外伝38話 嚆矢
結局、私の邸宅から政庁舎までの道中の安全が確保され政庁舎への登庁が認められたのは午後になってからであった。
イングランド軍が潜伏している可能性については早々に『極めて低い』という結論が出ていたが、港湾火災に乗じて窃盗などの軽犯罪が発生しており、その治安悪化への対処に追われていたための措置である。文字通りの『火事場泥棒』というやつだ。
お世辞にもうちの領民の民度が良いとは言えない。ヨーロッパで食いっぱぐれて新大陸で一発逆転を狙った人間の中で、更に心機一転を狙った者らの集まりなのだから当然なのかもしれない。むしろ泥棒くらいで済んで御の字と考えるべきで、便乗して放火とかされたら目も当てられなかった。
それで、登庁直前になってグレイスから小声で、
「なるべく不機嫌な感じで政庁舎へ行った方が良いかと」
とアドバイスをもらう。その真意は、今回の仕儀は明らかに何らかの瑕疵がある。敵が優秀だったと結論付けてしまえば誰も傷付くことは無いし、実際にそれが真実であるかもしれない。
しかし、高々単独艦と侮っていたイングランド船に統治の中核地を急襲され、しかもおそらくは取り逃しているのだ。私達が受けた実害以上に、損なった名誉は大きい。
寛大な領主として振る舞うことが大事なことは勿論グレイスも承知の上だ。その前提は共有なされた上での提案なのである。ここで名目上であっても引き締めないと今度は敵ではなく私が侮られる、と彼女の目は雄弁に語っていた。
「そういうことなら……じゃあ、こんな感じですかね?」
そう言って表情を引き締めると、グレイスは一瞬きょとんとして爆笑した。
「……す、すみません、マルガレータ様。やっぱり前言は撤回いたします」
どうして。
*
政庁舎にはグレイスとの協議の結果、無表情で行くことにした。
多分意図してはいないだろうけれども、あそこでグレイスが爆笑してくれて色々とかき乱されたと同時に、張り詰めていた意識も幾分緩和された。
しかし政庁舎に入ってからは、再び気持ちを引き締める。
まずは屋外の砲弾痕と既に回収された砲弾の検分を先に行って、そののちに政庁舎へと入っていく。ただし、挨拶などをされても一切返さなかった。
それを何度か通過する職員に対して繰り返していれば、流石に私の周囲を中核として異様な雰囲気に包まれる。
職員が自分の手に負えないとなれば、必然上の立場の人間が用意されるわけで。その結果、一連の報告はアナから受けることとなる。人払いは自発的に済まされていて、少し離れた場所にグレイスが護衛と言いつつ普通に座っていることを除けば他に人は居ない。
「……まあ、派手にやられましたねアナさん」
ここで表情をけろっと戻して、若干労わるように話す。そうすると私が『パフォーマンス』で激怒している姿勢をみせていたことにアナは即座に気付いたようで、肩の緊張が抜けていく様を幻視した。
普段の関わりからすればアナならすぐに露見してもおかしくない猿芝居だったけれども、それすら見落とす辺りは結構アナも切羽詰まっているかもしれない。それでも、極力いつも通りの平静に努めようとしているかのように、このように答えた。
「警戒を甘くしたつもりは無かったのですが……。完全に出し抜かれましたわ」
事ここに至っては、アナも自身の見積もりが甘かったことを認める。高々1隻の小型ガレオン船にここまでかき乱されたのは、この領の誰にとっても想定外であろう。まず事の発端から聞く。
「東側からの侵入経路となる2つの海峡は封鎖して臨検をしていたはずでしたよね? フランシス・ドレークらは、そちら側から侵入しなかったのでしょうか」
「いえ。目撃情報などを精査いたしますと、スリガオ方面からやってきたのは間違いありませんわ。そして此処――セブの近海で攻撃を実施した後に反転して北へ抜け、西のミンドロ・パナイ間のタブラス海峡からスールー・スルタン国の海域へ離脱したと推測しております」
「……それなら、臨検に引っかかったのでは?」
「確かにスペインの旗を掲げた船は漏れなく臨検していたのですが……、事件発生後に担当者を詰問した結果……『ポルトガル船籍』のガレオン商船が1隻、セブに向かっていたそうなのですよね」
「……ポルトガル船が太平洋から来るわけ無いじゃないですか……」
確かに、マギンダナオ王国に現れたフランシス・ドレークのガレオン船はスペインの旗を掲げて偽装していたと聞いている。だから『スペイン船籍のガレオン船』の臨検で命令を出した。これは発給文書にも残されている。
