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外伝40話 世界の終端


 爵位の放棄、それ自体はスペイン貴族にとって極端に珍しいことでもない。4年前に亡くなるまでイエズス会の第3代総長であったフランシスコ・ボルハという人物が居るが、彼は信仰の道に入るまでガンディア公爵位を有していた。

 イエズス会が新興の修道会であり、高等教育の習熟に力点を置くがために、日々の信仰生活に課せられる規律は他修道会と比較しても群を抜いて緩いことは、今までにも何回か知る機会はあった。逆に厳しいのはアナが一瞬入ってすぐやめたカルメル会とかだね。


 ただし緩いとは言っても、修道会であることには違いない。聖職者として世俗と関わることは出来るかもしれないが、流石に『貴族』でありながら同時に修道士となるのは不可能と言わざるを得ない。確かに言われてみれば戦国日本のキリシタン大名や武将というのは『洗礼』こそ受けているが、イエズス会に『入会』したという話はあまり聞かない。ロレンソ了斎などは入会の事実が確認されているが、彼は説法家として各地を巡業していたことを踏まえればまず間違いなく『宣教師』であり、領主や貴族といった立ち位置とはまるで異なる。


 と、ここまで言えばある程度察しがつくかもしれないが、元々公爵であったフランシスコ・ボルハがイエズス会に入会する際に自身の爵位を嫡男へと継承し、世俗の貴族爵位を放棄した上で信仰の道へと至っている。

 ぶっちゃけ言ってしまえばカトリック版の『出家』なのだが、武田信玄や大友宗麟などが政治的パフォーマンスのために『なんちゃって仏教帰依』をしていたそれらの出家よりかは重い。足利義昭が、当初は義輝との跡取り争いにならないように足利将軍家の慣例で興福寺一乗院に入室し覚慶と名乗っていた頃のイメージに近いだろうか。


 そんな足利義昭も永禄の変で義輝が誅殺されたのちに還俗しているように、キリスト教サイドでも不慮の事態に対する還俗に類する制度はある。……というか、今のポルトガル国王が元枢機卿だしね。


 ともかく修道会に『入会』するというのは爵位の放棄すらも必要となるくらいには生活や行動様式の根幹から変えることなのだ。私が所属しているコングレガティオ・マリアナに代表されるような『信徒団体』という世俗での生活と信仰を両立出来るような組織とはそもそも根本から異なるのである。

 まあ当のフランシスコ・ボルハは、イエズス会入会前から体験入会みたいなことをしていて身辺整理をしながら信仰に関する学習をしていたというのだから、そういうところの融通・柔軟性という名の緩さは、イエズス会という修道会には確実に内包されているけれども。


 そうした爵位の放棄は『隠居』と言えるかもしれないけれども、一方でフランシスコ・ボルハが爵位放棄を行ったのは彼が40歳のときである。このくらいのタイミングで家督相続を行う戦国武将はちょくちょく居るが、彼の場合実権すら完全に手放しているわけだから、そういう一切の取り仕切りを子に任せるタイプの隠居としては幾分早いと言えよう。


 ただし、そういう形で爵位を放棄したとしてもフランシスコ・ボルハは『聖職者』として宮廷に関わることとなり、イベリア半島のイエズス会修道院を束ねる立場を兼ねるようになる。貴族ではないものの、その政治的影響力は変質した形で残り続けた。だからこそ、イエズス会総長への就任に至るわけだが、このように爵位の放棄が政治的な死と同義ではないのである。爵位を放棄したとして、それで得られるフリーハンドの身分でもって何をするかが重要なのだ。



「マルガレータさんが、爵位を返上するとして。手続きはわたくし達が証人となれば良いですわ。

 しかし、この地を離れるというのであれば、新たな選択肢が浮上いたします。

 ――フランシス・ドレークを追撃し、これをフィリピン伯様自らが討ち取ることが出来れば、本国へ赴くまでもなく『自己解決した』という報告を送ることが出来ますのよ?」


「……アナ様のご提案もよろしいですが。本義であるイングランドとの交渉の場をどのようにして用意するので? フィリピン伯様のご名声で押し通すにしても取っ掛かりは必要になります」


 事ここに来ては、両名ともに私の行動を止めることはなかった。

 アナは私が思いつかなかったフランシス・ドレーク追撃という新たな選択肢、そしてイディアケス補佐官は実際に交渉するとしてどうやってイングランドに渡りを付けるのか、という懸念。


 その言葉に対する返答は、すぐに思い至った。


「……どちらもグレイスを連れて行けば解決しますね。フィリピン伯領から私が切り離されるのであれば、最早他者に配慮してグレイスを閑職に追いやる必要はなくなり堂々と軍権を引き渡すことができます。

