外伝42話 クリシェの打破
『鷹司兼義』として断絶していた鷹司家を復興させる形で相続することとなった一条兼定。
そんな彼が、このタイミングで日本を訪れた私に面会を要求している。
用件が正直想像できない。というか、イエズス会を介した間接的な繋がりしかないし。けれども、再興された摂家の長という公家衆の中でも飛躍している存在でかつ、カトリックサイドから見たときの最も有力な朝廷工作の線になる以上は、会わないという選択肢は存在しない。私自身という意味でもそうだし、ここで彼の不興を買う選択をイエズス会が是認するとは思えない。
そんな鷹司家の邸宅は、鷹司北・室町東に所在する。『鷹司』という家名は屋敷の所在地に由来して付けられたものであり、家祖は鎌倉時代の中頃に近衛家からの分派として発展したものである。それを元は九条流の分派である一条家が再興するのはおかしい?
でも史実で再興した鷹司信房も九条流の分派にあたる二条家出身なのよね、これ。まあ九条流も近衛流もそれぞれの祖の父親まで辿ればいずれも同一人物に連なるから、あまり細かいことは気にしなくても良いのかもしれない。
しかし鷹司忠冬の死去により断絶したのが1546年。
毛利・大友和平の流れから幕府やキリシタン、更には宇喜多直家、竹中半兵衛らの謀略と合流した結果、一条兼定の朝廷出仕とともにエクストリーム再興されることになったのが1568年であり、その間には22年の歳月が隔たっている。
いかに上京に所在すると言えど、それだけの時間、管理者不在となっていた屋敷がこの戦乱溢れる都でどういう姿になっていたかは、想像に難くないであろう。
しかし竹中半兵衛と宇喜多直家の2つの謀略が絡み、これを毛利家が全面バックアップした上で幕府と織田家が承認を与えた上での鷹司家の再興である。
即ち半兵衛を擁する浅井家、浦上家を乗っ取った宇喜多家とその後援に付いている堺の小西屋、そして他ならぬ日本とブール王国の朝貢交易の体裁で石見銀を取引することで莫大な利益を産み出している毛利家が財源的なバックとなっていているのだ。それから導かれる結論は自明であり、その推理の傍証が今、私の目の前に広がっていた。
「……4本線の水平線が入った築地塀ですか……」
朽葉色に白い水平線の入った塀――いわゆる『筋塀』である。
元々、邸宅や寺院を囲う『塀』の格式は、脇壁と呼ばれる土の壁面に門の両脇のみを白く塗ったものの存在の有無で決定づけられていた。しかし応仁の乱辺りを境にしてその脇壁は衰退していく一方で壁面そのものに定規筋と呼ばれる水平線を入れるやり方が次第に普及していく。
一般には門跡寺院の格式をその定規筋の本数で示していたとされ、5本が最高級である証であった。ただ一方で寺院だけにそのスタイルが浸透したのかと問われればそれは否で、16世紀の京を描いた初期の洛中洛外図屏風はいくつか作品があるもののそこにも筋塀が描かれていることを私は知っていた。だから、公家邸宅に用いられていていてもおかしくはないのである。
しかし、4本か。最高級である5本ではない点は建設費の不足というよりも、他への遠慮という側面が押し出されたものであろう。
ただ……うん。私の知る歴史においては信長上洛時から10年くらいの歳月をかけて漸進的に御所修復をやっていたけれども、信長の修復って基本屋根がメインで後は門とかって感じなんだよね。だからこの鷹司邸の塀から総とっかえの工事はある意味においては幕府への当てつけのように、あるいは毛利家らの隆盛を指し示す代物と判断することもできる。真意は分からないが。
ともかく一条兼定改め鷹司兼義の朝廷出仕から8年が経過している今でさえ、その鷹司邸の煌びやかな佇まいは他を一線を画しているものであった。最早新造と呼べないくらいには年月が経過しているが、一切の風化を感じさせないくらいに手入れが行き届いている。
……こうなると、いよいよ一条兼定との面会が怖くなってきた。だって一条兼定が土佐時代の本拠であった中村館が彼の代で大規模な修築がなされたという話は聞かない。土佐から朝廷出仕というだけでもたいへんな名誉であるのに、こんな新築の邸宅を与えられる程の厚遇である。
はてさて、一体。鬼が出るか、それとも蛇が出るのか。そんな心境で門番に対して明智光秀の手の者が来訪を伝えれば、慌ただしく屋敷の者が動き出し、私達を招き入れる。光秀もグレイスも伴って敷居をくぐった。
