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きのこ雲とベッドのどちらが寝心地がよいかという愚問を検証する話

作者: 入谷利仁

その日、人類は滅亡した。

一発の核ミサイルの発射が原因だった。

その原因を辿れば、わたしが酒に酔った勢いで、つい発射ボタンを押してしまったからだ。

その日、二十歳の誕生日を迎えたわたしは、つい洒落た真似をしたくて、近所のスーパーでワインを買ったのだった。

核ミサイルの複数の警告を無視して、その煩雑な確認手順と複雑な作動手順を、へべれけた頭で、器用にも迅速かつ正確に実施したらしい。

人類が滅びてしまったのは大変申し訳ないとは思うが、ただの人間に核ミサイルの発射ボタンを委ねてしまう方が悪いのではないか?

いくら核ミサイルを持つことによって道徳心と社会への関心が養われるからといって、それを実践してしまうというのは、いささか短絡的ではないだろうか?

もちろん、恐慌状態に陥った人間などがそれを実行できないようにするために、充分な精神鑑定と常時のバイタルチェックが行われているのだが、どうもわたしという人間は異常なまでの平常心でそれを実施したらしい。

アルコールチェックでもつければ結果は変わったかもしれないだろうに。

そもそも地球の歴史をカレンダーで例えるなら、ホモ=サピエンスが登場するのは、カレンダーをめくりにめくって、もう幾つ寝るとお正月という段階すら過ぎて、あと三十分そこらのうちにTVでカウントダウンが始まり、地域の鐘がゴーンと鳴り出すのを待つ、そんな一瞬に過ぎないのだ。

それを考えればたかが一年のうちの三十分ぐらい、泥酔して破滅したって許されるというものだろう。

そんなわけで人類は酔っぱらいの手で滅びたわけだ。

しかし、そもそもなぜ核ミサイルを発射しようと思ったのか、という疑問に答えなければならないだろう。

いやこれは正しくない。

核ミサイルが発射されれば人類が滅びるのは必然であることは分かっていたのだから、おためごかしなどせずに率直に書くというのが、人類を滅ぼしたものの責務なのではないだろうか?


そういうことから、なぜ人類を滅ぼそうと思ったのか、という疑問に答えたいと思う。

とは言っても、長々しい前置きなど必要とせずとも、温かいナイフでバターを切るがごとく、結論はすぐ出せる。

その理由は、二十歳の誕生日を迎えたからだ。

何を馬鹿な、と思われるか、またはそんなところだろうと思った、と思われるかはさておき、そんなものなのだからしょうがない。

個人的意見でしごく恐縮せざるを得ないが、わたしとしては理由はそれで充分だと思ってるし、下手に論理をこねくり回されるよりも、滅亡人類諸君においては受け入れやすいのではなかろうか?

だってそうだろう?

人類が滅びるに足る理屈を述べられる人間なんてものは、この世をひっくり返せばごまんと出てくるだろうし、それに対する反論を述べられる人間というのも同じくらいいるだろう。

その両者を誘引するが如き討論会が開催されるに足る議題を提供するというのは、銀河級にはた迷惑な話であるだろう。

それだったらいっそどちらでもないスーパーマイノリティのいい加減な意見で滅んだ方が、喧嘩両成敗というものではないかね、というのが持論だ。


というわけで二十歳という若さゆえの持て余したパワーにより人類は滅んだわけだが、その張本人はというと、べつに罪悪感に陥って死にたくなるわけでもなく、また放射性降下物の降りしきる世紀末を探検しようという冒険心を起こすわけでもなく、特に企図したわけではなく訪れた人類最終日に飲み干したワインの残滓が脳を揺らしても飽き足らず、鳥取砂丘もかくあらんとばかりに喉を枯らすので、常夜灯の降り注ぐベッドの上で、ただひたすらに呻き、のたうち回ってるのだった。

泥酔者に核ミサイルを撃たせない配慮が出来ない設計者も、核戦争後に人類が細々と生き残るための備えには気が付いていたらしく、この四畳半の地下室の中には幸いにも水が常備されていたので、人類を滅ぼした人間が二日酔いを覚ますために水を飲む分には全く困らないのだった。

かくしてこのひんやりとしたコンクリートだかなんだかの一室は、人類存亡の鍵を握る重要拠点と化していた。

そう考えてみるとまだ人類は滅びていないのかもしれない。

核ミサイルとシェルターを保有していた家庭は他にもあるわけで、正確な数は知れないが、一万はくだらないのではなかろうか。

すると人類を滅ぼした張本人という自称は、WEB広告がごとき誇張表現であるから、人類に黄昏をもたらした、くらいの方が渋めで現実的なのではないだろうか?

