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第10話 地の塩、世の光


 第一報――キリスト教国連合艦隊大敗の報が届いたのは、昨年よりヴェネツィア共和国元首の座についたジローラモ・プリウリからの急使であった。


 そして、第二報――ローマ内部でその戦犯として、同盟の樹立に尽力したこととなっている私の名が挙がっていることは、急ぎパドヴァ大学まで乗り込んできたオルガンティノからもたらされたものであった。


 問題は、第三報。

 パドヴァ大学の一部建築物の改修工事名目でやってきた石工を名乗る人物は、ミケランジェロのなぐり書き付きの手紙を手渡してきて、その中身の重大さ故に、直ちにジローラモ・プリウリの下へ行く。


「『教皇領の名の下で異端審問官を派遣することは無いが、亡きパウルス前教皇の信奉者が我々(・・)の命に服さず、一部は行方知れずになっているので注意されたし』……なるほど。事情は承知いたしました。

 しかし送り主が、ジョヴァンニ・アンジェロ・メディチ殿……いえ、教皇座に就いてからはピウス猊下と名乗っておいででしたか。

 まさしく間一髪ですな。教皇猊下本人がマルガレータ嬢に翻意を抱いておりましたら、流石に私もかばいきれませんでしたよ」


 前教皇パウルス4世は、私がミケランジェロを訪ねた時期を重ねるがごとくして死去し、新たにピウス4世が教皇として即位した。ジローラモ・プリウリが話すように元はメディチの姓を冠するが、あの有名なメディチ家と血縁にあるわけではなく、ただの偶然らしい。


 この場に付いてきたオルガンティノが返答を返す。


「まさしく勿怪もっけの幸いでございました。新たな教皇猊下は我がイエズス会とも関係が深く、そして何よりスペインに対して好意的ですので助かりました」


 そして、教皇のメッセージがミケランジェロを介してだが私の下まで届いた背景はオルガンティノが説明した通りである。

 ……まあ、友好的だからこそ、パウルス4世亡き後にスペイン・ヴェネツィア・教皇領の三国の協調関係が生まれたのだけれどもね。

 そして、何故私がそこまでローマの内部で叩かれているかと言えば、結果だけ見れば私の卒業式や、ミケランジェロ訪問のタイミングを奇貨として、同盟交渉に各勢力が勝手に利用していたからだ。

 そこに実際のところは、私の意志が介在する部分は少なかった。けれど、その動きを私が認識しておきながら止めようともしなかったのも他方では事実である。


 だからといって、それが異端騒ぎに発展するのは流石におかしいが、教皇本人がそれをまともに取り合っていないこともあり、それを声高に主張するのはローマ内部においても現在は非主流派だ。

 しかしそれら非主流派が教皇の統制を外れて行方不明になり、独自行動をしているという点では、極めて不穏な情勢である。


 オルガンティノと同じく付いてきたヴァリニャーノが口を開く。彼は私に近しい人間でありながら、同時に亡き前教皇・パウルス4世と親交があった人物であり、更にはその関係で現教皇であるピウス4世とも関わりがある。

 今、パドヴァ大学近傍では、最も重要な双方の教皇を知る人物であったりする。


「……ヴェネツィアとしては治安の維持に自信はございますか?」


 明らかに若輩であるヴァリニャーノだが、ジローラモ・プリウリは彼の教皇らとの交友関係を知っているが故に、決して軽々しくは扱わない。


「ローマ方面からやってくる素性怪しき者に対するチェックは既に強化しておりますし、聖職者であろうとも身分の証明は求めております。

 ……ですが、前教皇の関係者ともなれば、身分的には通さざるを得ない者も多いですね。パドヴァ大学では警備が厳しいでしょうし、我が屋敷にマルガレータ嬢を閉塞させるのは心苦しい。

 それでも我が屋敷に滞留するというのであれば、無論歓待致しますが。そこはマルガレータ嬢次第でしょうな」


 ヴェネツィアは商業の都である。だからこそ、完全に人の流れを途絶えさせるのは不可能に近いし、現教皇に反発したとはいえ、私を狙う者は権威ある聖職者であることには変わりないのでチェックを潜り抜けてくることは考慮する必要がある。