あれよあれよと畳張りの大広間へと通されて、下座へと案内される。一条兼定の位階は従三位以上であることは確実なので、彼の方が格上という扱いは分からないでもない。だが、幕府側は今まで私の身分をどこに据え置くのか曖昧にしたままであったのに対して、この鷹司家では最初から下座に通してきた意味は何かあるかもしれない。
「……鷹司兼義殿は、確か従三位でしたね、明智殿?」
「はっ。上洛後に権中納言に補任なされております」
一応、一条兼定が権中納言を拝領するのは私の知る歴史でも同様であった。とはいえその時期が隠居を強制される直前であり、実際3か月後には出家して辞職していることを鑑みれば勇退する者に箔付けの意味合いで一時的に付与しただけに過ぎないものでしかないが。
それと権中納言であれば官位相当は従三位から正四位上なので、ようやく一条兼定の越階に追いついた形となる。
なお中納言の定員は古くは鎌倉の代から最大10名というのが慣例として定着している。ただし中納言への昇進ルートは厳しいことから欠員が出ることもしばしばある……というか、10名ルール自体が権官による拡大解釈の結果ではあるので別に10人居なくても問題ないのだけれども。
一般に中納言になるためには参議を15年以上務める必要があるが、長年システム運用している官位には例外処理が大量に仕込まれている。中納言の場合は、現職摂関子息・検非違使別当・三位以上の位階を有する中将などが時代によって多少の差異があれど特例的に中納言になることが出来た。この例で言えば一条兼定は、参議に就いていないが、従三位であり先んじて左近衛中将に任ぜられていたがために例外処理側で中納言の補任資格を有していた。もっとも、私の知る歴史では一条兼定が左近衛中将になったのって権中納言になる1~2週間前なのだから、そういう適当さも箔付けのために無理やり中納言にしたのだろうなと思わせるものである。
……まあ、ここまで言っておいて申し訳ないけれども。
「現在の権中納言って何名かしら?」
「……8名ですね。この鷹司家以外に、葉室・柳原・四辻・持明院・甘露寺・西園寺・三条西のご歴々が任官なされておりまする」
私の知る歴史通りやっぱり定員割れしている。この中で唯一関わりがあるのは三条西家だが、権中納言に就いているのは竹中半兵衛経由で渤海使の献策を行った相手である三条西実澄ではなく、その次男・公明である。
というか、突然振られても現職中納言全員諳んじることが出来る明智光秀ってやっぱりすごい。こんなのが細川被官の幕府足軽衆に埋もれていたのだから人材というのは何処にでも居るものである。とはいえ『足軽衆』って名前だけど幕府のそれは、取るに足らない雑兵であったわけではなく『将軍直臣ではない者を集めた精鋭部隊』くらいのニュアンスだから、陪臣身分でなら埋没しているどころか十二分に評価され抜擢されている部類ではあるけれど。
そうこうしているうちに、大広間の外が俄かに騒がしくなってきた。大方、一条兼定の御成りというわけなのだろう。
そして入ってきたのはいかにも公家といった上衣を身に付けた壮年の人物と、数名の武装した護衛。一応上衣の家紋をチェックしたが牡丹紋。確か花だけ描かれた牡丹の家紋は公家だと鷹司家と近衛家だけだったはず。流石に鷹司牡丹と近衛牡丹の見分けまでは私にはつかないが、わざわざ鷹司家の屋敷にまで来てアポイントを取っている一条兼定ではなく、突然近衛家の者が来るとは思えないために、目の前の人物こそが今は鷹司兼義と名乗る一条兼定で相違ないだろう。
ただ。この時点で気になったのが一点。護衛の者らも大多数は同じ紋を身に付けているものの、1人だけ別の家紋を誂えている。
普段では気にも留めなかったであろうその家紋は、あまりにも異彩を放っていたために目に留まってしまった。というのも『合子箸紋』――ただ丸が描かれた隣に二本の棒が置かれた家紋なのである。固定観念では丸い図形の中などで色々と意匠を凝らすのが家紋と思いがちだが、この紋は丸の外側の端に線が描かれているという点で不可思議なものなのだ。
ただ、これだけ特徴的なものなので使用されている家は限られている。確か、美濃の遠山家やその分流である安木遠山家、あるいは蜷川家などで使用されており、共通しているのはいずれも幕府奉公衆ということだ。
即ち護衛の1人は幕府の要人かその臣である可能性が高い。それを念頭に入れつつ、目の前の公家と相対する。
「余は鷹司兼義である。貴殿が呂宋の主を辞そうとしておる白雪殿で相違ないであろうか?」
「はい。ご用命があると宣教師らから伺い、こうしてお屋敷へお尋ねいたしました……鷹司殿」