黄昏時というのはもっとも好きな時間ではあったが、今ではもう本棚に置いてある『世界の夕焼け』というタイトルの写真集でしか見ることが出来ないという事実を受け止めると、勿体無いことをしたようにも感じられなくもない。

なんにせよ言えるのは、ただベッドの上で身体をよじり続けるよりも、ここから這い出て水を取って飲み干す方が幾分かは賢明だろうということだ。

だが頭では分かっていても人類に黄昏をもたらすように簡単にはいかないわけで、あと十秒数えたら動き出すというカウントダウンを、もうすでに五回は繰り返している。

もう少し決心がつくようなイベントが起こればいいのにとは思うものの、そんなイベントの起こる選択肢を手ずから潰したのだから世話はないというものだ。

とは言え、カウントダウンもいつかはゼロを迎えるわけで、ようやくベッドから這いずり出ることが出来たわたしは、器用にも寝間着のズボンが脱げないように片手で押さえながら備蓄の入った段ボールまで辿り着き、手探りで乱暴に箱を開けて、無事ペットボトルをその手に迎えることが出来た。

這う這うの体とはまさにこのことで、九死に一生を得るというのも、また同じくこのことである。

考えもせずに取り敢えず駆けつけ一本ということで、ペットボトル一本分の水を飲み干しはしたものの、器用にも体の臓器の一部がその瞬間まで忘れていた尿意を電光石火の如く中央司令部へ伝達したことにより、それを受領した中央司令部は、大腿部筋線維を収縮膨張させることで臓器をなだめすかしつつ、Mk.1アイボールセンサにより一帯をくまなく捜索するとともに情報保管室からトイレに関する情報を検索してみたが、どちらも発見には至らず、短絡的思考で水と食料だけ用意した設計者を呪った。

かくも猛烈に肥大した尿意は膀胱を圧迫せしめ、ニューロン伝達式の救難信号が続々と中央司令部に送り続けられた結果、司令部内では錯綜した情報、あるいはそれにすら満たない流言飛語の類が跳梁跋扈し、もはや取りうる手段は一つしかないように錯覚させられた。

折しも空になったペットボトルを見やる。

やはり人類は滅びるかもしれん。


埋設式核シェルターという密閉性と省スペース、省資源が求められる施設において水洗式トイレというものは非合理的な解決策であるらしく、もし必要に迫られる場合はビニール袋とタブレット錠を使って排泄をしなければならないのだという。

どうりで椅子の真ん中がくりぬかれてるわけだ。

ついでにそのための処理道具のセットも、積み重ねられたダンボール箱の片隅から見付けることが出来た。

これらの情報は本棚にあった『核戦争が万が一起きた時のための核シェルター利用ガイド』なる小冊子に書いてあるのを、今しがた見つけた。

「備えあれば患いなし」とはよく言うものだが、備えには物品の準備だけでなく、それを扱う自分自身の準備も必要であるという教訓を得ることが出来て誠に喜ばしい。

そう言うことにしておこう。


閑話休題(それはさておき)

義経の鵯越の逆落しの如き酒と若さの勢いで、人類を風の前の塵同然のところまで追いやるという罪深い所業を実行してしまったわけではあるが、その業が内から出る焔となって心身を焼き尽くすということもなく、また砲弾のように重くのしかかる罪悪感に潰れて自棄を起こして縄だか一酸化炭素だかをやり始めるわけでもなく、こうして万事平穏という調子で保存食を貪っているわけだが、この四畳半の世界はとにかく暇だという事実を発見できたのは儲けものというものだろう。

