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外伝39話 3番目の白雪姫


 アルマダの海戦。

 ヨーロッパ史に詳しくない私でも、それは知っていた。ただ戦国知識のように万全のものではない。


 無敵艦隊と呼ばれるスペインの艦隊がイングランド相手にぼろ負けする戦。その程度の認識である。無敵というのだからスペイン最強の艦隊なのだろう。であればフィリピンや新大陸の辺境艦隊ではなく、ヨーロッパに鎮座するはず。

 一瞬、オスマン帝国を相手取るスペイン地中海艦隊が頭によぎるが、スペインの地理的優位性は、オスマンと異なりジブラルタル海峡を通じて地中海と外洋が接続している点だ。

 スエズ運河が開通しない限りは、地中海の艦隊をインド洋で運用できないオスマンと比較すれば、それは間違いなくアドバンテージである。多分、無敵って冠するなら地中海からも一定量抽出しているはず。


 おそらく本国にフランシス・ドレークの顛末を報告をすれば、アルマダの海戦ルートになる気がする。しかし報告しないという選択肢はない。

 だってフランシス・ドレークがイングランドまで到達して、その戦果を喧伝してしまえば遅かれ早かれバレてしまうことなのだから。そうなれば同様のことである。


 新大陸太平洋側においてもかのイングランド艦隊は略奪行為をしていたらしいが、一方でアナの下に入っていた報告から類推するに、そちらではただの『海賊被害の増加』としてしか捉えられておらず、今この瞬間にそれらの違法行為がイングランドの仕業であったことを知る者は恐らくフィリピン伯領に住まう者らを除けばスペイン人では居ない可能性すらあるのだ。これも報告が必須であることを示す要因である。



 ただし、それをすればアルマダの海戦になるかもしれない。


「……スペインとイングランドの対峙は阻止しなければなりません」


 私がそう宣言すればアナとグレイスの表情に緊張の色が走った。


「……それは、何故かしら? ああ、少し待ってくださいね。答える前にフアン・デ・イディアケス殿をお呼びいたします。

 この理由はわたくし達だけが伺うわけには参りません」


 理由か。イディアケス補佐官を呼びに行く間の時間を私は思慮に使う。

 単純でかつ明瞭な理由があるわけではない。


 ただ私は今現在より先の時代に、日本へウィリアム・アダムスがやってくることを知っている。初期の徳川幕府がカトリック勢力への対抗馬としてイングランドやオランダを重用したということも。

 オランダの独立は、紆余曲折あったものの当初の指針通り阻止することが現状適っている。偶然の産物であったものの、南ネーデルラントが先に離反したことでその鎮圧により北部ネーデルラントの離反を押し留めることに成功した。私の功績ではなくフェリペ2世の功績だが。


 であれば、イングランドさえ封殺してしまえば日本におけるカトリックの主導的地位が確立できる。そしてそれがフィリピン伯領の貿易循環に必要な石見銀の供給安定に寄与する。


 ……いや。もっと危惧すべき点を直接的に言った方が良いか。

 確かに、イングランドは日本において幕末まで主要な外交プレイヤーとして君臨することは無かった。それは事実だ。


 けれども。

 その戦国日本における事実を『東南アジア』においても同様だと断言できるのだろうか。フランシス・ドレークは確かに私達に攻撃を仕掛けてきている海賊のごとき相手だが、テルナテ王国訪問時には『イングランドの外交使節』として振る舞っている。その行為がどこまで見通しているのかは不明だ。けれども、もしスペイン辺境を攻撃することでスペインのヨーロッパにおける王座を揺るがすことと同じくらい、東南アジア諸国を味方に引き入れることを重要視しているとしたら、私達はフィリピン伯領としてその動きに注視しなければならない。


 となると、アルマダの海戦で敗北するという私のあやふやな世界史知識を頼りにすると、その以後の対処が厄介になるというのが目に見えている。

 そういう意味では、今この瞬間の対イングランド軍事衝突は避けるべきだ。


 しかし、これをアナやイディアケスに伝えるのは難しい。



 そうこうしているうちに、イディアケス補佐官を連れてアナは戻ってきた。


「……フィリピン伯様。何故、スペインとイングランドの衝突を避けねばならないとお考えで?」


 先に考えていたことを伝えられないのであれば、と私は別の理由をでっち上げた。


「……戦になれば、距離的な問題でドーバー海峡の制海権は一時的に喪失する可能性が高く、ネーデルラントが孤立するかもしれません。

 しかし我が国の経済の中核はアントウェルペン……ネーデルラントにあるではないですか。アントウェルペンへ至る産品を経済封鎖されてしまえば、財政的に我が国は立ち行かなくなる危惧がございます」