この私の第一声のみで鷹司家の者からは僅かにどよめきが生じた。無理も無い。下座に案内されているにも関わらず、私の返答は相手が『同格』であることを企図したものであったからである。仮にも従三位の位階に就くものと対等であると私が意思表示をしたのだ。
ただ私の立場からすると、止むを得ない事情もある。マルガレータ・フォン・ヴァルデックという個や、フィリピン伯という爵位だけではなく、諸外国への訪問だから今の私はスペインの外交官としての立ち回りも併せている。だからこそ、相手が摂関家であったとしてもフェリペ2世の臣であるという立場を崩さない以上は、明確に序列が下に置かれるわけにはいかないのだ。
以前この国を訪れたときのように、本国に戻る気が更々無かった頃合いであれば、その辺りに拘る必要は無かった。だが、今はあのヨーロッパへ帰還せねばならない事情がある。だからこそ、これまでとは態度がどうしても変質してしまう。
しかしそうした内心の葛藤を一条兼定はまるで無視するかのように、私にこう告げる。
「おお、そうであった。呼びつけたのは余であったな。非礼を詫びよう。
……実はの。貴国との交わりは、三条西家の亜相殿が折り入って拵えたものにも関わらず、長らくその実務を地下の者らに任せっきりであった。それを公卿の中で問題視する声が挙がっておるのだ」
正確にはブール王国と日本の朝貢関係を介した間接的な繋がりなのだが、そこは別に指摘するほどのことでもないだろう。そしてこれまでの日本との外交関係は幕府や商人を介したものであったのは確かである。
そして、こういう回りくどい言い回しをしてきた時点で、一条兼定が後世のステレオイメージと同様である可能性は私の中で既に除外している。目の前の御仁は明確に『公家』であるとするならば、そこで求められる立ち回りは。
「――万里小路の亜相殿がお隠れにでもなられましたか?」
「なんじゃ、つまらんのう。知っておったのか。
そうさな、亡き万里小路惟房殿はその命日に亜相から内府へ昇っておるが、奇怪なことにその後を追うように子の輔房殿も亡くなっておるのよ。
……ま、今の内府は本家の一条内基だがのう」
情報が過多なので一旦整理する。
まず万里小路惟房。これは以前にこの国で通商協定交渉をしていたときに朝廷内の反カトリックの風潮を形成していた人物である。表立って動いていた形跡は残されていないだろうが、私の滞在の長期化を招いていたのは大体彼のせいと言っても良いだろう。
しかし、そんな公卿が死亡した。とはいえ、これは時期的には私の知る歴史の通りである。加えて言えば内府――内大臣の位が死去したその日に贈られているのも、息子が数ヶ月の時を置かずして亡くなっているのも同様である。
なお死去するその日に贈るのは没後の贈位とは若干異なる。というか内大臣という職そのものが中臣鎌足が死の直前に与えられたことを起点として始まった『功臣礼遇』としての側面を最初から有する官位だし、この鎌足の先例は贈位という制度の開始よりも古い。
そして後継の内大臣に一条内基が就任したのも私の知るところと同じだ。とはいえ史実では今年の年末に内大臣職は織田信長へのスライドになるけれども、多分その継承は行われないだろう。この国の近況はあまり多く仕入れていないものの、室町幕府が足利義昭政権でほぼ安定してしまったからね。
だから、もうあんまり私の持っている戦国知識に大きな意味は無いのだけれども、それでも朝廷側の任官の動きはまだ近しいものが残っているようである。
ともかく万里小路父子の死により、朝廷側でネックになっていた反カトリック勢力が大きく減退したことは事実だ。そして土佐より朝廷へ参画した鷹司兼義こと一条兼定が、カトリック支持の穏健派として台頭してくる土壌が完成している。
となると、今の一条兼定の権勢を彩るファクターの1つに『ブール王国との朝貢関係』が介在するのだ。宣教師がバックについているということ以上に、謀略の中核となった毛利家が鷹司家を支援する資金の出所がフィリピンとの交易関係にあることが、一条兼定に私の存在を強く意識させることに繋がっているのだろう。
国際的な外交関係の視野が形成されつつある公家――それが今の『鷹司兼義』なのである。
その前提を踏まえれば、何となくこの屋敷に呼び出された理由に察しがついた。
「……つまるところ、朝廷も――」
私の言葉を遮るように一条兼定は語る。
「――皆まで言ってしまわれるな。察しが良いのは結構だが、余の享楽まで奪うでないぞ。
