第1話 白雪姫とカトリック・プロテスタント
昔々、あるところに「白雪姫」と呼ばれる美しいお姫様がおりました。しかし彼女の継母である意地悪な王妃は自分こそが世界で一番美しいと考えておりました。
ある日、継母は魔法の鏡に対して次のように問います。
「鏡よ鏡よ、鏡さん。この世界で一番美しいのはだあれ?」
「それは、白雪姫です」
その答えに怒った継母は、猟師を呼び出して白雪姫を殺すように命じます。しかし、猟師は白雪姫をこっそりと森へ逃がしてしまいます。森の中で出会った7人の小人たちに助けられた白雪姫は家事をすることを条件に一緒に住むようになりました。
別の日。継母が再び魔法の鏡へ問いかけを行うと、白雪姫が森の中で生きていることが分かりました。継母は行商人に化けて小人たちの留守を突いて、白雪姫へ腰紐を売りに行きます。その腰紐を結ぶ振りをして行商人に扮した継母は、白雪姫を絞め殺してしまいます。
しかし、継母が去った後に小人が帰ってくると急いでその紐を切ることで、白雪姫は息を吹き返しました。
更に別の日。まだ白雪姫が生きていることを知った継母は、今度は毒を仕込んだ櫛を白雪姫へ売りに行きます。白雪姫は頭を櫛で突き刺され毒殺されてしまいますが、小人たちによってまたも助けられます。
そして更にまた別の日。白雪姫の生存をまたも知った継母は毒を仕込んだリンゴをつくり、リンゴ売りに扮して白雪姫の下へ行きそのリンゴを売り、白雪姫はリンゴを食べて死んでしまいます。
小人たちは今度こそ本当に白雪姫が死んでしまったと悲しみ、ガラスの棺に入れます。そこを偶然通りかかった王子が死んでいる白雪姫に一目惚れをして、棺を譲ってもらおうと小人たちに頼みますが、首を振り同意しませんでした。
王子はその様子になくなく諦めて、別れのキスをしても良いかと小人たちに頼むと、それならば、と了承します。
そして白雪姫は王子様のキスで目を覚まして、2人はとっても幸せにずっと暮らしましたとさ。
おしまい。
◇ ◇ ◇
私が何者であるのか目覚めたときには理解することができなかった。
名はマルガレータ・フォン・ヴァルデック。ヴァルデック伯爵家という貴族の子女であるということは調べてすぐに分かった。
映える長髪の金色の髪に、黒檀のような瞳。その美貌は自分自身のものだと分かっていてもどこか人間離れしているとは感じたものの、鏡を見ているうちに次第に慣れていった。
私のことを産み育ててくれたお母様は私が4歳のときに亡くなってしまっているということは当代のヴァルデック伯であるお父様――フィリップ・フォン・ヴァルデックによって教え込まれた。
この頃の私は、よく調べもせずに異世界だとか中世ヨーロッパ風の魔法の世界に降り立ったのだと勘違いしていた。
それが全て覆ったのは、疎遠であった新たな母親である継母が鏡に向かって何やらぶつぶつと呪詛のようなものを唱えている姿を目撃してからである。
……やべえ、この世界ってまさかおとぎ話の白雪姫の世界か? と思った私は、色々と身の回りのことから調べ出したが、結果的にヴァルデック伯のお父様から何気なく告げられた一言によって大きく物事が動き出す。
「……お前もマルティン・ルター先生のような方に師事して確たる教養を――」
――マルティン・ルター。
宗教改革にてローマ・カトリックより分離してプロテスタントへと離れた際の世界的に有名な人物。
そのルターを『先生』と敬称を付けて呼ぶ、ということは我がヴァルデック家はプロテスタントなのだ、と。
私でも知っているような歴史上の偉人の登場に、ここは過去世界であったか、とようやく認識したのも束の間、続いて出てきた情報には私も閉口せざるを得なかった。
曰く、お父様と私を産んだお母様は、神聖ローマ帝国の議会であるヴォルムス帝国議会で出会ったということ。そして、その場はルターがカトリックから破門され、帝国平和喪失刑に処され帝国内ですべての権利と財産が奪われるという過酷な罪を受けることとなったものの、時のザクセン選帝侯によって匿われた……そんな場でお父様とお母様は出会っていたのである。
即ち。このカトリックとプロテスタントが全面的に対立している時代において、完全にプロテスタント側を鮮明にしていたのが我がヴァルデック家であり、同時にそうした両親から生まれたのが、この私なのである。
で、一方、謎の鏡に向かって会話をしていた継母。名をカタリーナ・フォン・ハッツフェルトと言うが、このハッツフェルト家。司教領主であるマインツ大司教の臣下という系譜だ。
しかもこのマインツ大司教という称号は単なる聖職者ではなく、『アルプス以北のローマ教皇の代理人』とも目されるカトリック側の重鎮中の重鎮。そんな神聖ローマにおけるカトリックの総本山ともいえる家の家臣から出てきた継母が、プロテスタントに染まった我がヴァルデック伯に全く馴染むことが出来ていないのも当然な話であり、その怒りが前妻との娘である私に向く、というのも理解できてしまった。
……童話の世界の裏側、というのはこんなにもドロドロとしていたのか。
しかし、白雪姫のように幼い間に家から追放されて小人の居る森へ行く、ということもなく。ただただ継母とは疎遠で会話も無い、という家族関係に終始しつつも、私は暗殺に恐れながらも19歳まで成長することが出来た。
しかし常に命の危機は潜在的に存在していた。
ルターを保護したザクセン選帝侯や、ヴァルデック家とも遠戚ながらも縁のあるヘッセン方伯がプロテスタント派の諸侯を束ねてスペイン国王も兼ねる神聖ローマ皇帝に対して戦端を開いた。これが1547年。