 即ち、現段階に至っては最早ヴェネツィアは安全地帯ではなくなった。


「……ヴェネツィア脱出。それしかありませんね」


 私がそう呟けば、ジローラモ・プリウリは露骨に安堵の表情を浮かべる。しかしそれに反してヴァリニャーノやオルガンティノは懸念を示す。


「……マルガレータ殿。脱出となると選択肢はスペイン本国一択になるかと思いますが。どのようにして……」


「オルガンティノ様の言う通りですよ! それにパドヴァ大学に荷を取りに戻ることも……」


 私は少し考えて、まずは後者のヴァリニャーノの問いに答える。


「ヴァリニャーノ君。荷物に関してはこうしましょう。パドヴァ大学にはクラヴィウス君が残っていたはずです。彼に一任しましょう、私達が一度パドヴァ大学に戻る危険は避けるべきですね」


 その言葉に多少落ち着きを取り戻すヴァリニャーノ。

 問題はスペインまでの逃走ルートだ。

 まずはヴェネツィアの西に位置するミラノ。ここはスペイン領でありフェリペ2世がミラノ公を兼任している地なので最も容易く逃げれる地続きのスペイン領だ。

 一方で、地中海への出口は無い内陸領地であり、ジェノヴァ共和国かサヴォイア公国を経ないといけない。とはいえ、どちらもスペインに協力的な国家ではある。これがまず1つ目の候補。


 第2のルートとして中央イタリアを治める教皇領を回避するようにしてアドリア海より南イタリアのナポリ公領へ逃げ込むものがある。

 こちらも歴としたスペイン領であり、しかも私の卒業式に参加したアルバ公の助力も期待できる。


 ジローラモ・プリウリは、それらのルートを勘案してこう告げる。


「アドリア海の旅路の安全は我がヴェネツィアが保障できるが、問題はその先ですな。地中海を経由してスペイン本国へ上陸するに越したことは無いのですが……今、地中海の覇権はオスマン帝国側にございます」


 ……そう。ここでキリスト教勢力が地中海における制海権を喪失したことが効いてくる。海でのイタリア半島の脱出を試みようとした場合に、どうしてもオスマン帝国側の妨害を想定せねばならないのだ。

 そして、オスマン帝国については全くの未知数だ。命の保障すらもできない。……まあ、ヴェネツィアとオスマンの裏取引を全面的に利用すれば何らかの方法で生き残ることはできるかもしれないが、それが露見した場合に私は二度とキリスト教世界の庇護を受けることはできまい。本当に最終手段なのだ、それは。


 そして陸路でスペインを目指すとなると、間にフランスが存在するのが非常にネックとなる。講和したとはいえ、直近までスペインや神聖ローマ帝国と戦争していた相手だ。ここも正直なところ通りたくはない。



 ――となると。選択肢は事実上1つ。


「……神聖ローマ帝国内を横断してネーデルラントへと逃げ込みましょう。そこからであれば、ドーバー海峡経由で大西洋に出ることができますし。……何よりこの航路ならばオスマンの妨害は受けません」


「マルガレータ殿、神聖ローマ帝国内部は……」


「ええ、オルガンティノ先生。……分かっております。

 『プロテスタントのクレオパトラ』――この異名が、ただの嫌がらせの名だけではないことを神に祈るばかりです」




 *


 私の逃避行には、オルガンティノもヴァリニャーノも、そしてクラヴィウスも同行してきた。そこにヴェネツィアの護衛が幾許か。イエズス会として私のことは見捨てないというメッセージであると同時に、上手く逃げおおせればスペインとの橋渡しを求められており、最悪の場合は彼等については私を差し出すことで敵に投降する言わば死亡確認役としての側面もおそらく背負わされている。

 言ってしまえばイエズス会にとっての最も想定したくないシナリオは、私が死ぬことではなく私がイエズス会の統制下を外れること。再度プロテスタントに囲われるなんて場合になったら、ヴェネツィアの護衛も含めて全てが敵に回るだろう。