そしてポルトガル船がセブへ来航するのも、今では別に不思議なことではない。マカオとの関係は緊密なためだ。
そしてスペイン船ではないポルトガル船は確かに臨検対象として指定していなかった。その意味では、命令に不備があったのも事実だ。けれども、スペイン船に偽装しているという情報が先行していて、その先入観の下で下された命令だ。命令を出した当時に気付けたか、と言えば微妙なところだ。
しかし、太平洋からポルトガル船が来るという事実が臨検部隊には見逃されていた。形骸化しつつあるとはいえスペイン・ポルトガル間には植民地分界線に関する協定がある。具体的にどこで区切るかについて私達はがっつり違反しているけれども、それでも航路については明瞭だ。ヨーロッパから西に進んでいく航路がスペイン、東に進んでいく航路はポルトガル。そのように棲み分けがなされているのだから太平洋からポルトガルがやってくる余地がない。それは、今更繰り返す必要もない事実であろう。
難破や遭難の可能性を考慮しても、件の『ポルトガル船籍』のガレオン船が太平洋からやってきた事実をもう少し疑ってほしかった。私は咄嗟にそう考えてしまっていたのが顔に出たのか、アナから彼等を擁護するかのような補足が付け加えられる。
「……誰しもが、世界の全体像を把握しているわけではないのですよ」
それは完全に欠落していた視点であった。
確かに世界地図というものは存在する。地球儀や天球儀といったものも存在する。織田信長に対するイエズス会の献上品に地球儀が紛れていたり、それよりも先の時代では屏風に世界地図が描かれていたりする事実からもイエズス会宣教師が『世界の全体像』を把握しているのは戦国時代知識からも傍証して分かる。
けれども、そもそもこのイエズス会修道士とは高等教育を受けたエリート層なのである。
としたときにヨーロッパに立ち返ると、アーノルド君のお父さんであったゲラルドゥス・メルカトルの作成した地図。私も知るメルカトル図法という名で知られるその技法が航海図として利用価値があることは本人からも伺っていたものの、一方で美術品の収集家として名高いアラス司教のコレクション作品の中にその地図はあることからも、芸術品として珍重されていたことが分かる。
だからこそ、万人が世界の全容を把握していない。であれば、ポルトガルが太平洋からやってくるという事実を疑えないということが起こるのだ。更に加えてフランシス・ドレークがスペイン船に偽装しているという先入観は、そうした臨検部隊の指揮官にも共有されているがために、それを知らなければ不審を感知するのは至難の業であろう。
コレジオで教育を受けた人材を軍に配置する試みは開始しているが、それも始まって数年なのでコレジオ卒業者は若手人材の中にしか居ない。
アナが連れてきたカラトラーバ騎士団の面々も軍の管轄業務的に分散配置せざるを得ない以上は、見落としが発生する。
あるいは正式な航海士であれば、その事実を指摘できたかもしれない。経度についての問題が析出したときに、このフィリピンの手前の島がフィリピンか否かを議論していた彼等だ。しかし正規の航海士というのは通商院の認可を受けた言わば国家資格であり、その通商院の所在地は本国のセビーリャである。
新大陸とフィリピンにおいては、太平洋連絡船の交易品にかかる税の取り立て業務をメキシコシティのアウディエンシアに代行させているくらいなのだから、この正式な航海士というのはセビーリャで認可を受ける必要があるのだ。実際に航海士資格を得るために現地まで赴く必要があるのかは分からないが、書類を送るだけでもフィリピンからだと最短でも往復に1年かかる。
太平洋連絡船に同乗はしているものの、私はそれらの船を海域捜索に駆り出すか臨検の邪魔だとして退避させていた。当たり前だが臨検部隊に商船を入れても意味が無いので軍だけで編成している。
どうしようもないことだが、それらが裏目に出た。
フランシス・ドレークがどこまでこちらの内情を見通していたかは不明である。そこまで考えたところでグレイスが口を出した。
「……それでアナ様。政庁舎への砲撃はともかくとして火災はどのように引き起こされたのでしょうか」
どうやってセブに侵入してきたのかも謎であったが、どのようにして港に停泊していた船を燃やしていたのかも謎である。それをグレイスは突いた。
「アイルランドで海軍を率いていたグレイス・オマリー殿なら、ある程度察しはついているのではなくて? 何せ、お相手のイングランドはよく知っているはずでしょう?」