 私がネーデルラント政策に介入することになったときの建前論である。私とスペインの関係の初期の初期にあるものが、今になっても尚、状況も時代も異なれど重なっていた。

 正直、取り繕う理由としてはでっち上げにしては良く出来ていると思った。



 しかし。


「……それはフィリピン伯様が危惧することでもないですね。何せ一時的障害であるのならば、むしろ戦が終われば解決するではないですか」


「――もしかして、ネーデルラントの動揺を気にしていらっしゃって? 大丈夫ですわ、マルガレータさん。アントウェルペンの者らもそれくらいで機嫌を損ねたりはいたしませんわ。だって貴方の名前で彼等がどれだけ稼いでいるとお思いで……ね?」



 私がやる必要がない。イディアケス補佐官はそう言いたいのであろう。

 スペインとイングランドがヨーロッパにおいて衝突するにあたって、その責任は完全に宮廷に帰属する。そして最終判断はフェリペ2世の決裁の下で決定されることを考えれば、戦の勝敗を含めてその責任は私には無い。

 フィリピンからイングランドへ伸ばせる手が限られる以上は、無理にここで介入する必要性すらないというのがイディアケス補佐官の意見だ。


 そしてアナはもう一歩私に歩み寄っている。アナがフィリピン軍事指揮官着任の要因となったものの1つに『ネーデルラント貴族との仲介』を亡きフェリペ2世の前妻の要請で行っていた。だからこそ、私とアントウェルペン商人の関係性についてある程度把握しているのだろう。だからこそ、私がアントウェルペンとの今後を気にしての発言だと推理し、それが杞憂であると言いたいのだ。



 更に、グレイスが追撃をする。


「――というか。そもそもマルガレータ様。今挙げた事由は、別に本命の理由ではないですよね」


 うわあ、完全に見通されている。それに対して、言葉が詰まったためにアナやイディアケスからも訝しげに見つめられてしまう。



 ……うん。腹を括ろうか。



「……ええ。これで騙せれば御の字だったけれども、駄目ですか」


 一旦、そこで区切る。そしてこの場にいる全員に一度視線を送ってから再度言葉を紡ぐ。

 なるべく自信ありげに。そして何も疑わないように。事実を淡々と告げるような素振りを意識して。



「――今、イングランドと交戦すれば。スペインは敗北しますよ」


 予期された通りの沈黙が場を支配する。

 その沈黙から最も早く立ち直ったのは、私と付き合いが一番長いグレイスであった。


「……日本に訪れていた頃合いのマルガレータ様のやり口と似ていますね。従来の打ち手ではないということは、また『何か』を掴みましたか」


 私が『史実』から逆算して打ち筋を決定するのは、戦国日本へ降り立っていたときに既にやっている。

 それを正確に把握しているのは、この場ではグレイスのみである。


 そして日本に居た頃から、私の基本の施政方針は全く変わっていない。高い独自裁量権を与えて丸投げするというやつだ。というか軍務と内務の大部分を投げている先がアナとイディアケスなのだから、この2人がそれを知らない訳がない。

 しかし大部分とは全てではない。その軍部から離れて独立した警備部隊を有しているグレイスの存在もあるし、『外交』においては私自身の権限から完全に手放しているわけではない。だからこそ、この3人は私が独自に情報網を有している可能性を否定することができないのだ。


 縦割り行政による身内に秘匿性を発揮するメリット。それが再び作用した瞬間である。


 私はグレイスの問いには答えずに続ける。


「――チュニジアを巡る戦いにおいて我が国とオスマンは痛み分けの引き分けに終わりました。

 ……ということは、我が国の地中海艦隊が残存しているのと同様に、オスマンのそれ(・・)も保全されているのですよ」


「仮にフィリピン伯様のおっしゃる通りに、イングランドに敗退するとして。

 つまりオスマンが和議を破棄して攻めてくるとおっしゃりたいのですか? それは脅威ではありますが、特段フィリピン伯様の職分に含まれるものでは――」


「――いえ、攻めてくる必要は無いのです。

 我が国が艦隊再建を行う間、オスマンは地中海で軍事リソースを増やす必要が無くなります。その際に紅海・インド洋艦隊の増強を行い、アチェ王国への軍事支援が強化されれば、現在の東南アジアのパワーバランスは崩壊するでしょうね。