 そして、仮初のものとはいえ、イングランドの僭称女王たるエリザベスはアイルランド王も自称しております……つまり、アイルランド領主であったグレイスの陳情という体裁を用意すれば門前払いは防げるはず。


 ――まあ、全てはグレイス。貴方が付いてくるのを前提にしていますが。貴族でなくなる私に未だ仕える意味を見出してくれるのであれば、是非一緒に来て頂けると助かるのですが……」



 その答えは、どちらもグレイスを利用するということ。

 アナの軍事指揮官としての資質は私と同じく最高指揮官としてのものである以上、現場指揮官として最も信頼出来るのはずっと変わらず最古参のグレイスである。

 そして、グレイスが私が付いてくることになったアイルランドにおける一幕は、当地がスペインとイングランドの草刈り場であったことに起因していて、名目上であってもイングランド側はアイルランド王を兼任しているがために、グレイスの存在そのものが伝手になり得るのだ。


 それに対するグレイスの答えは即答であった。


「――もちろん。私は『フィリピン伯』の臣なのではなく、マルガレータ様に付き従っているのですから。

 それに、未だ私はマルガレータ様に恩を返し切ったとは思っておりませんよ」




 ◇ ◇ ◇


 ――マルガレータ様が此方に滞在していたからこそ、私は背後を恐れずに夫の仇へと攻め入ることができたのです。

 初陣も済ませていなかったマルガレータ様に、重大な決断をさせてしまったこと、そして戦を知らぬ身なのにも関わらず、私達を救う助力をして下さったこと……。返せぬ恩を受けてしまいました。

 どうか以後は、マルガレータ様の臣として……フィリピンであろうとジパングであろうと付き従いたいと……。


 ◇ ◇ ◇


 グレイスが私に付き従ってくれたとき、彼女がこう言っていたことを想起する。その『恩』を未だ返したとは言えないというのであれば、グレイスはどこまでも私に付き従ってくれる。



 そして私は決断した。


「フランシス・ドレークは、非カトリック諸国への親善特使としての性質も帯びておりますので、一目散にイングランドを目指すことはないでしょう。だから時間は多少残されております。グレイスは私の私財を使って艦隊の編成をお願いします。

 アナさんとイディアケス殿は、爵位返上に関する手続きを進めておいて下さい。フィリピン出立の期日と合わせましょう。

 その後の統治の代理人については、宮廷に知らせるまではアナさんを『知事』として暫定的に置く、ということでよろしいでしょうか?」


 そう聞けば、三者ともに同意の返事を返してくれた。


「――それで、フィリピン伯様は残された時間をどのように使うつもりで?」


「……臣従しているブール王国の国王、ダトゥ・シカツナ殿に面会へ赴こうかと」




 *


 『フィリピン伯』を辞すると決めたが、職務的に引き継ぎを行うことはほとんど無かった。大体私の行動をアナも把握していたためだし、彼女は早々に私がフィリピン伯であったから出来たことは切り捨てようと考えていたようである。ヴェネツィアやアントウェルペンに対して存在する個人的関係であったり、日本周りのことであったりである。

 けれども、そうした改革措置を現時点で取ることは無いとも話していた。あくまでも暫定措置で宮廷がどのように出るのか不明瞭だから現状維持を選択するのは当然と言えば当然な話である。私が再任すれば元に戻す手間が増えるだけだし、別の代理人を派遣するとなればアナはお役御免になるかもしれないからだ。


 で、肝心の艦隊メンバーの編成。大枠としてはグレイスを軍事指揮に置き、彼女の麾下部隊から兵員は募ることとなる。費用は基本的には私の懐からの自腹になる。けれども、一応想定としてはガレオン船で2隻程度、人員も200名に届かないくらいを考えていて、それくらいなら数ヶ月の軍事行動をものともしない程には個人財産はあった。

 ……というか、このフィリピンに来たときの11隻の艦隊のうち、6隻は私が自分で用意したもので、あの6隻のガレオン船も未だに残って傭船や貸し船契約で利益を上げ続けているくらいだし。別に私が能動的に何かを産み出したり管理しなくても勝手に資産運用で増えていくから個人の財布は貯まる一方になっていた。

 とは言っても、フィリピンへ来たときの船は既に艦齢14年に突入している。現役で使えるけれども、流石にこれから外洋を長距離航海させるには心許なくなってきたので、そちらは新造艦を使うことにした。