「……私も正規の海軍を相手取ったことはありませんが。
となると、あの小舟は鹵獲されていたわけですか……」
「あら? 本当に話が早いですわね。
ええ、使い古された手法ですけれども『焼討船』にやられたとのことですわ」
焼討船。
火薬など引火しやすいものを小船に載せて、そのまま攻撃目標に直接体当たりでぶつけて発火炎上に巻き込むという戦術だ。
私の知る戦国時代においては目立った戦績はないものの、大三島の鶴姫伝説の中で焼討船の利用に類する話があったりとか、上泉信綱が伝授されたという話が残る兵法書の『訓閲集』などに戦法として記載があったりする。信憑性に関してはノーコメントで。
ミンダナオ島の村落を襲われた際に、マギンダナオ王国からもたらされた報告には『数隻の手漕ぎ船の喪失』という話が確かにあった。当時、その報に全く重きを置いていなかったが、よくよく考えれば『喪失』としっかり言われていた。てっきり壊されたものだと思われていたが、ここで奪われていたわけである。
その手漕ぎ船に火薬なり可燃物なりを積載して、そのままセブの港に停泊していた船に突っ込んだ。そして港に停泊していた船の一部に着火して炎上――後は私も知る通りの顛末ということだ。
不幸中の幸いは、イングランド船の捜索のためと臨検の効率化のために、ガレオン船はうちの管轄ではない商船も含めてセブから離脱をしていたこと。なので漁船や手漕ぎ船の損害はあっても、ガレオン船に被害は無かった。
「……しかしアナ様。夜間の襲撃というのも妙な話ですね。
攻撃を仕掛けるには向かい風かと思われますが……」
「……盗まれたのは帆船ではなく、手漕ぎ船ですわ。大方、漕ぎ手とともにぶつけたのでしょうね」
夜間は一般的には風は陸から海に向かって吹く。気温差の都合だ。潮力や海流などの影響も受けるだろうが、普通焼討船を戦術に組み込むときは風上から風下に向かって放流する。あるいは河川なら上流から下流に向けてということもあり得る。
それを風向きに反抗して手漕ぎ船で実施した、ということは直前まで漕ぎ手が同乗していたこととなる。ぶつけて即座に炎上したのでなければ退避することは出来たのかもしれないが、それでも漕ぎ手の損耗を割り切った上での戦術のように見える。
あるいは帰投用の手漕ぎ船を残して漕ぎ手の回収をしたのかもしれないが、今のところ海上で水死体などが大量に見つかったという報告は入っていない以上は、何らかの形で上手いことやったのは確実だ。状況証拠から類推は出来ても、実際にフランシス・ドレークが何をしたのか聞けるわけではないので、憶測しか出来ないのが歯がゆいところだ。
そして話を総合する。
我がフィリピン伯領が受けた精神的ショックは極めて甚大で、パニックから治安悪化が短期間ながらも引き起こされた。
また、スールー・スルタン国の海域まで逃げたという報告が入っている以上、最早取り逃したと言って差し支えない。もしかしたらあっさりスールー・スルタン国の精強な海軍に捕捉されてあっけない最期を迎える可能性もあるが、一方で既にスールー・スルタン国に対して通行許可を取り付けている危険性もある。まあこれは外交ルートで要確認だ。ダトゥ・シカツナ率いるブール王国に任せよう。
政治的に与えるダメージも大きい。イングランドまで戻れば、それこそフランシス・ドレークは英雄となる。しかも私達の襲撃だけではなく、テルナテ王国のように国交を樹立している国家・勢力は多岐に渡るだろうし、フィリピンから逃げおおせれば、その数も更に増えていくはずだ。
「……捨て置くことは出来ませんよね。私の胸中で秘することが叶う内容でもありません。そのためにも本国に速やかに報告を上げる必要はありますが……」
「新大陸へ船を出すのには1ヶ月以上かかりますわね。ですが本国に、今回の通商破壊があった事実を報告し対処していただくというのは、ゆくゆくはフィリピン伯領の安定化に寄与するかと思いますわ。
イングランドも、このような辺境での工作よりもブリテンの制海権の方が遥かに大事でしょうからね……」
うん、こっちで小手先で何とかするくらいなら、イングランドに直接圧力のかけられるスペイン本国案件にした方が解決は早そう……って、ちょっと待て。
「……ねえ、アナさん。
もしこの問題の解決について、カスティリーヤ宮廷が本腰をあげたらイングランドへの出兵になる――ということでしょうか」
「……あら? そういう話ではなくて?」
これって、まさか。
――アルマダの海戦の起爆スイッチなの!?