この暇を予想していたわけではないが、部屋の中に置けなくなった積本、もとい未読本をこの核シェルターに運び込んでいたのだが、そもそも読書というものは、余暇を利用して外に出るわけでもなく、アウトドアを謳歌する人間を尻目に寝そべりながら読むのが楽しいのであって、余暇どころか暇しかない現状で読むというのもイマイチ魅力に欠けて充分に楽しめるものではなくなってしまう。

つまるところ、現状必要とされるのは労働ということになるのかもしれないが、客に媚びへつらって端金を得るなんて二度とゴメンだ、というかねてよりの希望が実現した今になって労働を行うというのは天邪鬼というもので、しかも本来であればあと一時間のうちにアルバイトへ向かう準備を済ませて自転車を転がせなければならないのだが、本日以降はその必要というものが一切無くなってしまったわけである。

ああ、さようなら店長、さようならシフトの重なりやすい藤沢さんと辻堂さん、さようなら毛先の揃った愛用の床がけモップ、そしてさようなら番号で煙草を言ってくるおじいさん。

今ごろ彼らも同じように核シェルターで無労働ライフを満喫しているか、あるいは核の劫火に焼かれて灰になっているのかもしれないが、その冥福を祈っておこう。

南無三。


しかし、人間というものを二十年やってきて思ったことなのだが、人間に生きていく意味というものはあるのだろうか?

いやこれは意味なんてないから死んでしまおうという厭世的価値観から出る話ではなく、生きていくことに意味を見出そうとするから死んでもいいという考えが生まれるのではないかという哲学的思考の話なのだ。

こんなものは勿論とっくの昔に偉い人が色々考えて、結論に至ったり至らなかったりしたのだろうが、あいにくインターネットも高尚な哲学書もないこの地下室ではそれを知る手立てもないので、幸いにも時間だけはたっぷりとある今ならこんな一文の得にもならない考えを浮遊させることが出来るという折角の機会を活かそうと考えるのが人情というものだろう。

というかこんなことを思い耽っていた昔の人間、いや今もいるのだろうが、そんな人間はやはりわたし同様、死ぬほど時間が余っていた人間だったのではないだろうか。

そうでもなければ、ただいたずらに自分を苦しめるだけのような思考を作るためにわざわざ貴重な人生の一幕を分け与えるようなことはしないだろう。

つまり哲学者もわたしと同じようにやむにやまれぬ事情により思考するよりやることがない状況に陥り、その中で哲学的思考をしていたのではないかと考えることが出来る。

これをひとまず「核シェルター哲学者生産説」とでも名付けておこう。

かくして哲学者はどれも核シェルターかあるいはそれに相当する空間に閉じこもり、過去の論文を読んだり読まなかったりしながら人間の生きる意味について延々と考え悩んできたわけだが、わたしはその思考に、画期的かは分からないが一石を投じることが出来るだろう。

わたしの二十年という人生をもって出した結論は、そう、最初に述べた通り「生きていること自体に意味はない」ということだ。

より正確に言うなら「生きていることに意味など求める必要はない」ということだろう。

だってそうだろう?

生きる意味を問う哲学者も、他人の考えを預かる政治家も、命を明日につなぐ医者も、希望を与えてくれる作家も、労働者も学生も兵士も犯罪者も、昨日以降はすべからく消えてしまったのだ。

人が他者に意味を与えあう生き物だとすれば、その与える相手ごと吹き飛んでしまった彼らは地球上に意味を残せなかったことになる。

そんな彼らに生きてきた意味を問うというのは、あまりにも酷というものだろう。

それがこの二十年のうちの幾ばくかの余分な時間を割いて導き出された結論だ。

いや、だが現にわたしが生きている以上、"意味"の連鎖は繋がっているのではなかろうか?

