれないから気に留めていてくれると助かる」


「あっ、はい、畏まりました。宿として使ってしまい申し訳ありません。ご政務の邪魔にならないように致しますね」



 ――これを聞いた時には私は全く予想だにしていなかったのだ。

 その日の夜。部屋へと戻るために渡り廊下を歩いていると、中庭の方からどこか聞き覚えのある老境に至った男性の声に呼びかけられた。


「――久しいな、7、8年ぶりか? 随分と様変わりしたな……マルガレータよ」


 その声のした方を、無意識的に振り向けば。そこには私のよく知る人物――けれども、ちょっぴり顔の皺が増えた老紳士の姿があった。

 私は思わず声が漏れる。


「……お父様。どうして此処に……」



 ――フィリップ・フォン・ヴァルデック。当代のヴァルデック伯。

 カトリックへと転向した私を相続人から外しつつも勘当まではしなかった、カトリックとプロテスタントの両天秤を取った、戦国の国人衆かのような動きをする私のお父様。

 最早、私の進退を踏まえれば二度と会うことは不可能だろうと思っていた肉親と……再び相まみえることができたのである。

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