 ただ、危惧していた襲撃などは発生せず、神聖ローマ帝国領内のカトリックを信奉していることを表明している領国を転々と進むことで、無難に進めていた。

 そして、ライン川を流れに沿って下る――そんな最中。


「……オルガンティノ先生。今日の宿はどういたしましょうか」


 私達の行程は、ジローラモ・プリウリが付けてくれた護衛らが神聖ローマの内情に詳しい者を中心にしてくれたため彼等とも相談しながら、私も不完全ながら一応神聖ローマ帝国貴族家出身者として提案はしているものの最終的な決定権はオルガンティノに帰属した。


「そうですね……最短経路ですとケルンに宿泊が一番宜しいのですが……。いえ、ケルンは避けましょう。彼の地は自由都市ですので然りとした貴族の領邦でないと危ないですから。となると……このまま進むとして、ある都市は――」


 そのオルガンティノの考察に、護衛の1人が『デュッセルドルフ』という都市の名を告げる。

 そして、その地に聞き及びがあったのかクラヴィウスが声を挙げる。


「――デュッセルドルフと言いますと、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公爵家の本拠の城がありますね。今の公爵はヴィルヘルム公で、神聖ローマ皇帝フェルディナンド陛下のご息女を妻として迎え入れております」


 異様に長い爵位名だが、これはユーリヒとクレーフェとベルクという3つの公爵位を兼任していることを示している。つまり3領域に跨る家なのだ。単純な名前の長さでその領地の広さは何となく窺い知れる。


「……となると、ハプスブルク家に近しい方で?」


 この私の疑問にはヴァリニャーノが答える。


「いえ、マルガレータさん。ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公はかつてフランス国王と盟約を結び、神聖ローマに対して反旗を翻しております。とはいえ、フランスからの援兵が一向に来ないことから早期に降伏したことで近親者の所領を削減した上で、現在の地位になりましたが」


 うーん、これは戦国時代の香りが仄かに漂ってくる。自家の拡大のために他家と結んで対抗しようとしたが不利だと悟り降伏、そして結婚を利用してほぼ所領安堵の方向に持っていく。実に、私にとっては分かりやすい。これは野心に溢れる戦国武将のような人物でありそうだ。

 とりあえず懸念点を述べる。


「……そのような野心高い人物であるならば、私の身柄を拘束し利用するということはあり得るのではないでしょうか」


 これにはヴァリニャーノが否定的な意見を述べる。


「その可能性は低いかと思われます。当代のユーリヒ=クレーフェ=ベルク公は政治的に危険な人物を匿うことに躊躇いの無い方です。

 権勢と財力が為せる業であるかとは愚考致しますが、マルガレータさんについてもその例に漏れぬかと」


「……まあ、そういうことなら向かってみましょうか。どの道行かぬにしてもこの周辺はヴィルヘルム公の所領になるわけでしょう? 顔は見せないと罰が当たるというものですからね……それで良いですかね、オルガンティノ先生?」


 オルガンティノは黙って頷いた。それとともに護衛の1人が先触れのために先行することとなった。




 *


「ほうほう! ということは、マルガレータ嬢は金銀島探検に赴きたいということですかな、女性の身にて何と豪胆であろうか!」


「いや……金銀島ではなくジパングなのですが……」


「あいや、ジパングとは『ソーマ』銀の銀島のことであろう? これが金銀島ではなくして何と申すのかね、はっはっはっ!」


 この公爵、存外耳が良い。

 ソーマとは石見銀山の佐摩のことだ。ポルトガルが既に日本には渡っているがためにその存在がバレていること自体は別に構わないが、問題はポルトガルではなく神聖ローマ帝国貴族であるユーリヒ=クレーフェ=ベルク公が知っているという点。

 私がその点を訝しんでいると、公爵は笑いながらあっさりと種明かしをしてくれた。


「……何、実のところ私も人の受け売りでね。

 知己であるゲラルドゥス・メルカトル君が地図製作を行っていてね。少し前に美しいヨーロッパ地図を完成させたから、次は世界全図と意気込んでいて、そこでジパングのことも小耳に挟んだというわけさ」



 ……うーん、ゲラルドゥス・メルカトル? 何か聞いたことがあるような、無いような名前だけれども……。それで地図……。


 ――あっ。



 もしかして、メルカトル図法の人!? 多分、地図で名前一致していればそうだよねこれ!

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