例えばバイト先の店長や藤沢さんや辻堂さんだけでなく、愛用の床がけモップ、番号で煙草を言ってくるおじいさんもわたしに少なからぬ"意味"をもたらしたであろうし、また彼らもその先で家族や恋人、友人や製造者から"意味"をもらいうけたはずで、それらがもたらした彼らの"意味"を受けたわたしが、例えばこのトランペットを吹いたとすれば、それがもたらす空気の振動や輝き、あるいは位置に至るまでが誰か、あるいは何かに"意味"を与えることになるのではないだろうか?

そう考えると「生きてることに意味など求める必要はない」という結論を歪めることにはならないが、「意味というのは生きてようが死んでようが付き纏う」という新事実がもたらされるわけである。

これは個人的大発見だ。

これが何かの映画や物語なら、エウレカ!と叫んでも差し支えないくらいのものだ。

知的好奇心が一気に火を噴き始めたのを感じられる。


ところで、このトランペットはなぜここにあるのだったか。

ああ、そうだ。

つい衝動的に中古品店で買ってしまったトランペットを、地下室なら吹いても迷惑にはなるまいと思って運び込んだんだった。

クラシックやジャズなんてものに触れたことも無いのに、よくこんなものを買ったものだと我ながら呆れる。

しかも、思い返せば人生初めてのバイト代で買ったものがこのトランペットなのだ。

せっかく初めて自分で働いて得たお金なのだから、何か印象に残るものを買おうと思って選んだのがこれだったのだ。

まあ吹いてみようと思ったものの、当たり前のように全く音が出ないので、分厚い教範まで買ったのにどんどん面倒くさくなりこの地下室に置き去りにして、それを今日の今日までそれをすっかり忘れていたのだから世話ない。

だがこれも何かの縁かもしれないし、やはり未だに暇を持て余しているので練習するにはいい機会だろう。

取り敢えず、まずは数年分の埃を払ってピカピカに磨いてやろう。

空調のおかげか、意外とカビだらけになったりしてないのは不幸中の幸いというものだろう。

埃も払ってシーツで少しばかり拭ってやれば、新品同様、とはいかないが、吹くのに生理的嫌悪感を覚えずに済むくらいにはなった。

そして最後に吹いた時から数年のあいだ口付けすることのなかったマウスピースへ、うろ覚えで作った唇の形を密着させ、そこへ息を吹き込む。

すると意外にも、不細工ではあるが金管楽器の震え声を鳴らすことが出来た。

新しいことを覚えると楽しいもので、最初に躓いてからなぜやらなくなったのか自分でも不思議なほど、トランペットに熱中することになった。

今では二分ほどで終わる簡単な曲なら、曲の原型が分かるくらいには吹くことが出来るようになった。

もうその曲を延々と繰り返しているだけでも苦痛を感じなくなるくらいには楽しむことが出来る。

だがそれでも未だ一つだけ気に入らないことがある。

地下室では音が響き過ぎるのだ。

自分が上手いか下手かは関係なく、単純な煩わしさが楽しさを半減させるのだ。

勿論、考え得る手段は色々取ってみた。

例えば服や布団を壁に貼り付けて音を吸収するようにして見たり、音量を下げた吹き方をしてみたりだ。

だがそれを試行すればするほど、逆に神経を掻き乱す要因になり、夜も落ち着いて寝ることが出来なくなることで、ますます音に過敏になるなど負のスパイラルに陥り、もはやそれは生命存続の危機と言えるまでに肥大化した問題となった。

そんなわけだから最終的かつ不可逆的解決策を練り出すのに、そんなに時間はかからなかった。


まずは久しぶりに服を着替えた。

シャツの肌触りは好きだが、やはり寝間着の方が気軽でいい。

そして靴を履いた。

足に圧迫感を覚えるのが、意外と心地良いものだということを初めて知った。

そしてレインコートを羽織った。

多少はこの身を放射能から守ってくれるだろうことを期待して着たが、実際は何の意味もないのかもしれない。

あとはせっかくなのでお気に入りの文庫小説をポケットに忍ばせる。

こいつと一緒ならいつ死んでも後悔はないだろう。

そして最後に紐掛けしたトランペットを背負うと、わたしは外へと続く梯子へと手をかけたのだった。

それが何を意味するのかは知らないが、きっと何かしらの意味にはなるのだろう。

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