#68 マニュアル作りと無害感
三月二十三日
亜沙美は部長に呼ばれていた。
「おはようございます」
「おはよう、早速で悪いけど用件だけ伝えておく」
「はい、何でしょうか?」
「馬渕さんって人、正式に異動することが決まって来月一日から来ることになったから」
「…良かったです」
「それで四月いっぱいまでいる二人に馬渕さんの教育をお願いしたい。もちろん五月には独り立ち出来るように」
「一ヶ月でですか?」
「そう、だいぶきついとは思うけどよろしく頼む」
「はい!了解しました」
亜沙美はデスクに戻った。
「一ヶ月か…。今のうちにマニュアル作っておいた方がいいかな?」
部署にはマニュアルはあることにはあるが、それとは別に新人用の、更に言うと千聖用のマニュアルを作った方がより覚えさせられる事が出来るのではないかと考えた。
「藤堂くん」
「はい…」
直人のデスクに向かう。
「馬渕さんの異動が正式に決まったから」
「あっ、そうなんですね。良かった」
「で、部長から無茶ブリが来た」
「…何ですか?」
「私達が退職する四月いっぱいの一ヶ月で独り立ち出来るように教育をすること」
「…だいぶしんどいですね」
「だからマニュアルを作ろうと思うんだけど、藤堂くんの一日の仕事の流れとか注意してるところとかまとめてくれない?」
「はい、それは大丈夫ですけど」
「けど?」
「そのまま僕の仕事が馬渕さんの仕事になるんですか?」
「…そういえばそうね。部長、外出しちゃったからあとで確認しておくわ。とりあえずまとめるだけまとめておいてくれない?」
「わかりました」
「よろしく!」
亜沙美は戻った。
「自分の仕事をまとめるか…。昼休み前には少し余裕ありそうだからその時にやってみるか」
直人はひとまず抱えていた仕事に取り掛かった。
昼
「…結構難しいぞ?これ」
直人は悪戦苦闘していた。自分の仕事を文字に起こす。ただそれだけなのだがそれが上手いこと出来なかった。
何故なら決まったルーティンが一つも無かったからだった。
「…ナオ、お昼は?」
「ん?そんな時間?」
「そんな時間、…苦戦してる?」
「結構ね」
「じゃあ私はお昼行ってくるね」
「え?冷たい…」
「嬉しいくせに」
「…会社でそういうことはあまり言わないように」
「はい!じゃあ一緒に行くよ!一旦それはペンディングしておいて」
「…だね。脳にエネルギーを与えてからまた考えよう」
「そういうこと、何食べる?」
「社食でいいんじゃない?」
「…社食でイチャイチャするの?」
「それ前提なの?」
「え?しないの?私に飽きたの?」
「…んー」
「何で考えてるのよ!」
「ウソウソ、じゃあどこか食べに行こうか」
「うん!」
二人が昼食を食べに行こうとすると
「…あっ、いたいた!」
智美がやってきた。
「良かった。まだいたね」
「どうしたの?」
「はい、退職書類」
「早いな」
「直人は簡単だからいいけど亜沙美さんは上司の印鑑とか誓約書とか色々あるからね」
「誓約書?」
「業務上知りえた情報を、みたいなやつとか」
「それは俺もじゃないの?」
「知れる権限が違うから内容も少し違うんだよ」
「…なるほどね」
「智美さんお昼は?」
「これから行きますよ」
「じゃあ一緒に行かない?ナオの奢りだから」
「なんで勝手に決めてるの?」
直人は寝耳に水だった。
「行きましょう。どこに行く予定だったんですか?」
「決めてないんだよね、どうしよっか」
「あれ?俺の声聞こえてない?」
「そういえば定食屋さんがありましたね」
「あっ、俺よくそこに行くよ」
二人は直人の言葉には反応を示さなかった。
「定食いいね、じゃあそこ行こうか」
「はい、じゃあ行きましょう」
二人は行ってしまった。
「…由香、どう思う?」
同じくまだ休憩に行っていなかった由香に話しかけた。
「便乗していいですか?」