けれども、その主導者であったザクセン選帝侯もヘッセン方伯も皇帝の軍に敗れて捕縛され、プロテスタント側の同盟勢力が瓦解し、カトリック優位の和平に至る。これが1548年。
神聖ローマ帝国内部ではプロテスタント勢力が崩れていく一方で、海を隔てたイングランドにおいては一般祈祷書が定められ、聖餐のパンを単なる象徴として国家としてカトリックに反抗しプロテスタントを国教に位置付ける。これが1549年。
ハンガリー地域にオスマン帝国軍が攻め入ってきたのが1551年。度重なる戦闘で皇帝の権限が強くなりカトリック諸侯すらも反発を鮮明にして、先のカトリックとプロテスタントの戦争では皇帝側に付き新たなザクセン選帝侯に就任していたモーリッツが皇帝を襲撃して逃亡したことで皇帝の権威が失墜し、カトリック優位であったのが崩れたのが1552年。
……神聖ローマ帝国やらカトリックとプロテスタントのごたごたなんて解るわけ無い。転生者である優位を全く活かせずに、年ごとに優勢と不利とが目まぐるしく変化する帝国内部。
おまけにそこに白雪姫のストーリーである継母からの暗殺警戒までしなければならないとなると、流石に気を配ることが多すぎた。
というか白雪姫自体はハッピーエンドのお話ではあるけれども、そこに至るまでに3回も仮死状態になるというのはもはや原作踏襲をしようと思う気もなくなる。
そんな最中で出てきたのが、ヘッセン方伯の捕虜返還交渉の一環で、神聖ローマ皇帝の妹であるマリア・フォン・カスティーリエンがネーデルラントのブリュッセルに構える屋敷に身柄の引き換えとして、私が求められているという話。
正直私の身柄だけで、プロテスタント側の同盟の主導者が返ってくるとは思えないので、他にも色々と付帯条件があるとは思う。
とはいえ、継母という危険因子から離れることが出来るので、私はブリュッセル移送の条件を飲んだ。
しかし、このときの私は重要なことを見落としていた。
神聖ローマ皇帝の妹ということは、カトリック側の人間であるということに。
*
「マルガレータ嬢。……母君からの施しの品々を受け取らないのは、いかがなものでしょうか。心配しているご家族の想いを無碍にするのはよろしくないですよ」
ブリュッセルの屋敷の主であるマリア・フォン・カスティーリエンはこう語る。このマリアさんは年配であることもあり、私に対しても他の者ら同じように対等に接してくれている。問題は、本来世話をする侍女たちだ。
カトリックとプロテスタントの確執がある中で、私がプロテスタント側の娘であり、ここで働く者が総じてカトリックであるということで、あからさまに私を粗雑に扱ってきた。
まあ、その分監視なども随分と雑だったので、こっそり街に行ったりもしているのでお互い様であったが。
それは別に良い。ただ、問題は実家では全くと言っていい程関わらなかった継母が何かにつけて私の下へ物であったり人であったりを贈ってくるのだ。あたかも良き母であるかのように私を心配する手紙まで添えているところに、この屋敷の住人に対しての点数稼ぎの面が見え隠れしていたものの、私はなるべくそうしたものに手を付けようとはしなかった。
すると、勝手に私のことを粗雑に扱う使用人が盗んでくれたので、まあつまるところ放任していたわけである。そうした事態を遅まきながら把握したマリアさんは、私のことを呼び出したのであろう。
「……ですが、継母とは実家に居た頃には、ほとんど関わりが無かったもので」
その言葉を照れと受け取ったのか、マリアさんは饒舌に続ける。
「もう、駄目ですよ。親というものは慈しまなければ。ほら、見てください。このような美しい櫛を送って下さっているのですから、ちゃんと使ってあげないと……」
銀皿の上に載せてある櫛はおそらく継母が届けてくれたものなのであろう。手紙すらも開封するのを恐れて確認しなかったくらいなのだから、一々何が贈られてきていたのかは把握すらしていない。気付けば全部無くなっているし。
「――はい。申し訳ございません、マリア様」
結局のところ、何を言ったところで無為に説得に労力を割き反感を浴びることもないと思って、早めに話を切り上げたいという意志を隠しもせずに相槌を打つ。
そのあからさまな態度に、マリアさん側もやる気が削がれたかのように諦めの態度へとうつっていく。
「……一度くらいは、使ってみてもよろしいのでは?」
そう言いながら侍女に命じて、銀皿に置かれた櫛を私に渡してくる。
――その瞬間。
櫛を置いていた位置だけが、黒く錆びるように変色した銀皿が残された。
その櫛を持った使用人は、異様な光景に思わず櫛を落として呆然とする。
「もうやだ……」
こんな調子で常に暗殺の脅威に怯え続ける必要がある生活に心が折れ始めていた私は、全く馴染みのない歴史イベントばかり発生し続けて私の知る史実と乖離しているかすら、何も判らない現状に嫌気が差し、そして段々といら立ちが生まれ、この神聖ローマというよく分からない帝国……というか命の危機のあるヨーロッパから脱出し、まだ知識のある日本へ行きたいという欲求が積み重なっていくのであった。
――時は1553年。
ブリュッセルで軟禁生活を送るマルガレータ・フォン・ヴァルデック伯爵令嬢が、度重なる命の危機から日本への出立の決意を定めていた瞬間。
その日本では、織田信長と斎藤道三が正徳寺において会見を行っていたと記録されている。