 そして他に付いてくるのは、アーノルド・メルカトル。まあ彼もグレイスと同じく私の直臣衆にあたるというのと、後は航海士らのバッファー要因だ。フランシス・ドレークの追撃も執り行うということは、定期船航路とは異なる海域を利用する可能性が高い。地図作成の観点から言っても魅力的な提案に否、を突き付けることはなく喜んで同行を快諾してくれた。



 そこまで決めてからボホール島へと渡りダトゥ・シカツナと面会する。


「――事情は分かりましたフィリピン伯様。しかし残念ですね、昔であれば喜んで同行したでしょうが王位についてしまった以上は、それだけの自由は利きません」


「……いや日本へと赴いた当時でもシカツナ殿には家族が居たのでしょう? 王位とか関係なく無鉄砲な行動は慎んでくださいな。

 それよりも、協力してほしいことがありまして――」


 客将としてついてきたダトゥ・シカツナであったが、よくよく考えれば次期王位後継者を連れまわすというのは今更ながら狂気の沙汰であった。しかも、今も国王でさえなければ付いてきたいと言ってくれている。それが嬉しくない、と言えば嘘になるがけれども彼にはちゃんと家族が居るのだから、そっちを大事にしてほしい。


「フィリピン伯様が殊勝に別れを告げるためだけに私を訪ねるとは思っていませんし、私個人としてもブール王国としても協力は惜しみませんよ。それで一体何を?」


 私はそこで一息入れて提案をする。


「……フランシス・ドレークの艦は、スールー・スルタン国の海域へと逃亡したのですが、かの国に探りを入れて頂ければ。不俱戴天の敵であるかとは思いますが、伝手はありますよね?」


 それに対するシカツナの答えは早かった。


「ああ、そのことですか。実はフィリピン伯様がいらっしゃる前にスールー・スルタン国の使者が来ていまして、既にセブへとお送りしています。

 ちょうど入れ違いになってしまいましたが、ある程度の向こうの事情……と言いますか釈明はお聞きしたので貴殿の御耳にも入れておくべきでしょう。

 まあ、セブに戻れば報告はあるかと思いますが――」


 なんと。スールー・スルタン国の使者と入れ違いになっていたか。

 それでもシカツナが聞いた話を伺えば、フランシス・ドレークはミンダナオ島襲撃前にスールー・スルタン国を訪ねていたとのこと。そこで取引を行いスールー海の通行許可や船標は得ていたから、セブ襲撃後も悠々と通過してカリマンタン島方面は既に抜けた後という話であった。


「……まあ、それをこちらに漏らすということはスールー・スルタン国も私達と敵対する意志は無いということですよね」


 加えて言えば、予想以上にフランシス・ドレークがセブ襲撃に対して用意周到であった。退路確保を事前に行った上でミンダナオ島を狙う。テルナテ王国を離脱した後に、そのまままっすぐ北にミンダナオ島があるというのに、わざわざ西へ迂回してスールー・スルタン国に先に立ち寄っている。それは明確な目的意識の下の行動であることの証左だ。


「これがあるからフィリピン伯様相手だと話が早かったのですけれども……」


 正直、アナが正式に代官として就任するとしても、本国から何某かが新任の知事として送られるとしても、異教徒の中立が今後も容認されるかどうかは未知数である。私はこうしたスールー・スルタン国のような異教徒の風見鶏的な行動は、こちらのネットワークに引っかからない情報をもたらしてくれるからアリだと考えているけれども、施政者の方針によってはそれを好ましく思わない者も多いと思う。


 そこまで考えたところ、ふとシカツナは思い出したように語った。


「返す返すも貴殿が居なくなってしまうと思うと実に……あっ。そうでした。

 我が国から直接戦力を提供するのは難しいですが、1つ提案があります」


「……と、言いますと?」


「ええとサンピタン――吹き矢の誼で室町幕府の『ホソカワ』殿が筆まめに手紙を送って下さっていて、あちらの近況も多少伺っているのですが。

 ……どうにも『幕府水軍』が多少なりとも形になったとのことで、もしフィリピン伯様がお望みであれば戦力を融通して頂けるかもしれませんよ」



 えっ、なにそれこわい。

 というか確かに吹き矢を教えるように言ったのは私だったけど、まさか今でも細川藤孝とダトゥ・シカツナが交流しているなんて、想定出来るわけないじゃん!

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[一言] 本筋とは関係ないんだけど、ガンディア公でボルハさんなんて超級の厄ネタの香り。 そうかあ、チェーザレさんの親戚はイエズス会の総長なんてやってたのかあ。
[一言] 更新お疲れ様です。 出立の準備着々と・・・・ 命を長らえる為に前世知識が役に立ちそうな遥か極東(極西)に来たのに、今になってとんぼ返りとは皮肉な旅路になりそうですね(><) 何とかフランシ…
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