「ダメです」
「ケチ!」
「なんで急に俺はそんな扱いになったの?」
「そういう日もあるってことじゃないですか?」
「…わからん」
「早く行かないと智美が飛んでくると思いますよ」
「…ほんとだ、来た」
智美が少し怖い顔をして
「早くしろよ、財布!」
「…お前あとで怒るからな?」
「嬉しいくせに」
亜沙美と同じ事を言ってきたことで直人はピンと来た。
「…わかった。わかったぞ!それ今までのは意味合い違うからな?」
「え?違うの?」
「違う」
「じゃあ何がいいの?」
「多分これだと思うよ」
由香はビンタのジェスチャーをしている。
「それはもっと違うからな?」
「…本当は?」
「本当に!」
「ちっ!」
「なんで舌打ちするんだよ」
「いいから行くよ!あの店混むんだから!」
智美は直人の腕を掴み、強引に連れていった。
「…なんで藤堂の周りは女性が多いの?」
一部始終見ていた同僚が由香に話しかけた。
「無害感が半端ないからじゃないですか?」
「なるほど…、確かに。俺だったら今のは怒鳴ってるわ。そういうところか」
「……ですね。まぁ見ての通り気の強い女性しかいませんけど」
「…あいつ、苦労しそうだな」
同僚はそう言って昼食に向かった。
「…もう一人増えそうだしなぁ」
由香はクスッと笑い、仕事に戻った。
午後
直人は通常の業務を終えてからマニュアル作りを始めた。
「上手く書けない…」
直人は自分がどうやって仕事を覚えたのかを思い出した。
「…行き当たりばったり、その都度覚えてたな。これがダメだからマニュアル作れって事なんだろうな」
頭を抱えている直人に同僚から
「藤堂さん、二番に電話です」
「…はい、ありがとうございます」
直人が電話を取ると相手は店長だった。
内容は店にも内示が来たのでいきなりそっちに行く前に挨拶に伺いたいという千聖の希望だとの事だった。
部長とチーフのスケジュールを確認して折り返すと伝え、亜沙美にそれを伝えた。
「…ちょっと待って確認するから」
亜沙美は登録されているスケジュールで部長の欄を見て金曜日の午後が空いていたので連絡をした。
「こっちは金曜日の午後はオッケー。そう伝えておいて、時間は馬渕さんに任せる。就業中に来るんでしょ?」
「…はい、じゃないとまずいですからね」
「じゃあ細かなことは任せた。決まったらまた教えて」
「わかりました」
直人はデスクに戻り、店に電話をかけた。
金曜日なら大丈夫という旨を伝えると千聖も大丈夫との事だったが、何故か店長も来るという話になった。
目的は飲みに行くこと、辞める前に飲んでおこうと言われたので直人もお世話になった店長となら是非と飲みに行くことになった。
「竹下さん」
「ん?決まった?」
「はい、金曜日の十六時頃に来るそうです。馬渕さんは早番にシフト変更するみたいなので問題はないと思います」
「わかった。じゃあ部長にも伝えておく。…マニュアルは?」
「期限はいつまでですか?」
「馬渕さんが来る前に確認したいから三十日まで、あっ、でも早ければ早いほどいいよ?」
「…頑張ります」
「お願いね。…あと飲みに行くの?」
「お世話になった人ですから、最後にということで」
「うん、行ってらっしゃい」
「ありがとうございます」
その最後の会話を部長が聞いており
「結婚してからも藤堂が飲みに行こうとするとその会話がありそうだな…」
「部長!私を何だと思ってます?」
「藤堂…、頑張れよ。飲みに行かせていただいてありがとうございますの言葉を忘れなければ大丈夫だ」
直人は肩を叩かれたあとグッと掴まれ、強い励ましを受けた。
周辺で聞いていた同僚は笑っていた。
「はい、肝に命じておきます。酒だけに」
「ハッハッハ!上手いな!」
部長は外出の為、笑いながら出発した。
とりあえず亜沙美は直人の横っ腹を叩いた。