うむ、幕府だけじゃのうて公儀からも、貴殿に餞別を付けることと相成った。
……もっとも。賊の追討と伺っているがために、雅を介する心得者を送るのには尚早であると結論付けられたが、しかして我が『鷹司』の名義であれば構わぬとの達しを受けてのう」
即ち、朝廷として公的な使者を帯同させるまでの動きはないものの、鷹司家の責任で公家でない者をメッセンジャーとして派遣させるところまでは話がまとまったということである。
しかも、それをフィリピン伯領ではなく、私のフランシス・ドレーク追討艦隊に同行させる辺り、幕府要人にヨーロッパとの外交を独占させないための牽制の意図が多分に含まれているのだろう。端的に言えば、朝廷から幕府参画メンバーへの目付が付くということである。既にヨーロッパに滞在している斎藤龍興や、彼の対抗馬としての役割を担わせられている明智光秀の両者に対して、朝廷……というか鷹司家の意を受けた者が派遣されるということだ。
背後に控える明智光秀をちらりと見やれば、彼もその意図を見抜いてか、私にアイコンタクトをする。本当に読心レベルで話が早い。
「鷹司殿。私に随行する幕府の随員が発言を求めておりますが……」
「うむ。貴殿の随伴者ということは幕府の要人じゃな? 直答を許そう」
「ありがたき幸せ。
……して、鷹司様の御付きの方の御助力とおっしゃいますと、一体どの御方になりましょうか」
その明智光秀の発言は私も気になっていたところであるために事態を静観する。鷹司家臣というと私が思い浮かぶ限りだと山城の国人領主の革島家が想起されるものの、革島家が鷹司配下になったのって江戸期以降だったはず。確か本能寺の変で明智方に味方して以降所領没収されて紆余曲折あってそこに収まったがために、今は特に大きな関係は無いはずである。
となると、他に私が分かる範囲であり得るのは土佐一条繋がりで土佐人員である可能性くらいか。
「おお、丁度良い。
実はの、既にこの場に居るのだ。ほれ、挨拶してやれ」
そう一条兼定が伝えれば、護衛の者が歩み出でてくる。……あ、1人だけ家紋が違った者だ。『合子箸紋』の武者……その者は平伏する明智光秀に対して、こう前口上を述べてから名乗ったのである。
「鷹司家青侍、斎藤利三である。此度は幕府水軍奉行の明智光秀殿の目付として派遣された。明智殿、以後よしなに」
「ははっ!」
……そう繋がるか。まさか明智光秀の上役として、斎藤利三が出てくるとは。
驚きと感嘆が先行するが、絡繰りは分かる。
「……蜷川家縁者でしたよね、鷹司殿」
「土佐の地侍の連中に丸投げしたら彼を寄越したのよ。
色々と機敏が利く者であり、何より政所執事の家柄であれば、地下人の中ではまだそれなりであるが故にのう」
つまり、長曾我部元親辺りに無理難題を押し付けて、そこから元親夫人と土佐に亡命していた蜷川親長らに連動。そこから石谷家経由で斎藤利三へ繋がったということだ。こうして考えるとかなり遠いように感じるが、元親目線ならば利三は妻の兄……即ち義兄である。
その繋がりから蜷川家の家紋を身に付けた鷹司家臣の斎藤利三の誕生か。……でも、これあれだよなあ。斎藤利三の本来の上司って稲葉良通でしょうよ。稲葉家経由のルートということは、前の三条西家のときと同様に美濃国人衆と竹中半兵衛の影響力が見え隠れしている。
明智光秀の目付という言葉は、そのまま幕府水軍の事実上の後援者である織田家への嫌がらせが込みのものである。更にその上で、美濃縁者の更なるベッドは斎藤龍興に対しても妨害行為を行うつもりだろう。だって道三が乗っ取る前の本流の美濃斎藤の縁者でもあるし。そんな彼が非公式とはいえ朝廷のメッセンジャーを兼ねるというのは、二重三重の一手となり得るわけで。
物凄い勢いで日本勢の足の引っ張り合いが確定している瞬間であるけれども。
「――借り物であるとはいえ、我が青侍をお任せしますぞ、白雪殿。
……おや? 何か瑕疵でもありましたかな?」
「いえ、何でもないのです」
ずっと分かってはいたことであるけれども、こうして斎藤利三に平伏する明智光秀の姿を見て、改めて私がどれだけ歴史を変えてきたのかと思い直す一幕であった。
それが、どれだけの意味を有するものなのかは私にしか……いや、私でも計り知れないものなのかもしれない。
けれども。こうして主従関係というものすらもまるで逆転している姿を目の当たりにしてしまうと、私が今までやってきたことはありとあらゆる形で全く予期しない形で波及するものだとは思わずにはいられなかった。