 ええ、可能性としては低いかもしれません。ですが、それが現実化したときに我々の下に本国から救援が来ることは……恐らく無いかと」


「……そうですわね。本国は艦隊再建を優先しますよね」


 その未来絵図を否定出来る者は居ない。何故なら『ファラオの運河』の建設工事資材集積やアチェ支援のために、紅海の海上輸送量が上昇する見込みに関しては既に合意がなされている。であればオスマンにとって地中海の優位が決定的となれば、紅海へのリソースを拡大する懸念は決して共有できないものではないからである。


 そして駄目押しの一手を放つ。


「……別に今の見立て通りに物事が推移するか否かは極論どうでもいいのです。

 『プロテスタントのクレオパトラ』……この蔑称が悪さをするのは、まさしくその時でしょう。『プロテスタント』のイングランドが勝利し、『エジプト』を有するオスマンが何らかのアクションを取った瞬間。

 ――恐らく、私は身動きが取れなくなります」


 自己保身の話へと転化することで、放言した言葉のメロディに信憑性という旋律を乗せる。


「だからこそ、イングランドとの戦を未然に防ぐということですか……」


 その補佐官の言葉に私は神妙に頷く。


 ――そして眼前の2人は決意を込めたような眼差しを私に向けて、こう語った。



「……いかなる理由があったとしても、マルガレータさん。それは領地の監督責任の放棄と同義です。日本やテルナテ王国へ外交使節へと赴いた際には幾らでも言い逃れが出来たのは、本国に立ち寄る案件ではなかったからですわ。

 帰投するならばフランシス・ドレークのことも話す必要があります。宮廷を避けては通れない以上、領地を投げ捨てた事実は残りますよ、それをどのように説明いたしますか?」


「……いや、アナ・デ・メンドサ様。それは逆手に利用出来るのでは?

 つまりですね、将来的に隠居のために実施する予定でした領地返上を先んじて行うというのはどうでしょうか。

 それでフィリピン伯様が宮廷に立ち寄った際に、その証書をともに提出し爵位を返上したと分かれば、おいそれと責任追及は出来ないでしょう。

 それだけの覚悟でもってイングランドとの講和を望むという気概があれば、少なくとも話は聞いていただけるでしょうし、大過なく終われば、返上した領地を功績として再受領することだって可能です」



 ……つまり、私の現状の身分を賭ける必要があるということか。

 何もしなければアルマダの海戦ルート。そのルートの延長線には難局が待ち受けている。

 しかし何かをするためには『フィリピン伯』という地位そのものを掛け金としてベットしなければならない。



 そこで、思い出したのは。


 『白雪姫』の物語であった。




 ◇ ◇ ◇


 ――腰紐を結ぶ振りをして行商人に扮した継母は、白雪姫を絞め殺してしまいます。しかし、継母が去った後に小人が帰ってくると急いでその紐を切ることで、白雪姫は息を吹き返しました。


 ――白雪姫は頭を櫛で突き刺され毒殺されてしまいますが、小人たちによってまたも助けられます。


 ――白雪姫はリンゴを食べて死んでしまいます……


 ……そして白雪姫は王子様のキスで目を覚まして――


 ◇ ◇ ◇


 白雪姫はハッピーエンドに至るまでに3度死ぬ。



 そして今の私は、既に2度『死んで』いた。


 1人目は『物語の白雪姫』として。ミケランジェロとの対話を通じて王子のキス無く終止符を打った自己があった。


 2人目は『前世人格』として。顕如との説法とともに前世供養することで、その自己は死者となった。


 最後に残った今の自己は『マルガレータ・フォン・ヴァルデック』としてのもの。これを物理的に死することを選択できない。だからこそ白雪姫の物語を踏襲することはなく、その必要もないと思っていたが。



 もし『白雪姫』の通りに3度の仮死体験を通じてでしか、望む結末にたどり着けないのであれば。



 ――私は『マルガレータ・フォン・ヴァルデック』としての物語を終わりにしよう。



「――此処は、ラス・イスリス・フェリペナス……『フェリペの島々』。

 その名を冠する『フィリピン伯』という自己もまた、借り物にしか過ぎないのであれば。


 ……私は喜んで、それをフェリペ陛下に還しましょう」



 この瞬間、私の脳内には。

 ――3人目として『フィリピン伯』である私の死が横たわっていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 更新お疲れ様です。 彼女の死生観?も絡めたアルマダ回避へのベッティング・・・・ 対価は伯の地位と比伯領。 果たしてスペイン王国の悲劇は回避出来るのか? 次回も楽しみにしています。
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